私は画面に視線を落としながら、慎重に言葉を選んだ。
「うーん、ここのロジック、もう少しシンプルに書けそうじゃない?」
隣に座る彼——いや、後輩は、一瞬考え込む素振りを見せてから、手元のキーボードを叩いた。私の提案をすぐに試すのではなく、まず自分の考えを整理するタイプらしい。こういうとき、無理に急かすのはよくない。少し待ってみる。
「こうですか?」
そう言って彼が書き直したコードを私は目で追う。悪くない。最初よりずっとスッキリしている。けれど、少し冗長なところもある。
「悪くないね。ただ、ここの変数、スコープ広げなくてもいけるんじゃない?」
「あ、確かに……」
画面を覗き込もうとして、ふと彼の横顔が視界に入った。真剣な表情。コードを書くときの彼は、無駄な動きが少ない。キーボードを打つ指先も、目の動きも、必要な分だけ。
「よし、それでいいと思う」
言いながら、軽く頷いてみせる。彼は、少しだけ口角を上げて「ありがとうございます」と言った。
たぶん、今のやり取りを客観的に見れば、ただのペアプロの一場面にすぎない。でも、どうしてだろう。隣にいる彼の温度が、少しだけ意識に残る。
「じゃあ、次はここのリファクタリングしようか」
いつも通りの調子でそう言いながら、私はディスプレイに目を戻した。
昼食後、私はリラックススペースのソファに腰を下ろし、自販機で買った缶コーヒーのプルタブを指で弾いた。カシュッという軽い音とともに、ほのかに苦い香りが広がる。
向かいに座る彼も、同じようにコーヒーを手にしていた。さっきまでのペアプロの話の続きでもしようかと思ったけれど、こういう時間はあえて仕事のことを考えなくてもいいのかもしれない。
「このへんのコーヒー、意外と悪くないですよね」
彼がそう言って、缶を軽く振る。
「そうだね。ちょっと甘すぎるのもあるけど」
「ですね。ブラック派ですか?」
「うん、基本は。たまに疲れてるときは微糖も飲むけど」
「わかります。僕も甘いの飲むの、たぶん年に数回くらいですね」
そんな他愛のないやり取りをしながら、私は一口コーヒーをすする。ぬるくなりかけているのに、思ったより苦味が強い。
彼が飲み終えた缶を手のひらで転がしながら、ふと立ち上がった。自販機横のゴミ箱に近づくと、周りに散らばった紙コップやペットボトルを、特にためらうこともなく拾い集める。
「……偉いね」
私の言葉に、彼は振り返る。
「え?」
「こういうの、気づいても放っておく人が多いから」
「まあ、気になったので」
彼は軽く肩をすくめると、そのままゴミを分別して捨てる。そして戻ってきたとき、少し照れくさそうに笑った。
──思っていたより、ずっと無防備な笑顔だった。
「……へぇ」
「何です?」
「いや、何でもない」
私は視線をそらして、もう一口コーヒーを飲んだ。さっきより、ずっと苦く感じた。
飲み会の熱気がまだ少し残るまま、夜風の冷たさに肩をすくめた。駅へ向かう道を、私は彼と並んで歩く。
「部長、本当にすごい人だったよね」
そう言いながら、私は少し前を見上げるようにして話し続ける。
「技術だけじゃなくて、マネジメントもうまかったし、人の良さがにじみ出てた。私、あの人にどれだけ助けられたか……。仕事で悩んでたときも、すごく親身に話を聞いてくれたし、判断も的確だったし」
「へえ……そうなんですね」
彼の声が、微妙に乾いている気がした。でも、私は話を止められなかった。
「あと、あの人のコードレビュー、すごく的確だったの。細かいところまでちゃんと見てて、でも無駄に厳しくなくて、指摘されると『なるほど』って思うことばっかりだった」
「へえ……」
彼がまた同じ相槌を打つ。さっきよりもさらに平坦な声。
「……すごい人ですね、本当に」
「そう、本当にすごいの」
そう言った瞬間、彼がほんの少し眉を寄せるのが見えた。
「そんなにすごいなら、もうついて行っちゃえばよかったんじゃないですか?」
思わず足を止めた。冗談めいた口調。でも、その裏にある感情が、なんとなく伝わってくる。
「え? いや、そういうことじゃなくて……」
反射的に弁明してしまって、私はふと違和感を覚えた。
なぜ、私は彼に対して「そういうことじゃない」と説明しているんだろう?
「……まあ、転職しても頑張ってほしいなって思うだけで」
そう付け加えると、彼は少しだけ口元をゆがめた。
「……ですね」
それ以上何も言わずに、彼はまた歩き出した。私は彼の横顔をちらりと見ながら、さっきの自分の言葉を反芻する。
自分でも気づかないうちに、私は後輩の彼の気持ちをなだめようとしていたのかもしれない。
──どうしてだろう。
夜風が頬を冷たく撫でていくのを感じながら、私は何も言わずに彼の後を歩いた。
スマホを耳に当てたまま、私はベッドに沈み込むように横になった。喉が痛い。熱で頭がぼんやりする。
「で、今日のタスクなんだけど……えっと、まずAPIのバグ修正の件は、こっちの対応方針をまとめたドキュメントがあるから、それを——」
「先輩」
彼の声が、不意に私の言葉を遮った。
「……ん?」
「もう大丈夫です。やるべきことは把握してるんで、休んでください」
「でも——」
「でも、じゃないです。ちゃんと寝てください」
思わず口をつぐむ。彼の口調は柔らかいけれど、妙に強くて、私はなんとなく反論する気をなくしてしまった。
「……まあ、そう言うなら」
「そう言いますよ。心配なんで」
「……心配って」
言葉に詰まっていると、彼が少しだけ間を置いてから、冗談めかした声を出した。
「食べ物、買って行きましょうか? ついでに看病も」
「は?」
「いや、なんかこういうときって、そういうのが定番なのかなって」
「バカ言わないで、平成の月9ドラマかよ」
思わず吹き出して、それがそのまま咳に変わった。
「ちょ、大丈夫ですか?」
「……こっちはツッコんでやったのに、咳で台無しじゃん……」
「いや、ツッコんでくれたのは嬉しいですけど、ほんと、ちゃんと寝てくださいね」
「はいはい」
適当に流しながら、スマホを耳から離し、通話を切った。
熱のせいか、妙に心臓がうるさい。
ああもう、なんでこんなことでドキドキしてるんだろう。
天井をぼんやり見つめながら、私は枕に顔を埋めた。
「申し訳ありませんでした」
私と彼は並んで、新部長に深く頭を下げた。オフィスの会議室には、緊張した空気が漂っている。
顧客対応のミス。それが原因で、取引先に混乱を招いた。直接の対応をしていたのは彼だったが、最終確認をしたのは私だ。だから、私も責任を取るべき立場にある。
「今回の件は、こちらの不手際です。今後、同じことが起こらないよう——」
そう言いかけたとき、隣で彼が一歩前に出た。
「悪いのはオレです」
まっすぐな声だった。
私は彼を横目で見た。彼の視線は新部長に向いている。
「先輩は関係ありません。ミスしたのは自分なので、責任は——」
「いいから黙ってなさい」
思わず彼の腕を軽く引いた。
彼が驚いたように私を見た。けれど、私はそれ以上何も言わずに、新部長に向き直る。
「とにかく、すぐに対応を進めます。次回からは、チェック体制をより強化して……」
新部長は、腕を組んだまましばらく私たちを見ていた。
「……なかなかいい連携プレイじゃないか」
その言葉に、私は少し目を瞬かせた。
「まあ、こういうこともあるさ。しっかりフォローしてくれよ」
そう言って、新部長は私の肩を軽く叩く。そして、彼にも視線を向ける。
「君もな。失敗から学べる人間は、ちゃんと成長する」
彼はまだ納得がいかないような顔をしていたが、静かに頷いた。
「——というわけで、みんな、本当にお疲れさん!」
新部長の力強い言葉とともに、グラスのぶつかる音と拍手が響いた。
「年間ランキング2位、おめでとう!」
「かんぱーい!」
居酒屋の個室は、すでに熱気に満ちている。リリースしたプロダクトが業界のランキングで年間2位に輝いた。その快挙を祝う飲み会は、自然とみんなの表情を明るくさせていた。
私もビールをひと口飲んで、グラスをテーブルに置く。隣では、後輩の彼がしみじみと感心したように呟いた。
「チーム力って、すごいっすね」
私は彼の方をちらりと見る。
「まあね。でも、まだまだだよ。2位なんだから」
「……たしかに」
「君にも期待してるよ」
そう言うと、彼は間髪入れずに、まっすぐな目でこう言った。
「たくさん期待しててください!」
その言葉に、私は思わず吹き出した。
「いやいや、期待しすぎたらプレッシャーで潰れるんじゃない?」
「大丈夫っす! 期待されるの、好きなんで!」
彼の無邪気な自信が、妙に眩しく感じる。
ふと周りを見渡すと、みんな楽しそうに談笑している。新部長が加わってから、チームの雰囲気は変わった。でも、それ以上に変わったのは——。
彼が来てくれて、チームの雰囲気が良くなった。
それに……私も、なんだか毎日に張りがある。
別に、特別な理由なんてない。たぶん。ただの先輩として、後輩を見守ってるだけ。
だけど。
私はもう一度グラスを持ち上げ、氷が揺れる音を聞きながら、小さく笑った。
「——ま、期待してるよ」
彼は、まっすぐな目で「はい!」と答えた。
朝のオフィスは、いつもより静かだった。
プロジェクトの大きな山を越え、ランキング2位という成果を出した後、チーム全体に少し緊張がほぐれた雰囲気がある。
私も、少し気を抜いていたのかもしれない。
「おはようございます」
彼の声がして、ふと顔を上げる。
「ああ、おはよう」
彼はいつもと変わらない表情で、デスクに荷物を置いた。だけど、その動きが妙に目に留まる。
……最近、彼を目で追うことが増えた気がする。
「今日のタスク、確認しました?」
「あ、うん。まず、あのバグ修正の件から進めようか」
「了解です」
自然な流れで仕事の話に戻る。
だけど、私の中にある妙な感覚は、消えなかった。
——いつからだろう。
彼の言葉や仕草に、微妙に心が動くようになったのは。
仕事のパートナーとして、頼れる後輩として。
それ以上でも、それ以下でもないはずなのに。
「先輩?」
「……ん?」
「なんか、ぼーっとしてません?」
「してない。早く仕事するよ」
彼はちょっとだけ笑って、素直にパソコンに向かった。
私は小さく息をつきながら、気持ちを切り替えるようにディスプレイを見つめた。
——何気ない日々。でも、その何気なさが、最近少しだけ特別に感じる。
それが、私の気のせいでなければいいんだけど。
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