Skip to content

Instantly share code, notes, and snippets.

@kissge
Created September 6, 2016 14:58
Show Gist options
  • Save kissge/029a518b401926927c324a8d6fdd8b9a to your computer and use it in GitHub Desktop.
Save kissge/029a518b401926927c324a8d6fdd8b9a to your computer and use it in GitHub Desktop.
夏目漱石「こころ」全文 mecab + mecab-ipadic で分かち書き済み 青空文庫より
# 最初と最後のメタ情報を手で適当に消しておく
nkf -w -Lu -d kokoro.txt |\
sed 's/|\([^《|》]*\)《[^《|》]*》/\1/g' |\
sed 's/《[^《》]*》//g' |\
sed 's/^.*中見出し.*$//g' |\
sed 's/^[#.*]$//g' |\
sed 's/[#[^]]*]//g' |\
sed '/^$/d' |\
sed 's/ //g' |\
mecab -O wakati > kokoro-wakati.txt
私 は その 人 を 常に 先生 と 呼ん で い た 。 だから ここ でも ただ 先生 と 書く だけ で 本名 は 打ち明け ない 。 これ は 世間 を 憚 かる 遠慮 と いう より も 、 その 方 が 私 にとって 自然 だ から で ある 。 私 は その 人 の 記憶 を 呼び 起す ごと に 、 すぐ 「 先生 」 と いい たく なる 。 筆 を 執っ て も 心持 は 同じ 事 で ある 。 よそよそしい 頭文字 など は とても 使う 気 に なら ない 。
私 が 先生 と 知り合い に なっ た の は 鎌倉 で ある 。 その 時 私 は まだ 若々しい 書生 で あっ た 。 暑中 休暇 を 利用 し て 海水浴 に 行っ た 友達 から ぜひ 来い という 端書 を 受け取っ た ので 、 私 は 多少 の 金 を 工面 し て 、 出掛ける 事 に し た 。 私 は 金 の 工面 に 二 、 三 日 を 費やし た 。 ところが 私 が 鎌倉 に 着い て 三 日 と 経た ない うち に 、 私 を 呼び寄せ た 友達 は 、 急 に 国元 から 帰れ という 電報 を 受け取っ た 。 電報 に は 母 が 病気 だ から と 断っ て あっ た けれども 友達 は それ を 信じ なかっ た 。 友達 は かね て から 国元 に いる 親 たち に 勧 ま ない 結婚 を 強い られ て い た 。 彼 は 現代 の 習慣 から いう と 結婚 する に は あまり 年 が 若 過ぎ た 。 それ に 肝心 の 当人 が 気に入ら なかっ た 。 それで 夏休み に 当然 帰る べき ところ を 、 わざと 避け て 東京 の 近く で 遊ん で い た の で ある 。 彼 は 電報 を 私 に 見せ て どう しよ う と 相談 を し た 。 私 に は どうして いい か 分ら なかっ た 。 けれども 実際 彼 の 母 が 病気 で ある と すれ ば 彼 は 固 より 帰る べき はず で あっ た 。 それで 彼 は とうとう 帰る 事 に なっ た 。 せっかく 来 た 私 は 一 人 取り残さ れ た 。
学校 の 授業 が 始まる に は まだ 大分 日数 が ある ので 鎌倉 に おっ て も よし 、 帰っ て も よい という 境遇 に い た 私 は 、 当分 元 の 宿 に 留まる 覚悟 を し た 。 友達 は 中国 の ある 資産 家 の 息子 で 金 に 不自由 の ない 男 で あっ た けれども 、 学校 が 学校 な の と 年 が 年 な ので 、 生活 の 程度 は 私 と そう 変り も し なかっ た 。 したがって 一人ぼっち に なっ た 私 は 別に 恰好 な 宿 を 探す 面倒 も もた なかっ た の で ある 。
宿 は 鎌倉 で も 辺鄙 な 方角 に あっ た 。 玉突き だの アイスクリーム だ の という ハイカラ な もの に は 長い 畷 を 一つ 越さ なけれ ば 手 が 届か なかっ た 。 車 で 行っ て も 二 十 銭 は 取ら れ た 。 けれども 個人 の 別荘 は そこ ここ に いくつ でも 建て られ て い た 。 それ に 海 へ は ごく 近い ので 海水浴 を やる に は 至極 便利 な 地位 を 占め て い た 。
私 は 毎日 海 へ はいり に 出掛け た 。 古い 燻 ぶり 返っ た 藁葺 の 間 を 通り抜け て 磯 へ 下りる と 、 この 辺 に これ ほど の 都会 人種 が 住ん で いる か と 思う ほど 、 避暑 に 来 た 男 や 女 で 砂 の 上 が 動い て い た 。 ある 時 は 海 の 中 が 銭湯 の よう に 黒い 頭 で ごちゃごちゃ し て いる 事 も あっ た 。 その 中 に 知っ た 人 を 一 人 も もた ない 私 も 、 こういう 賑やか な 景色 の 中 に 裹 まれ て 、 砂 の 上 に 寝そべっ て み たり 、 膝頭 を 波 に 打た し て そこ い ら を 跳ね 廻る の は 愉快 で あっ た 。
私 は 実に 先生 を この 雑沓 の 間 に 見付け 出し た の で ある 。 その 時 海岸 に は 掛茶屋 が 二 軒 あっ た 。 私 は ふとした 機会 から その 一 軒 の 方 に 行き 慣れ て い た 。 長谷 辺 に 大きな 別荘 を 構え て いる 人 と 違っ て 、 各自 に 専有 の 着 換場 を 拵え て い ない ここいら の 避暑 客 に は 、 ぜひとも こうした 共同 着 換所 といった 風 な もの が 必要 な の で あっ た 。 彼ら は ここ で 茶 を 飲み 、 ここ で 休息 する 外 に 、 ここ で 海水 着 を 洗濯 さ せ たり 、 ここ で 鹹 は ゆい 身体 を 清め たり 、 ここ へ 帽子 や 傘 を 預け たり する の で ある 。 海水 着 を 持た ない 私 に も 持物 を 盗ま れる 恐れ は あっ た ので 、 私 は 海 へ は いる たび に その 茶屋 へ 一切 を 脱ぎ 棄てる 事 に し て い た 。
私 が その 掛茶屋 で 先生 を 見 た 時 は 、 先生 が ちょうど 着物 を 脱い で これから 海 へ 入ろう と する ところ で あっ た 。 私 は その 時 反対 に 濡れ た 身体 を 風 に 吹かし て 水 から 上がっ て 来 た 。 二 人 の 間 に は 目 を 遮る 幾多 の 黒い 頭 が 動い て い た 。 特別 の 事情 の ない 限り 、 私 は ついに 先生 を 見逃し た かも 知れ なかっ た 。 それほど 浜辺 が 混雑 し 、 それほど 私 の 頭 が 放漫 で あっ た に も かかわら ず 、 私 が すぐ 先生 を 見付け 出し た の は 、 先生 が 一 人 の 西洋 人 を 伴 れ て い た から で ある 。
その 西洋 人 の 優れ て 白い 皮膚 の 色 が 、 掛茶屋 へ 入る や 否 や 、 すぐ 私 の 注意 を 惹い た 。 純粋 の 日本 の 浴衣 を 着 て い た 彼 は 、 それ を 床几 の 上 に す ぽ り と 放り出し た まま 、 腕組み を し て 海 の 方 を 向い て 立っ て い た 。 彼 は 我々 の 穿く 猿股 一つ の 外 何 物 も 肌 に 着け て い なかっ た 。 私 に は それ が 第 一 不思議 だっ た 。 私 は その 二 日 前 に 由井 が 浜 まで 行っ て 、 砂 の 上 に しゃがみ ながら 、 長い 間 西洋 人 の 海 へ 入る 様子 を 眺め て い た 。 私 の 尻 を おろし た 所 は 少し 小高い 丘 の 上 で 、 その すぐ 傍 が ホテル の 裏口 に なっ て い た ので 、 私 の 凝 と し て いる 間 に 、 大分 多く の 男 が 塩 を 浴び に 出 て 来 た が 、 いずれ も 胴 と 腕 と 股 は 出し て い なかっ た 。 女 は 殊更 肉 を 隠し がち で あっ た 。 大抵 は 頭 に 護謨 製 の 頭巾 を 被っ て 、 海老茶 や 紺 や 藍 の 色 を 波間 に 浮かし て い た 。 そういう 有様 を 目撃 し た ばかり の 私 の 眼 に は 、 猿股 一つ で 済まし て 皆 な の 前 に 立っ て いる この 西洋 人 が いかにも 珍しく 見え た 。
彼 は やがて 自分 の 傍 を 顧み て 、 そこ に こごん で いる 日本人 に 、 一言 二 言 何 か いっ た 。 その 日本人 は 砂 の 上 に 落ち た 手拭 を 拾い上げ て いる ところ で あっ た が 、 それ を 取り上げる や 否 や 、 すぐ 頭 を 包ん で 、 海 の 方 へ 歩き 出し た 。 その 人 が すなわち 先生 で あっ た 。
私 は 単に 好奇 心 の ため に 、 並ん で 浜辺 を 下り て 行く 二 人 の 後姿 を 見守っ て い た 。 すると 彼ら は 真直 に 波 の 中 に 足 を 踏み込ん だ 。 そうして 遠浅 の 磯 近く に わいわい 騒い で いる 多人数 の 間 を 通り抜け て 、 比較的 広々 し た 所 へ 来る と 、 二 人 とも 泳ぎ 出し た 。 彼ら の 頭 が 小さく 見える まで 沖 の 方 へ 向い て 行っ た 。 それから 引き返し て また 一直線 に 浜辺 まで 戻っ て 来 た 。 掛茶屋 へ 帰る と 、 井戸 の 水 も 浴び ず に 、 すぐ 身体 を 拭い て 着物 を 着 て 、 さっさと どこ へ か 行っ て しまっ た 。
彼ら の 出 て 行っ た 後 、 私 は やはり 元 の 床几 に 腰 を おろし て 烟草 を 吹かし て い た 。 その 時 私 は ぽかんと し ながら 先生 の 事 を 考え た 。 どうも どこ か で 見 た 事 の ある 顔 の よう に 思わ れ て なら なかっ た 。 しかし どうしても い つ どこ で 会っ た 人 か 想い出 せ ず に しまっ た 。
その 時 の 私 は 屈托 が ない と いう より むしろ 無聊 に 苦しん で い た 。 それで 翌日 も また 先生 に 会っ た 時刻 を 見計らっ て 、 わざわざ 掛茶屋 まで 出かけ て み た 。 すると 西洋 人 は 来 ない で 先生 一 人 麦藁 帽 を 被っ て やって来 た 。 先生 は 眼鏡 を とっ て 台 の 上 に 置い て 、 すぐ 手拭 で 頭 を 包ん で 、 すたすた 浜 を 下り て 行っ た 。 先生 が 昨日 の よう に 騒がしい 浴客 の 中 を 通り抜け て 、 一 人 で 泳ぎ 出し た 時 、 私 は 急 に その後 が 追い掛け たく なっ た 。 私 は 浅い 水 を 頭 の 上 まで 跳 か し て 相当 の 深 さ の 所 まで 来 て 、 そこ から 先生 を 目標 に 抜手 を 切っ た 。 すると 先生 は 昨日 と 違っ て 、 一種 の 弧線 を 描い て 、 妙 な 方向 から 岸 の 方 へ 帰り 始め た 。 それで 私 の 目的 は ついに 達せ られ なかっ た 。 私 が 陸 へ 上がっ て 雫 の 垂れる 手 を 振り ながら 掛茶屋 に 入る と 、 先生 は もう ちゃんと 着物 を 着 て 入れ違い に 外 へ 出 て 行っ た 。
私 は 次 の 日 も 同じ 時刻 に 浜 へ 行っ て 先生 の 顔 を 見 た 。 その 次 の 日 に も また 同じ 事 を 繰り返し た 。 けれども 物 を いい 掛ける 機会 も 、 挨拶 を する 場合 も 、 二 人 の 間 に は 起ら なかっ た 。 その 上 先生 の 態度 は むしろ 非 社交 的 で あっ た 。 一定 の 時刻 に 超然 として 来 て 、 また 超然と 帰っ て 行っ た 。 周囲 が いくら 賑やか でも 、 それ に は ほとんど 注意 を 払う 様子 が 見え なかっ た 。 最初 いっしょ に 来 た 西洋 人 は その後 まるで 姿 を 見せ なかっ た 。 先生 は いつ でも 一 人 で あっ た 。
或 る 時 先生 が 例 の 通り さっさと 海 から 上がっ て 来 て 、 いつも の 場所 に 脱ぎ 棄て た 浴衣 を 着よ う と する と 、 どう し た 訳 か 、 その 浴衣 に 砂 が いっぱい 着い て い た 。 先生 は それ を 落す ため に 、 後ろ向き に なっ て 、 浴衣 を 二 、 三 度 振っ た 。 すると 着物 の 下 に 置い て あっ た 眼鏡 が 板 の 隙間 から 下 へ 落ち た 。 先生 は 白絣 の 上 へ 兵児帯 を 締め て から 、 眼鏡 の 失くなっ た のに 気 が 付い た と 見え て 、 急 に そこ い ら を 探し 始め た 。 私 は すぐ 腰掛 の 下 へ 首 と 手 を 突 ッ 込ん で 眼鏡 を 拾い 出し た 。 先生 は 有難う と いっ て 、 それ を 私 の 手 から 受け取っ た 。
次 の 日 私 は 先生 の 後 に つづい て 海 へ 飛び込ん だ 。 そうして 先生 と いっしょ の 方角 に 泳い で 行っ た 。 二 丁 ほど 沖 へ 出る と 、 先生 は 後ろ を 振り返っ て 私 に 話し掛け た 。 広い 蒼い 海 の 表面 に 浮い て いる もの は 、 その 近所 に 私 ら 二 人 より 外 に なかっ た 。 そうして 強い 太陽 の 光 が 、 眼 の 届く 限り 水 と 山 と を 照らし て い た 。 私 は 自由 と 歓喜 に 充ち た 筋肉 を 動かし て 海 の 中 で 躍り 狂っ た 。 先生 は また ぱたり と 手足 の 運動 を 已め て 仰向け に なっ た まま 浪 の 上 に 寝 た 。 私 も その 真似 を し た 。 青空 の 色 が ぎらぎら と 眼 を 射る よう に 痛烈 な 色 を 私 の 顔 に 投げ付け た 。 「 愉快 です ね 」 と 私 は 大きな 声 を 出し た 。
しばらく し て 海 の 中 で 起き上がる よう に 姿勢 を 改め た 先生 は 、 「 もう 帰り ませ ん か 」 と いっ て 私 を 促し た 。 比較的 強い 体質 を もっ た 私 は 、 もっと 海 の 中 で 遊ん で い たかっ た 。 しかし 先生 から 誘わ れ た 時 、 私 は すぐ 「 ええ 帰り ましょ う 」 と 快く 答え た 。 そうして 二 人 で また 元 の 路 を 浜辺 へ 引き返し た 。
私 は これから 先生 と 懇意 に なっ た 。 しかし 先生 が どこ に いる か は まだ 知ら なかっ た 。
それから 中 二 日 おい て ちょうど 三 日 目 の 午後 だっ た と 思う 。 先生 と 掛茶屋 で 出会っ た 時 、 先生 は 突然 私 に 向かっ て 、 「 君 は まだ 大分 長く ここ に いる つもり です か 」 と 聞い た 。 考え の ない 私 は こういう 問い に 答える だけ の 用意 を 頭 の 中 に 蓄え て い なかっ た 。 それで 「 どう だ か 分り ませ ん 」 と 答え た 。 しかし にやにや 笑っ て いる 先生 の 顔 を 見 た 時 、 私 は 急 に 極り が 悪く なっ た 。 「 先生 は ? 」 と 聞き返さ ず に は い られ なかっ た 。 これ が 私 の 口 を 出 た 先生 という 言葉 の 始まり で ある 。
私 は その 晩 先生 の 宿 を 尋ね た 。 宿 と いっ て も 普通 の 旅館 と 違っ て 、 広い 寺 の 境内 に ある 別荘 の よう な 建物 で あっ た 。 そこ に 住ん で いる 人 の 先生 の 家族 で ない 事 も 解っ た 。 私 が 先生 先生 と 呼び掛ける ので 、 先生 は 苦笑い を し た 。 私 は それ が 年長 者 に対する 私 の 口癖 だ と いっ て 弁解 し た 。 私 は この間 の 西洋 人 の 事 を 聞い て み た 。 先生 は 彼 の 風変り の ところ や 、 もう 鎌倉 に い ない 事 や 、 色々 の 話 を し た 末 、 日本人 に さえ あまり 交際 を もた ない のに 、 そういう 外国 人 と 近付き に なっ た の は 不思議 だ と いっ たり し た 。 私 は 最後 に 先生 に 向かっ て 、 どこ か で 先生 を 見 た よう に 思う けれども 、 どうしても 思い出せ ない と いっ た 。 若い 私 は その 時 暗に 相手 も 私 と 同じ よう な 感じ を 持っ て い は し まい か と 疑っ た 。 そうして 腹の中 で 先生 の 返事 を 予期 し て かかっ た 。 ところが 先生 は しばらく 沈吟 し た あと で 、 「 どうも 君 の 顔 に は 見覚え が あり ませ ん ね 。 人違い じゃ ない です か 」 と いっ た ので 私 は 変 に 一種 の 失望 を 感じ た 。
私 は 月 の 末 に 東京 へ 帰っ た 。 先生 の 避暑 地 を 引き上げ た の は それ より ずっと 前 で あっ た 。 私 は 先生 と 別れる 時 に 、 「 これから 折々 お 宅 へ 伺っ て も 宜 ござん すか 」 と 聞い た 。 先生 は 単簡 に ただ 「 ええ いらっしゃい 」 と いっ た だけ で あっ た 。 その 時分 の 私 は 先生 と よほど 懇意 に なっ た つもり で い た ので 、 先生 から もう少し 濃 か な 言葉 を 予期 し て 掛っ た の で ある 。 それで この 物足りない 返事 が 少し 私 の 自信 を 傷め た 。
私 は こういう 事 で よく 先生 から 失望 さ せ られ た 。 先生 は それ に 気が付い て いる よう で も あり 、 また 全く 気が付か ない よう でも あっ た 。 私 は また 軽微 な 失望 を 繰り返し ながら 、 それ が ため に 先生 から 離れ て 行く 気 に は なれ なかっ た 。 むしろ それ と は 反対 で 、 不安 に 揺 か さ れる たび に 、 もっと 前 へ 進み たく なっ た 。 もっと 前 へ 進め ば 、 私 の 予期 する ある もの が 、 いつか 眼 の 前 に 満足 に 現われ て 来る だろ う と 思っ た 。 私 は 若かっ た 。 けれども すべて の 人間 に対して 、 若い 血 が こう 素直 に 働こ う と は 思わ なかっ た 。 私 は なぜ 先生 に対して だけ こんな 心持 が 起る の か 解ら なかっ た 。 それ が 先生 の 亡くなっ た 今日 に なっ て 、 始めて 解っ て 来 た 。 先生 は 始め から 私 を 嫌っ て い た の で は なかっ た の で ある 。 先生 が 私 に 示し た 時 々 の 素 気 ない 挨拶 や 冷淡 に 見える 動作 は 、 私 を 遠ざけよ う と する 不快 の 表現 で は なかっ た の で ある 。 傷 まし い 先生 は 、 自分 に 近づこ う と する 人間 に 、 近づく ほど の 価値 の ない もの だ から 止せ という 警告 を 与え た の で ある 。 他 の 懐かしみ に 応じ ない 先生 は 、 他 を 軽蔑 する 前 に 、 まず 自分 を 軽蔑 し て い た もの と みえる 。
私 は 無論 先生 を 訪ねる つもり で 東京 へ 帰っ て 来 た 。 帰っ て から 授業 の 始まる まで に は まだ 二 週間 の 日数 が ある ので 、 その うち に 一度 行っ て おこ う と 思っ た 。 しかし 帰っ て 二 日 三 日 と 経つ うち に 、 鎌倉 に い た 時 の 気分 が 段々 薄く なっ て 来 た 。 そうして その 上 に 彩ら れる 大 都会 の 空気 が 、 記憶 の 復活 に 伴う 強い 刺戟 と共に 、 濃く 私 の 心 を 染め付け た 。 私 は 往来 で 学生 の 顔 を 見る たび に 新しい 学年 に対する 希望 と 緊張 と を 感じ た 。 私 は しばらく 先生 の 事 を 忘れ た 。
授業 が 始まっ て 、 一 カ月 ばかり する と 私 の 心 に 、 また 一種 の 弛み が でき て き た 。 私 は 何だか 不足 な 顔 を し て 往来 を 歩き 始め た 。 物欲しそう に 自分 の 室 の 中 を 見廻し た 。 私 の 頭 に は 再び 先生 の 顔 が 浮い て 出 た 。 私 は また 先生 に 会い たく なっ た 。
始めて 先生 の 宅 を 訪ね た 時 、 先生 は 留守 で あっ た 。 二 度目 に 行っ た の は 次 の 日曜 だ と 覚え て いる 。 晴れ た 空 が 身 に 沁み 込む よう に 感ぜ られる 好い 日和 で あっ た 。 その 日 も 先生 は 留守 で あっ た 。 鎌倉 に い た 時 、 私 は 先生 自身 の 口 から 、 いつ でも 大抵 宅 に いる という 事 を 聞い た 。 むしろ 外出 嫌い だ という 事 も 聞い た 。 二 度 来 て 二 度 と も 会え なかっ た 私 は 、 その 言葉 を 思い出し て 、 理由 も ない 不満 を どこ か に 感じ た 。 私 は すぐ 玄関 先 を 去ら なかっ た 。 下女 の 顔 を 見 て 少し 躊躇 し て そこ に 立っ て い た 。 この 前 名刺 を 取り次い だ 記憶 の ある 下女 は 、 私 を 待たし て おい て また 内 へ はいっ た 。 すると 奥さん らしい 人 が 代っ て 出 て 来 た 。 美しい 奥さん で あっ た 。
私 は その 人 から 鄭 寧 に 先生 の 出先 を 教え られ た 。 先生 は 例月 その 日 に なる と 雑司ヶ谷 の 墓地 に ある 或 る 仏 へ 花 を 手向け に 行く 習慣 な の だ そう で ある 。 「 たった今 出 た ばかり で 、 十分 に なる か 、 なら ない か で ござい ます 」 と 奥さん は 気の毒 そう に いっ て くれ た 。 私 は 会釈 し て 外 へ 出 た 。 賑 か な 町 の 方 へ 一 丁 ほど 歩く と 、 私 も 散歩 が てら 雑司ヶ谷 へ 行っ て みる 気 に なっ た 。 先生 に 会える か 会え ない か という 好奇 心 も 動い た 。 それで すぐ 踵 を 回ら し た 。
私 は 墓地 の 手前 に ある 苗 畠 の 左側 から はいっ て 、 両方 に 楓 を 植え付け た 広い 道 を 奥 の 方 へ 進ん で 行っ た 。 すると その 端 れ に 見える 茶店 の 中 から 先生 らしい 人 が ふい と 出 て 来 た 。 私 は その 人 の 眼鏡 の 縁 が 日 に 光る まで 近く 寄っ て 行っ た 。 そうして 出し抜け に 「 先生 」 と 大きな 声 を 掛け た 。 先生 は 突然 立ち 留まっ て 私 の 顔 を 見 た 。
「 どうして … … 、 どうして … … 」
先生 は 同じ 言葉 を 二 遍 繰り返し た 。 その 言葉 は 森閑 と し た 昼 の 中 に 異様 な 調子 を もっ て 繰り返さ れ た 。 私 は 急 に 何とも 応え られ なく なっ た 。
「 私 の 後 を 跟 け て 来 た の です か 。 どうして … … 」
先生 の 態度 は むしろ 落ち 付い て い た 。 声 は むしろ 沈ん で い た 。 けれども その 表情 の 中 に は 判然 いえ ない よう な 一種 の 曇り が あっ た 。
私 は 私 が どうして ここ へ 来 た か を 先生 に 話し た 。
「 誰 の 墓 へ 参り に 行っ た か 、 妻 が その 人 の 名 を いい まし た か 」
「 いいえ 、 そんな 事 は 何 も おっしゃい ませ ん 」
「 そう です か 。 —— そう 、 それ は いう はず が あり ませ ん ね 、 始めて 会っ た あなた に 。 いう 必要 が ない ん だ から 」
先生 は ようやく 得心 し た らしい 様子 で あっ た 。 しかし 私 に は その 意味 が まるで 解ら なかっ た 。
先生 と 私 は 通り へ 出よ う として 墓 の 間 を 抜け た 。 依 撒伯 拉何 々 の 墓 だの 、 神 僕 ロギン の 墓 だ の という 傍 に 、 一切衆生 悉有 仏 生 と 書い た 塔婆 など が 建て て あっ た 。 全権 公使 何 々 という の も あっ た 。 私 は 安 得 烈 と 彫り 付け た 小さい 墓 の 前 で 、 「 これ は 何と 読む ん でしょ う 」 と 先生 に 聞い た 。 「 アンドレ と で も 読ま せる つもり でしょ う ね 」 と いっ て 先生 は 苦笑 し た 。
先生 は これら の 墓標 が 現 わす 人種 々 の 様式 に対して 、 私 ほど に 滑稽 も アイロニー も 認め て ない らしかっ た 。 私 が 丸い 墓石 だの 細長い 御 影 の 碑 だ の を 指し て 、 しきりに かれこれ いい た がる の を 、 始め の うち は 黙っ て 聞い て い た が 、 しまいに 「 あなた は 死 という 事実 を まだ 真面目 に 考え た 事 が あり ませ ん ね 」 と いっ た 。 私 は 黙っ た 。 先生 も それ ぎり 何 と も いわ なく なっ た 。
墓地 の 区切り 目 に 、 大きな 銀杏 が 一 本 空 を 隠す よう に 立っ て い た 。 その 下 へ 来 た 時 、 先生 は 高い 梢 を 見上げ て 、 「 もう少し する と 、 綺麗 です よ 。 この 木 が すっかり 黄葉 し て 、 ここいら の 地面 は 金色 の 落葉 で 埋まる よう に なり ます 」 と いっ た 。 先生 は 月 に 一 度 ずつ は 必ず この 木の下 を 通る の で あっ た 。
向う の 方 で 凸凹 の 地面 を ならし て 新 墓地 を 作っ て いる 男 が 、 鍬 の 手 を 休め て 私 たち を 見 て い た 。 私 たち は そこ から 左 へ 切れ て すぐ 街道 へ 出 た 。
これから どこ へ 行く という 目的 の ない 私 は 、 ただ 先生 の 歩く 方 へ 歩い て 行っ た 。 先生 は いつも より 口数 を 利か なかっ た 。 それでも 私 はさ ほど の 窮屈 を 感じ なかっ た ので 、 ぶらぶら いっしょ に 歩い て 行っ た 。
「 すぐ お 宅 へ お 帰り です か 」
「 ええ 別に 寄る 所 も あり ませ ん から 」
二 人 は また 黙っ て 南 の 方 へ 坂 を 下り た 。
「 先生 の お 宅 の 墓地 は あすこ に ある ん です か 」 と 私 が また 口 を 利き 出し た 。
「 いいえ 」
「 どなた の お 墓 が ある ん です か 。 —— ご 親類 の お 墓 です か 」
「 いいえ 」
先生 は これ 以外 に 何 も 答え なかっ た 。 私 も その 話 は それ ぎりにして 切り上げ た 。 すると 一 町 ほど 歩い た 後 で 、 先生 が 不意 に そこ へ 戻っ て 来 た 。
「 あすこ に は 私 の 友達 の 墓 が ある ん です 」
「 お 友達 の お 墓 へ 毎月 お参り を なさる ん です か 」
「 そう です 」
先生 は その 日 これ 以外 を 語ら なかっ た 。
私 は それ から 時々 先生 を 訪問 する よう に なっ た 。 行く たび に 先生 は 在宅 で あっ た 。 先生 に 会う 度数 が 重なる につれて 、 私 は ますます 繁く 先生 の 玄関 へ 足 を 運ん だ 。
けれども 先生 の 私 に対する 態度 は 初めて 挨拶 を し た 時 も 、 懇意 に なっ た その後 も 、 あまり 変り は なかっ た 。 先生 は 何時 も 静か で あっ た 。 ある 時 は 静か 過ぎ て 淋しい くらい で あっ た 。 私 は 最初 から 先生 に は 近づき がたい 不思議 が ある よう に 思っ て い た 。 それでいて 、 どうしても 近づか なけれ ば い られ ない という 感じ が 、 どこ か に 強く 働い た 。 こういう 感じ を 先生 に対して もっ て い た もの は 、 多く の 人 の うち で あるいは 私 だけ かも 知れ ない 。 しかし その 私 だけ に は この 直感 が 後 に なっ て 事実 の 上 に 証拠立て られ た の だ から 、 私 は 若々しい と いわ れ て も 、 馬鹿げ て いる と 笑わ れ て も 、 それ を 見越し た 自分 の 直覚 を とにかく 頼もしく また 嬉しく 思っ て いる 。 人間 を 愛し 得る 人 、 愛せ ず に は い られ ない 人 、 それでいて 自分 の 懐 に 入ろう と する もの を 、 手 を ひろげ て 抱き締める 事 の でき ない 人 、 —— これ が 先生 で あっ た 。
今 いっ た 通り 先生 は 始終 静か で あっ た 。 落ち 付い て い た 。 けれども 時として 変 な 曇り が その 顔 を 横切る 事 が あっ た 。 窓 に 黒い 鳥 影 が 射す よう に 。 射す か と 思う と 、 すぐ 消える に は 消え た が 。 私 が 始め て その 曇り を 先生 の 眉間 に 認め た の は 、 雑司ヶ谷 の 墓地 で 、 不意 に 先生 を 呼び掛け た 時 で あっ た 。 私 は その 異様 の 瞬間 に 、 今 まで 快く 流れ て い た 心臓 の 潮流 を ちょっと 鈍ら せ た 。 しかし それ は 単に 一時 の 結滞 に 過ぎ なかっ た 。 私 の 心 は 五 分 と 経た ない うち に 平素 の 弾力 を 回復 し た 。 私 は それ ぎり 暗 そう な この 雲 の 影 を 忘れ て しまっ た 。 ゆくりなく また それ を 思い出さ せ られ た の は 、 小春 の 尽きる に 間 の ない 或 る 晩 の 事 で あっ た 。
先生 と 話し て い た 私 は 、 ふと 先生 が わざわざ 注意 し て くれ た 銀杏 の 大樹 を 眼 の 前 に 想い 浮かべ た 。 勘定 し て みる と 、 先生 が 毎 月例 として 墓参 に 行く 日 が 、 それから ちょうど 三 日 目 に 当っ て い た 。 その 三 日 目 は 私 の 課業 が 午 で 終える 楽 な 日 で あっ た 。 私 は 先生 に 向かっ て こう いっ た 。
「 先生 雑司ヶ谷 の 銀杏 は もう 散っ て しまっ た でしょ う か 」
「 まだ 空 坊主 に は なら ない でしょ う 」
先生 は そう 答え ながら 私 の 顔 を 見守っ た 。 そう し て そこ から しばし 眼 を 離さ なかっ た 。 私 は すぐ いっ た 。
「 今度 お 墓参り に いらっしゃる 時 に お伴 を し て も 宜 ござん すか 。 私 は 先生 と いっ し ょにあすこいらが 散歩 し て み たい 」
「 私 は 墓参り に 行く ん で 、 散歩 に 行く ん じゃ ない です よ 」
「 しかし ついで に 散歩 を なすっ たら ちょうど 好い じゃ あり ませ ん か 」
先生 は 何とも 答え なかっ た 。 しばらく し て から 、 「 私 の は 本当 の 墓参り だけ な ん だ から 」 と いっ て 、 どこ まで も 墓参 と 散歩 を 切り離そ う と する 風 に 見え た 。 私 と 行き たく ない 口実 だ か 何 だ か 、 私 に は その 時 の 先生 が 、 いかにも 子供 らしく て 変 に 思わ れ た 。 私 は なお と 先 へ 出る 気 に なっ た 。
「 じゃ お 墓参り で も 好い から いっしょ に 伴 れ て 行っ て 下さい 。 私 も お 墓参り を し ます から 」
実際 私 に は 墓参 と 散歩 と の 区別 が ほとんど 無意味 の よう に 思わ れ た の で ある 。 すると 先生 の 眉 が ちょっと 曇っ た 。 眼 の うち に も 異様 の 光 が 出 た 。 それ は 迷惑 と も 嫌悪 とも 畏怖 と も 片付け られ ない 微か な 不安 らしい もの で あっ た 。 私 は 忽ち 雑司ヶ谷 で 「 先生 」 と 呼び掛け た 時 の 記憶 を 強く 思い起し た 。 二つ の 表情 は 全く 同じ だっ た の で ある 。
「 私 は 」 と 先生 が いっ た 。 「 私 は あなた に 話す 事 の でき ない ある 理由 が あっ て 、 他 と いっしょ に あすこ へ 墓参り に は 行き たく ない の です 。 自分 の 妻 さえ まだ 伴 れ て 行っ た 事 が ない の です 」
私 は 不思議 に 思っ た 。 しかし 私 は 先生 を 研究 する 気 で その 宅 へ 出入り を する の で は なかっ た 。 私 は ただ そのまま に し て 打ち 過ぎ た 。 今 考える と その 時 の 私 の 態度 は 、 私 の 生活 の うち で むしろ 尊 むべ きもの の 一つ で あっ た 。 私 は 全く その ため に 先生 と 人間らしい 温かい 交際 が でき た の だ と 思う 。 もし 私 の 好奇 心 が 幾分 で も 先生 の 心 に 向かっ て 、 研究 的 に 働き掛け た なら 、 二 人 の 間 を 繋ぐ 同情 の 糸 は 、 何 の 容赦 も なく その 時 ふつ り と 切れ て しまっ たろ う 。 若い 私 は 全く 自分 の 態度 を 自覚 し て い なかっ た 。 それ だ から 尊い の かも 知れ ない が 、 もし 間違え て 裏 へ 出 た と し たら 、 どんな 結果 が 二 人 の 仲 に 落ち て 来 たろ う 。 私 は 想像 し て も ぞっと する 。 先生 は それ で なく て も 、 冷たい 眼 で 研究 さ れる の を 絶えず 恐れ て い た の で ある 。
私 は 月 に 二 度 もしくは 三 度 ずつ 必ず 先生 の 宅 へ 行く よう に なっ た 。 私 の 足 が 段々 繁く なっ た 時 の ある 日 、 先生 は 突然 私 に 向かっ て 聞い た 。
「 あなた は 何で そう たびたび 私 の よう な もの の 宅 へ やって来る の です か 」
「 何 で と いっ て 、 そんな 特別 な 意味 は あり ませ ん 。 —— しかし お 邪魔 な ん です か 」
「 邪魔 だ と は いい ませ ん 」
なるほど 迷惑 という 様子 は 、 先生 の どこ に も 見え なかっ た 。 私 は 先生 の 交際 の 範囲 の 極めて 狭い 事 を 知っ て い た 。 先生 の 元 の 同級生 など で 、 その頃 東京 に いる もの は ほとんど 二 人 か 三 人 しか ない という 事 も 知っ て い た 。 先生 と 同郷 の 学生 など に は 時たま 座敷 で 同座 する 場合 も あっ た が 、 彼ら の いずれ も は 皆 な 私 ほど 先生 に 親しみ を もっ て い ない よう に 見受け られ た 。
「 私 は 淋しい 人間 です 」 と 先生 が いっ た 。 「 だから あなた の 来 て 下さる 事 を 喜ん で い ます 。 だから なぜ そう たびたび 来る の か と いっ て 聞い た の です 」
「 そりゃ また なぜ です 」
私 が こう 聞き返し た 時 、 先生 は 何とも 答え なかっ た 。 ただ 私 の 顔 を 見 て 「 あなた は 幾 歳 です か 」 と いっ た 。
この 問答 は 私 にとって すこぶる 不得要領 の もの で あっ た が 、 私 は その 時 底 まで 押さ ず に 帰っ て しまっ た 。 しかも それ から 四 日 と 経た ない うち に また 先生 を 訪問 し た 。 先生 は 座敷 へ 出る や 否や 笑い 出し た 。
「 また 来 まし た ね 」 と いっ た 。
「 ええ 来 まし た 」 と いっ て 自分 も 笑っ た 。
私 は 外 の 人 から こう いわ れ たら きっと 癪 に 触っ たろ う と 思う 。 しかし 先生 に こう いわ れ た 時 は 、 まるで 反対 で あっ た 。 癪 に 触ら ない ばかり で なく かえって 愉快 だっ た 。
「 私 は 淋しい 人間 です 」 と 先生 は その 晩 また この間 の 言葉 を 繰り返し た 。 「 私 は 淋しい 人間 です が 、 ことに よる と あなた も 淋しい 人間 じゃ ない です か 。 私 は 淋しくっ て も 年 を 取っ て いる から 、 動か ず に い られる が 、 若い あなた は そう は 行か ない の でしょ う 。 動ける だけ 動き たい の でしょ う 。 動い て 何 か に 打つ かり たい の でしょ う … … 」
「 私 は ちっとも 淋しく は あり ませ ん 」
「 若い うち ほど 淋しい もの は あり ませ ん 。 そん なら なぜ あなた は そう たびたび 私 の 宅 へ 来る の です か 」
ここ で も この間 の 言葉 が また 先生 の 口 から 繰り返さ れ た 。
「 あなた は 私 に 会っ て も おそらく まだ 淋しい 気 が どこ か でし て いる でしょ う 。 私 に は あなた の ため に その 淋し さ を 根元 から 引き抜い て 上げる だけ の 力 が ない ん だ から 。 あなた は 外 の 方 を 向い て 今 に 手 を 広げ なけれ ば なら なく なり ます 。 今に 私 の 宅 の 方 へ は 足 が 向か なく なり ます 」
先生 は こう いっ て 淋しい 笑い 方 を し た 。
幸い に し て 先生 の 予言 は 実現 さ れ ず に 済ん だ 。 経験 の ない 当時 の 私 は 、 この 予言 の 中 に 含ま れ て いる 明白 な 意義 さえ 了解 し 得 なかっ た 。 私 は 依然として 先生 に 会い に 行っ た 。 その 内 いつの間にか 先生 の 食卓 で 飯 を 食う よう に なっ た 。 自然 の 結果 奥さん とも 口 を 利か なけれ ば なら ない よう に なっ た 。
普通 の 人間 として 私 は 女 に対して 冷淡 で は なかっ た 。 けれども 年 の 若い 私 の 今 まで 経過 し て 来 た 境遇 から いっ て 、 私 は ほとんど 交際 らしい 交際 を 女 に 結ん だ 事 が なかっ た 。 それ が 源 因 か どう か は 疑問 だ が 、 私 の 興味 は 往来 で 出合う 知り も し ない 女 に 向かっ て 多く 働く だけ で あっ た 。 先生 の 奥さん に は その 前 玄関 で 会っ た 時 、 美しい という 印象 を 受け た 。 それ から 会う たんび に 同じ 印象 を 受け ない 事 は なかっ た 。 しかし それ 以外 に 私 は これ と いっ て とくに 奥さん について 語る べき 何 物 も もた ない よう な 気 が し た 。
これ は 奥さん に 特色 が ない と いう より も 、 特色 を 示す 機会 が 来 なかっ た の だ と 解釈 する 方 が 正当 かも 知れ ない 。 しかし 私 は いつ でも 先生 に 付属 し た 一部分 の よう な 心持 で 奥さん に 対し て い た 。 奥さん も 自分 の 夫 の 所 へ 来る 書生 だ から という 好意 で 、 私 を 遇 し て い た らしい 。 だから 中間 に 立つ 先生 を 取り除けれ ば 、 つまり 二 人 は ばらばら に なっ て い た 。 それで 始めて 知り合い に なっ た 時 の 奥さん について は 、 ただ 美しい という 外 に 何 の 感じ も 残っ て い ない 。
ある 時 私 は 先生 の 宅 で 酒 を 飲まさ れ た 。 その 時 奥さん が 出 て 来 て 傍 で 酌 を し て くれ た 。 先生 は いつも より 愉快 そう に 見え た 。 奥さん に 「 お前 も 一つ お 上がり 」 と いっ て 、 自分 の 呑み 干し た 盃 を 差し た 。 奥さん は 「 私 は … … 」 と 辞退 しかけ た 後 、 迷惑 そう に それ を 受け取っ た 。 奥さん は 綺麗 な 眉 を 寄せ て 、 私 の 半分 ばかり 注い で 上げ た 盃 を 、 唇 の 先 へ 持っ て 行っ た 。 奥さん と 先生 の 間 に 下 の よう な 会話 が 始まっ た 。
「 珍 らしい 事 。 私 に 呑め と おっしゃっ た 事 は 滅多 に ない のに ね 」
「 お前 は 嫌い だ から さ 。 しかし 稀 に は 飲む と いい よ 。 好い 心持 に なる よ 」
「 ちっとも なら ない わ 。 苦しい ぎりで 。 でも あなた は 大変 ご 愉快 そうね 、 少し ご 酒 を 召し上がる と 」
「 時に よる と 大変 愉快 に なる 。 しかし いつ でも という わけ に は いか ない 」
「 今夜 は いかが です 」
「 今夜 は 好い 心持 だ ね 」
「 これから 毎晩 少し ずつ 召し上がる と 宜 ご ざんす よ 」
「 そう は いか ない 」
「 召し上がっ て 下さい よ 。 その 方 が 淋しく なくっ て 好い から 」
先生 の 宅 は 夫婦 と 下女 だけ で あっ た 。 行く たび に 大抵 は ひそ り と し て い た 。 高い 笑い声 など の 聞こえる 試し は まるで なかっ た 。 或 る 時 は 宅 の 中 に いる もの は 先生 と 私 だけ の よう な 気 が し た 。
「 子供 で も ある と 好い ん です が ね 」 と 奥さん は 私 の 方 を 向い て いっ た 。 私 は 「 そう です な 」 と 答え た 。 しかし 私 の 心 に は 何 の 同情 も 起ら なかっ た 。 子供 を 持っ た 事 の ない その 時 の 私 は 、 子供 を ただ 蒼 蠅 いも の の よう に 考え て い た 。
「 一 人 貰っ て やろ う か 」 と 先生 が いっ た 。
「 貰 ッ 子 じゃ 、 ねえ あなた 」 と 奥さん は また 私 の 方 を 向い た 。
「 子供 は いつ まで 経っ たって で きっ こ ない よ 」 と 先生 が いっ た 。
奥さん は 黙っ て い た 。 「 なぜ です 」 と 私 が 代り に 聞い た 時 先生 は 「 天罰 だ から さ 」 と いっ て 高く 笑っ た 。
私 の 知る 限り 先生 と 奥さん と は 、 仲 の 好い 夫婦 の 一 対 で あっ た 。 家庭 の 一員 として 暮し た 事 の ない 私 の こと だ から 、 深い 消息 は 無論 解ら なかっ た けれども 、 座敷 で 私 と 対坐 し て いる 時 、 先生 は 何 か の ついで に 、 下女 を 呼ば ない で 、 奥さん を 呼ぶ 事 が あっ た 。 ( 奥さん の 名 は 静 といった ) 。 先生 は 「 おい 静 」 と いつ でも 襖 の 方 を 振り向い た 。 その 呼び かた が 私 に は 優しく 聞こえ た 。 返事 を し て 出 て 来る 奥さん の 様子 も 甚だ 素直 で あっ た 。 ときたま ご馳走 に なっ て 、 奥さん が 席 へ 現われる 場合 など に は 、 この 関係 が 一層 明らか に 二 人 の 間 に 描き出さ れる よう で あっ た 。
先生 は 時々 奥さん を 伴 れ て 、 音楽 会 だの 芝居 だ の に 行っ た 。 それから 夫婦づれ で 一 週間 以内 の 旅行 を し た 事 も 、 私 の 記憶 に よる と 、 二 、 三 度 以上 あっ た 。 私 は 箱根 から 貰っ た 絵 端書 を まだ 持っ て いる 。 日光 へ 行っ た 時 は 紅葉 の 葉 を 一 枚 封じ込め た 郵便 も 貰っ た 。
当時 の 私 の 眼 に 映っ た 先生 と 奥さん の 間柄 は まず こんな もの で あっ た 。 その うち に たった 一つ の 例外 が あっ た 。 ある 日 私 が いつも の 通り 、 先生 の 玄関 から 案内 を 頼も う と する と 、 座敷 の 方 で だれ か の 話し声 が し た 。 よく 聞く と 、 それ が 尋常 の 談話 で なくっ て 、 どうも 言 逆 い らしかっ た 。 先生 の 宅 は 玄関 の 次 が すぐ 座敷 に なっ て いる ので 、 格子 の 前 に 立っ て い た 私 の 耳 に その 言 逆 い の 調子 だけ は ほぼ 分っ た 。 そうして その うち の 一 人 が 先生 だ という 事 も 、 時々 高まっ て 来る 男 の 方 の 声 で 解っ た 。 相手 は 先生 より も 低い 音 な ので 、 誰 だ か 判然 し なかっ た が 、 どうも 奥さん らしく 感ぜ られ た 。 泣い て いる よう でも あっ た 。 私 は どう し た もの だろ う と 思っ て 玄関 先 で 迷っ た が 、 すぐ 決心 を し て そのまま 下宿 へ 帰っ た 。
妙 に 不安 な 心持 が 私 を 襲っ て 来 た 。 私 は 書物 を 読ん で も 呑み込む 能力 を 失っ て しまっ た 。 約 一 時間 ばかり する と 先生 が 窓 の 下 へ 来 て 私 の 名 を 呼ん だ 。 私 は 驚い て 窓 を 開け た 。 先生 は 散歩 しよ う と いっ て 、 下 から 私 を 誘っ た 。 先刻 帯 の 間 へ 包ん だ まま の 時計 を 出し て 見る と 、 もう 八 時 過ぎ で あっ た 。 私 は 帰っ た なり まだ 袴 を 着け て い た 。 私 は それなり すぐ 表 へ 出 た 。
その 晩 私 は 先生 と いっしょ に 麦酒 を 飲ん だ 。 先生 は 元来 酒量 に 乏しい 人 で あっ た 。 ある程度 まで 飲ん で 、 それ で 酔え なけれ ば 、 酔う まで 飲ん で みる という 冒険 の でき ない 人 で あっ た 。
「 今日 は 駄目 です 」 と いっ て 先生 は 苦笑 し た 。
「 愉快 に なれ ませ ん か 」 と 私 は 気の毒 そう に 聞い た 。
私 の 腹の中 に は 始終 先刻 の 事 が 引っ 懸っ て い た 。 肴 の 骨 が 咽喉 に 刺さっ た 時 の よう に 、 私 は 苦しん だ 。 打ち明け て みよ う か と 考え たり 、 止し た 方 が 好かろ う か と 思い直し たり する 動揺 が 、 妙 に 私 の 様子 を そわそわ さ せ た 。
「 君 、 今夜 は どうか し て い ます ね 」 と 先生 の 方 から いい 出し た 。 「 実は 私 も 少し 変 な の です よ 。 君 に 分り ます か 」
私 は 何 の 答え も し 得 なかっ た 。
「 実は 先刻 妻 と 少し 喧嘩 を し て ね 。 それで 下らない 神経 を 昂奮 さ せ て しまっ た ん です 」 と 先生 が また いっ た 。
「 どうして … … 」
私 に は 喧嘩 という 言葉 が 口 へ 出 て 来 なかっ た 。
「 妻 が 私 を 誤解 する の です 。 それ を 誤解 だ と いっ て 聞か せ て も 承知 し ない の です 。 つい 腹 を 立て た の です 」
「 どんなに 先生 を 誤解 なさる ん です か 」
先生 は 私 の この 問い に 答えよ う と は し なかっ た 。
「 妻 が 考え て いる よう な 人間 なら 、 私 だって こんなに 苦しん で いや し ない 」
先生 が どんなに 苦しん で いる か 、 これ も 私 に は 想像 の 及ば ない 問題 で あっ た 。
二 人 が 帰る とき 歩き ながら の 沈黙 が 一丁 も 二 丁 も つづい た 。 その後 で 突然 先生 が 口 を 利き 出し た 。
「 悪い 事 を し た 。 怒っ て 出 た から 妻 は さぞ 心配 を し て いる だろ う 。 考える と 女 は 可哀そう な もの です ね 。 私 の 妻 など は 私 より 外 に まるで 頼り に する もの が ない ん だ から 」
先生 の 言葉 は ちょっと そこ で 途切れ た が 、 別に 私 の 返事 を 期待 する 様子 も なく 、 すぐ その 続き へ 移っ て 行っ た 。
「 そう いう と 、 夫 の 方 は いかにも 心丈夫 の よう で 少し 滑稽 だ が 。 君 、 私 は 君 の 眼 に どう 映り ます か ね 。 強い 人 に 見え ます か 、 弱い 人 に 見え ます か 」
「 中位 に 見え ます 」 と 私 は 答え た 。 この 答え は 先生 にとって 少し 案外 らしかっ た 。 先生 は また 口 を 閉じ て 、 無言 で 歩き 出し た 。
先生 の 宅 へ 帰る に は 私 の 下宿 の つい 傍 を 通る の が 順路 で あっ た 。 私 は そこ まで 来 て 、 曲り角 で 分 れる の が 先生 に 済まない よう な 気 が し た 。 「 ついで に お 宅 の 前 まで お伴 し ましょ う か 」 と いっ た 。 先生 は 忽ち 手 で 私 を 遮っ た 。
「 もう 遅い から 早く 帰り たまえ 。 私 も 早く 帰っ て やる ん だ から 、 妻君 の ため に 」
先生 が 最後 に 付け加え た 「 妻君 の ため に 」 という 言葉 は 妙 に その 時 の 私 の 心 を 暖か に し た 。 私 は その 言葉 の ため に 、 帰っ て から 安心 し て 寝る 事 が でき た 。 私 は その後 も 長い 間 この 「 妻君 の ため に 」 という 言葉 を 忘れ なかっ た 。
先生 と 奥さん の 間 に 起っ た 波瀾 が 、 大した もの で ない 事 は これ でも 解っ た 。 それ が また 滅多に 起る 現象 で なかっ た 事 も 、 その後 絶えず 出入り を し て 来 た 私 に は ほぼ 推察 が でき た 。 それどころか 先生 は ある 時 こんな 感想 すら 私 に 洩らし た 。
「 私 は 世の中 で 女 という もの を たった 一 人 しか 知ら ない 。 妻 以外 の 女 は ほとんど 女 として 私 に 訴え ない の です 。 妻 の 方 で も 、 私 を 天下 に ただ 一 人 しか ない 男 と 思っ て くれ て い ます 。 そういう 意味 から いっ て 、 私 たち は 最も 幸福 に 生れ た 人間 の 一 対 で ある べき はず です 」
私 は 今 前後 の 行き掛り を 忘れ て しまっ た から 、 先生 が 何 の ため に こんな 自白 を 私 に し て 聞か せ た の か 、 判然 いう 事 が でき ない 。 けれども 先生 の 態度 の 真面目 で あっ た の と 、 調子 の 沈ん で い た の と は 、 いまだに 記憶 に 残っ て いる 。 その 時 ただ 私 の 耳 に 異様 に 響い た の は 、 「 最も 幸福 に 生れ た 人間 の 一 対 で ある べき はず です 」 という 最後 の 一句 で あっ た 。 先生 は なぜ 幸福 な 人間 と いい 切ら ない で 、 ある べき はず で ある と 断わっ た の か 。 私 に は それ だけ が 不審 で あっ た 。 ことに そこ へ 一種 の 力 を 入れ た 先生 の 語気 が 不審 で あっ た 。 先生 は 事実 はたして 幸福 な の だろ う か 、 また 幸福 で ある べき はず で あり ながら 、 それほど 幸福 で ない の だろ う か 。 私 は 心 の 中 で 疑ら ざる を 得 なかっ た 。 けれども その 疑い は 一時 限り どこ か へ 葬ら れ て しまっ た 。
私 は そのうち 先生 の 留守 に 行っ て 、 奥さん と 二 人 差向い で 話 を する 機会 に 出合っ た 。 先生 は その 日 横浜 を 出帆 する 汽船 に 乗っ て 外国 へ 行く べき 友人 を 新橋 へ 送り に 行っ て 留守 で あっ た 。 横浜 から 船 に 乗る 人 が 、 朝 八 時半 の 汽車 で 新橋 を 立つ の は その 頃 の 習慣 で あっ た 。 私 は ある 書物 について 先生 に 話し て もらう 必要 が あっ た ので 、 あらかじめ 先生 の 承諾 を 得 た 通り 、 約束 の 九 時 に 訪問 し た 。 先生 の 新橋 行き は 前日 わざわざ 告別 に 来 た 友人 に対する 礼 義 として その 日 突然 起っ た 出来事 で あっ た 。 先生 は すぐ 帰る から 留守 で も 私 に 待っ て いる よう に と いい 残し て 行っ た 。 それで 私 は 座敷 へ 上がっ て 、 先生 を 待つ 間 、 奥さん と 話 を し た 。
その 時 の 私 は すでに 大学生 で あっ た 。 始めて 先生 の 宅 へ 来 た 頃 から 見る と ずっと 成人 し た 気 で い た 。 奥さん とも 大分 懇意 に なっ た 後 で あっ た 。 私 は 奥さん に対して 何 の 窮屈 も 感じ なかっ た 。 差向い で 色々 の 話 を し た 。 しかし それ は 特色 の ない ただ の 談話 だ から 、 今 で は まるで 忘れ て しまっ た 。 その うち で たった 一つ 私 の 耳 に 留まっ た もの が ある 。 しかし それ を 話す 前 に 、 ちょっと 断っ て おき たい 事 が ある 。
先生 は 大学 出身 で あっ た 。 これ は 始め から 私 に 知れ て い た 。 しかし 先生 の 何 も し ない で 遊ん で いる という 事 は 、 東京 へ 帰っ て 少し 経っ て から 始め て 分っ た 。 私 は その 時 どうして 遊ん で い られる の か と 思っ た 。
先生 は まるで 世間 に 名前 を 知ら れ て い ない 人 で あっ た 。 だから 先生 の 学問 や 思想 について は 、 先生 と 密 切 の 関係 を もっ て いる 私 より 外 に 敬意 を 払う もの の ある べき はず が なかっ た 。 それ を 私 は 常に 惜しい 事 だ と いっ た 。 先生 は また 「 私 の よう な もの が 世の中 へ 出 て 、 口 を 利い て は 済まない 」 と 答える ぎりで 、 取り合わ なかっ た 。 私 に は その 答え が 謙遜 過ぎ て かえって 世間 を 冷評 する よう に も 聞こえ た 。 実際 先生 は 時々 昔 の 同級生 で 今 著名 に なっ て いる 誰彼 を 捉え て 、 ひどく 無遠慮 な 批評 を 加える 事 が あっ た 。 それで 私 は 露骨 に その 矛盾 を 挙げ て 云々 し て み た 。 私 の 精神 は 反抗 の 意味 と いう より も 、 世間 が 先生 を 知ら ない で 平気 で いる の が 残念 だっ た から で ある 。 その 時 先生 は 沈ん だ 調子 で 、 「 どうしても 私 は 世間 に 向かっ て 働き掛ける 資格 の ない 男 だ から 仕方 が あり ませ ん 」 と いっ た 。 先生 の 顔 に は 深い 一種 の 表情 が ありあり と 刻ま れ た 。 私 に は それ が 失望 だ か 、 不平 だ か 、 悲哀 だ か 、 解ら なかっ た けれども 、 何しろ 二の句 の 継げ ない ほど に 強い もの だっ た ので 、 私 は それ ぎり 何 も いう 勇気 が 出 なかっ た 。
私 が 奥さん と 話し て いる 間 に 、 問題 が 自然 先生 の 事 から そこ へ 落ち て 来 た 。
「 先生 は なぜ ああ やっ て 、 宅 で 考え たり 勉強 し たり なさる だけ で 、 世の中 へ 出 て 仕事 を なさら ない ん でしょ う 」
「 あの 人 は 駄目 です よ 。 そういう 事 が 嫌い な ん です から 」
「 つまり 下らない 事 だ と 悟っ て いらっしゃる ん でしょ う か 」
「 悟る の 悟ら ない の って 、 —— そりゃ 女 だ から わたくし に は 解り ませ ん けれど 、 おそらく そんな 意味 じゃ ない でしょ う 。 やっぱり 何 か やり たい の でしょ う 。 それでいて でき ない ん です 。 だから 気の毒 です わ 」
「 しかし 先生 は 健康 から いっ て 、 別に どこ も 悪い ところ は ない よう じゃ あり ませ ん か 」
「 丈夫 です と も 。 何 に も 持病 は あり ませ ん 」
「 それで なぜ 活動 が でき ない ん でしょ う 」
「 それ が 解ら ない の よ 、 あなた 。 それ が 解る くらい なら 私 だって 、 こんなに 心配 し やし ませ ん 。 わから ない から 気の毒 で たまらない ん です 」
奥さん の 語気 に は 非常 に 同情 が あっ た 。 それでも 口元 だけ に は 微笑 が 見え た 。 外側 から いえ ば 、 私 の 方 が むしろ 真面目 だっ た 。 私 は むずかしい 顔 を し て 黙っ て い た 。 すると 奥さん が 急 に 思い出し た よう に また 口 を 開い た 。
「 若い 時 は あんな 人 じゃ なかっ た ん です よ 。 若い 時 は まるで 違っ て い まし た 。 それ が 全く 変っ て しまっ た ん です 」
「 若い 時 って いつ 頃 です か 」 と 私 が 聞い た 。
「 書生 時代 よ 」
「 書生 時代 から 先生 を 知っ て いらっしゃっ た ん です か 」
奥さん は 急 に 薄 赤い 顔 を し た 。
奥さん は 東京 の 人 で あっ た 。 それ は かつて 先生 から も 奥さん 自身 から も 聞い て 知っ て い た 。 奥さん は 「 本当 いう と 合の子 な ん です よ 」 と いっ た 。 奥さん の 父親 は たしか 鳥取 か どこ か の 出 で ある のに 、 お母さん の 方 は まだ 江戸 といった 時分 の 市ヶ谷 で 生れ た 女 な ので 、 奥さん は 冗談 半分 そういった の で ある 。 ところが 先生 は 全く 方角違い の 新潟 県 人 で あっ た 。 だから 奥さん が もし 先生 の 書生 時代 を 知っ て いる と すれ ば 、 郷里 の 関係 から で ない 事 は 明らか で あっ た 。 しかし 薄 赤い 顔 を し た 奥さん は それ より 以上 の 話 を し たく ない よう だっ た ので 、 私 の 方 で も 深く は 聞か ず に おい た 。
先生 と 知り合い に なっ て から 先生 の 亡くなる まで に 、 私 は ずいぶん 色々 の 問題 で 先生 の 思想 や 情操 に 触れ て み た が 、 結婚 当時 の 状況 について は 、 ほとんど 何もの も 聞き 得 なかっ た 。 私 は 時に よる と 、 それ を 善意 に 解釈 し て も み た 。 年輩 の 先生 の 事 だ から 、 艶 めかし い 回想 など を 若い もの に 聞か せる の は わざと 慎ん で いる の だろ う と 思っ た 。 時に よる と 、 また それ を 悪く も 取っ た 。 先生 に 限ら ず 、 奥さん に 限ら ず 、 二 人 とも 私 に 比べる と 、 一 時代 前 の 因襲 の うち に 成人 し た ため に 、 そういう 艶 っぽい 問題 に なる と 、 正直 に 自分 を 開放 する だけ の 勇気 が ない の だろ う と 考え た 。 もっとも どちら も 推測 に 過ぎ なかっ た 。 そう し て どちら の 推測 の 裏 に も 、 二 人 の 結婚 の 奥 に 横たわる 花やか な ロマンス の 存在 を 仮定 し て い た 。
私 の 仮定 は はたして 誤ら なかっ た 。 けれども 私 は ただ 恋 の 半面 だけ を 想像 に 描き 得 た に 過ぎ なかっ た 。 先生 は 美しい 恋愛 の 裏 に 、 恐ろしい 悲劇 を 持っ て い た 。 そうして その 悲劇 の どんなに 先生 にとって 見 惨 な もの で ある か は 相手 の 奥さん に まるで 知れ て い なかっ た 。 奥さん は 今 でも それ を 知ら ず に いる 。 先生 は それ を 奥さん に 隠し て 死ん だ 。 先生 は 奥さん の 幸福 を 破壊 する 前 に 、 まず 自分 の 生命 を 破壊 し て しまっ た 。
私 は 今 この 悲劇 について 何事 も 語ら ない 。 その 悲劇 の ため に むしろ 生れ 出 た と も いえる 二 人 の 恋愛 について は 、 先刻 いっ た 通り で あっ た 。 二 人 とも 私 に は ほとんど 何 も 話し て くれ なかっ た 。 奥さん は 慎み の ため に 、 先生 は また それ 以上 の 深い 理由 の ため に 。
ただ 一つ 私 の 記憶 に 残っ て いる 事 が ある 。 或 る 時 花時 分 に 私 は 先生 と いっしょ に 上野 へ 行っ た 。 そう し て そこ で 美しい 一対 の 男女 を 見 た 。 彼ら は 睦まじ そう に 寄り添っ て 花 の 下 を 歩い て い た 。 場所 が 場所 な ので 、 花 より も そちら を 向い て 眼 を 峙 だ て て いる 人 が 沢山 あっ た 。
「 新婚 の 夫婦 の よう だ ね 」 と 先生 が いっ た 。
「 仲 が 好 さ そう です ね 」 と 私 が 答え た 。
先生 は 苦笑 さえ し なかっ た 。 二 人 の 男女 を 視線 の 外 に 置く よう な 方角 へ 足 を 向け た 。 それから 私 に こう 聞い た 。
「 君 は 恋 を し た 事 が あり ます か 」
私 は ない と 答え た 。
「 恋 を し たく は あり ませ ん か 」
私 は 答え なかっ た 。
「 し たく ない 事 は ない でしょ う 」
「 ええ 」
「 君 は 今 あの 男 と 女 を 見 て 、 冷評 し まし た ね 。 あの 冷評 の うち に は 君 が 恋 を 求め ながら 相手 を 得 られ ない という 不快 の 声 が 交っ て い ましょ う 」
「 そんな 風 に 聞こえ まし た か 」
「 聞こえ まし た 。 恋 の 満足 を 味わっ て いる 人 は もっと 暖かい 声 を 出す もの です 。 しかし … … しかし 君 、 恋 は 罪悪 です よ 。 解っ て い ます か 」
私 は 急 に 驚かさ れ た 。 何とも 返事 を し なかっ た 。
我々 は 群集 の 中 に い た 。 群集 は いずれ も 嬉し そう な 顔 を し て い た 。 そこ を 通り抜け て 、 花 も 人 も 見え ない 森 の 中 へ 来る まで は 、 同じ 問題 を 口 に する 機会 が なかっ た 。
「 恋 は 罪悪 です か 」 と 私 が その 時 突然 聞い た 。
「 罪悪 です 。 たしかに 」 と 答え た 時 の 先生 の 語気 は 前 と 同じ よう に 強かっ た 。
「 なぜ です か 」
「 なぜ だ か 今 に 解り ます 。 今 に じゃ ない 、 もう 解っ て いる はず です 。 あなた の 心 は とっく の 昔 から すでに 恋 で 動い て いる じゃ あり ませ ん か 」
私 は 一応 自分 の 胸 の 中 を 調べ て 見 た 。 けれども そこ は 案外 に 空虚 で あっ た 。 思いあたる よう な もの は 何 に も なかっ た 。
「 私 の 胸 の 中 に これ という 目的 物 は 一つ も あり ませ ん 。 私 は 先生 に 何 も 隠し て は い ない つもり です 」
「 目的 物 が ない から 動く の です 。 あれ ば 落ち 付ける だろ う と 思っ て 動き たく なる の です 」
「 今 それほど 動い ちゃ い ませ ん 」
「 あなた は 物足りない 結果 私 の 所 に 動い て 来 た じゃ あり ませ ん か 」
「 それ は そう か も 知れ ませ ん 。 しかし それ は 恋 と は 違い ます 」
「 恋 に 上る 楷段 な ん です 。 異性 と 抱き合う 順序 として 、 まず 同性 の 私 の 所 へ 動い て 来 た の です 」
「 私 に は 二つ の もの が 全く 性質 を 異に し て いる よう に 思わ れ ます 」
「 いや 同じ です 。 私 は 男 として どうしても あなた に 満足 を 与え られ ない 人間 な の です 。 それから 、 ある 特別 の 事情 が あっ て 、 なおさら あなた に 満足 を 与え られ ない で いる の です 。 私 は 実際 お 気の毒 に 思っ て い ます 。 あなた が 私 から よそ へ 動い て 行く の は 仕方 が ない 。 私 は むしろ それ を 希望 し て いる の です 。 しかし … … 」
私 は 変 に 悲しく なっ た 。
「 私 が 先生 から 離れ て 行く よう に お 思い に なれ ば 仕方 が あり ませ ん が 、 私 に そんな 気 の 起っ た 事 は まだ あり ませ ん 」
先生 は 私 の 言葉 に 耳 を 貸さ なかっ た 。
「 しかし 気 を 付け ない と いけ ない 。 恋 は 罪悪 な ん だ から 。 私 の 所 で は 満足 が 得 られ ない 代り に 危険 も ない が 、 —— 君 、 黒い 長い 髪 で 縛ら れ た 時 の 心持 を 知っ て い ます か 」
私 は 想像 で 知っ て い た 。 しかし 事実 として は 知ら なかっ た 。 いずれ に し て も 先生 の いう 罪悪 という 意味 は 朦朧 として よく 解ら なかっ た 。 その 上 私 は 少し 不愉快 に なっ た 。
「 先生 、 罪悪 という 意味 を もっと 判然 いっ て 聞かし て 下さい 。 それ で なけれ ば この 問題 を ここ で 切り上げ て 下さい 。 私 自身 に 罪悪 という 意味 が 判然 解る まで 」
「 悪い 事 を し た 。 私 は あなた に 真実 を 話し て いる 気 で い た 。 ところが 実際 は 、 あなた を 焦慮 し て い た の だ 。 私 は 悪い 事 を し た 」
先生 と 私 と は 博物館 の 裏 から 鶯 渓 の 方角 に 静か な 歩調 で 歩い て 行っ た 。 垣 の 隙間 から 広い 庭 の 一部 に 茂る 熊笹 が 幽邃 に 見え た 。
「 君 は 私 が なぜ 毎月 雑司ヶ谷 の 墓地 に 埋っ て いる 友人 の 墓 へ 参る の か 知っ て い ます か 」
先生 の この 問い は 全く 突然 で あっ た 。 しかも 先生 は 私 が この 問い に対して 答え られ ない という 事 も よく 承知 し て い た 。 私 は しばらく 返事 を し なかっ た 。 すると 先生 は 始め て 気 が 付い た よう に こう いっ た 。
「 また 悪い 事 を いっ た 。 焦慮 せる の が 悪い と 思っ て 、 説明 しよ う と する と 、 その 説明 が また あなた を 焦慮 せる よう な 結果 に なる 。 どうも 仕方 が ない 。 この 問題 は これ で 止め ましょ う 。 とにかく 恋 は 罪悪 です よ 、 よ ござん すか 。 そうして 神聖 な もの です よ 」
私 に は 先生 の 話 が ますます 解ら なく なっ た 。 しかし 先生 は それ ぎり 恋 を 口 に し なかっ た 。
年 の 若い 私 は やや ともすると 一 図 に なり やすかっ た 。 少なくとも 先生 の 眼 に は そう 映っ て い た らしい 。 私 に は 学校 の 講義 より も 先生 の 談話 の 方 が 有益 な の で あっ た 。 教授 の 意見 より も 先生 の 思想 の 方 が 有難い の で あっ た 。 とど の 詰まり を いえ ば 、 教壇 に 立っ て 私 を 指導 し て くれる 偉い 人々 より も ただ 独り を 守っ て 多く を 語ら ない 先生 の 方 が 偉く 見え た の で あっ た 。
「 あんまり 逆上 ちゃ いけ ませ ん 」 と 先生 が いっ た 。
「 覚め た 結果 として そう 思う ん です 」 と 答え た 時 の 私 に は 充分 の 自信 が あっ た 。 その 自信 を 先生 は 肯 がっ て くれ なかっ た 。
「 あなた は 熱 に 浮かされ て いる の です 。 熱 が さめる と 厭 に なり ます 。 私 は 今 の あなた から それほど に 思わ れる の を 、 苦しく 感じ て い ます 。 しかし これから 先 の あなた に 起る べき 変化 を 予想 し て 見る と 、 なお 苦しく なり ます 」
「 私 は それほど 軽薄 に 思わ れ て いる ん です か 。 それほど 不 信用 な ん です か 」
「 私 は お 気の毒 に 思う の です 」
「 気の毒 だ が 信用 さ れ ない と おっしゃる ん です か 」
先生 は 迷惑 そう に 庭 の 方 を 向い た 。 その 庭 に 、 この間 まで 重 そう な 赤い 強い 色 を ぽたぽた 点じ て い た 椿 の 花 は もう 一つ も 見え なかっ た 。 先生 は 座敷 から この 椿 の 花 を よく 眺める 癖 が あっ た 。
「 信用 し ない って 、 特に あなた を 信用 し ない ん じゃ ない 。 人間 全体 を 信用 し ない ん です 」
その 時 生垣 の 向う で 金魚 売り らしい 声 が し た 。 その 外 に は 何 の 聞こえる もの も なかっ た 。 大通り から 二 丁 も 深く 折れ込ん だ 小路 は 存外 静か で あっ た 。 家 の 中 は いつも の 通り ひっそり し て い た 。 私 は 次の間 に 奥さん の いる 事 を 知っ て い た 。 黙っ て 針仕事 か 何 か し て いる 奥さん の 耳 に 私 の 話し声 が 聞こえる という 事 も 知っ て い た 。 しかし 私 は 全く それ を 忘れ て しまっ た 。
「 じゃ 奥さん も 信用 なさら ない ん です か 」 と 先生 に 聞い た 。
先生 は 少し 不安 な 顔 を し た 。 そうして 直接 の 答え を 避け た 。
「 私 は 私 自身 さえ 信用 し て い ない の です 。 つまり 自分 で 自分 が 信用 でき ない から 、 人 も 信用 でき ない よう に なっ て いる の です 。 自分 を 呪う より 外 に 仕方 が ない の です 」
「 そう むずかしく 考えれ ば 、 誰 だって 確か な もの は ない でしょ う 」
「 いや 考え た ん じゃ ない 。 やっ た ん です 。 やっ た 後 で 驚い た ん です 。 そうして 非常 に 怖く なっ た ん です 」
私 は もう少し 先 まで 同じ 道 を 辿っ て 行き たかっ た 。 すると 襖 の 陰 で 「 あなた 、 あなた 」 という 奥さん の 声 が 二 度 聞こえ た 。 先生 は 二 度目 に 「 何 だい 」 と いっ た 。 奥さん は 「 ちょっと 」 と 先生 を 次の間 へ 呼ん だ 。 二 人 の 間 に どんな 用事 が 起っ た の か 、 私 に は 解ら なかっ た 。 それ を 想像 する 余裕 を 与え ない ほど 早く 先生 は また 座敷 へ 帰っ て 来 た 。
「 とにかく あまり 私 を 信用 し て は いけ ませ ん よ 。 今 に 後悔 する から 。 そうして 自分 が 欺か れ た 返報 に 、 残酷 な 復讐 を する よう に なる もの だ から 」
「 そりゃ どういう 意味 です か 」
「 かつて は その 人 の 膝 の 前 に 跪い た という 記憶 が 、 今度 は その 人 の 頭 の 上 に 足 を 載せ させよ う と する の です 。 私 は 未来 の 侮辱 を 受け ない ため に 、 今 の 尊敬 を 斥け たい と 思う の です 。 私 は 今 より 一層 淋しい 未来 の 私 を 我慢 する 代り に 、 淋しい 今 の 私 を 我慢 し たい の です 。 自由 と 独立 と 己 れ と に 充ち た 現代 に 生れ た 我々 は 、 その 犠牲 として みんな この 淋し み を 味わわ なく て は なら ない でしょ う 」
私 は こういう 覚悟 を もっ て いる 先生 に対して 、 いう べき 言葉 を 知ら なかっ た 。
その後 私 は 奥さん の 顔 を 見る たび に 気 に なっ た 。 先生 は 奥さん に対して も 始終 こういう 態度 に 出る の だろ う か 。 もし そう だ と すれ ば 、 奥さん は それ で 満足 な の だろ う か 。
奥さん の 様子 は 満足 とも 不満足 とも 極め よう が なかっ た 。 私 は それほど 近く 奥さん に 接触 する 機会 が なかっ た から 。 それから 奥さん は 私 に 会う たび に 尋常 で あっ た から 。 最後 に 先生 の いる 席 で なけれ ば 私 と 奥さん と は 滅多 に 顔 を 合せ なかっ た から 。
私 の 疑惑 は まだ その 上 に も あっ た 。 先生 の 人間 に対する この 覚悟 は どこ から 来る の だろ う か 。 ただ 冷たい 眼 で 自分 を 内省 し たり 現代 を 観察 し たり し た 結果 な の だろ う か 。 先生 は 坐っ て 考える 質 の 人 で あっ た 。 先生 の 頭 さえ あれ ば 、 こういう 態度 は 坐っ て 世の中 を 考え て い て も 自然 と 出 て 来る もの だろ う か 。 私 に は そう ばかり と は 思え なかっ た 。 先生 の 覚悟 は 生き た 覚悟 らしかっ た 。 火 に 焼け て 冷却 し 切っ た 石造 家屋 の 輪廓 と は 違っ て い た 。 私 の 眼 に 映ずる 先生 は たしかに 思想家 で あっ た 。 けれども その 思想家 の 纏め 上げ た 主義 の 裏 に は 、 強い 事実 が 織り込ま れ て いる らしかっ た 。 自分 と 切り離さ れ た 他人 の 事実 で なくっ て 、 自分 自身 が 痛切 に 味わっ た 事実 、 血 が 熱く なっ たり 脈 が 止まっ たり する ほど の 事実 が 、 畳み込ま れ て いる らしかっ た 。
これ は 私 の 胸 で 推測 する が もの は ない 。 先生 自身 すでに そう だ と 告白 し て い た 。 ただ その 告白 が 雲 の 峯 の よう で あっ た 。 私 の 頭 の 上 に 正体 の 知れ ない 恐ろしい もの を 蔽い 被せ た 。 そうして なぜ それ が 恐ろしい か 私 に も 解ら なかっ た 。 告白 は ぼう と し て い た 。 それでいて 明らか に 私 の 神経 を 震わせ た 。
私 は 先生 の この 人生 観 の 基点 に 、 或 る 強烈 な 恋愛 事件 を 仮定 し て み た 。 ( 無論 先生 と 奥さん と の 間 に 起っ た ) 。 先生 が かつて 恋 は 罪悪 だ といった 事 から 照らし合せ て 見る と 、 多少 それ が 手掛り に も なっ た 。 しかし 先生 は 現に 奥さん を 愛し て いる と 私 に 告げ た 。 すると 二 人 の 恋 から こんな 厭世 に 近い 覚悟 が 出よ う はず が なかっ た 。 「 かつて は その 人 の 前 に 跪い た という 記憶 が 、 今度 は その 人 の 頭 の 上 に 足 を 載せ させよ う と する 」 といった 先生 の 言葉 は 、 現代 一般 の 誰彼 について 用い られる べき で 、 先生 と 奥さん の 間 に は 当てはまら ない もの の よう でも あっ た 。
雑司ヶ谷 に ある 誰 だ か 分ら ない 人 の 墓 、 —— これ も 私 の 記憶 に 時々 動い た 。 私 は それ が 先生 と 深い 縁故 の ある 墓 だ という 事 を 知っ て い た 。 先生 の 生活 に 近づき つつ あり ながら 、 近づく 事 の でき ない 私 は 、 先生 の 頭 の 中 に ある 生命 の 断片 として 、 その 墓 を 私 の 頭 の 中 に も 受け入れ た 。 けれども 私 に 取っ て その 墓 は 全く 死ん だ もの で あっ た 。 二 人 の 間 に ある 生命 の 扉 を 開ける 鍵 に は なら なかっ た 。 むしろ 二 人 の 間 に 立っ て 、 自由 の 往来 を 妨げる 魔物 の よう で あっ た 。
そう こう し て いる うち に 、 私 は また 奥さん と 差し 向い で 話 を し なけれ ば なら ない 時機 が 来 た 。 その 頃 は 日 の 詰っ て 行く せわ し ない 秋 に 、 誰 も 注意 を 惹か れる 肌 寒 の 季節 で あっ た 。 先生 の 附近 で 盗難 に 罹っ た もの が 三 、 四 日 続い て 出 た 。 盗難 は いずれ も 宵の口 で あっ た 。 大した もの を 持っ て 行か れ た 家 は ほとんど なかっ た けれども 、 はいら れ た 所 で は 必ず 何 か 取ら れ た 。 奥さん は 気味 を わるく し た 。 そこ へ 先生 が ある 晩 家 を 空け なけれ ば なら ない 事情 が でき て き た 。 先生 と 同郷 の 友人 で 地方 の 病院 に 奉職 し て いる もの が 上京 し た ため 、 先生 は 外 の 二 、 三 名 と共に 、 ある 所 で その 友人 に 飯 を 食わせ なけれ ば なら なく なっ た 。 先生 は 訳 を 話し て 、 私 に 帰っ て くる 間 まで の 留守番 を 頼ん だ 。 私 は すぐ 引き受け た 。
私 の 行っ た の は まだ 灯 の 点く か 点か ない 暮れ 方 で あっ た が 、 几帳面 な 先生 は もう 宅 に い なかっ た 。 「 時間 に 後れる と 悪い って 、 つい 今しがた 出掛け まし た 」 といった 奥さん は 、 私 を 先生 の 書斎 へ 案内 し た 。
書斎 に は 洋 机 と 椅子 の 外 に 、 沢山 の 書物 が 美しい 背皮 を 並べ て 、 硝子 越 に 電 燈 の 光 で 照らさ れ て い た 。 奥さん は 火鉢 の 前 に 敷い た 座蒲団 の 上 へ 私 を 坐ら せ て 、 「 ちっと そこ い ら に ある 本 でも 読ん で い て 下さい 」 と 断っ て 出 て 行っ た 。 私 は ちょうど 主人 の 帰り を 待ち受ける 客 の よう な 気 が し て 済まなかっ た 。 私 は 畏まっ た まま 烟草 を 飲ん で い た 。 奥さん が 茶の間 で 何 か 下女 に 話し て いる 声 が 聞こえ た 。 書斎 は 茶の間 の 縁側 を 突き当っ て 折れ 曲っ た 角 に ある ので 、 棟 の 位置 から いう と 、 座敷 より も かえって 掛け離れ た 静か さ を 領 し て い た 。 ひとしきり で 奥さん の 話し声 が 已 むと 、 後 は しん と し た 。 私 は 泥棒 を 待ち受ける よう な 心持 で 、 凝 と し ながら 気 を どこ か に 配っ た 。
三 十 分 ほど する と 、 奥さん が また 書斎 の 入口 へ 顔 を 出し た 。 「 おや 」 と いっ て 、 軽く 驚い た 時 の 眼 を 私 に 向け た 。 そうして 客 に 来 た 人 の よう に 鹿 爪 らしく 控え て いる 私 を おかし そう に 見 た 。
「 それ じゃ 窮屈 でしょ う 」
「 いえ 、 窮屈 じゃ あり ませ ん 」
「 でも 退屈 でしょ う 」
「 いいえ 。 泥棒 が 来る か と 思っ て 緊張 し て いる から 退屈 でも あり ませ ん 」
奥さん は 手 に 紅茶 茶碗 を 持っ た まま 、 笑い ながら そこ に 立っ て い た 。
「 ここ は 隅っこ だ から 番 を する に は 好く あり ませ ん ね 」 と 私 が いっ た 。
「 じゃ 失礼 です が もっと 真中 へ 出 て 来 て 頂戴 。 ご 退屈 だろ う と 思っ て 、 お茶 を 入れ て 持っ て 来 た ん です が 、 茶の間 で 宜しけれ ば あちら で 上げ ます から 」
私 は 奥さん の 後 に 尾 い て 書斎 を 出 た 。 茶の間 に は 綺麗 な 長火鉢 に 鉄瓶 が 鳴っ て い た 。 私 は そこ で 茶 と 菓子 の ご馳走 に なっ た 。 奥さん は 寝 られ ない と いけ ない と いっ て 、 茶碗 に 手 を 触れ なかっ た 。
「 先生 は やっぱり 時々 こんな 会 へ お 出掛け に なる ん です か 」
「 いいえ 滅多 に 出 た 事 は あり ませ ん 。 近頃 は 段々 人 の 顔 を 見る の が 嫌い に なる よう です 」
こう いっ た 奥さん の 様子 に 、 別段 困っ た もの だ という 風 も 見え なかっ た ので 、 私 は つい 大胆 に なっ た 。
「 それ じゃ 奥さん だけ が 例外 な ん です か 」
「 いいえ 私 も 嫌わ れ て いる 一 人 な ん です 」
「 そりゃ 嘘 です 」 と 私 が いっ た 。 「 奥さん 自身 嘘 と 知り ながら そう おっしゃる ん でしょ う 」
「 なぜ 」
「 私 に いわ せる と 、 奥さん が 好き に なっ た から 世間 が 嫌い に なる ん です もの 」
「 あなた は 学問 を する 方 だけ あっ て 、 なかなか お 上手 ね 。 空っぽ な 理屈 を 使いこなす 事 が 。 世の中 が 嫌い に なっ た から 、 私 まで も 嫌い に なっ た ん だ と も いわ れる じゃ あり ませ ん か 。 それと 同 なじ 理屈 で 」
「 両方 と も いわ れる 事 は いわ れ ます が 、 この 場合 は 私 の 方 が 正しい の です 」
「 議論 は いや よ 。 よく 男 の 方 は 議論 だけ なさる の ね 、 面白 そう に 。 空 の 盃 で よく ああ 飽き ず に 献酬 が できる と 思い ます わ 」
奥さん の 言葉 は 少し 手痛かっ た 。 しかし その 言葉 の 耳 障 から いう と 、 決して 猛烈 な もの で は なかっ た 。 自分 に 頭脳 の ある 事 を 相手 に 認め させ て 、 そこ に 一種 の 誇り を 見出す ほど に 奥さん は 現代 的 で なかっ た 。 奥さん は それ より もっと 底 の 方 に 沈ん だ 心 を 大事 に し て いる らしく 見え た 。
私 は まだ その後 に いう べき 事 を もっ て い た 。 けれども 奥さん から 徒 ら に 議論 を 仕掛ける 男 の よう に 取ら れ て は 困る と 思っ て 遠慮 し た 。 奥さん は 飲み干し た 紅茶 茶碗 の 底 を 覗い て 黙っ て いる 私 を 外らさ ない よう に 、 「 もう 一 杯 上げ ましょ う か 」 と 聞い た 。 私 は すぐ 茶碗 を 奥さん の 手 に 渡し た 。
「 いくつ ? 一つ ? 二 ッ つ ? 」
妙 な もの で 角砂糖 を つまみ上げ た 奥さん は 、 私 の 顔 を 見 て 、 茶碗 の 中 へ 入れる 砂糖 の 数 を 聞い た 。 奥さん の 態度 は 私 に 媚びる と いう ほど で は なかっ た けれども 、 先刻 の 強い 言葉 を 力め て 打ち消そ う と する 愛嬌 に 充ち て い た 。
私 は 黙っ て 茶 を 飲ん だ 。 飲ん で しまっ て も 黙っ て い た 。
「 あなた 大変 黙り込ん じまっ た の ね 」 と 奥さん が いっ た 。
「 何 か いう と また 議論 を 仕掛ける なんて 、 叱り付け られ そう です から 」 と 私 は 答え た 。
「 まさか 」 と 奥さん が 再び いっ た 。
二 人 は それ を 緒 口 に また 話 を 始め た 。 そうして また 二 人 に 共通 な 興味 の ある 先生 を 問題 に し た 。
「 奥さん 、 先刻 の 続き を もう少し いわ せ て 下さい ませ ん か 。 奥さん に は 空 な 理屈 と 聞こえる かも 知れ ませ ん が 、 私 は そんな 上の空 で いっ てる 事 じゃ ない ん だ から 」
「 じゃ おっしゃい 」
「 今 奥さん が 急 に い なく なっ た と し たら 、 先生 は 現在 の 通り で 生き て い られる でしょ う か 」
「 そりゃ 分ら ない わ 、 あなた 。 そんな 事 、 先生 に 聞い て 見る より 外 に 仕方 が ない じゃ あり ませ ん か 。 私 の 所 へ 持っ て 来る 問題 じゃ ない わ 」
「 奥さん 、 私 は 真面目 です よ 。 だから 逃げ ちゃ いけ ませ ん 。 正直 に 答え なくっ ちゃ 」
「 正直 よ 。 正直 に いっ て 私 に は 分ら ない の よ 」
「 じゃ 奥さん は 先生 を どの くらい 愛し て いらっしゃる ん です か 。 これ は 先生 に 聞く より むしろ 奥さん に 伺っ て いい 質問 です から 、 あなた に 伺い ます 」
「 何 も そんな 事 を 開き直っ て 聞か なくっ て も 好い じゃ あり ませ ん か 」
「 真面目くさっ て 聞く が もの は ない 。 分り 切っ てる と おっしゃる ん です か 」
「 まあ そう よ 」
「 その くらい 先生 に 忠実 な あなた が 急 に い なく なっ たら 、 先生 は どう なる ん でしょ う 。 世の中 の どっち を 向い て も 面白 そう で ない 先生 は 、 あなた が 急 に い なく なっ たら 後 で どう なる でしょ う 。 先生 から 見 て じゃ ない 。 あなた から 見 て です よ 。 あなた から 見 て 、 先生 は 幸福 に なる でしょ う か 、 不幸 に なる でしょ う か 」
「 そりゃ 私 から 見れ ば 分っ て い ます 。 ( 先生 は そう 思っ て い ない かも 知れ ませ ん が ) 。 先生 は 私 を 離れれ ば 不幸 に なる だけ です 。 あるいは 生き て い られ ない かも 知れ ませ ん よ 。 そう いう と 、 己 惚 に なる よう です が 、 私 は 今 先生 を 人間 として できるだけ 幸福 に し て いる ん だ と 信じ て い ます わ 。 どんな 人 が あっ て も 私 ほど 先生 を 幸福 に できる もの は ない と まで 思い込ん で い ます わ 。 それ だ から こうして 落ち 付い て い られる ん です 」
「 その 信念 が 先生 の 心 に 好く 映る はず だ と 私 は 思い ます が 」
「 それ は 別 問題 です わ 」
「 やっぱり 先生 から 嫌わ れ て いる と おっしゃる ん です か 」
「 私 は 嫌わ れ てる と は 思い ませ ん 。 嫌わ れる 訳 が ない ん です もの 。 しかし 先生 は 世間 が 嫌い な ん でしょ う 。 世間 と いう より 近頃 で は 人間 が 嫌い に なっ て いる ん でしょ う 。 だから その 人間 の 一 人 として 、 私 も 好か れる はず が ない じゃ あり ませ ん か 」
奥さん の 嫌わ れ て いる という 意味 が やっと 私 に 呑み込め た 。
私 は 奥さん の 理解 力 に 感心 し た 。 奥さん の 態度 が 旧式 の 日本 の 女らしく ない ところ も 私 の 注意 に 一種 の 刺戟 を 与え た 。 それで 奥さん は その 頃 流行り 始め た いわゆる 新しい 言葉 など は ほとんど 使わ なかっ た 。
私 は 女 という もの に 深い 交際 を し た 経験 の ない 迂闊 な 青年 で あっ た 。 男 として の 私 は 、 異性 に対する 本能 から 、 憧憬 の 目的 物 として 常に 女 を 夢み て い た 。 けれども それ は 懐かしい 春 の 雲 を 眺める よう な 心持 で 、 ただ 漠然と 夢み て い た に 過ぎ なかっ た 。 だから 実際 の 女 の 前 へ 出る と 、 私 の 感情 が 突然 変る 事 が 時々 あっ た 。 私 は 自分 の 前 に 現われ た 女 の ため に 引き付け られる 代り に 、 その 場 に 臨ん で かえって 変 な 反撥 力 を 感じ た 。 奥さん に 対し た 私 に は そんな 気 が まるで 出 なかっ た 。 普通 男女 の 間 に 横たわる 思想 の 不 平均 という 考え も ほとんど 起ら なかっ た 。 私 は 奥さん の 女 で ある という 事 を 忘れ た 。 私 は ただ 誠実 なる 先生 の 批評 家 および 同情 家 として 奥さん を 眺め た 。
「 奥さん 、 私 が この 前 なぜ 先生 が 世間 的 に もっと 活動 なさら ない の だろ う と いっ て 、 あなた に 聞い た 時 に 、 あなた は おっしゃっ た 事 が あり ます ね 。 元 は ああ じゃ なかっ た ん だって 」
「 ええ いい まし た 。 実際 あんな じゃ なかっ た ん です もの 」
「 どんな だっ た ん です か 」
「 あなた の 希望 なさる よう な 、 また 私 の 希望 する よう な 頼もしい 人 だっ た ん です 」
「 それ が どうして 急 に 変化 なすっ た ん です か 」
「 急 に じゃ あり ませ ん 、 段々 ああなっ て 来 た の よ 」
「 奥さん は その間 始終 先生 と いっ し ょにいらしったんでしょう 」
「 無論 い まし た わ 。 夫婦 です もの 」
「 じゃ 先生 が そう 変っ て 行か れる 源 因 が ちゃんと 解る べき はず です が ね 」
「 それ だ から 困る の よ 。 あなた から そう いわ れる と 実に 辛い ん です が 、 私 に は どう 考え て も 、 考え よう が ない ん です もの 。 私 は 今 まで 何 遍 あの 人 に 、 どうぞ 打ち明け て 下さい って 頼ん で 見 た か 分りゃ し ませ ん 」
「 先生 は 何と おっしゃる ん です か 」
「 何 に も いう 事 は ない 、 何 に も 心配 する 事 は ない 、 おれ は こういう 性質 に なっ た ん だ から と いう だけ で 、 取り合っ て くれ ない ん です 」
私 は 黙っ て い た 。 奥さん も 言葉 を 途 切らし た 。 下女 部屋 に いる 下女 は こ とり とも 音 を さ せ なかっ た 。 私 は まるで 泥棒 の 事 を 忘れ て しまっ た 。
「 あなた は 私 に 責任 が ある ん だ と 思っ て やし ませ ん か 」 と 突然 奥さん が 聞い た 。
「 いいえ 」 と 私 が 答え た 。
「 どうぞ 隠さ ず に いっ て 下さい 。 そう 思わ れる の は 身 を 切ら れる より 辛い ん だ から 」 と 奥さん が また いっ た 。 「 これ でも 私 は 先生 の ため に できる だけ の 事 は し て いる つもり な ん です 」
「 そりゃ 先生 も そう 認め て い られる ん だ から 、 大丈夫 です 。 ご 安心 なさい 、 私 が 保証 し ます 」
奥さん は 火鉢 の 灰 を 掻き 馴らし た 。 それから 水 注 の 水 を 鉄瓶 に 注し た 。 鉄瓶 は 忽ち 鳴り を 沈め た 。
「 私 は とうとう 辛 防 し 切れ なく なっ て 、 先生 に 聞き まし た 。 私 に 悪い 所 が ある なら 遠慮なく いっ て 下さい 、 改め られる 欠点 なら 改める から って 、 すると 先生 は 、 お前 に 欠点 なんか ありゃ し ない 、 欠点 は おれ の 方 に ある だけ だ という ん です 。 そう いわ れる と 、 私 悲しく なっ て 仕様 が ない ん です 、 涙 が 出 て なお の 事 自分 の 悪い 所 が 聞き たく なる ん です 」
奥さん は 眼 の 中 に 涙 を いっぱい 溜め た 。
始め 私 は 理解 の ある 女性 として 奥さん に 対し て い た 。 私 が その 気 で 話し て いる うち に 、 奥さん の 様子 が 次第に 変っ て 来 た 。 奥さん は 私 の 頭脳 に 訴える 代り に 、 私 の 心臓 を 動かし 始め た 。 自分 と 夫 の 間 に は 何 の 蟠 まり も ない 、 また ない はず で ある のに 、 やはり 何 か ある 。 それ だ のに 眼 を 開け て 見極めよ う と する と 、 やはり 何 に も ない 。 奥さん の 苦 に する 要点 は ここ に あっ た 。
奥さん は 最初 世の中 を 見る 先生 の 眼 が 厭世 的 だ から 、 その 結果 として 自分 も 嫌わ れ て いる の だ と 断言 し た 。 そう 断言 し て おき ながら 、 ちっとも そこ に 落ち 付い て い られ なかっ た 。 底 を 割る と 、 かえって その 逆 を 考え て い た 。 先生 は 自分 を 嫌う 結果 、 とうとう 世の中 まで 厭 に なっ た の だろ う と 推測 し て い た 。 けれども どう 骨 を 折っ て も 、 その 推測 を 突き 留め て 事実 と する 事 が でき なかっ た 。 先生 の 態度 は どこ まで も 良人 らしかっ た 。 親切 で 優しかっ た 。 疑い の 塊 り を その 日 その 日 の 情合 で 包ん で 、 そっと 胸 の 奥 に しまっ て おい た 奥さん は 、 その 晩 その 包み の 中 を 私 の 前 で 開け て 見せ た 。
「 あなた どう 思っ て ? 」 と 聞い た 。 「 私 から ああなっ た の か 、 それとも あなた の いう 人世 観 とか 何とか いう もの から 、 ああなっ た の か 。 隠さ ず いっ て 頂戴 」
私 は 何 も 隠す 気 は なかっ た 。 けれども 私 の 知ら ない ある もの が そこ に 存在 し て いる と すれ ば 、 私 の 答え が 何 で あろ う と 、 それ が 奥さん を 満足 さ せる はず が なかっ た 。 そう し て 私 は そこ に 私 の 知ら ない ある もの が ある と 信じ て い た 。
「 私 に は 解り ませ ん 」
奥さん は 予期 の 外れ た 時 に 見る 憐れ な 表情 を その 咄嗟 に 現 わし た 。 私 は すぐ 私 の 言葉 を 継ぎ足し た 。
「 しかし 先生 が 奥さん を 嫌っ て いらっしゃら ない 事 だけ は 保証 し ます 。 私 は 先生 自身 の 口 から 聞い た 通り を 奥さん に 伝える だけ です 。 先生 は 嘘 を 吐か ない 方 でしょ う 」
奥さん は 何とも 答え なかっ た 。 しばらく し て から こう いっ た 。
「 実は 私 すこし 思いあたる 事 が ある ん です けれども … … 」
「 先生 が ああ いう 風 に なっ た 源 因 について です か 」
「 ええ 。 もし それ が 源 因 だ と すれ ば 、 私 の 責任 だけ は なく なる ん だ から 、 それ だけ でも 私 大変 楽 に なれる ん です が 、 … … 」
「 どんな 事 です か 」
奥さん は いい 渋っ て 膝 の 上 に 置い た 自分 の 手 を 眺め て い た 。
「 あなた 判断 し て 下す って 。 いう から 」
「 私 に できる 判断 なら やり ます 」
「 みんな は いえ ない の よ 。 みんな いう と 叱ら れる から 。 叱ら れ ない ところ だけ よ 」
私 は 緊張 し て 唾液 を 呑み込ん だ 。
「 先生 が まだ 大学 に いる 時分 、 大変 仲 の 好い お 友達 が 一 人 あっ た の よ 。 その 方 が ちょうど 卒業 する 少し 前 に 死ん だ ん です 。 急 に 死ん だ ん です 」
奥さん は 私 の 耳 に 私語 く よう な 小さな 声 で 、 「 実は 変死 し た ん です 」 と いっ た 。 それ は 「 どうして 」 と 聞き返さ ず に は い られ ない よう な いい 方 で あっ た 。
「 それ っ 切り しか いえ ない の よ 。 けれども その 事 が あっ て から 後 な ん です 。 先生 の 性質 が 段々 変っ て 来 た の は 。 なぜ その 方 が 死ん だ の か 、 私 に は 解ら ない の 。 先生 に も おそらく 解っ て い ない でしょ う 。 けれども それ から 先生 が 変っ て 来 た と 思え ば 、 そう 思わ れ ない 事 も ない の よ 」
「 その 人 の 墓 です か 、 雑司ヶ谷 に ある の は 」
「 それ も いわ ない 事 に なっ てる から いい ませ ん 。 しかし 人間 は 親友 を 一 人 亡くし た だけ で 、 そんなに 変化 できる もの でしょ う か 。 私 は それ が 知り たくっ て 堪ら ない ん です 。 だから そこ を 一つ あなた に 判断 し て 頂き たい と 思う の 」
私 の 判断 は むしろ 否定 の 方 に 傾い て い た 。
私 は 私 の つら まえ た 事実 の 許す 限り 、 奥さん を 慰めよ う と し た 。 奥さん も また できるだけ 私 によって 慰め られ た そう に 見え た 。 それで 二 人 は 同じ 問題 を いつ まで も 話し合っ た 。 けれども 私 は もともと 事 の 大根 を 攫ん で い なかっ た 。 奥さん の 不安 も 実は そこ に 漂う 薄い 雲 に 似 た 疑惑 から 出 て 来 て い た 。 事件 の 真相 に なる と 、 奥さん 自身 に も 多く は 知れ て い なかっ た 。 知れ て いる ところ で も 悉皆 は 私 に 話す 事 が でき なかっ た 。 したがって 慰める 私 も 、 慰め られる 奥さん も 、 共に 波 に 浮い て 、 ゆらゆら し て い た 。 ゆらゆら し ながら 、 奥さん は どこ まで も 手 を 出し て 、 覚 束 ない 私 の 判断 に 縋り 付こ う と し た 。
十 時 頃 に なっ て 先生 の 靴 の 音 が 玄関 に 聞こえ た 時 、 奥さん は 急 に 今 まで の すべて を 忘れ た よう に 、 前 に 坐っ て いる 私 を そっちのけ に し て 立ち上がっ た 。 そうして 格子 を 開ける 先生 を ほとんど 出合い頭 に 迎え た 。 私 は 取り残さ れ ながら 、 後 から 奥さん に 尾 い て 行っ た 。 下女 だけ は 仮寝 でも し て い た と みえ て 、 ついに 出 て 来 なかっ た 。
先生 は むしろ 機嫌 が よかっ た 。 しかし 奥さん の 調子 は さらに よかっ た 。 今しがた 奥さん の 美しい 眼 の うち に 溜っ た 涙 の 光 と 、 それ から 黒い 眉毛 の 根 に 寄せ られ た 八 の 字 を 記憶 し て い た 私 は 、 その 変化 を 異常 な もの として 注意深く 眺め た 。 もし それ が 詐り で なかっ た なら ば 、 ( 実際 それ は 詐り と は 思え なかっ た が ) 、 今 まで の 奥さん の 訴え は 感傷 を 玩ぶ ため に とくに 私 を 相手 に 拵え た 、 徒 ら な 女性 の 遊戯 と 取れ ない 事 も なかっ た 。 もっとも その 時 の 私 に は 奥さん を それほど 批評 的 に 見る 気 は 起ら なかっ た 。 私 は 奥さん の 態度 の 急 に 輝い て 来 た の を 見 て 、 むしろ 安心 し た 。 これ なら ば そう 心配 する 必要 も なかっ た ん だ と 考え直し た 。
先生 は 笑い ながら 「 どうも ご苦労さま 、 泥棒 は 来 ませ ん でし た か 」 と 私 に 聞い た 。 それから 「 来 ない んで 張 合 が 抜け やし ませ ん か 」 と いっ た 。
帰る 時 、 奥さん は 「 どうも お 気の毒 さま 」 と 会釈 し た 。 その 調子 は 忙しい ところ を 暇 を 潰さ せ て 気の毒 だ と いう より も 、 せっかく 来 た のに 泥棒 が はいら なくっ て 気の毒 だ という 冗談 の よう に 聞こえ た 。 奥さん は そう いい ながら 、 先刻 出し た 西洋 菓子 の 残り を 、 紙 に 包ん で 私 の 手 に 持た せ た 。 私 は それ を 袂 へ 入れ て 、 人通り の 少ない 夜寒 の 小路 を 曲折 し て 賑やか な 町 の 方 へ 急い だ 。
私 は その 晩 の 事 を 記憶 の うち から 抽 き 抜い て ここ へ 詳しく 書い た 。 これ は 書く だけ の 必要 が ある から 書い た の だ が 、 実 を いう と 、 奥さん に 菓子 を 貰っ て 帰る とき の 気分 で は 、 それほど 当夜 の 会話 を 重く 見 て い なかっ た 。 私 は その 翌日 午 飯 を 食い に 学校 から 帰っ て き て 、 昨夜 机 の 上 に 載せ て 置い た 菓子 の 包み を 見る と 、 すぐ その 中 から チョコレート を 塗っ た 鳶色 の カステラ を 出し て 頬張っ た 。 そう し て それ を 食う 時 に 、 必竟 この 菓子 を 私 に くれ た 二 人 の 男女 は 、 幸福 な 一対 として 世の中 に 存在 し て いる の だ と 自覚 し つつ 味わっ た 。
秋 が 暮れ て 冬 が 来る まで 格別 の 事 も なかっ た 。 私 は 先生 の 宅 へ 出 はいり を する ついで に 、 衣服 の 洗い張り や 仕立て 方 など を 奥さん に 頼ん だ 。 それ まで 繻絆 という もの を 着 た 事 の ない 私 が 、 シャツ の 上 に 黒い 襟 の かかっ た もの を 重ねる よう に なっ た の は この 時 から で あっ た 。 子供 の ない 奥さん は 、 そういう 世話 を 焼く の が かえって 退屈 凌ぎ に なっ て 、 結句 身体 の 薬 だ ぐらい の 事 を いっ て い た 。
「 こりゃ 手織り ね 。 こんな 地 の 好い 着物 は 今 まで 縫っ た 事 が ない わ 。 その 代り 縫い 悪い の よ そりゃあ 。 まるで 針 が 立た ない ん です もの 。 お蔭 で 針 を 二 本 折り まし た わ 」
こんな 苦情 を いう 時 で すら 、 奥さん は 別に 面倒くさい という 顔 を し なかっ た 。
冬 が 来 た 時 、 私 は 偶然 国 へ 帰ら なけれ ば なら ない 事 に なっ た 。 私 の 母 から 受け取っ た 手紙 の 中 に 、 父 の 病気 の 経過 が 面白く ない 様子 を 書い て 、 今 が 今 という 心配 も ある まい が 、 年 が 年 だ から 、 できる なら 都合 し て 帰っ て 来 て くれ と 頼む よう に 付け足し て あっ た 。
父 は かね て から 腎臓 を 病ん で い た 。 中年 以後 の 人 に しばしば 見る 通り 、 父 の この 病 は 慢性 で あっ た 。 その 代り 要心 さえ し て いれ ば 急変 の ない もの と 当人 も 家族 の もの も 信じ て 疑わ なかっ た 。 現に 父 は 養生 の お蔭 一つ で 、 今日 まで どう かこう か 凌い で 来 た よう に 客 が 来る と 吹聴 し て い た 。 その 父 が 、 母 の 書信 に よる と 、 庭 へ 出 て 何 か し て いる 機 に 突然 眩暈 が し て 引 ッ 繰り 返っ た 。 家内 の もの は 軽症 の 脳溢血 と 思い 違え て 、 すぐ その 手当 を し た 。 後で 医者 から どうも そう で は ない らしい 、 やはり 持病 の 結果 だろ う という 判断 を 得 て 、 始めて 卒倒 と 腎臓 病 と を 結び付け て 考える よう に なっ た の で ある 。
冬休み が 来る に は まだ 少し 間 が あっ た 。 私 は 学期 の 終り まで 待っ て い て も 差支え ある まい と 思っ て 一 日 二 日 そのまま に し て おい た 。 すると その 一 日 二 日 の 間 に 、 父 の 寝 て いる 様子 だの 、 母 の 心配 し て いる 顔 だ の が 時々 眼 に 浮かん だ 。 その たび に 一種 の 心苦し さ を 嘗め た 私 は 、 とうとう 帰る 決心 を し た 。 国 から 旅費 を 送ら せる 手数 と 時間 を 省く ため 、 私 は 暇乞い かたがた 先生 の 所 へ 行っ て 、 要る だけ の 金 を 一時 立て替え て もらう 事 に し た 。
先生 は 少し 風邪 の 気味 で 、 座敷 へ 出る の が 臆 劫 だ と いっ て 、 私 を その 書斎 に 通し た 。 書斎 の 硝子 戸 から 冬 に 入っ て 稀 に 見る よう な 懐かしい 和 ら か な 日光 が 机 掛け の 上 に 射し て い た 。 先生 は この 日 あたり の 好い 室 の 中 へ 大きな 火鉢 を 置い て 、 五徳 の 上 に 懸け た 金盥 から 立ち上る 湯気 で 、 呼吸 の 苦しく なる の を 防い で い た 。
「 大病 は 好い が 、 ちょっとした 風邪 など は かえって 厭 な もの です ね 」 といった 先生 は 、 苦笑 し ながら 私 の 顔 を 見 た 。
先生 は 病気 という 病気 を し た 事 の ない 人 で あっ た 。 先生 の 言葉 を 聞い た 私 は 笑い たく なっ た 。
「 私 は 風邪 ぐらい なら 我慢 し ます が 、 それ 以上 の 病気 は 真平 です 。 先生 だって 同じ 事 でしょ う 。 試み に やっ て ご覧 に なる と よく 解り ます 」
「 そう か ね 。 私 は 病気 に なる くらい なら 、 死病 に 罹り たい と 思っ てる 」
私 は 先生 の いう 事 に 格別 注意 を 払わ なかっ た 。 すぐ 母 の 手紙 の 話 を し て 、 金 の 無心 を 申し出 た 。
「 そりゃ 困る でしょ う 。 その くらい なら 今 手元 に ある はず だ から 持っ て 行き たまえ 」
先生 は 奥さん を 呼ん で 、 必要 の 金額 を 私 の 前 に 並べ させ て くれ た 。 それ を 奥 の 茶箪笥 か 何 か の 抽出 から 出し て 来 た 奥さん は 、 白い 半紙 の 上 へ 鄭 寧 に 重ね て 、 「 そりゃ ご 心配 です ね 」 と いっ た 。
「 何 遍 も 卒倒 し た ん です か 」 と 先生 が 聞い た 。
「 手紙 に は 何とも 書い て あり ませ ん が 。 —— そんなに 何 度 も 引 ッ 繰り 返る もの です か 」
「 ええ 」
先生 の 奥さん の 母親 という 人 も 私 の 父 と 同じ 病気 で 亡くなっ た の だ という 事 が 始め て 私 に 解っ た 。
「 どうせ むずかしい ん でしょ う 」 と 私 が いっ た 。
「 そう さ ね 。 私 が 代ら れれ ば 代っ て あげ て も 好い が 。 —— 嘔気 は ある ん です か 」
「 どう です か 、 何とも 書い て ない から 、 大方 ない ん でしょ う 」
「 吐気 さえ 来 なけれ ば まだ 大丈夫 です よ 」 と 奥さん が いっ た 。
私 は その 晩 の 汽車 で 東京 を 立っ た 。
父 の 病気 は 思っ た ほど 悪く は なかっ た 。 それでも 着い た 時 は 、 床 の 上 に 胡坐 を かい て 、 「 みんな が 心配 する から 、 まあ 我慢 し て こう 凝 と し て いる 。 なに もう 起き て も 好い の さ 」 と いっ た 。 しかし その 翌日 から は 母 が 止める の も 聞か ず に 、 とうとう 床 を 上げ させ て しまっ た 。 母 は 不承 無性 に 太織 り の 蒲団 を 畳み ながら 「 お父さん は お前 が 帰っ て 来 た ので 、 急 に 気 が 強く おなり な ん だ よ 」 と いっ た 。 私 に は 父 の 挙動 が さして 虚勢 を 張っ て いる よう に も 思え なかっ た 。
私 の 兄 は ある 職 を 帯び て 遠い 九州 に い た 。 これ は 万一 の 事 が ある 場合 で なけれ ば 、 容易 に 父母 の 顔 を 見る 自由 の 利か ない 男 で あっ た 。 妹 は 他国 へ 嫁い だ 。 これ も 急場 の 間に合う よう に 、 おいそれと 呼び寄せ られる 女 で は なかっ た 。 兄妹 三 人 の うち で 、 一番 便利 な の は やはり 書生 を し て いる 私 だけ で あっ た 。 その 私 が 母 の いい 付け 通り 学校 の 課業 を 放り出し て 、 休み 前 に 帰っ て 来 た という 事 が 、 父 に は 大きな 満足 で あっ た 。
「 これしき の 病気 に 学校 を 休ま せ て は 気の毒 だ 。 お母さん が あまり 仰山 な 手紙 を 書く もの だ から いけ ない 」
父 は 口 で は こう いっ た 。 こう いっ た ばかり で なく 、 今 まで 敷い て い た 床 を 上げ させ て 、 いつも の よう な 元気 を 示し た 。
「 あんまり 軽はずみ を し て また 逆 回す と いけ ませ ん よ 」
私 の この 注意 を 父 は 愉快 そう に しかし 極めて 軽く 受け た 。
「 なに 大丈夫 、 これ で いつも の よう に 要心 さえ し て いれ ば 」
実際 父 は 大丈夫 らしかっ た 。 家 の 中 を 自由 に 往来 し て 、 息 も 切れ なけれ ば 、 眩暈 も 感じ なかっ た 。 ただ 顔色 だけ は 普通 の 人 より も 大変 悪かっ た が 、 これ は また 今 始まっ た 症状 で も ない ので 、 私 たち は 格別 それ を 気 に 留め なかっ た 。
私 は 先生 に 手紙 を 書い て 恩借 の 礼 を 述べ た 。 正月 上京 する 時 に 持参 する から それ まで 待っ て くれる よう に と 断わっ た 。 そうして 父 の 病状 の 思っ た ほど 険悪 で ない 事 、 この 分 なら 当分 安心 な 事 、 眩暈 も 嘔気 も 皆無 な 事 など を 書き 連ね た 。 最後 に 先生 の 風邪 について も 一言 の 見舞 を 附け 加え た 。 私 は 先生 の 風邪 を 実際 軽く 見 て い た ので 。
私 は その 手紙 を 出す 時 に 決して 先生 の 返事 を 予期 し て い なかっ た 。 出し た 後 で 父 や 母 と 先生 の 噂 など を し ながら 、 遥か に 先生 の 書斎 を 想像 し た 。
「 こんど 東京 へ 行く とき に は 椎茸 でも 持っ て 行っ て お 上げ 」
「 ええ 、 しかし 先生 が 干し た 椎茸 なぞ を 食う かしら 」
「 旨く は ない が 、 別に 嫌い な 人 も ない だろ う 」
私 に は 椎茸 と 先生 を 結び付け て 考える の が 変 で あっ た 。
先生 の 返事 が 来 た 時 、 私 は ちょっと 驚かさ れ た 。 ことに その 内容 が 特別 の 用件 を 含ん で い なかっ た 時 、 驚かさ れ た 。 先生 は ただ 親切 ずく で 、 返事 を 書い て くれ た ん だ と 私 は 思っ た 。 そう 思う と 、 その 簡単 な 一 本 の 手紙 が 私 に は 大層 な 喜び に なっ た 。 もっとも これ は 私 が 先生 から 受け取っ た 第 一 の 手紙 に は 相違 なかっ た が 。
第 一 と いう と 私 と 先生 の 間 に 書信 の 往復 が たびたび あっ た よう に 思わ れる が 、 事実 は 決して そう で ない 事 を ちょっと 断わっ て おき たい 。 私 は 先生 の 生前 に たった 二 通 の 手紙 しか 貰っ て い ない 。 その 一 通 は 今 いう この 簡単 な 返書 で 、 あと の 一 通 は 先生 の 死ぬ 前 とくに 私 宛 で 書い た 大変 長い もの で ある 。
父 は 病気 の 性質 として 、 運動 を 慎ま なけれ ば なら ない ので 、 床 を 上げ て から も 、 ほとんど 戸外 へ は 出 なかっ た 。 一度 天気 の ごく 穏やか な 日 の 午後 庭 へ 下り た 事 が ある が 、 その 時 は 万一 を 気遣っ て 、 私 が 引き 添う よう に 傍 に 付い て い た 。 私 が 心配 し て 自分 の 肩 へ 手 を 掛け させよ う として も 、 父 は 笑っ て 応じ なかっ た 。
私 は 退屈 な 父 の 相手 として よく 将 碁盤 に 向かっ た 。 二 人 とも 無精 な 性質 な ので 、 炬燵 に あたっ た まま 、 盤 を 櫓 の 上 へ 載せ て 、 駒 を 動かす たび に 、 わざわざ 手 を 掛蒲団 の 下 から 出す よう な 事 を し た 。 時々 持駒 を 失 くし て 、 次 の 勝負 の 来る まで 双方 と も 知ら ず に い たり し た 。 それ を 母 が 灰 の 中 から 見付け 出し て 、 火箸 で 挟み 上げる という 滑稽 も あっ た 。
「 碁 だ と 盤 が 高 過ぎる 上 に 、 足 が 着い て いる から 、 炬燵 の 上 で は 打て ない が 、 そこ へ 来る と 将 碁盤 は 好い ね 、 こうして 楽 に 差せる から 。 無精 者 に は 持っ て 来い だ 。 もう 一番 やろ う 」
父 は 勝っ た 時 は 必ず もう 一番 やろ う と いっ た 。 その くせ 負け た 時 に も 、 もう 一番 やろ う と いっ た 。 要するに 、 勝っ て も 負け て も 、 炬燵 にあたって 、 将 碁 を 差し た がる 男 で あっ た 。 始め の うち は 珍しい ので 、 この 隠居 じみ た 娯楽 が 私 に も 相当 の 興味 を 与え た が 、 少し 時日 が 経つ に 伴 れ て 、 若い 私 の 気力 は その くらい な 刺戟 で 満足 でき なく なっ た 。 私 は 金 や 香車 を 握っ た 拳 を 頭 の 上 へ 伸ばし て 、 時々 思い切っ た あくび を し た 。
私 は 東京 の 事 を 考え た 。 そう し て 漲る 心臓 の 血潮 の 奥 に 、 活動 活動 と 打ち つづける 鼓動 を 聞い た 。 不思議 に も その 鼓動 の 音 が 、 ある 微妙 な 意識 状態 から 、 先生 の 力 で 強め られ て いる よう に 感じ た 。
私 は 心 の うち で 、 父 と 先生 と を 比較 し て 見 た 。 両方 とも 世間 から 見れ ば 、 生き て いる か 死ん で いる か 分ら ない ほど 大人しい 男 で あっ た 。 他 に 認め られる という 点 から いえ ば どっち も 零 で あっ た 。 それでいて 、 この 将 碁 を 差し た がる 父 は 、 単なる 娯楽 の 相手 として も 私 に は 物足りなかっ た 。 かつて 遊興 の ため に 往来 を し た 覚え の ない 先生 は 、 歓楽 の 交際 から 出る 親しみ 以上 に 、 いつか 私 の 頭 に 影響 を 与え て い た 。 ただ 頭 という の は あまりに 冷やか 過ぎる から 、 私 は 胸 と いい 直し たい 。 肉 の なか に 先生 の 力 が 喰い 込ん で いる と いっ て も 、 血 の なか に 先生 の 命 が 流れ て いる と いっ て も 、 その 時 の 私 に は 少し も 誇張 で ない よう に 思わ れ た 。 私 は 父 が 私 の 本当 の 父 で あり 、 先生 は また いう まで も なく 、 あか の 他人 で ある という 明白 な 事実 を 、 ことさら に 眼 の 前 に 並べ て み て 、 始めて 大きな 真理 で も 発見 し た か の ご とく に 驚い た 。
私 が の つ そつ し 出す と 前後 し て 、 父 や 母 の 眼 に も 今 まで 珍しかっ た 私 が 段々 陳腐 に なっ て 来 た 。 これ は 夏休み など に 国 へ 帰る 誰 でも が 一様 に 経験 する 心持 だろ う と 思う が 、 当座 の 一 週間 ぐらい は 下 に も 置か ない よう に 、 ちやほや 歓待 さ れる のに 、 その 峠 を 定規 通り 通り越す と 、 あと は そろそろ 家族 の 熱 が 冷め て 来 て 、 しまいに は 有っ て も 無くっ て も 構わ ない もの の よう に 粗末 に 取り扱わ れ がち に なる もの で ある 。 私 も 滞在 中 に その 峠 を 通り越し た 。 その 上 私 は 国 へ 帰る たび に 、 父 に も 母 に も 解ら ない 変 な ところ を 東京 から 持っ て 帰っ た 。 昔 で いう と 、 儒者 の 家 へ 切支丹 の 臭い を 持ち込む よう に 、 私 の 持っ て 帰る もの は 父 とも 母 とも 調和 し なかっ た 。 無論 私 は それ を 隠し て い た 。 けれども 元々 身 に 着い て いる もの だ から 、 出す まい と 思っ て も 、 いつか それ が 父 や 母 の 眼 に 留まっ た 。 私 は つい 面白く なく なっ た 。 早く 東京 へ 帰り たく なっ た 。
父 の 病気 は 幸い 現状 維持 の まま で 、 少し も 悪い 方 へ 進む 模様 は 見え なかっ た 。 念 の ため に わざわざ 遠く から 相当 の 医者 を 招い たり し て 、 慎重 に 診察 し て もらっ て も やはり 私 の 知っ て いる 以外 に 異状 は 認め られ なかっ た 。 私 は 冬休み の 尽きる 少し 前 に 国 を 立つ 事 に し た 。 立つ と いい 出す と 、 人情 は 妙 な もの で 、 父 も 母 も 反対 し た 。
「 もう 帰る の かい 、 まだ 早い じゃ ない か 」 と 母 が いっ た 。
「 まだ 四 、 五 日 い て も 間に合う ん だろ う 」 と 父 が いっ た 。
私 は 自分 の 極め た 出立 の 日 を 動かさ なかっ た 。
東京 へ 帰っ て みる と 、 松飾 は いつか 取り払わ れ て い た 。 町 は 寒い 風 の 吹く に 任せ て 、 どこ を 見 て も これ と いう ほど の 正月 めい た 景気 は なかっ た 。
私 は 早速 先生 の うち へ 金 を 返し に 行っ た 。 例 の 椎茸 も ついで に 持っ て 行っ た 。 ただ 出す の は 少し 変 だ から 、 母 が これ を 差し上げ て くれ と いい まし た と わざわざ 断っ て 奥さん の 前 へ 置い た 。 椎茸 は 新しい 菓子 折 に 入れ て あっ た 。 鄭 寧 に 礼 を 述べ た 奥さん は 、 次の間 へ 立つ 時 、 その 折 を 持っ て 見 て 、 軽い の に 驚かさ れ た の か 、 「 こりゃ 何 の 御 菓子 」 と 聞い た 。 奥さん は 懇意 に なる と 、 こんな ところ に 極めて 淡泊 な 小 供 らしい 心 を 見せ た 。
二 人 とも 父 の 病気 について 、 色々 掛 念 の 問い を 繰り返し て くれ た 中 に 、 先生 は こんな 事 を いっ た 。
「 なるほど 容体 を 聞く と 、 今 が 今 どう と いう 事 も ない よう です が 、 病気 が 病気 だ から よほど 気 を つけ ない と いけ ませ ん 」
先生 は 腎臓 の 病 について 私 の 知ら ない 事 を 多く 知っ て い た 。
「 自分 で 病気 に 罹っ て い ながら 、 気 が 付か ない で 平気 で いる の が あの 病 の 特色 です 。 私 の 知っ た ある 士官 は 、 とうとう それ で やら れ た が 、 全く 嘘 の よう な 死に 方 を し た ん です よ 。 何しろ 傍 に 寝 て い た 細君 が 看病 を する 暇 も なんにも ない くらい な ん です から ね 。 夜中 に ちょっと 苦しい と いっ て 、 細君 を 起し たぎり 、 翌 る 朝 は もう 死ん で い た ん です 。 しかも 細君 は 夫 が 寝 て いる と ばかり 思っ て たん だって いう ん だ から 」
今 まで 楽天的 に 傾い て い た 私 は 急 に 不安 に なっ た 。
「 私 の 父 も そんなに なる でしょ う か 。 なら ん と も いえ ない です ね 」
「 医者 は 何 という の です 」
「 医者 は 到底 治ら ない という ん です 。 けれども 当分 の ところ 心配 は ある まい と も いう ん です 」
「 それ じゃ 好い でしょ う 。 医者 が そう いう なら 。 私 の 今 話し た の は 気が付か ず に い た 人 の 事 で 、 しかも それ が ずいぶん 乱暴 な 軍人 な ん だ から 」
私 は やや 安心 し た 。 私 の 変化 を 凝 と 見 て い た 先生 は 、 それ から こう 付け足し た 。
「 しかし 人間 は 健康 に しろ 病気 に しろ 、 どっち に し て も 脆い もの です ね 。 い つ どんな 事 で どんな 死に よう を し ない と も 限ら ない から 」
「 先生 も そんな 事 を 考え て お出で すか 」
「 いくら 丈夫 の 私 でも 、 満更 考え ない 事 も あり ませ ん 」
先生 の 口元 に は 微笑 の 影 が 見え た 。
「 よく ころり と 死ぬ 人 が ある じゃ あり ませ ん か 。 自然 に 。 それから あっと 思う 間 に 死ぬ 人 も ある でしょ う 。 不自然 な 暴力 で 」
「 不自然 な 暴力 って 何 です か 」
「 何だか それ は 私 に も 解ら ない が 、 自殺 する 人 は みんな 不自然 な 暴力 を 使う ん でしょ う 」
「 すると 殺さ れる の も 、 やはり 不自然 な 暴力 の お蔭 です ね 」
「 殺さ れる 方 は ちっとも 考え て い なかっ た 。 なるほど そう いえ ば そう だ 」
その 日 は それ で 帰っ た 。 帰っ て から も 父 の 病気 は それほど 苦 に なら なかっ た 。 先生 の いっ た 自然 に 死ぬ とか 、 不自然 の 暴力 で 死ぬ とかいう 言葉 も 、 その 場 限り の 浅い 印象 を 与え た だけ で 、 後 は 何ら の こだわり を 私 の 頭 に 残さ なかっ た 。 私 は 今 まで 幾度 か 手 を 着けよ う として は 手 を 引っ込め た 卒業 論文 を 、 いよいよ 本式 に 書き 始め なけれ ば なら ない と 思い出し た 。
その 年 の 六月 に 卒業 する はず の 私 は 、 ぜひとも この 論文 を 成 規 通り 四月 いっぱい に 書き上げ て しまわ なけれ ば なら なかっ た 。 二 、 三 、 四 と 指 を 折っ て 余る 時日 を 勘定 し て 見 た 時 、 私 は 少し 自分 の 度胸 を 疑っ た 。 他 の もの は よほど 前 から 材料 を 蒐 め たり 、 ノート を 溜め たり し て 、 余所目 に も 忙し そう に 見える のに 、 私 だけ は まだ 何 に も 手 を 着け ず に い た 。 私 に は ただ 年 が 改まっ たら 大いに やろ う という 決心 だけ が あっ た 。 私 は その 決心 で やり 出し た 。 そうして 忽ち 動け なく なっ た 。 今 まで 大きな 問題 を 空 に 描い て 、 骨組み だけ は ほぼ でき 上っ て いる くらい に 考え て い た 私 は 、 頭 を 抑え て 悩み 始め た 。 私 は それ から 論文 の 問題 を 小さく し た 。 そうして 練り上げ た 思想 を 系統的 に 纏める 手数 を 省く ため に 、 ただ 書物 の 中 に ある 材料 を 並べ て 、 それ に 相当 な 結論 を ちょっと 付け加える 事 に し た 。
私 の 選択 し た 問題 は 先生 の 専門 と 縁故 の 近い もの で あっ た 。 私 が かつて その 選択 について 先生 の 意見 を 尋ね た 時 、 先生 は 好い でしょ う と いっ た 。 狼狽 し た 気味 の 私 は 、 早速 先生 の 所 へ 出掛け て 、 私 の 読ま なけれ ば なら ない 参考 書 を 聞い た 。 先生 は 自分 の 知っ て いる 限り の 知識 を 、 快く 私 に 与え て くれ た 上 に 、 必要 の 書物 を 、 二 、 三 冊 貸そ う と いっ た 。 しかし 先生 は この 点 について 毫も 私 を 指導 する 任 に 当ろ う と し なかっ た 。
「 近頃 は あんまり 書物 を 読ま ない から 、 新しい 事 は 知り ませ ん よ 。 学校 の 先生 に 聞い た 方 が 好い でしょ う 」
先生 は 一時 非常 の 読書 家 で あっ た が 、 その後 どういう 訳 か 、 前 ほど この 方面 に 興味 が 働か なく なっ た よう だ と 、 かつて 奥さん から 聞い た 事 が ある の を 、 私 は その 時 ふと 思い出し た 。 私 は 論文 を よそ に し て 、 そぞろ に 口 を 開い た 。
「 先生 は なぜ 元 の よう に 書物 に 興味 を もち 得 ない ん です か 」
「 なぜ と いう 訳 も あり ませ ん が 。 … … つまり いくら 本 を 読ん で も それほど えらく なら ない と 思う せい でしょ う 。 それから … … 」
「 それから 、 まだ ある ん です か 」
「 まだ ある と いう ほど の 理由 で も ない が 、 以前 はね 、 人 の 前 へ 出 たり 、 人 に 聞か れ たり し て 知ら ない と 恥 の よう に きまり が 悪かっ た もの だ が 、 近頃 は 知ら ない という 事 が 、 それほど の 恥 で ない よう に 見え 出し た もの だ から 、 つい 無理 に も本 を 読ん で みよ う という 元気 が 出 なく なっ た の でしょ う 。 まあ 早く いえ ば 老い込ん だ の です 」
先生 の 言葉 は むしろ 平静 で あっ た 。 世間 に 背中 を 向け た 人 の 苦味 を 帯び て い なかっ た だけ に 、 私 に は それほど の 手応え も なかっ た 。 私 は 先生 を 老い込ん だ と も 思わ ない 代り に 、 偉い とも 感心 せ ず に 帰っ た 。
それ から の 私 は ほとんど 論文 に 祟ら れ た 精神病 者 の よう に 眼 を 赤く し て 苦しん だ 。 私 は 一 年 前 に 卒業 し た 友達 について 、 色々 様子 を 聞い て み たり し た 。 その うち の 一 人 は 締切 の 日 に 車 で 事務所 へ 馳 け つけ て 漸く 間に合わ せ た と いっ た 。 他 の 一 人 は 五 時 を 十 五 分 ほど 後らし て 持っ て 行っ た ため 、 危く 跳ね 付け られよ う と し た ところ を 、 主任 教授 の 好意 で やっと 受理 し て もらっ た と いっ た 。 私 は 不安 を 感ずる と共に 度胸 を 据え た 。 毎日 机 の 前 で 精根 の つづく 限り 働い た 。 で なけれ ば 、 薄暗い 書庫 に は いっ て 、 高い 本棚 の あちら こちら を 見廻し た 。 私 の 眼 は 好事家 が 骨董 でも 掘り出す 時 の よう に 背 表紙 の 金 文字 を あさっ た 。
梅 が 咲く に つけ て 寒い 風 は 段々 向 を 南 へ 更 えて 行っ た 。 それ が 一 仕切 経つ と 、 桜 の 噂 が ちらほら 私 の 耳 に 聞こえ 出し た 。 それでも 私 は 馬車馬 の よう に 正面 ばかり 見 て 、 論文 に 鞭 うた れ た 。 私 は ついに 四月 の 下旬 が 来 て 、 やっと 予定 通り の もの を 書き上げる まで 、 先生 の 敷居 を 跨が なかっ た 。
私 の 自由 に なっ た の は 、 八重桜 の 散っ た 枝 に いつしか 青い 葉 が 霞む よう に 伸び 始める 初夏 の 季節 で あっ た 。 私 は 籠 を 抜け出し た 小鳥 の 心 を もっ て 、 広い 天地 を 一目 に 見渡し ながら 、 自由 に 羽 搏 き を し た 。 私 は すぐ 先生 の 家 へ 行っ た 。 枳殻 の 垣 が 黒ずん だ 枝 の 上 に 、 萌 る よう な 芽 を 吹い て い たり 、 柘榴 の 枯れ た 幹 から 、 つやつや しい 茶褐色 の 葉 が 、 柔らか そう に 日光 を 映し て い たり する の が 、 道 々 私 の 眼 を 引き付け た 。 私 は 生れ て 初めて そんな もの を 見る よう な 珍し さ を 覚え た 。
先生 は 嬉し そう な 私 の 顔 を 見 て 、 「 もう 論文 は 片付い た ん です か 、 結構 です ね 」 と いっ た 。 私 は 「 お蔭 で ようやく 済み まし た 。 もう 何 に も する 事 は あり ませ ん 」 と いっ た 。
実際 その 時 の 私 は 、 自分 の なす べき すべて の 仕事 が すでに 結 了 し て 、 これから 先 は 威張っ て 遊ん で い て も 構わ ない よう な 晴やか な 心持 で い た 。 私 は 書き上げ た 自分 の 論文 に対して 充分 の 自信 と 満足 を もっ て い た 。 私 は 先生 の 前 で 、 しきりに その 内容 を 喋々 し た 。 先生 は いつも の 調子 で 、 「 なるほど 」 とか 、 「 そう です か 」 とか いっ て くれ た が 、 それ 以上 の 批評 は 少し も 加え なかっ た 。 私 は 物足りない と いう より も 、 聊か 拍子抜け の 気味 で あっ た 。 それでも その 日 私 の 気力 は 、 因循 らしく 見える 先生 の 態度 に 逆襲 を 試みる ほど に 生々 し て い た 。 私 は 青く 蘇生 ろう と する 大きな 自然 の 中 に 、 先生 を 誘い出そ う と し た 。
「 先生 どこ か へ 散歩 し ましょ う 。 外 へ 出る と 大変 好い 心持 です 」
「 どこ へ 」
私 は どこ でも 構わ なかっ た 。 ただ 先生 を 伴 れ て 郊外 へ 出 たかっ た 。
一 時間 の 後 、 先生 と 私 は 目的 どおり 市 を 離れ て 、 村 とも 町 とも 区別 の 付か ない 静か な 所 を 宛 も なく 歩い た 。 私 は かなめ の 垣 から 若い 柔らかい 葉 を ※ ぎ 取っ て 芝 笛 を 鳴らし た 。 ある 鹿児島 人 を 友達 に もっ て 、 その 人 の 真似 を し つつ 自然 に 習い 覚え た 私 は 、 この 芝 笛 という もの を 鳴らす 事 が 上手 で あっ た 。 私 が 得意 に それ を 吹き つづける と 、 先生 は 知らん顔 を し て よそ を 向い て 歩い た 。
やがて 若葉 に 鎖 ざさ れ た よう に 蓊欝 し た 小高い 一 構え の 下 に 細い 路 が 開け た 。 門 の 柱 に 打ち付け た 標札 に 何 々 園 と ある ので 、 その 個人 の 邸宅 で ない 事 が すぐ 知れ た 。 先生 は だらだら 上り に なっ て いる 入口 を 眺め て 、 「 はいっ て みよ う か 」 と いっ た 。 私 は すぐ 「 植木 屋 です ね 」 と 答え た 。
植 込 の 中 を 一 うねり し て 奥 へ 上る と 左側 に 家 が あっ た 。 明け放っ た 障子 の 内 は がらん として 人 の 影 も 見え なかっ た 。 ただ 軒先 に 据え た 大きな 鉢 の 中 に 飼っ て ある 金魚 が 動い て い た 。
「 静か だ ね 。 断わら ず に は いっ て も 構わ ない だろ う か 」
「 構わ ない でしょ う 」
二 人 は また 奥 の 方 へ 進ん だ 。 しかし そこ に も 人影 は 見え なかっ た 。 躑躅 が 燃える よう に 咲き乱れ て い た 。 先生 は その うち で 樺色 の 丈 の 高い の を 指し て 、 「 これ は 霧島 でしょ う 」 と いっ た 。
芍薬 も 十 坪 あまり 一 面 に 植え付け られ て い た が 、 まだ 季節 が 来 ない ので 花 を 着け て いる の は 一 本 も なかっ た 。 この 芍薬 畠 の 傍 に ある 古び た 縁台 の よう な もの の 上 に 先生 は 大の字 なり に 寝 た 。 私 は その 余っ た 端 の 方 に 腰 を おろし て 烟草 を 吹かし た 。 先生 は 蒼い 透き 徹る よう な 空 を 見 て い た 。 私 は 私 を 包む 若葉 の 色 に 心 を 奪わ れ て い た 。 その 若葉 の 色 を よく よく 眺める と 、 一々 違っ て い た 。 同じ 楓 の 樹 で も 同じ 色 を 枝 に 着け て いる もの は 一つ も なかっ た 。 細い 杉 苗 の 頂 に 投げ 被せ て あっ た 先生 の 帽子 が 風 に 吹か れ て 落ち た 。
私 は すぐ その 帽子 を 取り上げ た 。 所々 に 着い て いる 赤土 を 爪 で 弾き ながら 先生 を 呼ん だ 。
「 先生 帽子 が 落ち まし た 」
「 ありがとう 」
身体 を 半分 起し て それ を 受け取っ た 先生 は 、 起きる と も 寝る と も 片付か ない その 姿勢 の まま で 、 変 な 事 を 私 に 聞い た 。
「 突然 だ が 、 君 の 家 に は 財産 が よっぽど ある ん です か 」
「 ある と いう ほど ありゃ し ませ ん 」
「 まあ どの くらい ある の か ね 。 失礼 の よう だ が 」
「 どの くらい って 、 山 と 田地 が 少し ある ぎりで 、 金 なんか まるで ない ん でしょ う 」
先生 が 私 の 家 の 経済 について 、 問い らしい 問い を 掛け た の は これ が 始め て で あっ た 。 私 の 方 は まだ 先生 の 暮し向き に関して 、 何 も 聞い た 事 が なかっ た 。 先生 と 知り合い に なっ た 始め 、 私 は 先生 が どうして 遊ん で い られる か を 疑っ た 。 その後 も この 疑い は 絶えず 私 の 胸 を 去ら なかっ た 。 しかし 私 は そんな 露骨 な 問題 を 先生 の 前 に 持ち出す の を ぶし つけ と ばかり 思っ て いつ でも 控え て い た 。 若葉 の 色 で 疲れ た 眼 を 休ま せ て い た 私 の 心 は 、 偶然 また その 疑い に 触れ た 。
「 先生 は どう な ん です 。 どの くらい の 財産 を もっ て いらっしゃる ん です か 」
「 私 は 財産 家 と 見え ます か 」
先生 は 平生 から むしろ 質素 な 服装 を し て い た 。 それ に 家内 は 小 人数 で あっ た 。 したがって 住宅 も 決して 広く は なかっ た 。 けれども その 生活 の 物質 的 に 豊か な 事 は 、 内輪 に はいり 込ま ない 私 の 眼 に さえ 明らか で あっ た 。 要するに 先生 の 暮し は 贅沢 と いえ ない まで も 、 あたじけなく 切り詰め た 無 弾力 性 の もの で は なかっ た 。
「 そう でしょ う 」 と 私 が いっ た 。
「 そりゃ その くらい の 金 は ある さ 、 けれども 決して 財産 家 じゃ あり ませ ん 。 財産 家 なら もっと 大きな 家 で も 造る さ 」
この 時 先生 は 起き 上っ て 、 縁台 の 上 に 胡坐 を かい て い た が 、 こう いい 終る と 、 竹 の 杖 の 先 で 地面 の 上 へ 円 の よう な もの を 描き 始め た 。 それ が 済む と 、 今度 は ステッキ を 突き刺す よう に 真直 に 立て た 。
「 これ でも 元 は 財産 家 な ん だ が なあ 」
先生 の 言葉 は 半分 独り言 の よう で あっ た 。 それで すぐ 後 に 尾 い て 行き 損なっ た 私 は 、 つい 黙っ て い た 。
「 これ でも 元 は 財産 家 な ん です よ 、 君 」 と いい 直し た 先生 は 、 次に 私 の 顔 を 見 て 微笑 し た 。 私 は それでも 何とも 答え なかっ た 。 むしろ 不調法 で 答え られ なかっ た の で ある 。 すると 先生 が また 問題 を 他 へ 移し た 。
「 あなた の お父さん の 病気 は その後 どう なり まし た 」
私 は 父 の 病気 について 正月 以後 何 に も 知ら なかっ た 。 月々 国 から 送っ て くれる 為替 と共に 来る 簡単 な 手紙 は 、 例 の 通り 父 の 手蹟 で あっ た が 、 病気 の 訴え は その うち に ほとんど 見当ら なかっ た 。 その 上書 体 も 確か で あっ た 。 この 種 の 病人 に 見る 顫 え が 少し も 筆 の 運び を 乱し て い なかっ た 。
「 何とも いっ て 来 ませ ん が 、 もう 好い ん でしょ う 」
「 好けれ ば 結構 だ が 、 —— 病症 が 病症 な ん だ から ね 」
「 やっぱり 駄目 です か ね 。 でも 当分 は 持ち 合っ てる ん でしょ う 。 何とも いっ て 来 ませ ん よ 」
「 そう です か 」
私 は 先生 が 私 の うち の 財産 を 聞い たり 、 私 の 父 の 病気 を 尋ね たり する の を 、 普通 の 談話 —— 胸 に 浮かん だ まま を その 通り 口 に する 、 普通 の 談話 と 思っ て 聞い て い た 。 ところが 先生 の 言葉 の 底 に は 両方 を 結び付ける 大きな 意味 が あっ た 。 先生 自身 の 経験 を 持た ない 私 は 無論 そこ に 気が付く はず が なかっ た 。
「 君 の うち に 財産 が ある なら 、 今 の うち に よく 始末 を つけ て もらっ て おか ない と いけ ない と 思う が ね 、 余計 な お世話 だ けれども 。 君 の お父さん が 達者 な うち に 、 貰う もの は ちゃんと 貰っ て おく よう に し たら どう です か 。 万一 の 事 が あっ た あと で 、 一番 面倒 の 起る の は 財産 の 問題 だ から 」
「 ええ 」
私 は 先生 の 言葉 に 大した 注意 を 払わ なかっ た 。 私 の 家庭 で そんな 心配 を し て いる もの は 、 私 に 限ら ず 、 父 に しろ 母 に しろ 、 一 人 も ない と 私 は 信じ て い た 。 その 上 先生 の いう 事 の 、 先生 として 、 あまりに 実際 的 な のに 私 は 少し 驚かさ れ た 。 しかし そこ は 年長 者 に対する 平生 の 敬意 が 私 を 無口 に し た 。
「 あなた の お父さん が 亡くなら れる の を 、 今 から 予想 し て かかる よう な 言葉 遣い を する の が 気 に 触っ たら 許し て くれ た ま え 。 しかし 人間 は 死ぬ もの だ から ね 。 どんなに 達者 な もの で も 、 いつ 死ぬ か 分ら ない もの だ から ね 」
先生 の 口気 は 珍しく 苦々しかっ た 。
「 そんな 事 を ちっとも 気 に 掛け ちゃ い ませ ん 」 と 私 は 弁解 し た 。
「 君 の 兄弟 は 何 人 でし た か ね 」 と 先生 が 聞い た 。
先生 は その 上 に 私 の 家族 の 人数 を 聞い たり 、 親類 の 有無 を 尋ね たり 、 叔父 や 叔母 の 様子 を 問い など し た 。 そうして 最後 に こう いっ た 。
「 みんな 善い 人 です か 」
「 別に 悪い 人間 と いう ほど の もの も い ない よう です 。 大抵 田舎 者 です から 」
「 田舎 者 は なぜ 悪く ない ん です か 」
私 は この 追窮 に 苦しん だ 。 しかし 先生 は 私 に 返事 を 考え させる 余裕 さえ 与え なかっ た 。
「 田舎 者 は 都会 の もの より 、 かえって 悪い くらい な もの です 。 それから 、 君 は 今 、 君 の 親戚 なぞ の 中 に 、 これ と いっ て 、 悪い 人間 は い ない よう だ と いい まし た ね 。 しかし 悪い 人間 という 一種 の 人間 が 世の中 に ある と 君 は 思っ て いる ん です か 。 そんな 鋳型 に 入れ た よう な 悪人 は 世の中 に ある はず が あり ませ ん よ 。 平生 は みんな 善人 な ん です 。 少なくとも みんな 普通 の 人間 な ん です 。 それ が 、 いざ という 間際 に 、 急 に 悪人 に 変る ん だ から 恐ろしい の です 。 だから 油断 が でき ない ん です 」
先生 の いう 事 は 、 ここ で 切れる 様子 も なかっ た 。 私 は また ここ で 何 か いおう と し た 。 すると 後ろ の 方 で 犬 が 急 に 吠え 出し た 。 先生 も 私 も 驚い て 後ろ を 振り返っ た 。
縁台 の 横 から 後部 へ 掛け て 植え付け て ある 杉 苗 の 傍 に 、 熊笹 が 三 坪 ほど 地 を 隠す よう に 茂っ て 生え て い た 。 犬 は その 顔 と 背 を 熊笹 の 上 に 現 わし て 、 盛ん に 吠え 立て た 。 そこ へ 十 ぐらい の 小 供 が 馳 け て 来 て 犬 を 叱り付け た 。 小 供 は 徽章 の 着い た 黒い 帽子 を 被っ た まま 先生 の 前 へ 廻っ て 礼 を し た 。
「 叔父さん 、 はいっ て 来る 時 、 家 に 誰 も い なかっ た かい 」 と 聞い た 。
「 誰 も い なかっ た よ 」
「 姉さん や おっかさん が 勝手 の 方 に い た のに 」
「 そう か 、 い た の かい 」
「 ああ 。 叔父さん 、 今日 は って 、 断っ て はいっ て 来る と 好かっ た のに 」
先生 は 苦笑 し た 。 懐中 から 蟇 口 を 出し て 、 五 銭 の 白銅 を 小 供 の 手 に 握ら せ た 。
「 おっかさん に そう いっ と くれ 。 少し ここ で 休ま し て 下さい って 」
小 供 は 怜悧 そう な 眼 に 笑い を 漲ら し て 、 首肯い て 見せ た 。
「 今 斥候 長 に なっ てる ところ な ん だ よ 」
小 供 は こう 断っ て 、 躑躅 の 間 を 下 の 方 へ 駈け 下り て 行っ た 。 犬 も 尻尾 を 高く 巻い て 小 供 の 後 を 追い掛け た 。 しばらく する と 同じ くらい の 年格好 の 小 供 が 二 、 三 人 、 これ も 斥候 長 の 下り て 行っ た 方 へ 駈け て いっ た 。
先生 の 談話 は 、 この 犬 と 小 供 の ため に 、 結末 まで 進行 する 事 が でき なく なっ た ので 、 私 は ついに その 要領 を 得 ない で しまっ た 。 先生 の 気 に する 財産 云々 の 掛 念 は その 時 の 私 に は 全く なかっ た 。 私 の 性質 として 、 また 私 の 境遇 から いっ て 、 その 時 の 私 に は 、 そんな 利害 の 念 に 頭 を 悩ます 余地 が なかっ た の で ある 。 考える と これ は 私 が まだ 世間 に 出 ない ため で も あり 、 また 実際 その 場 に 臨ま ない ため でも あっ たろ う が 、 とにかく 若い 私 に は なぜ か 金 の 問題 が 遠く の 方 に 見え た 。
先生 の 話 の うち で ただ 一つ 底 まで 聞き たかっ た の は 、 人間 が いざ という 間際 に 、 誰 でも 悪人 に なる という 言葉 の 意味 で あっ た 。 単なる 言葉 として は 、 これ だけ でも 私 に 解ら ない 事 は なかっ た 。 しかし 私 は この 句 について もっと 知り たかっ た 。
犬 と 小 供 が 去っ た あと 、 広い 若葉 の 園 は 再び 故 の 静か さ に 帰っ た 。 そう し て 我々 は 沈黙 に 鎖 ざさ れ た 人 の よう に しばらく 動か ず に い た 。 うるわしい 空 の 色 が その 時 次第に 光 を 失っ て 来 た 。 眼 の 前 に ある 樹 は 大概 楓 で あっ た が 、 その 枝 に 滴る よう に 吹い た 軽い 緑 の 若葉 が 、 段々 暗く なっ て 行く よう に 思わ れ た 。 遠い 往来 を 荷車 を 引い て 行く 響き が ごろごろ と 聞こえ た 。 私 は それ を 村 の 男 が 植木 か 何 か を 載せ て 縁日 へ で も 出掛ける もの と 想像 し た 。 先生 は その 音 を 聞く と 、 急 に 瞑想 から 呼 息 を 吹き返し た 人 の よう に 立ち上がっ た 。
「 もう 、 そろそろ 帰り ましょ う 。 大分 日 が 永く なっ た よう だ が 、 やっぱり こう 安閑 と し て いる うち に は 、 いつの間にか 暮れ て 行く ん だ ね 」
先生 の 背中 に は 、 さっき 縁台 の 上 に 仰向き に 寝 た 痕 が いっぱい 着い て い た 。 私 は 両手 で それ を 払い 落し た 。
「 ありがとう 。 脂 が こびり着い て やし ませ ん か 」
「 綺麗 に 落ち まし た 」
「 この 羽織 は つい 此間 拵え た ばかり なん だ よ 。 だから むやみ に 汚し て 帰る と 、 妻 に 叱ら れる から ね 。 有難う 」
二 人 は また だらだら 坂 の 中途 に ある 家 の 前 へ 来 た 。 は いる 時 に は 誰 も いる 気色 の 見え なかっ た 縁 に 、 お上 さん が 、 十 五 、 六 の 娘 を 相手 に 、 糸巻 へ 糸 を 巻き つけ て い た 。 二 人 は 大きな 金魚鉢 の 横 から 、 「 どうも お 邪魔 を し まし た 」 と 挨拶 し た 。 お上 さん は 「 いいえ お構い 申 しも 致し ませ ん で 」 と 礼 を 返し た 後 、 先刻 小 供 に やっ た 白銅 の 礼 を 述べ た 。
門口 を 出 て 二 、 三 町 来 た 時 、 私 は ついに 先生 に 向かっ て 口 を 切っ た 。
「 さきほど 先生 の いわ れ た 、 人間 は 誰 でも いざ という 間際 に 悪人 に なる ん だ という 意味 です ね 。 あれ は どういう 意味 です か 」
「 意味 と いっ て 、 深い 意味 も あり ませ ん 。 —— つまり 事実 な ん です よ 。 理屈 じゃ ない ん だ 」
「 事実 で 差支え あり ませ ん が 、 私 の 伺い たい の は 、 いざ という 間際 という 意味 な ん です 。 一体 どんな 場合 を 指す の です か 」
先生 は 笑い 出し た 。 あたかも 時機 の 過ぎ た 今 、 もう 熱心 に 説明 する 張合い が ない といった 風 に 。
「 金 さ 君 。 金 を 見る と 、 どんな 君子 で も すぐ 悪人 に なる の さ 」
私 に は 先生 の 返事 が あまりに 平凡 過ぎ て 詰ら なかっ た 。 先生 が 調子 に 乗ら ない ごとく 、 私 も 拍子抜け の 気味 で あっ た 。 私 は 澄まし て さっさと 歩き 出し た 。 いきおい 先生 は 少し 後れ がち に なっ た 。 先生 は あと から 「 おいおい 」 と 声 を 掛け た 。
「 そら 見 た まえ 」
「 何 を です か 」
「 君 の 気分 だって 、 私 の 返事 一つ で すぐ 変る じゃ ない か 」
待ち合わせる ため に 振り向い て 立ち 留まっ た 私 の 顔 を 見 て 、 先生 は こう いっ た 。
その 時 の 私 は 腹の中 で 先生 を 憎らしく 思っ た 。 肩 を 並べ て 歩き 出し て から も 、 自分 の 聞き たい 事 を わざと 聞か ず に い た 。 しかし 先生 の 方 で は 、 それ に 気が付い て い た の か 、 い ない の か 、 まるで 私 の 態度 に 拘泥 る 様子 を 見せ なかっ た 。 いつも の 通り 沈黙 がち に 落ち 付き 払っ た 歩調 を すまし て 運ん で 行く ので 、 私 は 少し 業腹 に なっ た 。 何とか いっ て 一つ 先生 を やっ 付け て み たく なっ て 来 た 。
「 先生 」
「 何 です か 」
「 先生 は さっき 少し 昂奮 なさい まし た ね 。 あの 植木 屋 の 庭 で 休ん で いる 時 に 。 私 は 先生 の 昂奮 し た の を 滅多 に 見 た 事 が ない ん です が 、 今日 は 珍しい ところ を 拝見 し た よう な 気 が し ます 」
先生 は すぐ 返事 を し なかっ た 。 私 は それ を 手応え の あっ た よう に も 思っ た 。 また 的 が 外れ た よう に も 感じ た 。 仕方 が ない から 後 は いわ ない 事 に し た 。 すると 先生 が いきなり 道 の 端 へ 寄っ て 行っ た 。 そうして 綺麗 に 刈り込ん だ 生垣 の 下 で 、 裾 を まくっ て 小便 を し た 。 私 は 先生 が 用 を 足す 間 ぼんやり そこ に 立っ て い た 。
「 やあ 失敬 」
先生 は こう いっ て また 歩き 出し た 。 私 は とうとう 先生 を やり込める 事 を 断念 し た 。 私 たち の 通る 道 は 段々 賑やか に なっ た 。 今 まで ちらほら と 見え た 広い 畠 の 斜面 や 平地 が 、 全く 眼 に 入ら ない よう に 左右 の 家並 が 揃っ て き た 。 それでも 所々 宅地 の 隅 など に 、 豌豆 の 蔓 を 竹 に からませ たり 、 金網 で 鶏 を 囲い 飼い に し たり する の が 閑静 に 眺め られ た 。 市中 から 帰る 駄馬 が 仕切り なく 擦れ違っ て 行っ た 。 こんな もの に 始終 気 を 奪 られ がち な 私 は 、 さっき まで 胸 の 中 に あっ た 問題 を どこ か へ 振り 落し て しまっ た 。 先生 が 突然 そこ へ 後戻り を し た 時 、 私 は 実際 それ を 忘れ て い た 。
「 私 は 先刻 そんなに 昂奮 し た よう に 見え た ん です か 」
「 そんなに と いう ほど で も あり ませ ん が 、 少し … … 」
「 いや 見え て も 構わ ない 。 実際 昂奮 する ん だ から 。 私 は 財産 の 事 を いう と きっと 昂奮 する ん です 。 君 に は どう 見える か 知ら ない が 、 私 は これ で 大変 執念深い 男 な ん だ から 。 人 から 受け た 屈辱 や 損害 は 、 十 年 たっ て も 二 十 年 たっ て も 忘れ やし ない ん だ から 」
先生 の 言葉 は 元 より も なお 昂奮 し て い た 。 しかし 私 の 驚い た の は 、 決して その 調子 で は なかっ た 。 むしろ 先生 の 言葉 が 私 の 耳 に 訴える 意味 そのもの で あっ た 。 先生 の 口 から こんな 自白 を 聞く の は 、 いか な 私 に も 全く の 意外 に 相違 なかっ た 。 私 は 先生 の 性質 の 特色 として 、 こんな 執着 力 を いまだ かつて 想像 し た 事 さえ なかっ た 。 私 は 先生 を もっと 弱い 人 と 信じ て い た 。 そうして その 弱く て 高い 処 に 、 私 の 懐かしみ の 根 を 置い て い た 。 一時 の 気分 で 先生 に ちょっと 盾 を 突い て みよ う と し た 私 は 、 この 言葉 の 前 に 小さく なっ た 。 先生 は こう いっ た 。
「 私 は 他 に 欺か れ た の です 。 しかも 血 の つづい た 親戚 の もの から 欺か れ た の です 。 私 は 決して それ を 忘れ ない の です 。 私 の 父 の 前 に は 善人 で あっ た らしい 彼ら は 、 父 の 死ぬ や 否や 許し がたい 不徳義 漢 に 変っ た の です 。 私 は 彼ら から 受け た 屈辱 と 損害 を 小 供 の 時 から 今日 まで 背負わ さ れ て いる 。 恐らく 死ぬ まで 背負わ さ れ 通し でしょ う 。 私 は 死ぬ まで それ を 忘れる 事 が でき ない ん だ から 。 しかし 私 は まだ 復讐 を し ず に いる 。 考える と 私 は 個人 に対する 復讐 以上 の 事 を 現に やっ て いる ん だ 。 私 は 彼ら を 憎む ばかり じゃ ない 、 彼ら が 代表 し て いる 人間 という もの を 、 一般 に 憎む 事 を 覚え た の だ 。 私 は それ で 沢山 だ と 思う 」
私 は 慰藉 の 言葉 さえ 口 へ 出せ なかっ た 。
その 日 の 談話 も ついに これ ぎりで 発展 せ ず に しまっ た 。 私 は むしろ 先生 の 態度 に 畏縮 し て 、 先 へ 進む 気 が 起ら なかっ た の で ある 。
二 人 は 市 の 外れ から 電車 に 乗っ た が 、 車内 で は ほとんど 口 を 聞か なかっ た 。 電車 を 降りる と 間もなく 別れ なけれ ば なら なかっ た 。 別れる 時 の 先生 は 、 また 変っ て い た 。 常 より は 晴やか な 調子 で 、 「 これから 六月 まで は 一番 気楽 な 時 です ね 。 ことに よる と 生涯 で 一番 気楽 かも 知れ ない 。 精出し て 遊び たまえ 」 と いっ た 。 私 は 笑っ て 帽子 を 脱 っ た 。 その 時 私 は 先生 の 顔 を 見 て 、 先生 は はたして 心 の どこ で 、 一般 の 人間 を 憎ん で いる の だろ う か と 疑っ た 。 その 眼 、 その 口 、 どこ に も 厭世 的 の 影 は 射し て い なかっ た 。
私 は 思想 上 の 問題 について 、 大いなる 利益 を 先生 から 受け た 事 を 自白 する 。 しかし 同じ 問題 について 、 利益 を 受けよ う として も 、 受け られ ない 事 が 間々 あっ た と いわ なけれ ば なら ない 。 先生 の 談話 は 時として 不得要領 に 終っ た 。 その 日 二 人 の 間 に 起っ た 郊外 の 談話 も 、 この 不得要領 の 一 例 として 私 の 胸 の 裏 に 残っ た 。
無遠慮 な 私 は 、 ある 時 ついに それ を 先生 の 前 に 打ち明け た 。 先生 は 笑っ て い た 。 私 は こう いっ た 。
「 頭 が 鈍く て 要領 を 得 ない の は 構い ませ ん が 、 ちゃんと 解っ てる くせ に 、 はっきり いっ て くれ ない の は 困り ます 」
「 私 は 何 に も 隠し て やし ませ ん 」
「 隠し て いらっしゃい ます 」
「 あなた は 私 の 思想 とか 意見 とかいう もの と 、 私 の 過去 と を 、 ごちゃごちゃ に 考え て いる ん じゃ あり ませ ん か 。 私 は 貧弱 な 思想家 です けれども 、 自分 の 頭 で 纏め 上げ た 考え を むやみ に 人 に 隠し やし ませ ん 。 隠す 必要 が ない ん だ から 。 けれども 私 の 過去 を 悉く あなた の 前 に 物語ら なく て は なら ない と なる と 、 それ は また 別 問題 に なり ます 」
「 別 問題 と は 思わ れ ませ ん 。 先生 の 過去 が 生み出し た 思想 だ から 、 私 は 重き を 置く の です 。 二つ の もの を 切り離し たら 、 私 に は ほとんど 価値 の ない もの に なり ます 。 私 は 魂 の 吹き込ま れ て い ない 人形 を 与え られ た だけ で 、 満足 は でき ない の です 」
先生 は あきれ た といった 風 に 、 私 の 顔 を 見 た 。 巻 烟草 を 持っ て い た その 手 が 少し 顫 え た 。
「 あなた は 大胆 だ 」
「 ただ 真面目 な ん です 。 真面目 に 人生 から 教訓 を 受け たい の です 」
「 私 の 過去 を 訐 い て も です か 」
訐 く という 言葉 が 、 突然 恐ろしい 響き を もっ て 、 私 の 耳 を 打っ た 。 私 は 今 私 の 前 に 坐っ て いる の が 、 一 人 の 罪人 で あっ て 、 不断 から 尊敬 し て いる 先生 で ない よう な 気 が し た 。 先生 の 顔 は 蒼かっ た 。
「 あなた は 本当に 真面目 な ん です か 」 と 先生 が 念 を 押し た 。 「 私 は 過去 の 因果 で 、 人 を 疑り つけ て いる 。 だから 実は あなた も 疑っ て いる 。 しかし どうも あなた だけ は 疑り たく ない 。 あなた は 疑る に は あまりに 単純 すぎる よう だ 。 私 は 死ぬ 前 に たった 一 人 で 好い から 、 他 を 信用 し て 死に たい と 思っ て いる 。 あなた は その たった 一 人 に なれ ます か 。 なっ て くれ ます か 。 あなた は はら の 底 から 真面目 です か 」
「 もし 私 の 命 が 真面目 な もの なら 、 私 の 今 いっ た 事 も 真面目 です 」
私 の 声 は 顫 え た 。
「 よろしい 」 と 先生 が いっ た 。 「 話し ましょ う 。 私 の 過去 を 残ら ず 、 あなた に 話し て 上げ ましょ う 。 その 代り … … 。 いや それ は 構わ ない 。 しかし 私 の 過去 は あなた に 取っ て それほど 有益 で ない かも 知れ ませ ん よ 。 聞か ない 方 が 増 かも 知れ ませ ん よ 。 それから 、 —— 今 は 話せ ない ん だ から 、 その つもり で い て 下さい 。 適当 の 時機 が 来 なくっ ちゃ 話さ ない ん だ から 」
私 は 下宿 へ 帰っ て から も 一種 の 圧迫 を 感じ た 。
私 の 論文 は 自分 が 評価 し て い た ほど に 、 教授 の 眼 に は よく 見え なかっ た らしい 。 それでも 私 は 予定 通り 及第 し た 。 卒業 式 の 日 、 私 は 黴臭く なっ た 古い 冬 服 を 行李 の 中 から 出し て 着 た 。 式場 に ならぶ と 、 どれ も これ も みな 暑 そう な 顔 ばかり で あっ た 。 私 は 風 の 通ら ない 厚 羅紗 の 下 に 密封 さ れ た 自分 の 身体 を 持て余し た 。 しばらく 立っ て いる うち に 手 に 持っ た ハンケチ が ぐしょぐしょ に なっ た 。
私 は 式 が 済む と すぐ 帰っ て 裸体 に なっ た 。 下宿 の 二 階 の 窓 を あけ て 、 遠眼鏡 の よう に ぐるぐる 巻い た 卒業 証書 の 穴 から 、 見える だけ の 世の中 を 見渡し た 。 それから その 卒業 証書 を 机 の 上 に 放り出し た 。 そうして 大の字 なり に なっ て 、 室 の 真中 に 寝そべっ た 。 私 は 寝 ながら 自分 の 過去 を 顧み た 。 また 自分 の 未来 を 想像 し た 。 すると その間 に 立っ て 一区切り を 付け て いる この 卒業 証書 なる もの が 、 意味 の ある よう な 、 また 意味 の ない よう な 変 な 紙 に 思わ れ た 。
私 は その 晩 先生 の 家 へ 御馳走 に 招か れ て 行っ た 。 これ は もし 卒業 し たら その 日 の 晩餐 は よそ で 喰わ ず に 、 先生 の 食卓 で 済ます という 前 から の 約束 で あっ た 。
食卓 は 約束 通り 座敷 の 縁 近く に 据え られ て あっ た 。 模様 の 織り 出さ れ た 厚い 糊 の 硬い 卓 布 が 美しく かつ 清らか に 電 燈 の 光 を 射 返し て い た 。 先生 の うち で 飯 を 食う と 、 きっと この 西洋 料理 店 に 見る よう な 白い リンネル の 上 に 、 箸 や 茶碗 が 置か れ た 。 そう し て それ が 必ず 洗濯 したて の 真白 な もの に 限ら れ て い た 。
「 カラ や カフス と 同じ 事 さ 。 汚れ た の を 用いる くらい なら 、 一層 始め から 色 の 着い た もの を 使う が 好い 。 白けれ ば 純白 で なくっ ちゃ 」
こう いわ れ て みる と 、 なるほど 先生 は 潔癖 で あっ た 。 書斎 など も 実に 整然と 片付い て い た 。 無頓着 な 私 に は 、 先生 の そういう 特色 が 折々 著しく 眼 に 留まっ た 。
「 先生 は 癇 性 です ね 」 と かつて 奥さん に 告げ た 時 、 奥さん は 「 でも 着物 など は 、 それほど 気 に し ない よう です よ 」 と 答え た 事 が あっ た 。 それ を 傍 に 聞い て い た 先生 は 、 「 本当 を いう と 、 私 は 精神 的 に 癇 性 な ん です 。 それで 始終 苦しい ん です 。 考える と 実に 馬鹿馬鹿しい 性分 だ 」 と いっ て 笑っ た 。 精神 的 に 癇 性 という 意味 は 、 俗 に いう 神経質 という 意味 か 、 または 倫理 的 に 潔癖 だ という 意味 か 、 私 に は 解ら なかっ た 。 奥さん に も 能 く 通じ ない らしかっ た 。
その 晩 私 は 先生 と 向い合せ に 、 例 の 白い 卓 布 の 前 に 坐っ た 。 奥さん は 二 人 を 左右 に 置い て 、 独り 庭 の 方 を 正面 に し て 席 を 占め た 。
「 お 目 出 とう 」 と いっ て 、 先生 が 私 の ため に 杯 を 上げ て くれ た 。 私 は この 盃 に対して それほど 嬉しい 気 を 起さ なかっ た 。 無論 私 自身 の 心 が この 言葉 に 反響 する よう に 、 飛び立つ 嬉し さ を もっ て い なかっ た の が 、 一つ の 源 因 で あっ た 。 けれども 先生 の いい 方 も 決して 私 の 嬉し さ を 唆 る 浮 々 し た 調子 を 帯び て い なかっ た 。 先生 は 笑っ て 杯 を 上げ た 。 私 は その 笑い の うち に 、 些 とも 意地 の 悪い アイロニー を 認め なかっ た 。 同時に 目 出 たい という 真情 も 汲み取る 事 が でき なかっ た 。 先生 の 笑い は 、 「 世間 は こんな 場合 に よく お 目出 とう と いい た がる もの です ね 」 と 私 に 物語っ て い た 。
奥さん は 私 に 「 結構 ね 。 さぞ お父さん や お母さん は お 喜び でしょ う 」 と いっ て くれ た 。 私 は 突然 病気 の 父 の 事 を 考え た 。 早く あの 卒業 証書 を 持っ て 行っ て 見せ て やろ う と 思っ た 。
「 先生 の 卒業 証書 は どう し まし た 」 と 私 が 聞い た 。
「 どう し た か ね 。 —— まだ どこ か に しまっ て あっ た か ね 」 と 先生 が 奥さん に 聞い た 。
「 ええ 、 たしか しまっ て ある はず です が 」
卒業 証書 の 在処 は 二 人 と も よく 知ら なかっ た 。
飯 に なっ た 時 、 奥さん は 傍 に 坐っ て いる 下女 を 次 へ 立た せ て 、 自分 で 給仕 の 役 を つとめ た 。 これ が 表立た ない 客 に対する 先生 の 家 の 仕来り らしかっ た 。 始め の 一 、 二 回 は 私 も 窮屈 を 感じ た が 、 度数 の 重なる につけ 、 茶碗 を 奥さん の 前 へ 出す の が 、 何 でも なくなっ た 。
「 お茶 ? ご飯 ? ずいぶん よく 食べる の ね 」
奥さん の 方 でも 思い切っ て 遠慮 の ない 事 を いう こと が あっ た 。 しかし その 日 は 、 時候 が 時候 な ので 、 そんなに 調 戯 われる ほど 食欲 が 進ま なかっ た 。
「 もう おしまい 。 あなた 近頃 大変 小食 に なっ た の ね 」
「 小食 に なっ た ん じゃ あり ませ ん 。 暑い ん で 食わ れ ない ん です 」
奥さん は 下女 を 呼ん で 食卓 を 片付け させ た 後 へ 、 改めて アイスクリーム と 水菓子 を 運ば せ た 。
「 これ は 宅 で 拵え た の よ 」
用 の ない 奥さん に は 、 手製 の アイスクリーム を 客 に 振舞う だけ の 余裕 が ある と 見え た 。 私 は それ を 二 杯 更 え て もらっ た 。
「 君 も いよいよ 卒業 し た が 、 これから 何 を する 気 です か 」 と 先生 が 聞い た 。 先生 は 半分 縁側 の 方 へ 席 を ずらし て 、 敷居 際 で 背中 を 障子 に 靠 たせ て い た 。
私 に は ただ 卒業 し た という 自覚 が ある だけ で 、 これから 何 を しよ う という 目的 も なかっ た 。 返事 に ためらっ て いる 私 を 見 た 時 、 奥さん は 「 教師 ? 」 と 聞い た 。 それ に も 答え ず に いる と 、 今度 は 、 「 じゃ お 役人 ? 」 と また 聞か れ た 。 私 も 先生 も 笑い 出し た 。
「 本当 いう と 、 まだ 何 を する 考え も ない ん です 。 実は 職業 という もの について 、 全く 考え た 事 が ない くらい な ん です から 。 だ いち どれ が 善い か 、 どれ が 悪い か 、 自分 が やっ て 見 た 上 で ない と 解ら ない ん だ から 、 選択 に 困る 訳 だ と 思い ます 」
「 それ も そう ね 。 けれども あなた は 必竟 財産 が ある から そんな 呑気 な 事 を いっ て い られる の よ 。 これ が 困る 人 で ご覧 なさい 。 なかなか あなた の よう に 落ち 付い ちゃ い られ ない から 」
私 の 友達 に は 卒業 し ない 前 から 、 中学 教師 の 口 を 探し て いる 人 が あっ た 。 私 は 腹の中 で 奥さん の いう 事実 を 認め た 。 しかし こう いっ た 。
「 少し 先生 に かぶれ た ん でしょ う 」
「 碌 な かぶれ 方 を し て 下さら ない の ね 」
先生 は 苦笑 し た 。
「 かぶれ て も 構わ ない から 、 その 代り この間 いっ た 通り 、 お父さん の 生き てる うち に 、 相当 の 財産 を 分け て もらっ て お 置き なさい 。 それ で ない と 決して 油断 は なら ない 」
私 は 先生 と いっしょ に 、 郊外 の 植木 屋 の 広い 庭 の 奥 で 話し た 、 あの 躑躅 の 咲い て いる 五月 の 初め を 思い出し た 。 あの 時 帰り 途 に 、 先生 が 昂奮 し た 語気 で 、 私 に 物語っ た 強い 言葉 を 、 再び 耳 の 底 で 繰り返し た 。 それ は 強い ばかり で なく 、 むしろ 凄い 言葉 で あっ た 。 けれども 事実 を 知ら ない 私 に は 同時に 徹底 し ない 言葉 でも あっ た 。
「 奥さん 、 お 宅 の 財産 は よ ッ ぽ ど ある ん です か 」
「 何 だって そんな 事 を お 聞き に なる の 」
「 先生 に 聞い て も 教え て 下さら ない から 」
奥さん は 笑い ながら 先生 の 顔 を 見 た 。
「 教え て 上げる ほど ない から でしょ う 」
「 でも どの くらい あっ たら 先生 の よう に し て い られる か 、 宅 へ 帰っ て 一つ 父 に 談判 する 時 の 参考 に し ます から 聞かし て 下さい 」
先生 は 庭 の 方 を 向い て 、 澄まし て 烟草 を 吹かし て い た 。 相手 は 自然 奥さん で なけれ ば なら なかっ た 。
「 どの くらい って ほど ありゃ し ませ ん わ 。 まあ こうして どう かこう か 暮し て ゆか れる だけ よ 、 あなた 。 —— そりゃ どう でも 宜 い として 、 あなた は これから 何 か 為さら なくっ ちゃ 本当に いけ ませ ん よ 。 先生 の よう に ごろごろ ばかり し て い ちゃ … … 」
「 ごろ ごろ ばかり し て いや し ない さ 」
先生 は ちょっと 顔 だけ 向け 直し て 、 奥さん の 言葉 を 否定 し た 。
私 は その 夜 十 時 過ぎ に 先生 の 家 を 辞し た 。 二 、 三 日 うち に 帰国 する はず に なっ て い た ので 、 座 を 立つ 前 に 私 は ちょっと 暇乞い の 言葉 を 述べ た 。
「 また 当分 お目にかかれ ませ ん から 」
「 九月 に は 出 て いらっしゃる ん でしょ う ね 」
私 は もう 卒業 し た の だ から 、 必ず 九月 に 出 て 来る 必要 も なかっ た 。 しかし 暑い 盛り の 八月 を 東京 まで 来 て 送ろ う と も 考え て い なかっ た 。 私 に は 位置 を 求める ため の 貴重 な 時間 という もの が なかっ た 。
「 まあ 九月 頃 に なる でしょ う 」
「 じゃ ずいぶん ご 機嫌 よう 。 私 たち も この 夏 は ことに よる と どこ か へ 行く かも 知れ ない の よ 。 ずいぶん 暑 そう だ から 。 行っ たら また 絵 端書 でも 送っ て 上げ ましょ う 」
「 どちら の 見当 です 。 もし いらっしゃる と すれ ば 」
先生 は この 問答 を にやにや 笑っ て 聞い て い た 。
「 何 まだ 行く とも 行か ない とも 極めて いや し ない ん です 」
席 を 立と う と し た 時 、 先生 は 急 に 私 を つら まえ て 、 「 時に お父さん の 病気 は どう な ん です 」 と 聞い た 。 私 は 父 の 健康 について ほとんど 知る ところ が なかっ た 。 何とも いっ て 来 ない 以上 、 悪く は ない の だろ う くらい に 考え て い た 。
「 そんなに 容易く 考え られる 病気 じゃ あり ませ ん よ 。 尿毒症 が 出る と 、 もう 駄目 な ん だ から 」
尿毒症 という 言葉 も 意味 も 私 に は 解ら なかっ た 。 この 前 の 冬休み に 国 で 医者 と 会見 し た 時 に 、 私 は そんな 術語 を まるで 聞か なかっ た 。
「 本当に 大事 に し て お 上げ なさい よ 」 と 奥さん も いっ た 。 「 毒 が 脳 へ 廻る よう に なる と 、 もう それ っきり よ 、 あなた 。 笑い事 じゃ ない わ 」
無 経験 な 私 は 気味 を 悪 がり ながら も 、 にやにや し て い た 。
「 どうせ 助から ない 病気 だ そう です から 、 いくら 心配 し た って 仕方 が あり ませ ん 」
「 そう 思い切り よく 考えれ ば 、 それ まで です けれども 」
奥さん は 昔 同じ 病気 で 死ん だ という 自分 の お母さん の 事 で も 憶 い 出し た の か 、 沈ん だ 調子 で こう いっ た なり 下 を 向い た 。 私 も 父 の 運命 が 本当に 気の毒 に なっ た 。
すると 先生 が 突然 奥さん の 方 を 向い た 。
「 静 、 お前 は おれ より 先 へ 死ぬ だろ う か ね 」
「 なぜ 」
「 なぜ で も ない 、 ただ 聞い て みる の さ 。 それとも 己 の 方 が お前 より 前 に 片付く か な 。 大抵 世間 じゃ 旦那 が 先 で 、 細君 が 後 へ 残る の が 当り前 の よう に なっ てる ね 」
「 そう 極 っ た 訳 で も ない わ 。 けれども 男 の 方 は どうしても 、 そら 年 が 上 でしょ う 」
「 だから 先 へ 死ぬ という 理屈 な の か ね 。 すると 己 も お前 より 先 に あの世 へ 行か なくっ ちゃ なら ない 事 に なる ね 」
「 あなた は 特別 よ 」
「 そう か ね 」
「 だって 丈夫 な ん です もの 。 ほとんど 煩っ た 例 が ない じゃ あり ませ ん か 。 そりゃ どう し た って 私 の 方 が 先 だ わ 」
「 先 か な 」
「 え 、 きっと 先 よ 」
先生 は 私 の 顔 を 見 た 。 私 は 笑っ た 。
「 しかし もし おれ の 方 が 先 へ 行く と する ね 。 そうしたら お前 どう する 」
「 どう する って … … 」
奥さん は そこ で 口 籠っ た 。 先生 の 死 に対する 想像 的 な 悲哀 が 、 ちょっと 奥さん の 胸 を 襲っ たら しかっ た 。 けれども 再び 顔 を あげ た 時 は 、 もう 気分 を 更 え て い た 。
「 どう する って 、 仕方 が ない わ 、 ねえ あなた 。 老少不定 っていう くらい だ から 」
奥さん は ことさら に 私 の 方 を 見 て 笑 談 らしく こう いっ た 。
私 は 立て掛け た 腰 を また おろし て 、 話 の 区切り の 付く まで 二 人 の 相手 に なっ て い た 。
「 君 は どう 思い ます 」 と 先生 が 聞い た 。
先生 が 先 へ 死ぬ か 、 奥さん が 早く 亡くなる か 、 固 より 私 に 判断 の つく べき 問題 で は なかっ た 。 私 は ただ 笑っ て い た 。
「 寿命 は 分り ませ ん ね 。 私 に も 」
「 これ ばかり は 本当に 寿命 です から ね 。 生れ た 時 に ちゃんと 極 っ た 年数 を もらっ て 来る ん だ から 仕方 が ない わ 。 先生 の お父さん や お母さん なんか 、 ほとんど 同じ よ 、 あなた 、 亡くなっ た の が 」
「 亡くなら れ た 日 が です か 」
「 まさか 日 まで 同じ じゃ ない けれども 。 でも まあ 同じ よ 。 だって 続い て 亡くなっ ちまっ た ん です もの 」
この 知識 は 私 にとって 新しい もの で あっ た 。 私 は 不思議 に 思っ た 。
「 どうして そう 一 度 に 死な れ た ん です か 」
奥さん は 私 の 問い に 答えよ う と し た 。 先生 は それ を 遮っ た 。
「 そんな 話 は お 止し よ 。 つまらない から 」
先生 は 手 に 持っ た 団扇 を わざと ばたばた いわ せ た 。 そうして また 奥さん を 顧み た 。
「 静 、 おれ が 死ん だら この 家 を お前 に やろ う 」
奥さん は 笑い 出し た 。
「 ついで に 地面 も 下さい よ 」
「 地面 は 他 の もの だ から 仕方 が ない 。 その 代り おれ の 持っ てる もの は 皆 なお 前 に やる よ 」
「 どうも 有難う 。 けれども 横文字 の 本 なんか 貰っ て も 仕様 が ない わ ね 」
「 古本屋 に 売る さ 」
「 売れ ば いくら ぐらい に なっ て 」
先生 は いくら と も いわ なかっ た 。 けれども 先生 の 話 は 、 容易 に 自分 の 死 という 遠い 問題 を 離れ なかっ た 。 そうして その 死 は 必ず 奥さん の 前 に 起る もの と 仮定 さ れ て い た 。 奥さん も 最初 の うち は 、 わざと たわい の ない 受け答え を し て いる らしく 見え た 。 それ が いつの間にか 、 感傷 的 な 女 の 心 を 重苦しく し た 。
「 おれ が 死ん だら 、 おれ が 死ん だら って 、 まあ 何 遍 おっしゃる の 。 後生 だ から もう 好い 加減 に し て 、 おれ が 死ん だら は 止し て 頂戴 。 縁 喜 で も ない 。 あなた が 死ん だら 、 何でも あなた の 思い 通り に し て 上げる から 、 それ で 好い じゃ あり ませ ん か 」
先生 は 庭 の 方 を 向い て 笑っ た 。 しかし それ ぎり 奥さん の 厭 がる 事 を いわ なく なっ た 。 私 も あまり 長く なる ので 、 すぐ 席 を 立っ た 。 先生 と 奥さん は 玄関 まで 送っ て 出 た 。
「 ご 病人 を お 大事 に 」 と 奥さん が いっ た 。
「 また 九月 に 」 と 先生 が いっ た 。
私 は 挨拶 を し て 格子 の 外 へ 足 を 踏み出し た 。 玄関 と 門 の 間 に ある こんもり し た 木犀 の 一 株 が 、 私 の 行手 を 塞ぐ よう に 、 夜陰 の うち に 枝 を 張っ て い た 。 私 は 二 、 三 歩 動き出し ながら 、 黒ずん だ 葉 に 被わ れ て いる その 梢 を 見 て 、 来 たる べき 秋 の 花 と 香 を 想い 浮べ た 。 私 は 先生 の 宅 と この 木犀 と を 、 以前 から 心 の うち で 、 離す 事 の でき ない もの の よう に 、 いっしょ に 記憶 し て い た 。 私 が 偶然 その 樹 の 前 に 立っ て 、 再び この 宅 の 玄関 を 跨ぐ べき 次 の 秋 に 思い を 馳せ た 時 、 今 まで 格子 の 間 から 射し て い た 玄関 の 電 燈 が ふっと 消え た 。 先生 夫婦 は それ ぎり 奥 へ はいっ たら しかっ た 。 私 は 一 人 暗い 表 へ 出 た 。
私 は すぐ 下宿 へ は 戻ら なかっ た 。 国 へ 帰る 前 に 調える 買物 も あっ た し 、 ご馳走 を 詰め た 胃袋 に くつろぎ を 与える 必要 も あっ た ので 、 ただ 賑やか な 町 の 方 へ 歩い て 行っ た 。 町 は まだ 宵の口 で あっ た 。 用事 も な さ そう な 男女 が ぞろぞろ 動く 中 に 、 私 は 今日 私 と いっしょ に 卒業 し た なにがし に 会っ た 。 彼 は 私 を 無理やり に ある 酒場 へ 連れ込ん だ 。 私 は そこ で 麦酒 の 泡 の よう な 彼 の 気 ※ を 聞かさ れ た 。 私 の 下宿 へ 帰っ た の は 十 二 時 過ぎ で あっ た 。
私 は その 翌日 も 暑 さ を 冒し て 、 頼ま れ もの を 買い 集め て 歩い た 。 手紙 で 注文 を 受け た 時 は 何 で も ない よう に 考え て い た の が 、 いざ と なる と 大変 臆 劫 に 感ぜ られ た 。 私 は 電車 の 中 で 汗 を 拭き ながら 、 他 の 時間 と 手数 に 気の毒 という 観念 を まるで もっ て い ない 田舎 者 を 憎らしく 思っ た 。
私 は この 一 夏 を 無為 に 過ごす 気 は なかっ た 。 国 へ 帰っ て から の 日程 という よう な もの を あらかじめ 作っ て おい た ので 、 それ を 履行 する に 必要 な 書物 も 手 に 入れ なけれ ば なら なかっ た 。 私 は 半日 を 丸善 の 二 階 で 潰す 覚悟 で い た 。 私 は 自分 に 関係 の 深い 部門 の 書籍 棚 の 前 に 立っ て 、 隅 から 隅 まで 一 冊 ずつ 点検 し て 行っ た 。
買物 の うち で 一番 私 を 困ら せ た の は 女 の 半襟 で あっ た 。 小僧 に いう と 、 いくらでも 出し て は くれる が 、 さて どれ を 選ん で いい の か 、 買う 段 に なっ て は 、 ただ 迷う だけ で あっ た 。 その 上 価 が 極めて 不定 で あっ た 。 安かろ う と 思っ て 聞く と 、 非常 に 高かっ たり 、 高かろ う と 考え て 、 聞か ず に いる と 、 かえって 大変 安かっ たり し た 。 あるいは いくら 比べ て 見 て も 、 どこ から 価格 の 差違 が 出る の か 見当 の 付か ない の も あっ た 。 私 は 全く 弱ら せ られ た 。 そうして 心 の うち で 、 なぜ 先生 の 奥さん を 煩わさ なかっ た か を 悔い た 。
私 は 鞄 を 買っ た 。 無論 和製 の 下等 な 品 に 過ぎ なかっ た が 、 それでも 金具 や など が ぴかぴか し て いる ので 、 田舎 もの を 威嚇 かす に は 充分 で あっ た 。 この 鞄 を 買う という 事 は 、 私 の 母 の 注文 で あっ た 。 卒業 し たら 新しい 鞄 を 買っ て 、 その なか に 一切 の 土産 もの を 入れ て 帰る よう に と 、 わざわざ 手紙 の 中 に 書い て あっ た 。 私 は その 文句 を 読ん だ 時 に 笑い 出し た 。 私 に は 母 の 料簡 が 解ら ない と いう より も 、 その 言葉 が 一種 の 滑稽 として 訴え た の で ある 。
私 は 暇乞い を する 時 先生 夫婦 に 述べ た 通り 、 それ から 三 日 目 の 汽車 で 東京 を 立っ て 国 へ 帰っ た 。 この 冬 以来 父 の 病気 について 先生 から 色々 の 注意 を 受け た 私 は 、 一番 心配 し なけれ ば なら ない 地位 に あり ながら 、 どういう もの か 、 それ が 大して 苦 に なら なかっ た 。 私 は むしろ 父 が い なく なっ た あと の 母 を 想像 し て 気の毒 に 思っ た 。 その くらい だ から 私 は 心 の どこ か で 、 父 は すでに 亡くなる べき もの と 覚悟 し て い た に 違い なかっ た 。 九州 に いる 兄 へ やっ た 手紙 の なか に も 、 私 は 父 の 到底 故 の よう な 健康 体 に なる 見込み の ない 事 を 述べ た 。 一 度 など は 職務 の 都合 も あろ う が 、 できる なら 繰り合せ て この 夏 ぐらい 一 度 顔 だけ でも 見 に 帰っ たら どう だ と まで 書い た 。 その 上 年寄 が 二 人 ぎりで 田舎 に いる の は 定め て 心細い だろ う 、 我々 も 子 として 遺憾 の 至り で ある という よう な 感傷 的 な 文句 さえ 使っ た 。 私 は 実際 心 に 浮ぶ まま を 書い た 。 けれども 書い た あと の 気分 は 書い た 時 と は 違っ て い た 。
私 は そうした 矛盾 を 汽車 の 中 で 考え た 。 考え て いる うち に 自分 が 自分 に 気 の 変り やすい 軽 薄もの の よう に 思わ れ て 来 た 。 私 は 不愉快 に なっ た 。 私 は また 先生 夫婦 の 事 を 想い 浮べ た 。 ことに 二 、 三 日 前 晩食 に 呼ば れ た 時 の 会話 を 憶 い 出し た 。
「 どっち が 先 へ 死ぬ だろ う 」
私 は その 晩 先生 と 奥さん の 間 に 起っ た 疑問 を ひとり 口 の 内 で 繰り返し て み た 。 そうして この 疑問 に は 誰 も 自信 を もっ て 答える 事 が でき ない の だ と 思っ た 。 しかし どっち が 先 へ 死ぬ と 判然 分っ て い た なら ば 、 先生 は どう する だろ う 。 奥さん は どう する だろ う 。 先生 も 奥さん も 、 今 の よう な 態度 で いる より 外 に 仕方 が ない だろ う と 思っ た 。 ( 死 に 近づき つつ ある 父 を 国元 に 控え ながら 、 この 私 が どう する 事 も でき ない よう に ) 。 私 は 人間 を 果敢ない もの に 観 じ た 。 人間 の どう する 事 も でき ない 持っ て 生れ た 軽薄 を 、 果敢ない もの に 観 じ た 。
宅 へ 帰っ て 案外 に 思っ た の は 、 父 の 元気 が この 前 見 た 時 と 大して 変っ て い ない 事 で あっ た 。
「 ああ 帰っ た かい 。 そう か 、 それでも 卒業 が でき て まあ 結構 だっ た 。 ちょっと お待ち 、 今 顔 を 洗っ て 来る から 」
父 は 庭 へ 出 て 何 か し て い た ところ で あっ た 。 古い 麦藁 帽 の 後ろ へ 、 日除 の ため に 括り 付け た 薄汚 ない ハンケチ を ひらひら さ せ ながら 、 井戸 の ある 裏手 の 方 へ 廻っ て 行っ た 。
学校 を 卒業 する の を 普通 の 人間 として 当然 の よう に 考え て い た 私 は 、 それ を 予期 以上 に 喜ん で くれる 父 の 前 に 恐縮 し た 。
「 卒業 が でき て まあ 結構 だ 」
父 は この 言葉 を 何 遍 も 繰り返し た 。 私 は 心 の うち で この 父 の 喜び と 、 卒業 式 の あっ た 晩 先生 の 家 の 食卓 で 、 「 お 目 出 とう 」 と いわ れ た 時 の 先生 の 顔 付 と を 比較 し た 。 私 に は 口 で 祝っ て くれ ながら 、 腹 の 底 で けなし て いる 先生 の 方 が 、 それほど に も ない もの を 珍し そう に 嬉し がる 父 より も 、 かえって 高尚 に 見え た 。 私 は しまいに 父 の 無知 から 出る 田舎 臭い ところ に 不快 を 感じ 出し た 。
「 大学 ぐらい 卒業 し た って 、 それほど 結構 でも あり ませ ん 。 卒業 する もの は 毎年 何 百 人 だって あり ます 」
私 は ついに こんな 口 の 利き よう を し た 。 すると 父 が 変 な 顔 を し た 。
「 何 も 卒業 し た から 結構 と ばかり いう ん じゃ ない 。 そりゃ 卒業 は 結構 に 違い ない が 、 おれ の いう の は もう少し 意味 が ある ん だ 。 それ が お前 に 解っ て い て くれ さえ すれ ば 、 … … 」
私 は 父 から その後 を 聞こ う と し た 。 父 は 話し たく な さ そう で あっ た が 、 とうとう こう いっ た 。
「 つまり 、 おれ が 結構 という 事 に なる の さ 。 おれ は お前 の 知っ てる 通り の 病気 だろ う 。 去年 の 冬 お前 に 会っ た 時 、 ことに よる と もう 三月 か 四月 ぐらい な もの だろ う と 思っ て い た の さ 。 それ が どういう 仕合せ か 、 今日 まで こう し て いる 。 起居 に 不自由 なく こう し て いる 。 そこ へ お前 が 卒業 し て くれ た 。 だから 嬉しい の さ 。 せっかく 丹精 し た 息子 が 、 自分 の い なく なっ た 後 で 卒業 し て くれる より も 、 丈夫 な うち に 学校 を 出 て くれる 方 が 親 の 身 に なれ ば 嬉しい だろ う じゃ ない か 。 大きな 考え を もっ て いる お前 から 見 たら 、 高 が 大学 を 卒業 し た ぐらい で 、 結構 だ 結構 だ と いわ れる の は 余り 面白く も ない だろ う 。 しかし おれ の 方 から 見 て ご覧 、 立場 が 少し 違っ て いる よ 。 つまり 卒業 は お前 に 取っ て より 、 この おれ に 取っ て 結構 な ん だ 。 解っ た かい 」
私 は 一言 も なかっ た 。 詫 まる 以上 に 恐縮 し て 俯向 い て い た 。 父 は 平気 な うち に 自分 の 死 を 覚悟 し て い た もの と みえる 。 しかも 私 の 卒業 する 前 に 死ぬ だろ う と 思い 定め て い た と みえる 。 その 卒業 が 父 の 心 に どの くらい 響く かも 考え ず に い た 私 は 全く 愚かもの で あっ た 。 私 は 鞄 の 中 から 卒業 証書 を 取り出し て 、 それ を 大事 そう に 父 と 母 に 見せ た 。 証書 は 何 か に 圧し 潰さ れ て 、 元 の 形 を 失っ て い た 。 父 は それ を 鄭 寧 に 伸し た 。
「 こんな もの は 巻い た なり手 に 持っ て 来る もの だ 」
「 中 に 心 でも 入れる と 好かっ た のに 」 と 母 も 傍 から 注意 し た 。
父 は しばらく それ を 眺め た 後 、 起っ て 床の間 の 所 へ 行っ て 、 誰 の 目 に も すぐ は いる よう な 正面 へ 証書 を 置い た 。 いつも の 私 なら すぐ 何とか いう はず で あっ た が 、 その 時 の 私 は まるで 平生 と 違っ て い た 。 父 や 母 に対して 少し も 逆らう 気 が 起ら なかっ た 。 私 は だまっ て 父 の 為す が まま に 任せ て おい た 。 一旦 癖 の つい た 鳥の子紙 の 証書 は 、 なかなか 父 の 自由 に なら なかっ た 。 適当 な 位置 に 置か れる や 否 や 、 すぐ 己 れ に 自然 な 勢い を 得 て 倒れよ う と し た 。
私 は 母 を 蔭 へ 呼ん で 父 の 病状 を 尋ね た 。
「 お父さん は あんなに 元気 そう に 庭 へ 出 たり 何 か し て いる が 、 あれ で いい ん です か 」
「 もう 何 と も ない よう だ よ 。 大方 好く おなり な ん だろ う 」
母 は 案外 平気 で あっ た 。 都会 から 懸け隔たっ た 森 や 田 の 中 に 住ん で いる 女 の 常 として 、 母 は こういう 事 に 掛け て は まるで 無 知識 で あっ た 。 それにしても この 前 父 が 卒倒 し た 時 に は 、 あれ ほど 驚い て 、 あんなに 心配 し た もの を 、 と 私 は 心 の うち で 独り 異 な 感じ を 抱い た 。
「 でも 医者 は あの 時 到底 むずかしい って 宣告 し た じゃ あり ませ ん か 」
「 だから 人間 の 身体 ほど 不思議 な もの は ない と 思う ん だ よ 。 あれ ほど お 医者 が 手重く いっ た もの が 、 今 まで し ゃんしゃんしているんだからね 。 お母さん も 始め の うち は 心配 し て 、 なるべく 動かさ ない よう に と 思っ て た ん だ が ね 。 それ 、 あの 気性 だろ う 。 養生 は し なさる けれども 、 強情 で ねえ 。 自分 が 好い と 思い込ん だら 、 なかなか 私 の いう 事 なんか 、 聞き そう に も なさら ない ん だ から ね 」
私 は この 前 帰っ た 時 、 無理 に 床 を 上げ さし て 、 髭 を 剃っ た 父 の 様子 と 態度 と を 思い出し た 。 「 もう 大丈夫 、 お母さん が あんまり 仰山 過ぎる から いけ ない ん だ 」 と いっ た その 時 の 言葉 を 考え て みる と 、 満更 母 ばかり 責める 気 に も なれ なかっ た 。 「 しかし 傍 で も 少し は 注意 し なくっ ちゃ 」 と いお う と し た 私 は 、 とうとう 遠慮 し て 何 に も 口 へ 出さ なかっ た 。 ただ 父 の 病 の 性質 について 、 私 の 知る 限り を 教える よう に 話し て 聞か せ た 。 しかし その 大 部分 は 先生 と 先生 の 奥さん から 得 た 材料 に 過ぎ なかっ た 。 母 は 別に 感動 し た 様子 も 見せ なかっ た 。 ただ 「 へえ 、 やっぱり 同じ 病気 で ね 。 お 気の毒 だ ね 。 いくつ で お 亡くなり かえ 、 その 方 は 」 など と 聞い た 。
私 は 仕方 が ない から 、 母 を そのまま に し て おい て 直接 父 に 向かっ た 。 父 は 私 の 注意 を 母 より は 真面目 に 聞い て くれ た 。 「 もっとも だ 。 お前 の いう 通り だ 。 けれども 、 己 の 身体 は 必竟 己 の 身体 で 、 その 己 の 身体 について の 養生 法 は 、 多年 の 経験 上 、 己 が 一番 能 く 心得 て いる はず だ から ね 」 と いっ た 。 それ を 聞い た 母 は 苦笑 し た 。 「 それ ご覧 な 」 と いっ た 。
「 でも 、 あれ で お父さん は 自分 で ちゃんと 覚悟 だけ は し て いる ん です よ 。 今度 私 が 卒業 し て 帰っ た の を 大変 喜ん で いる の も 、 全く その ため な ん です 。 生き てる うち に 卒業 は でき まい と 思っ た の が 、 達者 な うち に 免状 を 持っ て 来 た から 、 それ が 嬉しい ん だって 、 お父さん は 自分 で そう いっ て い まし た ぜ 」
「 そりゃ 、 お前 、 口 で こそ そう おい い だ けれども ね 。 お腹 の なか で は まだ 大丈夫 だ と 思っ て お 出 の だ よ 」
「 そう でしょ う か 」
「 まだまだ 十 年 も 二 十 年 も 生きる 気 で お 出 の だ よ 。 もっとも 時々 は わたし に も 心細い よう な 事 を おい い だ が ね 。 おれ も この 分 じゃ もう 長い 事 も ある まい よ 、 おれ が 死ん だら 、 お前 は どう する 、 一 人 で この 家 に いる 気 か なんて 」
私 は 急 に 父 が い なく なっ て 母 一 人 が 取り残さ れ た 時 の 、 古い 広い 田舎家 を 想像 し て 見 た 。 この 家 から 父 一 人 を 引き去っ た 後 は 、 そのまま で 立ち行く だろ う か 。 兄 は どう する だろ う か 。 母 は 何 と いう だろ う か 。 そう 考える 私 は また ここ の 土 を 離れ て 、 東京 で 気楽 に 暮らし て 行ける だろ う か 。 私 は 母 を 眼 の 前 に 置い て 、 先生 の 注意 —— 父 の 丈夫 で いる うち に 、 分け て 貰う もの は 、 分け て 貰っ て 置け という 注意 を 、 偶然 思い出し た 。
「 なに ね 、 自分 で 死ぬ 死ぬ っていう 人 に 死ん だ 試し は ない ん だ から 安心 だ よ 。 お父さん なんぞ も 、 死ぬ 死ぬ って いい ながら 、 これから 先 まだ 何 年 生き なさる か 分る まい よ 。 それ より か 黙っ てる 丈夫 の 人 の 方 が 剣呑 さ 」
私 は 理屈 から 出 た と も 統計 から 来 た と も 知れ ない 、 この 陳腐 な よう な 母 の 言葉 を 黙然と 聞い て い た 。
私 の ため に 赤い 飯 を 炊い て 客 を する という 相談 が 父 と 母 の 間 に 起っ た 。 私 は 帰っ た 当日 から 、 あるいは こんな 事 に なる だろ う と 思っ て 、 心 の うち で 暗に それ を 恐れ て い た 。 私 は すぐ 断わっ た 。
「 あんまり 仰山 な 事 は 止し て ください 」
私 は 田舎 の 客 が 嫌い だっ た 。 飲ん だり 食っ たり する の を 、 最後 の 目的 として やっ て 来る 彼ら は 、 何 か 事 が あれ ば 好い といった 風 の 人 ばかり 揃っ て い た 。 私 は 子供 の 時 から 彼ら の 席 に 侍する の を 心苦しく 感じ て い た 。 まして 自分 の ため に 彼ら が 来る と なる と 、 私 の 苦痛 は いっそう 甚 しい よう に 想像 さ れ た 。 しかし 私 は 父 や 母 の 手前 、 あんな 野鄙 な 人 を 集め て 騒ぐ の は 止せ と も いいかね た 。 それで 私 は ただ あまり 仰山 だ から と ばかり 主張 し た 。
「 仰山 仰山 と おい い だ が 、 些 とも 仰山 じゃ ない よ 。 生涯 に 二度と ある 事 じゃ ない ん だ から ね 、 お客 ぐらい する の は 当り前 だ よ 。 そう 遠慮 を お 為 で ない 」
母 は 私 が 大学 を 卒業 し た の を 、 ちょうど 嫁 でも 貰っ た と 同じ 程度 に 、 重く 見 て いる らしかっ た 。
「 呼ば なくっ て も 好い が 、 呼ば ない と また 何とか いう から 」
これ は 父 の 言葉 で あっ た 。 父 は 彼ら の 陰口 を 気 に し て い た 。 実際 彼ら は こんな 場合 に 、 自分 たち の 予期 通り に なら ない と 、 すぐ 何とか いい た がる 人々 で あっ た 。
「 東京 と 違っ て 田舎 は 蒼 蠅 いから ね 」
父 は こう も いっ た 。
「 お父さん の 顔 も ある ん だ から 」 と 母 が また 付け加え た 。
私 は 我 を 張る 訳 に も 行か なかっ た 。 どう でも 二 人 の 都合 の 好い よう に し たら と 思い出し た 。
「 つまり 私 の ため なら 、 止し て 下さい と いう だけ な ん です 。 陰 で 何 か いわ れる の が 厭 だ から という ご 主意 なら 、 そりゃ また 別 です 。 あなた がた に 不利益 な 事 を 私 が 強い て 主張 し た って 仕方 が あり ませ ん 」
「 そう 理屈 を いわ れる と 困る 」
父 は 苦い 顔 を し た 。
「 何 も お前 の ため に する ん じゃ ない と お父さん が おっしゃる ん じゃ ない けれども 、 お前 だって 世間 へ の 義理 ぐらい は 知っ て いる だろ う 」
母 は こう なる と 女 だけ に しどろもどろ な 事 を いっ た 。 その 代り 口数 から いう と 、 父 と 私 を 二 人 寄せ て も なかなか 敵 う どころ で は なかっ た 。
「 学問 を さ せる と 人間 が とかく 理屈っぽく なっ て いけ ない 」
父 は ただ これ だけ しか いわ なかっ た 。 しかし 私 は この 簡単 な 一句 の うち に 、 父 が 平生 から 私 に対して もっ て いる 不平 の 全体 を 見 た 。 私 は その 時 自分 の 言葉 使い の 角張っ た ところ に 気が付か ず に 、 父 の 不平 の 方 ばかり を 無理 の よう に 思っ た 。
父 は その 夜 また 気 を 更 え て 、 客 を 呼ぶ なら 何 日 に する か と 私 の 都合 を 聞い た 。 都合 の 好い も 悪い も なし に ただ ぶらぶら 古い 家 の 中 に 寝起き し て いる 私 に 、 こんな 問い を 掛ける の は 、 父 の 方 が 折れ て 出 た の と 同じ 事 で あっ た 。 私 は この 穏やか な 父 の 前 に 拘泥 ら ない 頭 を 下げ た 。 私 は 父 と 相談 の 上 招待 の 日取り を 極め た 。
その 日取り の まだ 来 ない うち に 、 ある 大きな 事 が 起っ た 。 それ は 明治天皇 の ご 病気 の 報知 で あっ た 。 新聞紙 で すぐ 日本 中 へ 知れ渡っ た この 事件 は 、 一 軒 の 田舎家 の うち に 多少 の 曲折 を 経 て ようやく 纏まろ う と し た 私 の 卒業 祝い を 、 塵 の ご とく に 吹き払っ た 。
「 まあ 、 ご 遠慮 申し た 方 が よかろ う 」
眼鏡 を 掛け て 新聞 を 見 て い た 父 は こう いっ た 。 父 は 黙っ て 自分 の 病気 の 事 も 考え て いる らしかっ た 。 私 は つい この間 の 卒業 式 に 例年 の 通り 大学 へ 行幸 に なっ た 陛下 を 憶 い 出し たり し た 。
小勢 な 人数 に は 広 過ぎる 古い 家 が ひっそり し て いる 中 に 、 私 は 行李 を 解い て 書物 を 繙き 始め た 。 なぜ か 私 は 気 が 落ち 付か なかっ た 。 あの 目眩 る しい 東京 の 下宿 の 二 階 で 、 遠く 走る 電車 の 音 を 耳 に し ながら 、 頁 を 一 枚 一 枚 に まくっ て 行く 方 が 、 気 に 張り が あっ て 心持 よく 勉強 が でき た 。
私 は やや ともすると 机 に も たれ て 仮寝 を し た 。 時 に は わざわざ 枕 さえ 出し て 本式 に 昼寝 を 貪 ぼる 事 も あっ た 。 眼 が 覚める と 、 蝉 の 声 を 聞い た 。 うつつ から 続い て いる よう な その 声 は 、 急 に 八 釜 しく 耳 の 底 を 掻き乱し た 。 私 は 凝 と それ を 聞き ながら 、 時に 悲しい 思い を 胸 に 抱い た 。
私 は 筆 を 執っ て 友達 の だれ かれ に 短い 端書 または 長い 手紙 を 書い た 。 その 友達 の ある もの は 東京 に 残っ て い た 。 ある もの は 遠い 故郷 に 帰っ て い た 。 返事 の 来る の も 、 音信 の 届か ない の も あっ た 。 私 は 固 より 先生 を 忘れ なかっ た 。 原稿 紙 へ 細字 で 三 枚 ばかり 国 へ 帰っ て から 以後 の 自分 という よう な もの を 題目 に し て 書き 綴っ た の を 送る 事 に し た 。 私 は それ を 封じる 時 、 先生 は はたして まだ 東京 に いる だろ う か と 疑っ た 。 先生 が 奥さん と いっしょ に 宅 を 空ける 場合 に は 、 五 十 恰好 の 切 下 の 女 の 人 が どこ から か 来 て 、 留守番 を する の が 例 に なっ て い た 。 私 が かつて 先生 に あの 人 は 何 です か と 尋ね たら 、 先生 は 何と 見え ます か と 聞き返し た 。 私 は その 人 を 先生 の 親類 と 思い 違え て い た 。 先生 は 「 私 に は 親類 は あり ませ ん よ 」 と 答え た 。 先生 の 郷里 に いる 続き あい の 人々 と 、 先生 は 一向 音信 の 取り 遣り を し て い なかっ た 。 私 の 疑問 に し た その 留守番 の 女 の 人 は 、 先生 と は 縁 の ない 奥さん の 方 の 親戚 で あっ た 。 私 は 先生 に 郵便 を 出す 時 、 ふと 幅 の 細い 帯 を 楽 に 後ろ で 結ん で いる その 人 の 姿 を 思い出し た 。 もし 先生 夫婦 が どこ か へ 避暑 に でも 行っ た あと へ この 郵便 が 届い たら 、 あの 切 下 の お婆さん は 、 それ を すぐ 転地 先 へ 送っ て くれる だけ の 気転 と 親切 が ある だろ う か など と 考え た 。 その くせ その 手紙 の うち に は これ と いう ほど の 必要 の 事 も 書い て ない の を 、 私 は 能 く 承知 し て い た 。 ただ 私 は 淋しかっ た 。 そうして 先生 から 返事 の 来る の を 予期 し て かかっ た 。 しかし その 返事 は ついに 来 なかっ た 。
父 は この 前 の 冬 に 帰っ て 来 た 時 ほど 将棋 を 差し た がら なく なっ た 。 将棋 盤 は ほこり の 溜っ た まま 、 床の間 の 隅 に 片寄せ られ て あっ た 。 ことに 陛下 の ご 病気 以後 父 は 凝 と 考え込ん で いる よう に 見え た 。 毎日新聞 の 来る の を 待ち受け て 、 自分 が 一番 先 へ 読ん だ 。 それから その 読 がら を わざわざ 私 の いる 所 へ 持っ て 来 て くれ た 。
「 おい ご覧 、 今日 も 天子 さま の 事 が 詳しく 出 て いる 」
父 は 陛下 の こと を 、 つねに 天子 さま と いっ て い た 。
「 勿体ない 話 だ が 、 天子 さま の ご 病気 も 、 お父さん の と まあ 似 た もの だろ う な 」
こういう 父 の 顔 に は 深い 掛 念 の 曇り が かかっ て い た 。 こう いわ れる 私 の 胸 に は また 父 が い つ 斃 れる か 分ら ない という 心配 が ひらめい た 。
「 しかし 大丈夫 だろ う 。 おれ の よう な 下らない もの で も 、 まだ こう し て い られる くらい だ から 」
父 は 自分 の 達者 な 保証 を 自分 で 与え ながら 、 今にも 己 れ に 落ち かかっ て 来そ う な 危険 を 予感 し て いる らしかっ た 。
「 お父さん は 本当に 病気 を 怖がっ てる ん です よ 。 お母さん の おっしゃる よう に 、 十 年 も 二 十 年 も 生きる 気 じゃ な さ そう です ぜ 」
母 は 私 の 言葉 を 聞い て 当惑 そう な 顔 を し た 。
「 ちょっと また 将棋 でも 差す よう に 勧め て ご覧 な 」
私 は 床の間 から 将棋 盤 を 取り おろし て 、 ほこり を 拭い た 。
父 の 元気 は 次第に 衰え て 行っ た 。 私 を 驚か せ た ハンケチ 付き の 古い 麦藁 帽子 が 自然 と 閑却 さ れる よう に なっ た 。 私 は 黒い 煤け た 棚 の 上 に 載っ て いる その 帽子 を 眺める たび に 、 父 に対して 気の毒 な 思い を し た 。 父 が 以前 の よう に 、 軽々と 動く 間 は 、 もう少し 慎ん で くれ たら と 心配 し た 。 父 が 凝 と 坐り込む よう に なる と 、 やはり 元 の 方 が 達者 だっ た の だ という 気 が 起っ た 。 私 は 父 の 健康 について よく 母 と 話し合っ た 。
「 まったく 気 の せい だ よ 」 と 母 が いっ た 。 母 の 頭 は 陛下 の 病 と 父 の 病 と を 結び付け て 考え て い た 。 私 に は そう ばかり と も 思え なかっ た 。
「 気 じゃ ない 。 本当に 身体 が 悪 か ない ん でしょ う か 。 どうも 気分 より 健康 の 方 が 悪く なっ て 行く らしい 」
私 は こう いっ て 、 心 の うち で また 遠く から 相当 の 医者 でも 呼ん で 、 一つ 見せよ う かしら と 思案 し た 。
「 今年 の 夏 は お前 も 詰ら なかろ う 。 せっかく 卒業 し た のに 、 お祝い も し て 上げる 事 が でき ず 、 お父さん の 身体 も あの 通り だ し 。 それ に 天子 様 の ご 病気 で 。—— いっそ の 事 、 帰る すぐ に お客 でも 呼ぶ 方 が 好かっ た ん だ よ 」
私 が 帰っ た の は 七月 の 五 、 六 日 で 、 父 や 母 が 私 の 卒業 を 祝う ため に 客 を 呼ぼ う と いい だし た の は 、 それ から 一 週間 後 で あっ た 。 そうして いよいよ と 極め た 日 は それから また 一 週間 の 余 も 先 に なっ て い た 。 時間 に 束縛 を 許さ ない 悠長 な 田舎 に 帰っ た 私 は 、 お蔭 で 好もしく ない 社交 上 の 苦痛 から 救わ れ た も 同じ 事 で あっ た が 、 私 を 理解 し ない 母 は 少し も そこ に 気が付い て い ない らしかっ た 。
崩御 の 報知 が 伝え られ た 時 、 父 は その 新聞 を 手 に し て 、 「 ああ 、 ああ 」 と いっ た 。
「 ああ 、 ああ 、 天子 様 も とうとう お かくれ に なる 。 己 も … … 」
父 は その後 を いわ なかっ た 。
私 は 黒い うす もの を 買う ため に 町 へ 出 た 。 それで 旗竿 の 球 を 包ん で 、 それで 旗竿 の 先 へ 三 寸 幅 の ひらひら を 付け て 、 門 の 扉 の 横 から 斜め に 往来 へ さし 出し た 。 旗 も 黒い ひらひら も 、 風 の ない 空気 の なか に だらり と 下がっ た 。 私 の 宅 の 古い 門 の 屋根 は 藁 で 葺い て あっ た 。 雨 や 風 に 打た れ たり また 吹か れ たり し た その 藁 の 色 は とくに 変色 し て 、 薄く 灰色 を 帯び た 上 に 、 所々 の 凸凹 さえ 眼 に 着い た 。 私 は ひとり 門 の 外 へ 出 て 、 黒い ひらひら と 、 白い め りん す の 地 と 、 地 の なか に 染め出し た 赤い 日の丸 の 色 と を 眺め た 。 それ が 薄汚 ない 屋根 の 藁 に 映る の も 眺め た 。 私 は かつて 先生 から 「 あなた の 宅 の 構え は どんな 体裁 です か 。 私 の 郷里 の 方 と は 大分 趣 が 違っ て い ます か ね 」 と 聞か れ た 事 を 思い出し た 。 私 は 自分 の 生れ た この 古い 家 を 、 先生 に 見せ たく も あっ た 。 また 先生 に 見せる の が 恥ずかしく も あっ た 。
私 は また 一 人 家 の なか へ はいっ た 。 自分 の 机 の 置い て ある 所 へ 来 て 、 新聞 を 読み ながら 、 遠い 東京 の 有様 を 想像 し た 。 私 の 想像 は 日本一 の 大きな 都 が 、 どんなに 暗い なか で どんなに 動い て いる だろ う か の 画面 に 集め られ た 。 私 は その 黒い なり に 動か なけれ ば 仕 末 の つか なく なっ た 都会 の 、 不安 で ざわざわ し て いる なか に 、 一 点 の 燈火 の ご とく に 先生 の 家 を 見 た 。 私 は その 時 この 燈火 が 音 の し ない 渦 の 中 に 、 自然 と 捲き込ま れ て いる 事 に 気が付か なかっ た 。 しばらく すれ ば 、 その 灯 も また ふっと 消え て しまう べき 運命 を 、 眼 の 前 に 控え て いる の だ と は 固 より 気が付か なかっ た 。
私 は 今度 の 事件 について 先生 に 手紙 を 書こ う か と 思っ て 、 筆 を 執り かけ た 。 私 は それ を 十 行 ばかり 書い て 已め た 。 書い た 所 は 寸々 に 引き裂い て 屑 籠 へ 投げ込ん だ 。 ( 先生 に 宛て て そういう 事 を 書い て も 仕方 が ない とも 思っ た し 、 前例 に 徴 し て みる と 、 とても 返事 を くれ そう に なかっ た から ) 。 私 は 淋しかっ た 。 それで 手紙 を 書く の で あっ た 。 そうして 返事 が 来れ ば 好い と 思う の で あっ た 。
八月 の 半ば ごろ に なっ て 、 私 は ある 朋友 から 手紙 を 受け取っ た 。 その 中 に 地方 の 中学 教員 の 口 が ある が 行か ない か と 書い て あっ た 。 この 朋友 は 経済 の 必要 上 、 自分 で そんな 位地 を 探し 廻る 男 で あっ た 。 この 口 も 始め は 自分 の 所 へ かかっ て 来 た の だ が 、 もっと 好い 地方 へ 相談 が でき た ので 、 余っ た 方 を 私 に 譲る 気 で 、 わざわざ 知らせ て 来 て くれ た の で あっ た 。 私 は すぐ 返事 を 出し て 断っ た 。 知り合い の 中 に は 、 ずいぶん 骨 を 折っ て 、 教師 の 職 に ありつき た がっ て いる もの が ある から 、 その 方 へ 廻し て やっ たら 好かろ う と 書い た 。
私 は 返事 を 出し た 後 で 、 父 と 母 に その 話 を し た 。 二 人 とも 私 の 断っ た 事 に 異存 は ない よう で あっ た 。
「 そんな 所 へ 行か ない で も 、 まだ 好い 口 が ある だろ う 」
こう いっ て くれる 裏 に 、 私 は 二 人 が 私 に対して もっ て いる 過分 な 希望 を 読ん だ 。 迂闊 な 父 や 母 は 、 不 相当 な 地位 と 収入 と を 卒業 したて の 私 から 期待 し て いる らしかっ た の で ある 。
「 相当 の 口 って 、 近頃 じゃ そんな 旨い 口 は なかなか ある もの じゃ あり ませ ん 。 ことに 兄さん と 私 と は 専門 も 違う し 、 時代 も 違う ん だ から 、 二 人 を 同じ よう に 考え られ ちゃ 少し 困り ます 」
「 しかし 卒業 し た 以上 は 、 少なくとも 独立 し て やっ て 行っ て くれ なくっ ちゃ こっち も 困る 。 人 から あなた の 所 の ご 二男 は 、 大学 を 卒業 なすっ て 何 を し て お 出 です か と 聞か れ た 時 に 返事 が でき ない よう じゃ 、 おれ も 肩身 が 狭い から 」
父 は 渋面 を つくっ た 。 父 の 考え は 、 古く 住み慣れ た 郷里 から 外 へ 出る 事 を 知ら なかっ た 。 その 郷里 の 誰彼 から 、 大学 を 卒業 すれ ば いくら ぐらい 月給 が 取れる もの だろ う と 聞か れ たり 、 まあ 百 円 ぐらい な もの だろ う か と いわ れ たり し た 父 は 、 こういう 人々 に対して 、 外聞 の 悪く ない よう に 、 卒業 したて の 私 を 片付け たかっ た の で ある 。 広い 都 を 根拠地 として 考え て いる 私 は 、 父 や 母 から 見る と 、 まるで 足 を 空 に 向け て 歩く 奇 体 な 人間 に 異なら なかっ た 。 私 の 方 で も 、 実際 そういう 人間 の よう な 気持 を 折々 起し た 。 私 は あからさま に 自分 の 考え を 打ち明ける に は 、 あまりに 距離 の 懸隔 の 甚 しい 父 と 母 の 前 に 黙然 と し て い た 。
「 お前 の よく 先生 先生 という 方 に でも お願い し たら 好い じゃ ない か 。 こんな 時 こそ 」
母 は こう より 外 に 先生 を 解釈 する 事 が でき なかっ た 。 その 先生 は 私 に 国 へ 帰っ たら 父 の 生き て いる うち に 早く 財産 を 分け て 貰え と 勧める 人 で あっ た 。 卒業 し た から 、 地位 の 周旋 を してやろ う という 人 で は なかっ た 。
「 その 先生 は 何 を し て いる の かい 」 と 父 が 聞い た 。
「 何 に も し て い ない ん です 」 と 私 が 答え た 。
私 は とく の 昔 から 先生 の 何 も し て い ない という 事 を 父 に も 母 に も 告げ た つもり で い た 。 そうして 父 は たしかに それ を 記憶 し て いる はず で あっ た 。
「 何 も し て い ない という の は 、 また どういう 訳 か ね 。 お前 が それほど 尊敬 する くらい な 人 なら 何 か やっ て い そう な もの だ が ね 」
父 は こう いっ て 、 私 を 諷し た 。 父 の 考え で は 、 役に立つ もの は 世の中 へ 出 て みんな 相当 の 地位 を 得 て 働い て いる 。 必竟 やくざ だ から 遊ん で いる の だ と 結論 し て いる らしかっ た 。
「 おれ の よう な 人間 だって 、 月給 こそ 貰っ ちゃ い ない が 、 これ でも 遊ん で ばかり いる ん じゃ ない 」
父 は こう も いっ た 。 私 は それでも まだ 黙っ て い た 。
「 お前 の いう よう な 偉い 方 なら 、 きっと 何 か 口 を 探し て 下さる よ 。 頼ん で ご覧 な の かい 」 と 母 が 聞い た 。
「 いいえ 」 と 私 は 答え た 。
「 じゃ 仕方 が ない じゃ ない か 。 なぜ 頼ま ない ん だい 。 手紙 で も 好い から お 出し な 」
「 ええ 」
私 は 生返事 を し て 席 を 立っ た 。
父 は 明らか に 自分 の 病気 を 恐れ て い た 。 しかし 医者 の 来る たび に 蒼 蠅 い 質問 を 掛け て 相手 を 困ら す 質 で も なかっ た 。 医者 の 方 で も また 遠慮 し て 何 と も いわ なかっ た 。
父 は 死後 の 事 を 考え て いる らしかっ た 。 少なくとも 自分 が い なく なっ た 後 の わが家 を 想像 し て 見る らしかっ た 。
「 小 供 に 学問 を さ せる の も 、 好し 悪し だ ね 。 せっかく 修業 を さ せる と 、 その 小 供 は 決して 宅 へ 帰っ て 来 ない 。 これ じゃ 手 も なく 親子 を 隔離 する ため に 学問 さ せる よう な もの だ 」
学問 を し た 結果 兄 は 今 遠国 に い た 。 教育 を 受け た 因果 で 、 私 は また 東京 に 住む 覚悟 を 固く し た 。 こういう 子 を 育て た 父 の 愚痴 は もとより 不合理 で は なかっ た 。 永年 住み 古し た 田舎家 の 中 に 、 たった 一 人 取り残さ れ そう な 母 を 描き出す 父 の 想像 は もと より 淋しい に 違い なかっ た 。
わが家 は 動かす 事 の でき ない もの と 父 は 信じ 切っ て い た 。 その 中 に 住む 母 も また 命 の ある 間 は 、 動かす 事 の でき ない もの と 信じ て い た 。 自分 が 死ん だ 後 、 この 孤独 な 母 を 、 たった 一 人 伽藍 堂 の わが家 に 取り残す の も また 甚だしい 不安 で あっ た 。 それ だ のに 、 東京 で 好い 地位 を 求めろ と いっ て 、 私 を 強い た がる 父 の 頭 に は 矛盾 が あっ た 。 私 は その 矛盾 を おかしく 思っ た と 同時に 、 その お蔭 で また 東京 へ 出 られる の を 喜ん だ 。
私 は 父 や 母 の 手前 、 この 地位 を できる だけ の 努力 で 求め つつ ある ごとく に 装お わ なく て は なら なかっ た 。 私 は 先生 に 手紙 を 書い て 、 家 の 事情 を 精しく 述べ た 。 もし 自分 の 力 で できる 事 が あっ たら 何 でも する から 周旋 し て くれ と 頼ん だ 。 私 は 先生 が 私 の 依頼 に 取り合う まい と 思い ながら この 手紙 を 書い た 。 また 取り合う つもり で も 、 世間 の 狭い 先生 として は どう する 事 も でき まい と 思い ながら この 手紙 を 書い た 。 しかし 私 は 先生 から この 手紙 に対する 返事 が きっと 来る だろ う と 思っ て 書い た 。
私 は それ を 封じ て 出す 前 に 母 に 向かっ て いっ た 。
「 先生 に 手紙 を 書き まし た よ 。 あなた の おっしゃっ た 通り 。 ちょっと 読ん で ご覧 なさい 」
母 は 私 の 想像 し た ごとく それ を 読ま なかっ た 。
「 そう かい 、 それ じゃ 早く お 出し 。 そんな 事 は 他 が 気 を 付け ない でも 、 自分 で 早く やる もの だ よ 」
母 は 私 を まだ 子供 の よう に 思っ て い た 。 私 も 実際 子供 の よう な 感じ が し た 。
「 しかし 手紙 じゃ 用 は 足り ませ ん よ 。 どうせ 、 九月 に でも なっ て 、 私 が 東京 へ 出 て から で なくっ ちゃ 」
「 そりゃ そう かも 知れ ない けれども 、 また ひょっと し て 、 どんな 好い 口 が ない と も 限ら ない ん だ から 、 早く 頼ん で おく に 越し た 事 は ない よ 」
「 ええ 。 とにかく 返事 は 来る に 極 って ます から 、 そう し たら また お話し し ましょ う 」
私 は こんな 事 に 掛け て 几帳面 な 先生 を 信じ て い た 。 私 は 先生 の 返事 の 来る の を 心待ち に 待っ た 。 けれども 私 の 予期 は ついに 外れ た 。 先生 から は 一 週間 経っ て も 何 の 音信 も なかっ た 。
「 大方 どこ か へ 避暑 に でも 行っ て いる ん でしょ う 」
私 は 母 に 向かっ て 言訳 らしい 言葉 を 使わ なけれ ば なら なかっ た 。 そうして その 言葉 は 母 に対する 言訳 ばかり で なく 、 自分 の 心 に対する 言訳 で も あっ た 。 私 は 強い て も 何 か の 事情 を 仮定 し て 先生 の 態度 を 弁護 し なけれ ば 不安 に なっ た 。
私 は 時々 父 の 病気 を 忘れ た 。 いっそ 早く 東京 へ 出 て しまお う か と 思っ たり し た 。 その 父 自身 も おのれ の 病気 を 忘れる 事 が あっ た 。 未来 を 心配 し ながら 、 未来 に対する 所 置 は 一向 取ら なかっ た 。 私 は ついに 先生 の 忠告 通り 財産 分配 の 事 を 父 に いい 出す 機会 を 得 ず に 過ぎ た 。
九月 始め に なっ て 、 私 は いよいよ また 東京 へ 出よ う と し た 。 私 は 父 に 向かっ て 当分 今 まで 通り 学資 を 送っ て くれる よう に と 頼ん だ 。
「 ここ に こう し て い た って 、 あなた の おっしゃる 通り の 地位 が 得 られる もの じゃ ない です から 」
私 は 父 の 希望 する 地位 を 得る ため に 東京 へ 行く よう な 事 を いっ た 。
「 無論 口 の 見付かる まで で 好い です から 」 と も いっ た 。
私 は 心 の うち で 、 その 口 は 到底 私 の 頭 の 上 に 落ち て 来 ない と 思っ て い た 。 けれども 事情 に うとい 父 は また あくまでも その 反対 を 信じ て い た 。
「 そりゃ 僅 の 間 の 事 だろ う から 、 どうにか 都合 してやろ う 。 その 代り 永く は いけ ない よ 。 相当 の 地位 を 得 次第 独立 し なくっ ちゃ 。 元来 学校 を 出 た 以上 、 出 た あくる 日 から 他 の 世話 に なんぞ なる もの じゃ ない ん だ から 。 今 の 若い もの は 、 金 を 使う 道 だけ 心得 て い て 、 金 を 取る 方 は 全く 考え て い ない よう だ ね 」
父 は この 外 に も まだ 色々 の 小言 を いっ た 。 その 中 に は 、 「 昔 の 親 は 子 に 食わ せ て もらっ た のに 、 今 の 親 は 子 に 食わ れる だけ だ 」 など という 言葉 が あっ た 。 それら を 私 は ただ 黙っ て 聞い て い た 。
小言 が 一 通り 済ん だ と 思っ た 時 、 私 は 静か に 席 を 立と う と し た 。 父 は いつ 行く か と 私 に 尋ね た 。 私 に は 早い だけ が 好かっ た 。
「 お母さん に 日 を 見 て もらい なさい 」
「 そう し ましょ う 」
その 時 の 私 は 父 の 前 に 存外 おとなしかっ た 。 私 は なるべく 父 の 機嫌 に 逆らわ ず に 、 田舎 を 出よ う と し た 。 父 は また 私 を 引き留め た 。
「 お前 が 東京 へ 行く と 宅 は また 淋しく なる 。 何しろ 己 と お母さん だけ な ん だ から ね 。 その おれ も 身体 さえ 達者 なら 好い が 、 この 様子 じゃ い つ 急 に どんな 事 が ない とも いえ ない よ 」
私 は できるだけ 父 を 慰め て 、 自分 の 机 を 置い て ある 所 へ 帰っ た 。 私 は 取り散らし た 書物 の 間 に 坐っ て 、 心細 そう な 父 の 態度 と 言葉 と を 、 幾度 か 繰り返し 眺め た 。 私 は その 時 また 蝉 の 声 を 聞い た 。 その 声 は この 間中 聞い た の と 違っ て 、 つくつく法師 の 声 で あっ た 。 私 は 夏 郷里 に 帰っ て 、 煮え 付く よう な 蝉 の 声 の 中 に 凝 と 坐っ て いる と 、 変 に 悲しい 心持 に なる 事 が しばしば あっ た 。 私 の 哀愁 は いつも この 虫 の 烈しい 音 と共に 、 心 の 底 に 沁み 込む よう に 感ぜ られ た 。 私 は そんな 時 に は いつも 動か ず に 、 一 人 で 一 人 を 見詰め て い た 。
私 の 哀愁 は この 夏 帰省 し た 以後 次第に 情調 を 変え て 来 た 。 油蝉 の 声 が つくつく法師 の 声 に 変る ごとく に 、 私 を 取り巻く 人 の 運命 が 、 大きな 輪廻 の うち に 、 そろそろ 動い て いる よう に 思わ れ た 。 私 は 淋し そう な 父 の 態度 と 言葉 を 繰り返し ながら 、 手紙 を 出し て も 返事 を 寄こさ ない 先生 の 事 を また 憶 い 浮べ た 。 先生 と 父 と は 、 まるで 反対 の 印象 を 私 に 与える 点 において 、 比較 の 上 に も 、 連想 の 上 に も 、 いっしょ に 私 の 頭 に 上り やすかっ た 。
私 は ほとんど 父 の すべて も 知り 尽し て い た 。 もし 父 を 離れる と すれ ば 、 情合 の 上 に 親子 の 心残り が ある だけ で あっ た 。 先生 の 多く は まだ 私 に 解っ て い なかっ た 。 話す と 約束 さ れ た その 人 の 過去 も まだ 聞く 機会 を 得 ず に い た 。 要するに 先生 は 私 にとって 薄暗かっ た 。 私 は ぜひとも そこ を 通り越し て 、 明るい 所 まで 行か なけれ ば 気 が 済まなかっ た 。 先生 と 関係 の 絶える の は 私 にとって 大 い な 苦痛 で あっ た 。 私 は 母 に 日 を 見 て もらっ て 、 東京 へ 立つ 日取り を 極め た 。
私 が いよいよ 立と う という 間際 に なっ て 、 ( たしか 二 日 前 の 夕方 の 事 で あっ た と 思う が 、 ) 父 は また 突然 引っ繰り返っ た 。 私 は その 時 書物 や 衣類 を 詰め た 行李 を からげ て い た 。 父 は 風呂 へ 入っ た ところ で あっ た 。 父 の 背中 を 流し に 行っ た 母 が 大きな 声 を 出し て 私 を 呼ん だ 。 私 は 裸体 の まま 母 に 後ろ から 抱か れ て いる 父 を 見 た 。 それでも 座敷 へ 伴 れ て 戻っ た 時 、 父 は もう 大丈夫 だ と いっ た 。 念 の ため に 枕元 に 坐っ て 、 濡手 拭 で 父 の 頭 を 冷し て い た 私 は 、 九 時 頃 に なっ て ようやく 形 ばかり の 夜食 を 済まし た 。
翌日 に なる と 父 は 思っ た より 元気 が 好かっ た 。 留める の も 聞か ず に 歩い て 便所 へ 行っ たり し た 。
「 もう 大丈夫 」
父 は 去年 の 暮 倒れ た 時 に 私 に 向かっ て いっ た と 同じ 言葉 を また 繰り返し た 。 その 時 は はたして 口 で いっ た 通り まあ 大丈夫 で あっ た 。 私 は 今度 も あるいは そう なる かも 知れ ない と 思っ た 。 しかし 医者 は ただ 用心 が 肝要 だ と 注意 する だけ で 、 念 を 押し て も 判然 し た 事 を 話し て くれ なかっ た 。 私 は 不安 の ため に 、 出立 の 日 が 来 て も ついに 東京 へ 立つ 気 が 起ら なかっ た 。
「 もう少し 様子 を 見 て から に し ましょ う か 」 と 私 は 母 に 相談 し た 。
「 そうして おくれ 」 と 母 が 頼ん だ 。
母 は 父 が 庭 へ 出 たり 背戸 へ 下り たり する 元気 を 見 て いる 間 だけ は 平気 で いる くせ に 、 こんな 事 が 起る と また 必要 以上 に 心配 し たり 気 を 揉ん だり し た 。
「 お前 は 今日 東京 へ 行く はず じゃ なかっ た か 」 と 父 が 聞い た 。
「 ええ 、 少し 延ばし まし た 」 と 私 が 答え た 。
「 おれ の ため に かい 」 と 父 が 聞き返し た 。
私 は ちょっと 躊躇 し た 。 そう だ と いえ ば 、 父 の 病気 の 重い の を 裏書 きする よう な もの で あっ た 。 私 は 父 の 神経 を 過敏 に し たく なかっ た 。 しかし 父 は 私 の 心 を よく 見抜い て いる らしかっ た 。
「 気の毒 だ ね 」 と いっ て 、 庭 の 方 を 向い た 。
私 は 自分 の 部屋 に は いっ て 、 そこ に 放り出さ れ た 行李 を 眺め た 。 行李 は い つ 持ち出し て も 差支え ない よう に 、 堅く 括ら れ た まま で あっ た 。 私 は ぼんやり その 前 に 立っ て 、 また 縄 を 解こ う か と 考え た 。
私 は 坐っ た まま 腰 を 浮かし た 時 の 落ち 付 か ない 気分 で 、 また 三 、 四 日 を 過ごし た 。 すると 父 が また 卒倒 し た 。 医者 は 絶対 に 安臥 を 命じ た 。
「 どう し た もの だろ う ね 」 と 母 が 父 に 聞こえ ない よう な 小さな 声 で 私 に いっ た 。 母 の 顔 は いかにも 心細 そう で あっ た 。 私 は 兄 と 妹 に 電報 を 打つ 用意 を し た 。 けれども 寝 て いる 父 に は ほとんど 何 の 苦悶 も なかっ た 。 話 を する ところ など を 見る と 、 風邪 でも 引い た 時 と 全く 同じ 事 で あっ た 。 その 上 食欲 は 不断 より も 進ん だ 。 傍 の もの が 、 注意 し て も 容易 に いう 事 を 聞か なかっ た 。
「 どうせ 死ぬ ん だ から 、 旨い もの でも 食っ て 死な なくっ ちゃ 」
私 に は 旨い もの という 父 の 言葉 が 滑稽 に も 悲酸 に も 聞こえ た 。 父 は 旨い もの を 口 に 入れ られる 都 に は 住ん で い なかっ た の で ある 。 夜 に 入っ て かき餅 など を 焼い て もらっ て ぼり ぼり 噛ん だ 。
「 どうして こう 渇く の か ね 。 やっぱり 心 に 丈夫 の 所 が ある の かも 知れ ない よ 」
母 は 失望 し て いい ところ に かえって 頼み を 置い た 。 その くせ 病気 の 時 に しか 使わ ない 渇く という 昔 風 の 言葉 を 、 何 でも 食べ た がる 意味 に 用い て い た 。
伯父 が 見舞 に 来 た とき 、 父 は いつ まで も 引き留め て 帰さ なかっ た 。 淋しい から もっと い て くれ という の が 重 な 理由 で あっ た が 、 母 や 私 が 、 食べ たい だけ 物 を 食べ させ ない という 不平 を 訴える の も 、 その 目的 の 一つ で あっ た らしい 。
父 の 病気 は 同じ よう な 状態 で 一 週間 以上 つづい た 。 私 は その間 に 長い 手紙 を 九州 に いる 兄 宛 で 出し た 。 妹 へ は 母 から 出さ せ た 。 私 は 腹の中 で 、 おそらく これ が 父 の 健康 に関して 二 人 へ やる 最後 の 音信 だろ う と 思っ た 。 それで 両方 へ い よい よ という 場合 に は 電報 を 打つ から 出 て 来い という 意味 を 書き込め た 。
兄 は 忙しい 職 に い た 。 妹 は 妊娠 中 で あっ た 。 だから 父 の 危険 が 眼 の 前 に 逼 ら ない うち に 呼び寄せる 自由 は 利か なかっ た 。 と いっ て 、 折角 都合 し て 来 た に は 来 た が 、 間に合わ なかっ た と いわ れる の も 辛かっ た 。 私 は 電報 を 掛ける 時機 について 、 人 の 知ら ない 責任 を 感じ た 。
「 そう 判然 り し た 事 に なる と 私 に も 分り ませ ん 。 しかし 危険 は いつ 来る か 分ら ない という 事 だけ は 承知 し て い て 下さい 」
停車場 の ある 町 から 迎え た 医者 は 私 に こう いっ た 。 私 は 母 と 相談 し て 、 その 医者 の 周旋 で 、 町 の 病院 から 看護 婦 を 一 人 頼む 事 に し た 。 父 は 枕元 へ 来 て 挨拶 する 白い 服 を 着 た 女 を 見 て 変 な 顔 を し た 。
父 は 死病 に 罹っ て いる 事 を とうから 自覚 し て い た 。 それでいて 、 眼前 に せまり つつ ある 死 そのもの に は 気が付か なかっ た 。
「 今に 癒 っ たら もう 一 返 東京 へ 遊び に 行っ て みよ う 。 人間 は いつ 死ぬ か 分ら ない から な 。 何 でも やり たい 事 は 、 生き てる うち に やっ て おく に 限る 」
母 は 仕方 なし に 「 その 時 は 私 も いっしょ に 伴 れ て 行っ て 頂き ましょ う 」 など と 調子 を 合せ て い た 。
時 と する と また 非常 に 淋し がっ た 。
「 おれ が 死ん だら 、 どうか お母さん を 大事 に し て やっ て くれ 」
私 は この 「 おれ が 死ん だら 」 という 言葉 に 一種 の 記憶 を もっ て い た 。 東京 を 立つ 時 、 先生 が 奥さん に 向かっ て 何 遍 も それ を 繰り返し た の は 、 私 が 卒業 し た 日 の 晩 の 事 で あっ た 。 私 は 笑い を 帯び た 先生 の 顔 と 、 縁 喜 で も ない と 耳 を 塞い だ 奥さん の 様子 と を 憶 い 出し た 。 あの 時 の 「 おれ が 死ん だら 」 は 単純 な 仮定 で あっ た 。 今 私 が 聞く の は いつ 起る か 分ら ない 事実 で あっ た 。 私 は 先生 に対する 奥さん の 態度 を 学ぶ 事 が でき なかっ た 。 しかし 口 の 先 で は 何とか 父 を 紛らさ なけれ ば なら なかっ た 。
「 そんな 弱い 事 を おっしゃっ ちゃ いけ ませ ん よ 。 今 に 癒 っ たら 東京 へ 遊び に いらっしゃる はず じゃ あり ませ ん か 。 お母さん と いっしょ に 。 今度 いらっしゃる と きっと 吃驚 し ます よ 、 変っ て いる んで 。 電車 の 新しい 線路 だけ でも 大変 増え て い ます から ね 。 電車 が 通る よう に なれ ば 自然 町並 も 変る し 、 その 上 に 市区 改正 も ある し 、 東京 が 凝 と し て いる 時 は 、 まあ 二六時中 一 分 も ない と いっ て いい くらい です 」
私 は 仕方 が ない から いわ ない で いい 事 まで 喋 舌 っ た 。 父 は また 、 満足 らしく それ を 聞い て い た 。
病人 が ある ので 自然 家 の 出入り も 多く なっ た 。 近所 に いる 親類 など は 、 二 日 に 一 人 ぐらい の 割 で 代る代る 見舞 に 来 た 。 中 に は 比較的 遠く に い て 平生 疎遠 な もの も あっ た 。 「 どう か と 思っ たら 、 この 様子 じゃ 大丈夫 だ 。 話 も 自由 だ し 、 だ いち 顔 が ちっとも 瘠せ て い ない じゃ ない か 」 など と いっ て 帰る もの が あっ た 。 私 の 帰っ た 当時 は ひっそり し 過ぎる ほど 静か で あっ た 家庭 が 、 こんな 事 で 段々 ざわざわ し 始め た 。
その 中 に 動か ず に いる 父 の 病気 は 、 ただ 面白く ない 方 へ 移っ て 行く ばかり で あっ た 。 私 は 母 や 伯父 と 相談 し て 、 とうとう 兄 と 妹 に 電報 を 打っ た 。 兄 から は すぐ 行く という 返事 が 来 た 。 妹 の 夫 から も 立つ という 報知 が あっ た 。 妹 は この 前 懐妊 し た 時 に 流産 し た ので 、 今度 こそ は 癖 に なら ない よう に 大事 を 取ら せる つもり だ と 、 かね て いい 越し た その 夫 は 、 妹 の 代り に 自分 で 出 て 来る かも 知れ なかっ た 。
こうした 落ち 付き の ない 間 に も 、 私 は まだ 静か に 坐る 余裕 を もっ て い た 。 偶 に は 書物 を 開け て 十 頁 も つづけ ざま に 読む 時間 さえ 出 て 来 た 。 一旦 堅く 括ら れ た 私 の 行李 は 、 いつの間にか 解か れ て しまっ た 。 私 は 要る に 任せ て 、 その 中 から 色々 な もの を 取り出し た 。 私 は 東京 を 立つ 時 、 心 の うち で 極め た 、 この 夏 中 の 日課 を 顧み た 。 私 の やっ た 事 は この 日課 の 三 が 一 に も 足ら なかっ た 。 私 は 今 まで も こういう 不愉快 を 何 度 と なく 重ね て 来 た 。 しかし この 夏 ほど 思っ た 通り 仕事 の 運ば ない 例 も 少なかっ た 。 これ が 人 の 世の常 だろ う と 思い ながら も 私 は 厭 な 気持 に 抑え 付け られ た 。
私 は この 不快 の 裏 に 坐り ながら 、 一方 に 父 の 病気 を 考え た 。 父 の 死ん だ 後 の 事 を 想像 し た 。 そう し て それ と 同時に 、 先生 の 事 を 一方 に 思い 浮べ た 。 私 は この 不快 な 心持 の 両端 に 地位 、 教育 、 性格 の 全然 異なっ た 二 人 の 面影 を 眺め た 。
私 が 父 の 枕元 を 離れ て 、 独り 取り乱し た 書物 の 中 に 腕組み を し て いる ところ へ 母 が 顔 を 出し た 。
「 少し 午 眠 でも おし よ 。 お前 も さぞ 草臥れる だろ う 」
母 は 私 の 気分 を 了解 し て い なかっ た 。 私 も 母 から それ を 予期 する ほど の 子供 で も なかっ た 。 私 は 単簡 に 礼 を 述べ た 。 母 は まだ 室 の 入口 に 立っ て い た 。
「 お父さん は ? 」 と 私 が 聞い た 。
「 今 よく 寝 て お 出 だ よ 」 と 母 が 答え た 。
母 は 突然 はいっ て 来 て 私 の 傍 に 坐っ た 。
「 先生 から まだ 何とも いっ て 来 ない かい 」 と 聞い た 。
母 は その 時 の 私 の 言葉 を 信じ て い た 。 その 時 の 私 は 先生 から きっと 返事 が ある と 母 に 保証 し た 。 しかし 父 や 母 の 希望 する よう な 返事 が 来る と は 、 その 時 の 私 も まるで 期待 し なかっ た 。 私 は 心得 が あっ て 母 を 欺い た と 同じ 結果 に 陥っ た 。
「 もう 一遍 手紙 を 出し て ご覧 な 」 と 母 が いっ た 。
役に立た ない 手紙 を 何 通 書こ う と 、 それ が 母 の 慰安 に なる なら 、 手数 を 厭う よう な 私 で は なかっ た 。 けれども こういう 用件 で 先生 に せまる の は 私 の 苦痛 で あっ た 。 私 は 父 に 叱ら れ たり 、 母 の 機嫌 を 損じ たり する より も 、 先生 から 見下げ られる の を 遥か に 恐れ て い た 。 あの 依頼 に対して 今 まで 返事 の 貰え ない の も 、 あるいは そうした 訳 から じゃ ない かしら という 邪推 も あっ た 。
「 手紙 を 書く の は 訳 は ない です が 、 こういう 事 は 郵便 じゃ とても 埒 は 明き ませ ん よ 。 どうしても 自分 で 東京 へ 出 て 、 じかに 頼ん で 廻ら なくっ ちゃ 」
「 だって お父さん が あの 様子 じゃ 、 お前 、 い つ 東京 へ 出 られる か 分ら ない じゃ ない か 」
「 だから 出 やし ませ ん 。 癒 る と も 癒 ら ない と も 片付か ない うち は 、 ちゃんと こう し て いる つもり です 」
「 そりゃ 解り 切っ た 話 だ ね 。 今にも むずかしい という 大病 人 を 放ち ら か し て おい て 、 誰 が 勝手 に 東京 へ なんか 行ける もの か ね 」
私 は 始め 心 の なか で 、 何 も 知ら ない 母 を 憐れん だ 。 しかし 母 が なぜ こんな 問題 を この ざわざわ し た 際 に 持ち出し た の か 理解 でき なかっ た 。 私 が 父 の 病気 を よそ に 、 静か に 坐っ たり 書見 し たり する 余裕 の ある ごとく に 、 母 も 眼 の 前 の 病人 を 忘れ て 、 外 の 事 を 考える だけ 、 胸 に 空地 が ある の かしら と 疑っ た 。 その 時 「 実は ね 」 と 母 が いい 出し た 。
「 実は お父さん の 生き て お 出 の うち に 、 お前 の 口 が 極 っ たら さぞ 安心 な さる だろ う と 思う ん だ が ね 。 この 様子 じゃ 、 とても 間に合わ ない かも 知れ ない けれども 、 それにしても 、 まだ ああ やっ て 口 も 慥か なら 気 も 慥か な ん だ から 、 ああ し て お 出 の うち に 喜ばし て 上げる よう に 親孝行 を おし な 」
憐れ な 私 は 親孝行 の でき ない 境遇 に い た 。 私 は ついに 一行 の 手紙 も 先生 に 出さ なかっ た 。
兄 が 帰っ て 来 た 時 、 父 は 寝 ながら 新聞 を 読ん で い た 。 父 は 平生 から 何 を 措い て も 新聞 だけ に は 眼 を 通す 習慣 で あっ た が 、 床 に つい て から は 、 退屈 の ため 猶 更 それ を 読み た がっ た 。 母 も 私 も 強い て は 反対 せ ず に 、 なるべく 病人 の 思い 通り に さ せ て おい た 。
「 そういう 元気 なら 結構 な もの だ 。 よっぽど 悪い か と 思っ て 来 たら 、 大変 好い よう じゃ あり ませ ん か 」
兄 は こんな 事 を いい ながら 父 と 話 を し た 。 その 賑やか 過ぎる 調子 が 私 に は かえって 不調和 に 聞こえ た 。 それでも 父 の 前 を 外し て 私 と 差し 向い に なっ た 時 は 、 むしろ 沈ん で い た 。
「 新聞 なんか 読ま し ちゃ いけ なか ない か 」
「 私 も そう 思う ん だ けれども 、 読ま ない と 承知 し ない ん だ から 、 仕様 が ない 」
兄 は 私 の 弁解 を 黙っ て 聞い て い た 。 やがて 、 「 よく 解る の か な 」 と いっ た 。 兄 は 父 の 理解 力 が 病気 の ため に 、 平生 より は よっぽど 鈍っ て いる よう に 観察 し た らしい 。
「 そりゃ 慥か です 。 私 は さっき 二 十 分 ばかり 枕元 に 坐っ て 色々 話し て み た が 、 調子 の 狂っ た ところ は 少し も ない です 。 あの 様子 じゃ ことに よる と まだ なかなか 持つ かも 知れ ませ ん よ 」
兄 と 前後 し て 着い た 妹 の 夫 の 意見 は 、 我々 より も よほど 楽観 的 で あっ た 。 父 は 彼 に 向かっ て 妹 の 事 を あれこれ と 尋ね て い た 。 「 身体 が 身体 だ から むやみ に 汽車 に なんぞ 乗っ て 揺れ ない 方 が 好い 。 無理 を し て 見舞 に 来ら れ たり する と 、 かえって こっち が 心配 だ から 」 と いっ て い た 。 「 なに 今 に 治っ たら 赤ん坊 の 顔 で も 見 に 、 久しぶり に こっち から 出掛ける から 差支え ない 」 と も いっ て い た 。
乃木 大将 の 死ん だ 時 も 、 父 は 一番 さき に 新聞 で それ を 知っ た 。
「 大変 だ 大変 だ 」 と いっ た 。
何事 も 知ら ない 私 たち は この 突然 な 言葉 に 驚かさ れ た 。
「 あの 時 は いよいよ 頭 が 変 に なっ た の か と 思っ て 、 ひやりと し た 」 と 後で 兄 が 私 に いっ た 。 「 私 も 実は 驚き まし た 」 と 妹 の 夫 も 同感 らしい 言葉 つき で あっ た 。
その 頃 の 新聞 は 実際 田舎 もの に は 日 ごと に 待ち受け られる よう な 記事 ばかり あっ た 。 私 は 父 の 枕元 に 坐っ て 鄭 寧 に それ を 読ん だ 。 読む 時間 の ない 時 は 、 そっと 自分 の 室 へ 持っ て 来 て 、 残らず 眼 を 通し た 。 私 の 眼 は 長い 間 、 軍服 を 着 た 乃木 大将 と 、 それから 官女 み た よう な 服装 を し た その 夫人 の 姿 を 忘れる 事 が でき なかっ た 。
悲痛 な 風 が 田舎 の 隅 まで 吹い て 来 て 、 眠た そう な 樹 や 草 を 震わせ て いる 最中 に 、 突然 私 は 一 通 の 電報 を 先生 から 受け取っ た 。 洋服 を 着 た 人 を 見る と 犬 が 吠える よう な 所 で は 、 一 通 の 電報 すら 大 事件 で あっ た 。 それ を 受け取っ た 母 は 、 はたして 驚い た よう な 様子 を し て 、 わざわざ 私 を 人 の い ない 所 へ 呼び出し た 。
「 何 だい 」 と いっ て 、 私 の 封 を 開く の を 傍 に 立っ て 待っ て い た 。
電報 に は ちょっと 会い たい が 来ら れる か という 意味 が 簡単 に 書い て あっ た 。 私 は 首 を 傾け た 。
「 きっと お 頼 もうし て おい た 口 の 事 だ よ 」 と 母 が 推断 し て くれ た 。
私 も あるいは そう かも 知れ ない と 思っ た 。 しかし それ に し て は 少し 変 だ と も 考え た 。 とにかく 兄 や 妹 の 夫 まで 呼び寄せ た 私 が 、 父 の 病気 を 打 遣っ て 、 東京 へ 行く 訳 に は 行か なかっ た 。 私 は 母 と 相談 し て 、 行か れ ない という 返電 を 打つ 事 に し た 。 できるだけ 簡略 な 言葉 で 父 の 病気 の 危篤 に 陥り つつ ある 旨 も 付け加え た が 、 それでも 気 が 済まなかっ た から 、 委細 手紙 として 、 細かい 事情 を その 日 の うち に 認め て 郵便 で 出し た 。 頼ん だ 位地 の 事 と ばかり 信じ 切っ た 母 は 、 「 本当に 間 の 悪い 時 は 仕方 の ない もの だ ね 」 と いっ て 残念 そう な 顔 を し た 。
私 の 書い た 手紙 は かなり 長い もの で あっ た 。 母 も 私 も 今度 こそ 先生 から 何とか いっ て 来る だろ う と 考え て い た 。 すると 手紙 を 出し て 二 日 目 に また 電報 が 私 宛 で 届い た 。 それ に は 来 ない でも よろしい という 文句 だけ しか なかっ た 。 私 は それ を 母 に 見せ た 。
「 大方 手紙 で 何とか いっ て き て 下さる つもり だろ う よ 」
母 は どこ まで も 先生 が 私 の ため に 衣食 の 口 を 周旋 し て くれる もの と ばかり 解釈 し て いる らしかっ た 。 私 も あるいは そう か と も 考え た が 、 先生 の 平生 から 推し て みる と 、 どうも 変 に 思わ れ た 。 「 先生 が 口 を 探し て くれる 」 。 これ は あり 得 べから ざる 事 の よう に 私 に は 見え た 。
「 とにかく 私 の 手紙 は まだ 向う へ 着い て い ない はず だ から 、 この 電報 は その 前 に 出し た もの に 違い ない です ね 」
私 は 母 に 向かっ て こんな 分り 切っ た 事 を いっ た 。 母 は また もっとも らしく 思案 し ながら 「 そう だ ね 」 と 答え た 。 私 の 手紙 を 読ま ない 前 に 、 先生 が この 電報 を 打っ た という 事 が 、 先生 を 解釈 する 上 において 、 何 の 役 に も 立た ない の は 知れ て いる のに 。
その 日 は ちょうど 主治医 が 町 から 院長 を 連れ て 来る はず に なっ て い た ので 、 母 と 私 は それ ぎりこの 事件 について 話 を する 機会 が なかっ た 。 二 人 の 医者 は 立ち合い の 上 、 病人 に 浣腸 など を し て 帰っ て 行っ た 。
父 は 医者 から 安臥 を 命ぜ られ て 以来 、 両 便 と も 寝 た まま 他 の 手 で 始末 し て もらっ て い た 。 潔癖 な 父 は 、 最初 の 間 こそ 甚だしく それ を 忌み嫌っ た が 、 身体 が 利か ない ので 、 やむを得ず いやいや 床 の 上 で 用 を 足し た 。 それ が 病気 の 加減 で 頭 が だんだん 鈍く なる の か 何 だ か 、 日 を 経る に従って 、 無精 な 排泄 を 意 と し ない よう に なっ た 。 たま に は 蒲団 や 敷布 を 汚し て 、 傍 の もの が 眉 を 寄せる のに 、 当人 は かえって 平気 で い たり し た 。 もっとも 尿 の 量 は 病気 の 性質 として 、 極めて 少なく なっ た 。 医者 は それ を 苦 に し た 。 食欲 も 次第に 衰え た 。 たまに 何 か 欲し がっ て も 、 舌 が 欲し がる だけ で 、 咽喉 から 下 へ は ごく 僅 しか 通ら なかっ た 。 好き な 新聞 も 手 に 取る 気力 が なくなっ た 。 枕 の 傍 に ある 老眼鏡 は 、 いつ まで も 黒い 鞘 に 納め られ た まま で あっ た 。 子供 の 時分 から 仲 の 好かっ た 作 さん という 今 で は 一 里 ばかり 隔たっ た 所 に 住ん で いる 人 が 見舞 に 来 た 時 、 父 は 「 ああ 作 さん か 」 と いっ て 、 どんより し た 眼 を 作 さん の 方 に 向け た 。
「 作 さん よく 来 て くれ た 。 作 さん は 丈夫 で 羨ましい ね 。 己 は もう 駄目 だ 」
「 そんな 事 は ない よ 。 お前 なんか 子供 は 二 人 とも 大学 を 卒業 する し 、 少し ぐらい 病気 に なっ たって 、 申し分 は ない ん だ 。 おれ を ご覧 よ 。 かか あ に は 死な れる し さ 、 子供 は なし さ 。 ただ こうして 生き て いる だけ の 事 だ よ 。 達者 だって 何 の 楽しみ も ない じゃ ない か 」
浣腸 を し た の は 作 さん が 来 て から 二 、 三 日 あと の 事 で あっ た 。 父 は 医者 の お蔭 で 大変 楽 に なっ た と いっ て 喜ん だ 。 少し 自分 の 寿命 に対する 度胸 が でき た という 風 に 機嫌 が 直っ た 。 傍 に いる 母 は 、 それ に 釣り込ま れ た の か 、 病人 に 気力 を 付ける ため か 、 先生 から 電報 の きた 事 を 、 あたかも 私 の 位置 が 父 の 希望 する 通り 東京 に あっ た よう に 話し た 。 傍 に いる 私 は むずがゆい 心持 が し た が 、 母 の 言葉 を 遮る 訳 に も ゆか ない ので 、 黙っ て 聞い て い た 。 病人 は 嬉し そう な 顔 を し た 。
「 そりゃ 結構 です 」 と 妹 の 夫 も いっ た 。
「 何 の 口 だ か まだ 分ら ない の か 」 と 兄 が 聞い た 。
私 は 今更 それ を 否定 する 勇気 を 失っ た 。 自分 に も 何とも 訳 の 分ら ない 曖昧 な 返事 を し て 、 わざと 席 を 立っ た 。
父 の 病気 は 最後 の 一撃 を 待つ 間際 まで 進ん で 来 て 、 そこで しばらく 躊躇 する よう に みえ た 。 家 の もの は 運命 の 宣告 が 、 今日 下る か 、 今日 下る か と 思っ て 、 毎夜 床 に はいっ た 。
父 は 傍 の もの を 辛く する ほど の 苦痛 を どこ に も 感じ て い なかっ た 。 その 点 に なる と 看病 は むしろ 楽 で あっ た 。 要心 の ため に 、 誰か 一 人 ぐらい ずつ 代る代る 起き て は い た が 、 あと の もの は 相当 の 時間 に 各自 の 寝床 へ 引き取っ て 差支え なかっ た 。 何 か の 拍子 で 眠れ なかっ た 時 、 病人 の 唸る よう な 声 を 微か に 聞い た と 思い 誤っ た 私 は 、 一 遍 半夜 に 床 を 抜け出し て 、 念 の ため 父 の 枕元 まで 行っ て み た 事 が あっ た 。 その 夜 は 母 が 起き て いる 番 に 当っ て い た 。 しかし その 母 は 父 の 横 に 肱 を 曲げ て 枕 と し た なり 寝入っ て い た 。 父 も 深い 眠り の 裏 に そっと 置か れ た 人 の よう に 静か に し て い た 。 私 は 忍び足 で また 自分 の 寝床 へ 帰っ た 。
私 は 兄 と いっしょ の 蚊帳 の 中 に 寝 た 。 妹 の 夫 だけ は 、 客扱い を 受け て いる せい か 、 独り 離れ た 座敷 に 入っ て 休ん だ 。
「 関 さん も 気の毒 だ ね 。 ああ 幾日 も 引っ張ら れ て 帰れ なくっ ちゃあ 」
関 という の は その 人 の 苗字 で あっ た 。
「 しかし そんな 忙しい 身体 で も ない ん だ から 、 ああ し て 泊っ て い て くれる ん でしょ う 。 関 さん より も 兄さん の 方 が 困る でしょ う 、 こう 長く なっ ちゃ 」
「 困っ て も 仕方 が ない 。 外 の 事 と 違う から な 」
兄 と 床 を 並べ て 寝る 私 は 、 こんな 寝物語 を し た 。 兄 の 頭 に も 私 の 胸 に も 、 父 は どうせ 助から ない という 考え が あっ た 。 どうせ 助から ない もの なら ば という 考え も あっ た 。 我々 は 子 として 親 の 死ぬ の を 待っ て いる よう な もの で あっ た 。 しかし 子 として の 我々 は それ を 言葉 の 上 に 表わす の を 憚 かっ た 。 そうして お互い に お互い が どんな 事 を 思っ て いる か を よく 理解し合っ て い た 。
「 お父さん は 、 まだ 治る 気 で いる よう だ な 」 と 兄 が 私 に いっ た 。
実際 兄 の いう 通り に 見える ところ も ない で は なかっ た 。 近所 の もの が 見舞 に くる と 、 父 は 必ず 会う と いっ て 承知 し なかっ た 。 会え ば きっと 、 私 の 卒業 祝い に 呼ぶ 事 が でき なかっ た の を 残念 がっ た 。 その 代り 自分 の 病気 が 治っ たら という よう な 事 も 時々 付け加え た 。
「 お前 の 卒業 祝い は 已め に なっ て 結構 だ 。 おれ の 時 に は 弱っ た から ね 」 と 兄 は 私 の 記憶 を 突 ッ つい た 。 私 は アルコール に 煽ら れ た その 時 の 乱雑 な 有様 を 想い 出し て 苦笑 し た 。 飲む もの や 食う もの を 強いて 廻る 父 の 態度 も 、 にがにがしく 私 の 眼 に 映っ た 。
私 たち は それほど 仲 の 好い 兄弟 で は なかっ た 。 小さい うち は 好く 喧嘩 を し て 、 年 の 少ない 私 の 方 が いつ でも 泣かさ れ た 。 学校 へ はいっ て から の 専門 の 相違 も 、 全く 性格 の 相違 から 出 て い た 。 大学 に いる 時分 の 私 は 、 ことに 先生 に 接触 し た 私 は 、 遠く から 兄 を 眺め て 、 常に 動物 的 だ と 思っ て い た 。 私 は 長く 兄 に 会わ なかっ た ので 、 また 懸け隔たっ た 遠く に い た ので 、 時 から いっ て も 距離 から いっ て も 、 兄 は いつ でも 私 に は 近く なかっ た の で ある 。 それでも 久しぶり に こう 落ち合っ て みる と 、 兄弟 の 優しい 心持 が どこ から か 自然 に 湧い て 出 た 。 場合 が 場合 な の も その 大きな 源 因 に なっ て い た 。 二 人 に 共通 な 父 、 その 父 の 死の う と し て いる 枕元 で 、 兄 と 私 は 握手 し た の で あっ た 。
「 お前 これから どう する 」 と 兄 は 聞い た 。 私 は また 全く 見当 の 違っ た 質問 を 兄 に 掛け た 。
「 一体 家 の 財産 は どう なっ てる ん だろ う 」
「 おれ は 知ら ない 。 お父さん は まだ 何 と も いわ ない から 。 しかし 財産 って いっ た ところ で 金 として は 高 の 知れ た もの だろ う 」
母 は また 母 で 先生 の 返事 の 来る の を 苦 に し て い た 。
「 まだ 手紙 は 来 ない かい 」 と 私 を 責め た 。
「 先生 先生 という の は 一体 誰 の 事 だい 」 と 兄 が 聞い た 。
「 こないだ 話し た じゃ ない か 」 と 私 は 答え た 。 私 は 自分 で 質問 を し て おき ながら 、 すぐ 他 の 説明 を 忘れ て しまう 兄 に対して 不快 の 念 を 起し た 。
「 聞い た 事 は 聞い た けれども 」
兄 は 必竟 聞い て も 解ら ない という の で あっ た 。 私 から 見れ ば なに も 無理 に 先生 を 兄 に 理解 し て もらう 必要 は なかっ た 。 けれども 腹 は 立っ た 。 また 例 の 兄 らしい 所 が 出 て 来 た と 思っ た 。
先生 先生 と 私 が 尊敬 する 以上 、 その 人 は 必ず 著名 の 士 で なく て は なら ない よう に 兄 は 考え て い た 。 少なくとも 大学 の 教授 ぐらい だろ う と 推察 し て い た 。 名 も ない 人 、 何 も し て い ない 人 、 それ が どこ に 価値 を もっ て いる だろ う 。 兄 の 腹 は この 点 において 、 父 と 全く 同じ もの で あっ た 。 けれども 父 が 何 も でき ない から 遊ん で いる の だ と 速断 する の に 引き かえ て 、 兄 は 何 か やれる 能力 が ある のに 、 ぶらぶら し て いる の は 詰ら ん 人間 に 限る といった 風 の 口吻 を 洩らし た 。
「 イゴイスト は いけ ない ね 。 何 も し ない で 生き て いよ う という の は 横着 な 了簡 だ から ね 。 人 は 自分 の もっ て いる 才能 を できるだけ 働かせ なくっ ちゃ 嘘 だ 」
私 は 兄 に 向かっ て 、 自分 の 使っ て いる イゴイスト という 言葉 の 意味 が よく 解る か と 聞き返し て やり たかっ た 。
「 それでも その 人 の お蔭 で 地位 が できれ ば まあ 結構 だ 。 お父さん も 喜ん でる よう じゃ ない か 」
兄 は 後 から こんな 事 を いっ た 。 先生 から 明瞭 な 手紙 の 来 ない 以上 、 私 は そう 信ずる 事 も でき ず 、 また そう 口 に 出す 勇気 も なかっ た 。 それ を 母 の 早 呑み込み で みんな に そう 吹聴 し て しまっ た 今 と なっ て みる と 、 私 は 急 に それ を 打ち消す 訳 に 行か なく なっ た 。 私 は 母 に 催促 さ れる まで も なく 、 先生 の 手紙 を 待ち受け た 。 そうして その 手紙 に 、 どうか みんな の 考え て いる よう な 衣食 の 口 の 事 が 書い て あれ ば いい が と 念じ た 。 私 は 死に 瀕 し て いる 父 の 手前 、 その 父 に 幾分 で も 安心 さ せ て やり たい と 祈り つつ ある 母 の 手前 、 働か なけれ ば 人間 で ない よう に いう 兄 の 手前 、 その他 妹 の 夫 だの 伯父 だの 叔母 だ の の 手前 、 私 の ちっとも 頓着 し て い ない 事 に 、 神経 を 悩まさ なけれ ば なら なかっ た 。
父 が 変 な 黄色い もの も 嘔 い た 時 、 私 は かつて 先生 と 奥さん から 聞かさ れ た 危険 を 思い出し た 。 「 ああ し て 長く 寝 て いる ん だ から 胃 も 悪く なる はず だ ね 」 といった 母 の 顔 を 見 て 、 何 も 知ら ない その 人 の 前 に 涙ぐん だ 。
兄 と 私 が 茶の間 で 落ち合っ た 時 、 兄 は 「 聞い た か 」 と いっ た 。 それ は 医者 が 帰り際 に 兄 に 向っ て いっ た 事 を 聞い た か という 意味 で あっ た 。 私 に は 説明 を 待た ない でも その 意味 が よく 解っ て い た 。
「 お前 ここ へ 帰っ て 来 て 、 宅 の 事 を 監理 する 気 が ない か 」 と 兄 が 私 を 顧み た 。 私 は 何とも 答え なかっ た 。
「 お母さん 一 人 じゃ 、 どう する 事 も でき ない だろ う 」 と 兄 が また いっ た 。 兄 は 私 を 土 の 臭い を 嗅い で 朽ち て 行っ て も 惜しく ない よう に 見 て い た 。
「 本 を 読む だけ なら 、 田舎 で も 充分 できる し 、 それ に 働く 必要 も なくなる し 、 ちょうど 好い だろ う 」
「 兄さん が 帰っ て 来る の が 順 です ね 」 と 私 が いっ た 。
「 おれ に そんな 事 が できる もの か 」 と 兄 は 一 口 に 斥け た 。 兄 の 腹の中 に は 、 世の中 で これから 仕事 を しよ う という 気 が 充ち 満ち て い た 。
「 お前 が いや なら 、 まあ 伯父 さん に でも 世話 を 頼む ん だ が 、 それにしても お母さん は どっち か で 引き取ら なくっ ちゃ なる まい 」
「 お母さん が ここ を 動く か 動か ない か が すでに 大きな 疑問 です よ 」
兄弟 は まだ 父 の 死な ない 前 から 、 父 の 死ん だ 後 について 、 こんな 風 に 語り合っ た 。
父 は 時々 囈語 を いう よう に なっ た 。
「 乃木 大将 に 済まない 。 実に 面目次第 が ない 。 いえ 私 も すぐ お 後 から 」
こんな 言葉 を ひょいひょい 出し た 。 母 は 気味 を 悪 がっ た 。 なるべく みんな を 枕元 へ 集め て おき た がっ た 。 気 の たしか な 時 は 頻りに 淋し がる 病人 に も それ が 希望 らしく 見え た 。 ことに 室 の 中 を 見廻し て 母 の 影 が 見え ない と 、 父 は 必ず 「 お 光 は 」 と 聞い た 。 聞か ない で も 、 眼 が それ を 物語っ て い た 。 私 は よく 起っ て 母 を 呼び に 行っ た 。 「 何 か ご用 です か 」 と 、 母 が 仕掛け た 用 を そのまま に し て おい て 病室 へ 来る と 、 父 は ただ 母 の 顔 を 見詰める だけ で 何 も いわ ない 事 が あっ た 。 そう か と 思う と 、 まるで 懸け離れ た 話 を し た 。 突然 「 お 光 お前 に も 色々 世話 に なっ た ね 」 など と 優しい 言葉 を 出す 時 も あっ た 。 母 は そういう 言葉 の 前 に きっと 涙ぐん だ 。 そうした 後 で は また きっと 丈夫 で あっ た 昔 の 父 を その 対照 として 想い出 すら しかっ た 。
「 あんな 憐れ っぽい 事 を お 言い だ が ね 、 あれ でも と は ずいぶん 酷かっ た ん だ よ 」
母 は 父 の ため に 箒 で 背中 を どやさ れ た 時 の 事 など を 話し た 。 今 まで 何 遍 も それ を 聞かさ れ た 私 と 兄 は 、 いつも と は まるで 違っ た 気分 で 、 母 の 言葉 を 父 の 記念 の よう に 耳 へ 受け入れ た 。
父 は 自分 の 眼 の 前 に 薄暗く 映る 死 の 影 を 眺め ながら 、 まだ 遺言 らしい もの を 口 に 出さ なかっ た 。
「 今 の うち 何 か 聞い て おく 必要 は ない か な 」 と 兄 が 私 の 顔 を 見 た 。
「 そう だ なあ 」 と 私 は 答え た 。 私 は こちら から 進ん で そんな 事 を 持ち出す の も 病人 の ため に 好し 悪し だ と 考え て い た 。 二 人 は 決し かね て ついに 伯父 に 相談 を かけ た 。 伯父 も 首 を 傾け た 。
「 いい たい 事 が ある のに 、 いわ ない で 死ぬ の も 残念 だろ う し 、 と いっ て 、 こっち から 催促 する の も 悪い かも 知れ ず 」
話 は とうとう 愚図 愚図 に なっ て しまっ た 。 その うち に 昏睡 が 来 た 。 例 の 通り 何 も 知ら ない 母 は 、 それ を ただ の 眠り と 思い 違え て かえって 喜ん だ 。 「 まあ ああ し て 楽 に 寝 られれ ば 、 傍 に いる もの も 助かり ます 」 と いっ た 。
父 は 時々 眼 を 開け て 、 誰 は どう し た など と 突然 聞い た 。 その 誰 は つい 先刻 まで そこ に 坐っ て い た 人 の 名 に 限ら れ て い た 。 父 の 意識 に は 暗い 所 と 明るい 所 と でき て 、 その 明るい 所 だけ が 、 闇 を 縫う 白い 糸 の よう に 、 ある 距離 を 置い て 連続 する よう に みえ た 。 母 が 昏睡 状態 を 普通 の 眠り と 取り違え た の も 無理 は なかっ た 。
そのうち 舌 が 段々 縺れ て 来 た 。 何 か いい 出し て も 尻 が 不明瞭 に 了 る ため に 、 要領 を 得 ない で しまう 事 が 多く あっ た 。 その くせ 話し 始める 時 は 、 危篤 の 病人 と は 思わ れ ない ほど 、 強い 声 を 出し た 。 我々 は 固 より 不断 以上 に 調子 を 張り上げ て 、 耳元 へ 口 を 寄せる よう に し なけれ ば なら なかっ た 。
「 頭 を 冷やす と 好い 心持 です か 」
「 うん 」
私 は 看護 婦 を 相手 に 、 父 の 水枕 を 取り 更 え て 、 それ から 新しい 氷 を 入れ た 氷嚢 を 頭 の 上 へ 載せ た 。 がさがさ に 割ら れ て 尖り 切っ た 氷 の 破片 が 、 嚢 の 中 で 落ちつく 間 、 私 は 父 の 禿げ 上っ た 額 の 外 で それ を 柔らか に 抑え て い た 。 その 時 兄 が 廊下 伝い に は いっ て 来 て 、 一 通 の 郵便 を 無言 の まま 私 の 手 に 渡し た 。 空い た 方 の 左手 を 出し て 、 その 郵便 を 受け取っ た 私 は すぐ 不審 を 起し た 。
それ は 普通 の 手紙 に 比べる と よほど 目方 の 重い もの で あっ た 。 並 の 状袋 に も 入れ て なかっ た 。 また 並 の 状袋 に 入れ られ べき 分量 で も なかっ た 。 半紙 で 包ん で 、 封じ目 を 鄭 寧 に 糊 で 貼り 付け て あっ た 。 私 は それ を 兄 の 手 から 受け取っ た 時 、 すぐ その 書留 で ある 事 に 気が付い た 。 裏 を 返し て 見る と そこ に 先生 の 名 が つつしん だ 字 で 書い て あっ た 。 手 の 放せ ない 私 は 、 すぐ 封 を 切る 訳 に 行か ない ので 、 ちょっと それ を 懐 に 差し込ん だ 。
その 日 は 病人 の 出来 が ことに 悪い よう に 見え た 。 私 が 厠 へ 行こ う として 席 を 立っ た 時 、 廊下 で 行き合っ た 兄 は 「 どこ へ 行く 」 と 番兵 の よう な 口調 で 誰何 し た 。
「 どうも 様子 が 少し 変 だ から なる べく 傍 に いる よう に し なくっ ちゃ いけ ない よ 」 と 注意 し た 。
私 も そう 思っ て い た 。 懐中 し た 手紙 は そのまま に し て また 病室 へ 帰っ た 。 父 は 眼 を 開け て 、 そこ に 並ん で いる 人 の 名前 を 母 に 尋ね た 。 母 が あれ は 誰 、 これ は 誰 と 一々 説明 し て やる と 、 父 は その たび に 首肯い た 。 首肯か ない 時 は 、 母 が 声 を 張り あげ て 、 何 々 さん です 、 分り まし た か と 念 を 押し た 。
「 どうも 色々 お世話 に なり ます 」
父 は こう いっ た 。 そうして また 昏睡 状態 に 陥っ た 。 枕辺 を 取り巻い て いる 人 は 無言 の まま しばらく 病人 の 様子 を 見詰め て い た 。 やがて その 中 の 一 人 が 立っ て 次の間 へ 出 た 。 すると また 一 人 立っ た 。 私 も 三 人 目 に とうとう 席 を 外し て 、 自分 の 室 へ 来 た 。 私 に は 先刻 懐 へ 入れ た 郵便 物 の 中 を 開け て 見よ う という 目的 が あっ た 。 それ は 病人 の 枕元 でも 容易 に できる 所作 に は 違い なかっ た 。 しかし 書か れ た ものの 分量 が あまりに 多 過ぎる ので 、 一息 に そこ で 読み通す 訳 に は 行か なかっ た 。 私 は 特別 の 時間 を 偸 んで それ に 充て た 。
私 は 繊維 の 強い 包み 紙 を 引き 掻く よう に 裂き 破っ た 。 中 から 出 た もの は 、 縦横 に 引い た 罫 の 中 へ 行儀 よく 書い た 原稿 様 の もの で あっ た 。 そう し て 封じる 便宜 の ため に 、 四 つ折 に 畳ま れ て あっ た 。 私 は 癖 の つい た 西洋 紙 を 、 逆 に 折り返し て 読み やすい よう に 平たく し た 。
私 の 心 は この 多量 の 紙 と 印 気 が 、 私 に 何事 を 語る の だろ う か と 思っ て 驚い た 。 私 は 同時に 病室 の 事 が 気 に かかっ た 。 私 が この かき もの を 読み 始め て 、 読み 終ら ない 前 に 、 父 は きっと どうか なる 、 少なくとも 、 私 は 兄 から か 母 から か 、 それ で なけれ ば 伯父 から か 、 呼ば れる に 極 っ て いる という 予覚 が あっ た 。 私 は 落ち 付い て 先生 の 書い た もの を 読む 気 に なれ なかっ た 。 私 は そわそわ し ながら ただ 最初 の 一 頁 を 読ん だ 。 その 頁 は 下 の よう に 綴ら れ て い た 。
「 あなた から 過去 を 問いたださ れ た 時 、 答える 事 の でき なかっ た 勇気 の ない 私 は 、 今 あなた の 前 に 、 それ を 明白 に 物語る 自由 を 得 た と 信じ ます 。 しかし その 自由 は あなた の 上京 を 待っ て いる うち に は また 失わ れ て しまう 世間 的 の 自由 に 過ぎ ない の で あり ます 。 したがって 、 それ を 利用 できる 時 に 利用 し なけれ ば 、 私 の 過去 を あなた の 頭 に 間接 の 経験 として 教え て 上げる 機会 を 永久 に 逸する よう に なり ます 。 そう する と 、 あの 時 あれ ほど 堅く 約束 し た 言葉 が まるで 嘘 に なり ます 。 私 は やむを得ず 、 口 で いう べき ところ を 、 筆 で 申し上げる 事 に し まし た 」
私 は そこ まで 読ん で 、 始めて この 長い もの が 何 の ため に 書か れ た の か 、 その 理由 を 明らか に 知る 事 が でき た 。 私 の 衣食 の 口 、 そんな もの について 先生 が 手紙 を 寄こす 気遣い は ない と 、 私 は 初手 から 信じ て い た 。 しかし 筆 を 執る こと の 嫌い な 先生 が 、 どうして あの 事件 を こう 長く 書い て 、 私 に 見せる 気 に なっ た の だろ う 。 先生 は なぜ 私 の 上京 する まで 待っ て い られ ない だろ う 。
「 自由 が 来 た から 話す 。 しかし その 自由 は また 永久 に 失わ れ なけれ ば なら ない 」
私 は 心 の うち で こう 繰り返し ながら 、 その 意味 を 知る に 苦しん だ 。 私 は 突然 不安 に 襲わ れ た 。 私 は つづい て 後 を 読も う と し た 。 その 時 病室 の 方 から 、 私 を 呼ぶ 大きな 兄 の 声 が 聞こえ た 。 私 は また 驚い て 立ち上っ た 。 廊下 を 馳 け 抜ける よう に し て みんな の いる 方 へ 行っ た 。 私 は いよいよ 父 の 上 に 最後 の 瞬間 が 来 た の だ と 覚悟 し た 。
病室 に は いつの間にか 医者 が 来 て い た 。 なるべく 病人 を 楽 に する という 主意 から また 浣腸 を 試みる ところ で あっ た 。 看護 婦 は 昨夜 の 疲れ を 休める ため に 別室 で 寝 て い た 。 慣れ ない 兄 は 起っ て まごまご し て い た 。 私 の 顔 を 見る と 、 「 ちょっと 手 を お 貸し 」 といった まま 、 自分 は 席 に 着い た 。 私 は 兄 に 代っ て 、 油紙 を 父 の 尻 の 下 に 宛てがっ たり し た 。
父 の 様子 は 少し くつろい で 来 た 。 三 十 分 ほど 枕元 に 坐っ て い た 医者 は 、 浣腸 の 結果 を 認め た 上 、 また 来る と いっ て 、 帰っ て 行っ た 。 帰り際 に 、 もしも の 事 が あっ たら いつ でも 呼ん で くれる よう に わざわざ 断っ て い た 。
私 は 今にも 変 が あり そう な 病室 を 退い て また 先生 の 手紙 を 読も う と し た 。 しかし 私 は すこしも 寛 くり し た 気分 に なれ なかっ た 。 机 の 前 に 坐る や 否 や 、 また 兄 から 大きな 声 で 呼ば れ そう で なら なかっ た 。 そうして 今度 呼ば れれ ば 、 それ が 最後 だ という 畏怖 が 私 の 手 を 顫 わし た 。 私 は 先生 の 手紙 を ただ 無意味 に 頁 だけ 剥繰 って 行っ た 。 私 の 眼 は 几帳面 に 枠 の 中 に 篏 め られ た 字画 を 見 た 。 けれども それ を 読む 余裕 は なかっ た 。 拾い読み に する 余裕 すら 覚 束 なかっ た 。 私 は 一番 し まい の 頁 まで 順々 に 開け て 見 て 、 また それ を 元 の 通り に 畳ん で 机 の 上 に 置こ う と し た 。 その 時 ふと 結末 に 近い 一句 が 私 の 眼 に はいっ た 。
「 この 手紙 が あなた の 手 に 落ちる 頃 に は 、 私 は もう この世 に は い ない でしょ う 。 とくに 死ん で いる でしょ う 」
私 は はっと 思っ た 。 今 まで ざわざわ と 動い て い た 私 の 胸 が 一 度 に 凝結 し た よう に 感じ た 。 私 は また 逆 に 頁 を はぐり 返し た 。 そうして 一 枚 に 一句 ぐらい ずつ の 割 で 倒 に 読ん で 行っ た 。 私 は 咄嗟 の 間 に 、 私 の 知ら なけれ ば なら ない 事 を 知ろ う として 、 ちらちら する 文字 を 、 眼 で 刺し通そ う と 試み た 。 その 時 私 の 知ろ う と する の は 、 ただ 先生 の 安否 だけ で あっ た 。 先生 の 過去 、 かつて 先生 が 私 に 話そ う と 約束 し た 薄暗い その 過去 、 そんな もの は 私 に 取っ て 、 全く 無用 で あっ た 。 私 は 倒 ま に 頁 を はぐり ながら 、 私 に 必要 な 知識 を 容易 に 与え て くれ ない この 長い 手紙 を 自 烈 た そう に 畳ん だ 。
私 は また 父 の 様子 を 見 に 病室 の 戸口 まで 行っ た 。 病人 の 枕辺 は 存外 静か で あっ た 。 頼り な さ そう に 疲れ た 顔 を し て そこ に 坐っ て いる 母 を 手 招 ぎし て 、 「 どう です か 様子 は 」 と 聞い た 。 母 は 「 今 少し 持ち 合っ てる よう だ よ 」 と 答え た 。 私 は 父 の 眼 の 前 へ 顔 を 出し て 、 「 どう です 、 浣腸 し て 少し は 心持 が 好く なり まし た か 」 と 尋ね た 。 父 は 首肯い た 。 父 は はっきり 「 有難う 」 と いっ た 。 父 の 精神 は 存外 朦朧 と し て い なかっ た 。
私 は また 病室 を 退い て 自分 の 部屋 に 帰っ た 。 そこで 時計 を 見 ながら 、 汽車 の 発着 表 を 調べ た 。 私 は 突然 立っ て 帯 を 締め 直し て 、 袂 の 中 へ 先生 の 手紙 を 投げ込ん だ 。 それから 勝手口 から 表 へ 出 た 。 私 は 夢中 で 医者 の 家 へ 馳 け 込ん だ 。 私 は 医者 から 父 が もう 二 、 三 日 保つ だろ う か 、 そこ の ところ を 判然 聞こ う と し た 。 注射 で も 何 でも し て 、 保た し て くれ と 頼も う と し た 。 医者 は 生憎 留守 で あっ た 。 私 に は 凝 として 彼 の 帰る の を 待ち受ける 時間 が なかっ た 。 心 の 落ち 付き も なかっ た 。 私 は すぐ 俥 を 停車 場 へ 急が せ た 。
私 は 停車場 の 壁 へ 紙片 を 宛てがっ て 、 その 上 から 鉛筆 で 母 と 兄 あて で 手紙 を 書い た 。 手紙 は ごく 簡単 な もの で あっ た が 、 断ら ない で 走る より まだ 増し だろ う と 思っ て 、 それ を 急い で 宅 へ 届ける よう に 車夫 に 頼ん だ 。 そう し て 思い切っ た 勢い で 東京 行き の 汽車 に 飛び乗っ て しまっ た 。 私 はご う ご う 鳴る 三 等 列車 の 中 で 、 また 袂 から 先生 の 手紙 を 出し て 、 ようやく 始め から し まい まで 眼 を 通し た 。
「 … … 私 は この 夏 あなた から 二 、 三 度 手紙 を 受け取り まし た 。 東京 で 相当 の 地位 を 得 たい から 宜しく 頼む と 書い て あっ た の は 、 たしか 二 度目 に 手 に 入っ た もの と 記憶 し て い ます 。 私 は それ を 読ん だ 時 何とか し たい と 思っ た の です 。 少なくとも 返事 を 上げ なけれ ば 済ま ん と は 考え た の です 。 しかし 自白 する と 、 私 は あなた の 依頼 に対して 、 まるで 努力 を し なかっ た の です 。 ご 承知 の 通り 、 交際 区域 の 狭い と いう より も 、 世の中 に たった 一 人 で 暮し て いる といった 方 が 適切 な くらい の 私 に は 、 そういう 努力 を あえて する 余地 が 全く ない の です 。 しかし それ は 問題 で は あり ませ ん 。 実 を いう と 、 私 は この 自分 を どう すれ ば 好い の か と 思い煩っ て い た ところ な の です 。 この まま 人間 の 中 に 取り残さ れ た ミイラ の よう に 存在 し て 行こ う か 、 それとも … … その 時分 の 私 は 「 それとも 」 という 言葉 を 心 の うち で 繰り返す たび に ぞっと し まし た 。 馳足 で 絶壁 の 端 まで 来 て 、 急 に 底 の 見え ない 谷 を 覗き 込ん だ 人 の よう に 。 私 は 卑怯 でし た 。 そうして 多く の 卑怯 な 人 と 同じ 程度 において 煩悶 し た の です 。 遺憾 ながら 、 その 時 の 私 に は 、 あなた という もの が ほとんど 存在 し て い なかっ た と いっ て も 誇張 で は あり ませ ん 。 一 歩 進め て いう と 、 あなた の 地位 、 あなた の 糊口 の 資 、 そんな もの は 私 にとって まるで 無意味 な の でし た 。 どう でも 構わ なかっ た の です 。 私 は それ どころ の 騒ぎ で なかっ た の です 。 私 は 状差 へ あなた の 手紙 を 差し た なり 、 依然として 腕組 を し て 考え込ん で い まし た 。 宅 に 相応 の 財産 が ある もの が 、 何 を 苦しん で 、 卒業 する か し ない のに 、 地位 地位 と いっ て 藻 掻き 廻る の か 。 私 は むしろ 苦々しい 気分 で 、 遠く に いる あなた に こんな 一瞥 を 与え た だけ でし た 。 私 は 返事 を 上げ なけれ ば 済まない あなた に対して 、 言訳 の ため に こんな 事 を 打ち明ける の です 。 あなた を 怒らす ため に わざと 無 躾 な 言葉 を 弄する の で は あり ませ ん 。 私 の 本意 は 後 を ご覧 に なれ ば よく 解る 事 と 信じ ます 。 とにかく 私 は 何とか 挨拶 す べき ところ を 黙っ て い た の です から 、 私 は この 怠慢 の 罪 を あなた の 前 に 謝 し たい と 思い ます 。
その後 私 は あなた に 電報 を 打ち まし た 。 有体 に いえ ば 、 あの 時 私 は ちょっと あなた に 会い たかっ た の です 。 それから あなた の 希望 通り 私 の 過去 を あなた の ため に 物語り たかっ た の です 。 あなた は 返電 を 掛け て 、 今 東京 へ は 出 られ ない と 断っ て 来 まし た が 、 私 は 失望 し て 永らく あの 電報 を 眺め て い まし た 。 あなた も 電報 だけ で は 気 が 済まなかっ た と みえ て 、 また 後 から 長い 手紙 を 寄こし て くれ た ので 、 あなた の 出 京 でき ない 事情 が よく 解り まし た 。 私 は あなた を 失礼 な 男 だ と も 何とも 思う 訳 が あり ませ ん 。 あなた の 大事 な お父さん の 病気 を そっち 退け に し て 、 何で あなた が 宅 を 空け られる もの です か 。 その お父さん の 生死 を 忘れ て いる よう な 私 の 態度 こそ 不都合 です 。 —— 私 は 実際 あの 電報 を 打つ 時 に 、 あなた の お父さん の 事 を 忘れ て い た の です 。 その くせ あなた が 東京 に いる 頃 に は 、 難症 だ から よく 注意 し なくっ て は いけ ない と 、 あれ ほど 忠告 し た の は 私 です のに 。 私 は こういう 矛盾 な 人間 な の です 。 あるいは 私 の 脳髄 より も 、 私 の 過去 が 私 を 圧迫 する 結果 こんな 矛盾 な 人間 に 私 を 変化 さ せる の かも 知れ ませ ん 。 私 は この 点 において も 充分 私 の 我 を 認め て い ます 。 あなた に 許し て もらわ なく て は なり ませ ん 。
あなた の 手紙 、 —— あなた から 来 た 最後 の 手紙 —— を 読ん だ 時 、 私 は 悪い 事 を し た と 思い まし た 。 それで その 意味 の 返事 を 出そ う か と 考え て 、 筆 を 執り かけ まし た が 、 一行 も 書か ず に 已め まし た 。 どうせ 書く なら 、 この 手紙 を 書い て 上げ たかっ た から 、 そうして この 手紙 を 書く に は まだ 時機 が 少し 早 過ぎ た から 、 已め に し た の です 。 私 が ただ 来る に 及ば ない という 簡単 な 電報 を 再び 打っ た の は 、 それ が ため です 。
「 私 は それ から この 手紙 を 書き出し まし た 。 平生 筆 を 持ち つけ ない 私 に は 、 自分 の 思う よう に 、 事件 なり 思想 なり が 運ば ない の が 重い 苦痛 でし た 。 私 は もう少し で 、 あなた に対する 私 の この 義務 を 放擲 する ところ でし た 。 しかし いくら 止そ う と 思っ て 筆 を 擱 い て も 、 何 に も なり ませ ん でし た 。 私 は 一 時間 経た ない うち に また 書き たく なり まし た 。 あなた から 見 たら 、 これ が 義務 の 遂行 を 重んずる 私 の 性格 の よう に 思わ れる かも 知れ ませ ん 。 私 も それ は 否み ませ ん 。 私 は あなた の 知っ て いる 通り 、 ほとんど 世間 と 交渉 の ない 孤独 な 人間 です から 、 義務 と いう ほど の 義務 は 、 自分 の 左右 前後 を 見廻し て も 、 どの 方角 に も 根 を 張っ て おり ませ ん 。 故意 か 自然 か 、 私 は それ を できるだけ 切り詰め た 生活 を し て い た の です 。 けれども 私 は 義務 に 冷淡 だ から こう なっ た の で は あり ませ ん 。 むしろ 鋭敏 過ぎ て 刺戟 に 堪える だけ の 精力 が ない から 、 ご覧 の よう に 消極 的 な 月日 を 送る 事 に なっ た の です 。 だから 一旦 約束 し た 以上 、 それ を 果たさ ない の は 、 大変 厭 な 心持 です 。 私 は あなた に対して この 厭 な 心持 を 避ける ため に でも 、 擱 い た 筆 を また 取り上げ なけれ ば なら ない の です 。
その 上 私 は 書き たい の です 。 義務 は 別 として 私 の 過去 を 書き たい の です 。 私 の 過去 は 私 だけ の 経験 だ から 、 私 だけ の 所有 と いっ て も 差支え ない でしょ う 。 それ を 人 に 与え ない で 死ぬ の は 、 惜しい と も いわ れる でしょ う 。 私 に も 多少 そんな 心持 が あり ます 。 ただし 受け入れる 事 の でき ない 人 に 与える くらい なら 、 私 は むしろ 私 の 経験 を 私 の 生命 と共に 葬っ た 方 が 好い と 思い ます 。 実際 ここ に あなた という 一 人 の 男 が 存在 し て い ない なら ば 、 私 の 過去 は ついに 私 の 過去 で 、 間接 に も 他人 の 知識 に は なら ない で 済ん だ でしょ う 。 私 は 何 千 万 と いる 日本人 の うち で 、 ただ あなた だけ に 、 私 の 過去 を 物語り たい の です 。 あなた は 真面目 だ から 。 あなた は 真面目 に 人生 そのもの から 生き た 教訓 を 得 たい と いっ た から 。
私 は 暗い 人世 の 影 を 遠慮なく あなた の 頭 の 上 に 投げかけ て 上げ ます 。 しかし 恐れ て は いけ ませ ん 。 暗い もの を 凝 と 見詰め て 、 その 中 から あなた の 参考 に なる もの を お 攫み なさい 。 私 の 暗い という の は 、 固 より 倫理 的 に 暗い の です 。 私 は 倫理 的 に 生れ た 男 です 。 また 倫理 的 に 育て られ た 男 です 。 その 倫理 上 の 考え は 、 今 の 若い 人 と 大分 違っ た ところ が ある かも 知れ ませ ん 。 しかし どう 間違っ て も 、 私 自身 の もの です 。 間に合せ に 借り た 損料 着 で は あり ませ ん 。 だから これから 発達 しよ う という あなた に は 幾分 か 参考 に なる だろ う と 思う の です 。
あなた は 現代 の 思想 問題 について 、 よく 私 に 議論 を 向け た 事 を 記憶 し て いる でしょ う 。 私 の それ に対する 態度 も よく 解っ て いる でしょ う 。 私 は あなた の 意見 を 軽蔑 まで し なかっ た けれども 、 決して 尊敬 を 払い 得る 程度 に は なれ なかっ た 。 あなた の 考え に は 何ら の 背景 も なかっ た し 、 あなた は 自分 の 過去 を もつ に は 余りに 若 過ぎ た から です 。 私 は 時々 笑っ た 。 あなた は 物足りな そう な 顔 を ちょいちょい 私 に 見せ た 。 その 極 あなた は 私 の 過去 を 絵巻物 の よう に 、 あなた の 前 に 展開 し て くれ と 逼 っ た 。 私 は その 時 心 の うち で 、 始め て あなた を 尊敬 し た 。 あなた が 無遠慮 に 私 の 腹の中 から 、 或 る 生き た もの を 捕まえよ う という 決心 を 見せ た から です 。 私 の 心臓 を 立ち 割っ て 、 温かく 流れる 血潮 を 啜ろ う と し た から です 。 その 時 私 は まだ 生き て い た 。 死ぬ の が 厭 で あっ た 。 それで 他日 を 約し て 、 あなた の 要求 を 斥け て しまっ た 。 私 は 今 自分 で 自分 の 心臓 を 破っ て 、 その 血 を あなた の 顔 に 浴びせかけよ う と し て いる の です 。 私 の 鼓動 が 停っ た 時 、 あなた の 胸 に 新しい 命 が 宿る 事 が できる なら 満足 です 。
「 私 が 両親 を 亡くし た の は 、 まだ 私 の 廿 歳 に なら ない 時分 でし た 。 いつか 妻 が あなた に 話し て い た よう に も 記憶 し て い ます が 、 二 人 は 同じ 病気 で 死ん だ の です 。 しかも 妻 が あなた に 不審 を 起さ せ た 通り 、 ほとんど 同時 と いっ て いい くらい に 、 前後 し て 死ん だ の です 。 実 を いう と 、 父 の 病気 は 恐る べき 腸 窒扶 斯 でし た 。 それ が 傍 に い て 看護 を し た 母 に 伝染 し た の です 。
私 は 二 人 の 間 に でき た たった 一 人 の 男の子 でし た 。 宅 に は 相当 の 財産 が あっ た ので 、 むしろ 鷹揚 に 育て られ まし た 。 私 は 自分 の 過去 を 顧み て 、 あの 時 両親 が 死な ず に い て くれ た なら 、 少なくとも 父 か 母 か どっち か 、 片方 で 好い から 生き て い て くれ た なら 、 私 は あの 鷹揚 な 気分 を 今 まで 持ち 続ける 事 が でき た ろう に と 思い ます 。
私 は 二 人 の 後 に 茫然 として 取り残さ れ まし た 。 私 に は 知識 も なく 、 経験 も なく 、 また 分別 も あり ませ ん でし た 。 父 の 死ぬ 時 、 母 は 傍 に いる 事 が でき ませ ん でし た 。 母 の 死ぬ 時 、 母 に は 父 の 死ん だ 事 さえ まだ 知らせ て なかっ た の です 。 母 は それ を 覚っ て い た か 、 または 傍 の もの の いう ごとく 、 実際 父 は 回復 期 に 向い つつ ある もの と 信じ て い た か 、 それ は 分り ませ ん 。 母 は ただ 叔父 に 万事 を 頼ん で い まし た 。 そこ に 居合せ た 私 を 指さす よう に し て 、 「 この 子 を どうぞ 何分 」 と いい まし た 。 私 は その 前 から 両親 の 許可 を 得 て 、 東京 へ 出る はず に なっ て い まし た ので 、 母 は それ も ついでに いう つもり らしかっ た の です 。 それで 「 東京 へ 」 と だけ 付け加え まし たら 、 叔父 が すぐ 後 を 引き取っ て 、 「 よろしい 決して 心配 し ない が いい 」 と 答え まし た 。 母 は 強い 熱 に 堪え 得る 体質 の 女 な ん でし たろ う か 、 叔父 は 「 確か り し た もの だ 」 と いっ て 、 私 に 向っ て 母 の 事 を 褒め て い まし た 。 しかし これ が はたして 母 の 遺言 で あっ た の か どう だ か 、 今 考える と 分ら ない の です 。 母 は 無論 父 の 罹っ た 病気 の 恐る べき 名前 を 知っ て い た の です 。 そうして 、 自分 が それ に 伝染 し て いた事 も 承知 し て い た の です 。 けれども 自分 は きっと この 病気 で 命 を 取ら れる と まで 信じ て い た か どう か 、 そこ に なる と 疑う 余地 は まだ いくら で も ある だろ う と 思わ れる の です 。 その 上 熱 の 高い 時 に 出る 母 の 言葉 は 、 いかに それ が 筋道 の 通っ た 明らか な もの に せよ 、 一向 記憶 と なっ て 母 の 頭 に 影 さえ 残し て い ない 事 が しばしば あっ た の です 。 だから … … しかし そんな 事 は 問題 で は あり ませ ん 。 ただ こういう 風 に 物 を 解き ほどい て み たり 、 また ぐるぐる 廻し て 眺め たり する 癖 は 、 もう その 時分 から 、 私 に は ちゃんと 備わっ て い た の です 。 それ は あなた に も 始め から お 断わり し て おか なけれ ば なら ない と 思い ます が 、 その 実例 として は 当面 の 問題 に 大した 関係 の ない こんな 記述 が 、 かえって 役に立ち は し ない か と 考え ます 。 あなた の 方 で も まあ その つもり で 読ん で ください 。 この 性分 が 倫理 的 に 個人 の 行為 やら 動作 の 上 に 及ん で 、 私 は 後来 ますます 他 の 徳義心 を 疑う よう に なっ た の だろ う と 思う の です 。 それ が 私 の 煩悶 や 苦悩 に 向っ て 、 積極 的 に 大きな 力 を 添え て いる の は 慥か です から 覚え て い て 下さい 。
話 が 本筋 を はずれる と 、 分り 悪く なり ます から また あと へ 引き返し ましょ う 。 これ でも 私 は この 長い 手紙 を 書く のに 、 私 と 同じ 地位 に 置か れ た 他 の 人 と 比べ たら 、 あるいは 多少 落ち 付い て いや し ない か と 思っ て いる の です 。 世の中 が 眠る と 聞こえ だす あの 電車 の 響 も もう 途絶え まし た 。 雨戸 の 外 に は いつの間にか 憐れ な 虫 の 声 が 、 露 の 秋 を また 忍びやか に 思い出さ せる よう な 調子 で 微か に 鳴い て い ます 。 何 も 知ら ない 妻 は 次 の 室 で 無邪気 に すやすや 寝入っ て い ます 。 私 が 筆 を 執る と 、 一 字 一 劃 が できあがり つつ ペン の 先 で 鳴っ て い ます 。 私 は むしろ 落ち 付い た 気分 で 紙 に 向っ て いる の です 。 不馴れ の ため に ペン が 横 へ 外れる かも 知れ ませ ん が 、 頭 が 悩乱 し て 筆 が しどろ に 走る の で は ない よう に 思い ます 。
「 とにかく たった 一 人 取り残さ れ た 私 は 、 母 の いい 付け 通り 、 この 叔父 を 頼る より 外 に 途 は なかっ た の です 。 叔父 は また 一切 を 引き受け て 凡て の 世話 を し て くれ まし た 。 そう し て 私 を 私 の 希望 する 東京 へ 出 られる よう に 取り計らっ て くれ まし た 。
私 は 東京 へ 来 て 高等 学校 へ はいり まし た 。 その 時 の 高等 学校 の 生徒 は 今 より も よほど 殺伐 で 粗野 でし た 。 私 の 知っ た もの に 、 夜中 職人 と 喧嘩 を し て 、 相手 の 頭 へ 下駄 で 傷 を 負わ せ た の が あり まし た 。 それ が 酒 を 飲ん だ 揚句 の 事 な ので 、 夢中 に 擲 り 合い を し て いる 間 に 、 学校 の 制帽 を とうとう 向う の もの に 取ら れ て しまっ た の です 。 ところが その 帽子 の 裏 に は 当人 の 名前 が ちゃんと 、 菱形 の 白 いきれ の 上 に 書い て あっ た の です 。 それで 事 が 面倒 に なっ て 、 その 男 は もう少し で 警察 から 学校 へ 照会 さ れる ところ でし た 。 しかし 友達 が 色々 と 骨 を 折っ て 、 ついに 表沙汰 に せ ず に 済む よう に し て やり まし た 。 こんな 乱暴 な 行為 を 、 上品 な 今 の 空気 の なか に 育っ た あなた 方 に 聞か せ たら 、 定め て 馬鹿馬鹿しい 感じ を 起す でしょ う 。 私 も 実際 馬鹿馬鹿しく 思い ます 。 しかし 彼ら は 今 の 学生 に ない 一種 質朴 な 点 を その 代り に もっ て い た の です 。 当時 私 の 月々 叔父 から 貰っ て い た 金 は 、 あなた が 今 、 お父さん から 送っ て もらう 学資 に 比べる と 遥かに 少ない もの でし た 。 ( 無論 物価 も 違い ましょ う が ) 。 それでいて 私 は 少し の 不足 も 感じ ませ ん でし た 。 のみ なら ず 数 ある 同級生 の うち で 、 経済 の 点 にかけて は 、 決して 人 を 羨まし がる 憐れ な 境遇 に い た 訳 で は ない の です 。 今 から 回顧 する と 、 むしろ 人 に 羨まし がら れる 方 だっ た の でしょ う 。 という の は 、 私 は 月々 極 っ た 送金 の 外 に 、 書籍 費 、 ( 私 は その 時分 から 書物 を 買う 事 が 好き でし た ) 、 および 臨時 の 費用 を 、 よく 叔父 から 請求 し て 、 ずんずん それ を 自分 の 思う よう に 消費 する 事 が でき た の です から 。
何 も 知ら ない 私 は 、 叔父 を 信じ て い た ばかり で なく 、 常に 感謝 の 心 を もっ て 、 叔父 を ありがたい もの の よう に 尊敬 し て い まし た 。 叔父 は 事業 家 でし た 。 県 会議 員 に も なり まし た 。 その 関係 から で も あり ましょ う 、 政党 に も 縁故 が あっ た よう に 記憶 し て い ます 。 父 の 実 の 弟 です けれども 、 そういう 点 で 、 性格 から いう と 父 と は まるで 違っ た 方 へ 向い て 発達 し た よう に も 見え ます 。 父 は 先祖 から 譲ら れ た 遺産 を 大事 に 守っ て 行く 篤実 一方 の 男 でし た 。 楽しみ に は 、 茶 だの 花 だ の を やり まし た 。 それから 詩集 など を 読む 事 も 好き でし た 。 書画 骨董 といった 風 の もの に も 、 多く の 趣味 を もっ て いる 様子 でし た 。 家 は 田舎 に あり まし た けれども 、 二 里 ばかり 隔たっ た 市 、 —— その 市 に は 叔父 が 住ん で い た の です 、 —— その 市 から 時々 道具 屋 が 懸 物 だの 、 香炉 だ の を 持っ て 、 わざわざ 父 に 見せ に 来 まし た 。 父 は 一 口 に いう と 、 まあ マン・オフ・ミーンズ と で も 評し たら 好い の でしょ う 。 比較的 上品 な 嗜好 を もっ た 田舎 紳士 だっ た の です 。 だから 気性 から いう と 、 闊達 な 叔父 と は よほど の 懸隔 が あり まし た 。 それでいて 二 人 は また 妙 に 仲 が 好かっ た の です 。 父 は よく 叔父 を 評し て 、 自分 より も 遥か に 働き の ある 頼もしい 人 の よう に いっ て い まし た 。 自分 の よう に 、 親 から 財産 を 譲ら れ た もの は 、 どうしても 固有 の 材 幹 が 鈍る 、 つまり 世の中 と 闘う 必要 が ない から いけ ない の だ と も いっ て い まし た 。 この 言葉 は 母 も 聞き まし た 。 私 も 聞き まし た 。 父 は むしろ 私 の 心得 に なる つもり で 、 それ を い ったらしく 思わ れ ます 。 「 お前 も よく 覚え て いる が 好い 」 と 父 は その 時 わざわざ 私 の 顔 を 見 た の です 。 だから 私 は まだ それ を 忘れ ず に い ます 。 この くらい 私 の 父 から 信用 さ れ たり 、 褒め られ たり し て い た 叔父 を 、 私 が どうして 疑う 事 が できる でしょ う 。 私 に は ただ で さえ 誇り に なる べき 叔父 でし た 。 父 や 母 が 亡くなっ て 、 万事 その 人 の 世話 に なら なけれ ば なら ない 私 に は 、 もう 単なる 誇り で は なかっ た の です 。 私 の 存在 に 必要 な 人間 に なっ て い た の です 。
「 私 が 夏休み を 利用 し て 始め て 国 へ 帰っ た 時 、 両親 の 死 に 断 え た 私 の 住居 に は 、 新しい 主人 として 、 叔父 夫婦 が 入れ 代っ て 住ん で い まし た 。 これ は 私 が 東京 へ 出る 前 から の 約束 でし た 。 たった 一 人 取り残さ れ た 私 が 家 に い ない 以上 、 そう でも する より 外 に 仕方 が なかっ た の です 。
叔父 は その 頃 市 に ある 色々 な 会社 に 関係 し て い た よう です 。 業務 の 都合 から いえ ば 、 今 まで の 居宅 に 寝起き する 方 が 、 二 里 も 隔 っ た 私 の 家 に 移る より 遥か に 便利 だ と いっ て 笑い まし た 。 これ は 私 の 父母 が 亡くなっ た 後 、 どう 邸 を 始末 し て 、 私 が 東京 へ 出る か という 相談 の 時 、 叔父 の 口 を 洩れ た 言葉 で あり ます 。 私 の 家 は 旧い 歴史 を もっ て いる ので 、 少し は その 界隈 で 人 に 知ら れ て い まし た 。 あなた の 郷里 で も 同じ 事 だろ う と 思い ます が 、 田舎 で は 由緒 の ある 家 を 、 相続 人 が ある の に 壊し たり 売っ たり する の は 大 事件 です 。 今 の 私 なら その くらい の 事 は 何とも 思い ませ ん が 、 その 頃 は まだ 子供 でし た から 、 東京 へ は 出 た し 、 家 は そのまま に し て 置か なけれ ば なら ず 、 はなはだ 所 置 に 苦しん だ の です 。
叔父 は 仕方 なし に 私 の 空家 へ はいる 事 を 承諾 し て くれ まし た 。 しかし 市 の 方 に ある 住居 も そのまま に し て おい て 、 両方 の 間 を 往 っ たり 来 たり する 便宜 を 与え て もらわ なけれ ば 困る と いい まし た 。 私 に 固 より 異議 の あり よう はず が あり ませ ん 。 私 は どんな 条件 でも 東京 へ 出 られれ ば 好い くらい に 考え て い た の です 。
子供 らしい 私 は 、 故郷 を 離れ て も 、 まだ 心 の 眼 で 、 懐かし げ に 故郷 の 家 を 望ん で い まし た 。 固 より そこ に は まだ 自分 の 帰る べき 家 が ある という 旅人 の 心 で 望ん で い た の です 。 休み が 来れ ば 帰ら なく て は なら ない という 気分 は 、 いくら 東京 を 恋し がっ て 出 て 来 た 私 に も 、 力強く あっ た の です 。 私 は 熱心 に 勉強 し 、 愉快 に 遊ん だ 後 、 休み に は 帰れる と 思う その 故郷 の 家 を よく 夢 に 見 まし た 。
私 の 留守 の 間 、 叔父 は どんな 風 に 両方 の 間 を 往き来 し て い た か 知り ませ ん 。 私 の 着い た 時 は 、 家族 の もの が 、 みんな 一つ 家 の 内 に 集まっ て い まし た 。 学校 へ 出る 子供 など は 平生 おそらく 市 の 方 に い た の でしょ う が 、 これ も 休暇 の ため に 田舎 へ 遊び 半分 といった 格 で 引き取ら れ て い まし た 。
みんな 私 の 顔 を 見 て 喜び まし た 。 私 は また 父 や 母 の い た 時 より 、 かえって 賑やか で 陽気 に なっ た 家 の 様子 を 見 て 嬉し がり まし た 。 叔父 は もと 私 の 部屋 に なっ て い た 一間 を 占領 し て いる 一 番目 の 男の子 を 追い出し て 、 私 を そこ へ 入れ まし た 。 座敷 の 数 も 少なく ない の だ から 、 私 は ほか の 部屋 で 構わ ない と 辞退 し た の です けれども 、 叔父 は お前 の 宅 だ から と いっ て 、 聞き ませ ん でし た 。
私 は 折々 亡くなっ た 父 や 母 の 事 を 思い出す 外 に 、 何 の 不愉快 も なく 、 その 一 夏 を 叔父 の 家族 と共に 過ごし て 、 また 東京 へ 帰っ た の です 。 ただ 一つ その 夏 の 出来事 として 、 私 の 心 に むしろ 薄暗い 影 を 投げ た の は 、 叔父 夫婦 が 口 を 揃え て 、 まだ 高等 学校 へ 入っ た ばかり の 私 に 結婚 を 勧める 事 でし た 。 それ は 前後 で 丁度 三 、 四 回 も 繰り返さ れ た でしょ う 。 私 も 始め は ただ その 突然 な の に 驚い た だけ でし た 。 二 度目 に は 判然 断り まし た 。 三 度目 に は こっち から とうとう その 理由 を 反問 し なけれ ば なら なく なり まし た 。 彼ら の 主意 は 単簡 でし た 。 早く 嫁 を 貰っ て ここ の 家 へ 帰っ て 来 て 、 亡くなっ た 父 の 後 を 相続 しろ と いう だけ な の です 。 家 は 休暇 に なっ て 帰り さえ すれ ば 、 それで いい もの と 私 は 考え て い まし た 。 父 の 後 を 相続 する 、 それ に は 嫁 が 必要 だ から 貰う 、 両方 とも 理屈 として は 一 通り 聞こえ ます 。 ことに 田舎 の 事情 を 知っ て いる 私 に は 、 よく 解り ます 。 私 も 絶対 に それ を 嫌っ て は い なかっ た の でしょ う 。 しかし 東京 へ 修業 に 出 た ばかり の 私 に は 、 それ が 遠眼鏡 で 物 を 見る よう に 、 遥か 先 の 距離 に 望ま れる だけ でし た 。 私 は 叔父 の 希望 に 承諾 を 与え ない で 、 ついに また 私 の 家 を 去り まし た 。
「 私 は 縁談 の 事 を それなり 忘れ て しまい まし た 。 私 の 周囲 を 取り 捲い て いる 青年 の 顔 を 見る と 、 世帯染み た もの は 一 人 も い ませ ん 。 みんな 自由 です 、 そうして 悉く 単独 らしく 思わ れ た の です 。 こういう 気楽 な 人 の 中 に も 、 裏面 に はいり 込ん だら 、 あるいは 家庭 の 事情 に 余儀なく さ れ て 、 すでに 妻 を 迎え て い た もの が あっ た かも 知れ ませ ん が 、 子供 らしい 私 は そこ に 気が付き ませ ん でし た 。 それから そういう 特別 の 境遇 に 置か れ た 人 の 方 で も 、 四 辺 に 気 兼 を し て 、 なるべく は 書生 に 縁 の 遠い そんな 内輪 の 話 は し ない よう に 慎ん で い た の でしょ う 。 後 から 考える と 、 私 自身 が すでに その 組 だっ た の です が 、 私 は それ さえ 分ら ず に 、 ただ 子供 らしく 愉快 に 修学 の 道 を 歩い て 行き まし た 。
学年 の 終り に 、 私 は また 行李 を 絡げ て 、 親 の 墓 の ある 田舎 へ 帰っ て 来 まし た 。 そうして 去年 と 同じ よう に 、 父母 の い た わが家 の 中 で 、 また 叔父 夫婦 と その 子供 の 変ら ない 顔 を 見 まし た 。 私 は 再び そこ で 故郷 の 匂い を 嗅ぎ まし た 。 その 匂い は 私 に 取っ て 依然として 懐かしい もの で あり まし た 。 一 学年 の 単調 を 破る 変化 として も 有難い もの に 違い なかっ た の です 。
しかし この 自分 を 育て上げ た と 同じ よう な 匂い の 中 で 、 私 は また 突然 結婚 問題 を 叔父 から 鼻 の 先 へ 突き付け られ まし た 。 叔父 の いう 所 は 、 去年 の 勧誘 を 再び 繰り返し た のみ です 。 理由 も 去年 と 同じ でし た 。 ただ この 前 勧め られ た 時 に は 、 何ら の 目的 物 が なかっ た のに 、 今度 は ちゃんと 肝心 の 当人 を 捕まえ て い た ので 、 私 は なお 困ら せ られ た の です 。 その 当人 という の は 叔父 の 娘 すなわち 私 の 従妹 に 当る 女 でし た 。 その 女 を 貰っ て くれれ ば 、 お互い の ため に 便宜 で ある 、 父 も 存生 中 そんな 事 を 話し て い た 、 と 叔父 が いう の です 。 私 も そう すれ ば 便宜 だ と は 思い まし た 。 父 が 叔父 に そういう 風 な 話 を し た という の も あり 得 べき 事 と 考え まし た 。 しかし それ は 私 が 叔父 に いわ れ て 、 始めて 気 が 付い た ので 、 いわ れ ない 前 から 、 覚っ て い た 事柄 で は ない の です 。 だから 私 は 驚き まし た 。 驚い た けれども 、 叔父 の 希望 に 無理 の ない ところ も 、 それ が ため に よく 解り まし た 。 私 は 迂闊 な の でしょ う か 。 あるいは そう な の かも 知れ ませ ん が 、 おそらく その 従妹 に 無頓着 で あっ た の が 、 おも な 源 因 に なっ て いる の でしょ う 。 私 は 小 供 の うち から 市 に いる 叔父 の 家 へ 始終 遊び に 行き まし た 。 ただ 行く ばかり で なく 、 よく そこ に 泊り まし た 。 そうして この 従妹 と は その 時分 から 親しかっ た の です 。 あなた も ご 承知 でしょ う 、 兄妹 の 間 に 恋 の 成立 し た 例 の ない の を 。 私 は この 公認 さ れ た 事実 を 勝手 に 布 衍 し て いる かも 知れ ない が 、 始終 接触 し て 親しく なり 過ぎ た 男女 の 間 に は 、 恋 に 必要 な 刺戟 の 起る 清新 な 感じ が 失わ れ て しまう よう に 考え て い ます 。 香 を かぎ 得る の は 、 香 を 焚き 出し た 瞬間 に 限る ごとく 、 酒 を 味わう の は 、 酒 を 飲み 始め た 刹那 に ある ごとく 、 恋 の 衝動 に も こういう 際どい 一 点 が 、 時間 の 上 に 存在 し て いる と しか 思わ れ ない の です 。 一度 平気 で そこ を 通り抜け たら 、 馴れれ ば 馴れる ほど 、 親しみ が 増す だけ で 、 恋 の 神経 は だんだん 麻痺 し て 来る だけ です 。 私 は どう 考え直し て も 、 この 従妹 を 妻 に する 気 に は なれ ませ ん でし た 。
叔父 は もし 私 が 主張 する なら 、 私 の 卒業 まで 結婚 を 延ばし て も いい と いい まし た 。 けれども 善 は 急げ という 諺 も ある から 、 できる なら 今 の うち に 祝言 の 盃 だけ は 済ませ て おき たい と も いい まし た 。 当人 に 望み の ない 私 に は どっち に し た って 同じ 事 です 。 私 は また 断り まし た 。 叔父 は 厭 な 顔 を し まし た 。 従妹 は 泣き まし た 。 私 に 添わ れ ない から 悲しい の で は あり ませ ん 。 結婚 の 申し込み を 拒絶 さ れ た の が 、 女 として 辛かっ た から です 。 私 が 従妹 を 愛し て い ない ごとく 、 従妹 も 私 を 愛し て い ない 事 は 、 私 に よく 知れ て い まし た 。 私 は また 東京 へ 出 まし た 。
「 私 が 三 度目 に 帰国 し た の は 、 それから また 一 年 経っ た 夏 の 取付 でし た 。 私 は いつ でも 学年 試験 の 済む の を 待ちかね て 東京 を 逃げ まし た 。 私 に は 故郷 が それほど 懐かしかっ た から です 。 あなた に も 覚え が ある でしょ う 、 生れ た 所 は 空気 の 色 が 違い ます 、 土地 の 匂い も 格別 です 、 父 や 母 の 記憶 も 濃 か に 漂っ て い ます 。 一 年 の うち で 、 七 、 八 の 二月 を その 中 に 包ま れ て 、 穴 に 入っ た 蛇 の よう に 凝 と し て いる の は 、 私 に 取っ て 何 より も 温かい 好い 心持 だっ た の です 。
単純 な 私 は 従妹 と の 結婚 問題 について 、 さほど 頭 を 痛める 必要 が ない と 思っ て い まし た 。 厭 な もの は 断る 、 断っ て さえ しまえ ば 後 に は 何 も 残ら ない 、 私 は こう 信じ て い た の です 。 だから 叔父 の 希望 通り に 意志 を 曲げ なかっ た に も かかわら ず 、 私 は むしろ 平気 でし た 。 過去 一 年 の 間 いまだ かつて そんな 事 に 屈托 し た 覚え も なく 、 相 変ら ず の 元気 で 国 へ 帰っ た の です 。
ところが 帰っ て 見る と 叔父 の 態度 が 違っ て い ます 。 元 の よう に 好い 顔 を し て 私 を 自分 の 懐 に 抱こ う と し ませ ん 。 それでも 鷹揚 に 育っ た 私 は 、 帰っ て 四 、 五 日 の 間 は 気が付か ず に い まし た 。 ただ 何 か の 機会 に ふと 変 に 思い出し た の です 。 すると 妙 な の は 、 叔父 ばかり で は ない の です 。 叔母 も 妙 な の です 。 従妹 も 妙 な の です 。 中学校 を 出 て 、 これから 東京 の 高等 商業 へ はいる つもり だ と いっ て 、 手紙 で その 様子 を 聞き合せ たり し た 叔父 の 男の子 まで 妙 な の です 。
私 の 性分 として 考え ず に は い られ なく なり まし た 。 どうして 私 の 心持 が こう 変っ た の だろ う 。 いや どうして 向う が こう 変っ た の だろ う 。 私 は 突然 死ん だ 父 や 母 が 、 鈍い 私 の 眼 を 洗っ て 、 急 に 世の中 が 判然 見える よう に し て くれ た の で は ない か と 疑い まし た 。 私 は 父 や 母 が この世 に い なく なっ た 後 でも 、 い た 時 と 同じ よう に 私 を 愛し て くれる もの と 、 どこ か 心 の 奥 で 信じ て い た の です 。 もっとも その 頃 でも 私 は 決して 理 に 暗い 質 で は あり ませ ん でし た 。 しかし 先祖 から 譲ら れ た 迷信 の 塊 り も 、 強い 力 で 私 の 血 の 中 に 潜ん で い た の です 。 今 でも 潜ん で いる でしょ う 。
私 は たった 一 人山 へ 行っ て 、 父母 の 墓 の 前 に 跪き まし た 。 半 は 哀悼 の 意味 、 半 は 感謝 の 心持 で 跪い た の です 。 そう し て 私 の 未来 の 幸福 が 、 この 冷たい 石 の 下 に 横たわる 彼ら の 手 に まだ 握ら れ て でも いる よう な 気分 で 、 私 の 運命 を 守る べく 彼ら に 祈り まし た 。 あなた は 笑う かも しれ ない 。 私 も 笑わ れ て も 仕方 が ない と 思い ます 。 しかし 私 は そうした 人間 だっ た の です 。
私 の 世界 は 掌 を 翻す よう に 変り まし た 。 もっとも これ は 私 に 取っ て 始め て の 経験 で は なかっ た の です 。 私 が 十 六 、 七 の 時 でし たろ う 、 始めて 世の中 に 美しい もの が ある という 事実 を 発見 し た 時 に は 、 一 度 に はっと 驚き まし た 。 何 遍 も 自分 の 眼 を 疑っ て 、 何 遍 も 自分 の 眼 を 擦り まし た 。 そうして 心 の 中 で ああ 美しい と 叫び まし た 。 十 六 、 七 と いえ ば 、 男 で も 女 で も 、 俗 に いう 色気 の 付く 頃 です 。 色気 の 付い た 私 は 世の中 に ある 美しい もの の 代表 者 として 、 始めて 女 を 見る 事 が でき た の です 。 今 まで その 存在 に 少し も 気 の 付か なかっ た 異性 に対して 、 盲目 の 眼 が 忽ち 開い た の です 。 それ 以来 私 の 天地 は 全く 新しい もの と なり まし た 。
私 が 叔父 の 態度 に 心づい た の も 、 全く これ と 同じ なん でしょ う 。 俄然 として 心づい た の です 。 何 の 予感 も 準備 も なく 、 不意 に 来 た の です 。 不意 に 彼 と 彼 の 家族 が 、 今 まで と は まるで 別物 の よう に 私 の 眼 に 映っ た の です 。 私 は 驚き まし た 。 そうして この まま に し て おい て は 、 自分 の 行先 が どう なる か 分ら ない という 気 に なり まし た 。
「 私 は 今 まで 叔父 任せ に し て おい た 家 の 財産 について 、 詳しい 知識 を 得 なけれ ば 、 死ん だ 父母 に対して 済まない という 気 を 起し た の です 。 叔父 は 忙しい 身体 だ と 自称 する ごとく 、 毎晩 同じ 所 に 寝泊り は し て い ませ ん でし た 。 二 日 家 へ 帰る と 三 日 は 市 の 方 で 暮らす といった 風 に 、 両方 の 間 を 往来 し て 、 その 日 その 日 を 落ち 付き の ない 顔 で 過ごし て い まし た 。 そう し て 忙しい という 言葉 を 口癖 の よう に 使い まし た 。 何 の 疑い も 起ら ない 時 は 、 私 も 実際 に 忙しい の だろ う と 思っ て い た の です 。 それから 、 忙し がら なく て は 当世 流 で ない の だろ う と 、 皮肉 に も 解釈 し て い た の です 。 けれども 財産 の 事 について 、 時間 の 掛かる 話 を しよ う という 目的 が でき た 眼 で 、 この 忙し がる 様子 を 見る と 、 それ が 単に 私 を 避ける 口実 と しか 受け取れ なく なっ て 来 た の です 。 私 は 容易 に 叔父 を 捕まえる 機会 を 得 ませ ん でし た 。
私 は 叔父 が 市 の 方 に 妾 を もっ て いる という 噂 を 聞き まし た 。 私 は その 噂 を 昔 中学 の 同級生 で あっ た ある 友達 から 聞い た の です 。 妾 を 置く ぐらい の 事 は 、 この 叔父 として 少し も 怪しむ に 足ら ない の です が 、 父 の 生き て いる うち に 、 そんな 評判 を 耳 に 入れ た 覚え の ない 私 は 驚き まし た 。 友達 は その 外 に も 色々 叔父 について の 噂 を 語っ て 聞か せ まし た 。 一時 事業 で 失敗 し かかっ て い た よう に 他 から 思わ れ て い た のに 、 この 二 、 三 年来 また 急 に 盛り返し て 来 た という の も 、 その 一つ でし た 。 しかも 私 の 疑惑 を 強く 染め つけ た ものの 一つ でし た 。
私 は とうとう 叔父 と 談判 を 開き まし た 。 談判 という の は 少し 不穏当 かも 知れ ませ ん が 、 話 の 成行き から いう と 、 そんな 言葉 で 形容 する より 外 に 途 の ない ところ へ 、 自然 の 調子 が 落ち て 来 た の です 。 叔父 は どこ まで も 私 を 子供 扱い に しよ う と し ます 。 私 は また 始め から 猜疑 の 眼 で 叔父 に 対し て い ます 。 穏やか に 解決 の つく はず は なかっ た の です 。
遺憾 ながら 私 は 今 その 談判 の 顛末 を 詳しく ここ に 書く 事 の でき ない ほど 先 を 急い で い ます 。 実 を いう と 、 私 は これ より 以上 に 、 もっと 大事 な もの を 控え て いる の です 。 私 の ペン は 早くから そこ へ 辿り つき た がっ て いる の を 、 漸 と の 事 で 抑え つけ て いる くらい です 。 あなた に 会っ て 静か に 話す 機会 を 永久 に 失っ た 私 は 、 筆 を 執る 術 に 慣れ ない ばかり で なく 、 貴い 時間 を 惜 むという 意味 から し て 、 書き たい 事 も 省か なけれ ば なり ませ ん 。
あなた は まだ 覚え て いる でしょ う 、 私 が いつか あなた に 、 造り 付け の 悪人 が 世の中 に いる もの で は ない といった 事 を 。 多く の 善人 が いざ という 場合 に 突然 悪人 に なる の だ から 油断 し て は いけ ない といった 事 を 。 あの 時 あなた は 私 に 昂奮 し て いる と 注意 し て くれ まし た 。 そうして どんな 場合 に 、 善人 が 悪人 に 変化 する の か と 尋ね まし た 。 私 が ただ 一 口金 と 答え た 時 、 あなた は 不満 な 顔 を し まし た 。 私 は あなた の 不満 な 顔 を よく 記憶 し て い ます 。 私 は 今 あなた の 前 に 打ち明ける が 、 私 は あの 時 この 叔父 の 事 を 考え て い た の です 。 普通 の もの が 金 を 見 て 急 に 悪人 に なる 例 として 、 世の中 に 信用 する に 足る もの が 存在 し 得 ない 例 として 、 憎悪 と共に 私 は この 叔父 を 考え て い た の です 。 私 の 答え は 、 思想 界 の 奥 へ 突き進ん で 行こ う と する あなた に 取っ て 物足りなかっ た かも 知れ ませ ん 、 陳腐 だっ た かも 知れ ませ ん 。 けれども 私 に は あれ が 生き た 答え でし た 。 現に 私 は 昂奮 し て い た で は あり ませ ん か 。 私 は 冷やか な 頭 で 新しい 事 を 口 に する より も 、 熱し た 舌 で 平凡 な 説 を 述べる 方 が 生き て いる と 信じ て い ます 。 血 の 力 で 体 が 動く から です 。 言葉 が 空気 に 波動 を 伝える ばかり で なく 、 もっと 強い 物 に もっと 強く 働き掛ける 事 が できる から です 。
「 一口 で いう と 、 叔父 は 私 の 財産 を 胡 魔 化 し た の です 。 事 は 私 が 東京 へ 出 て いる 三 年 の 間 に 容易く 行わ れ た の です 。 すべて を 叔父 任せ に し て 平気 で い た 私 は 、 世間 的 に いえ ば 本当 の 馬鹿 でし た 。 世間 的 以上 の 見地 から 評すれ ば 、 あるいは 純 なる 尊い 男 と で も いえ ましょ う か 。 私 は その 時 の 己 れ を 顧み て 、 なぜ もっと 人 が 悪く 生れ て 来 なかっ た か と 思う と 、 正直 過ぎ た 自分 が 口惜しくっ て 堪り ませ ん 。 しかし また どうか し て 、 もう一度 ああ いう 生れ た まま の 姿 に 立ち 帰っ て 生き て 見 たい という 心持 も 起る の です 。 記憶 し て 下さい 、 あなた の 知っ て いる 私 は 塵 に 汚れ た 後 の 私 です 。 きたなく なっ た 年数 の 多い もの を 先輩 と 呼ぶ なら ば 、 私 は たしかに あなた より 先輩 でしょ う 。
もし 私 が 叔父 の 希望 通り 叔父 の 娘 と 結婚 し た なら ば 、 その 結果 は 物質 的 に 私 に 取っ て 有利 な もの でし たろ う か 。 これ は 考える まで も ない 事 と 思い ます 。 叔父 は 策略 で 娘 を 私 に 押し付けよ う と し た の です 。 好意 的 に 両家 の 便宜 を 計る と いう より も 、 ずっと 下卑 た 利害 心 に 駆ら れ て 、 結婚 問題 を 私 に 向け た の です 。 私 は 従妹 を 愛し て い ない だけ で 、 嫌っ て は い なかっ た の です が 、 後 から 考え て みる と 、 それ を 断っ た の が 私 に は 多少 の 愉快 に なる と 思い ます 。 胡 魔 化 さ れる の は どっち に し て も 同じ でしょ う けれども 、 載せ られ 方 から いえ ば 、 従妹 を 貰わ ない 方 が 、 向う の 思い 通り に なら ない という 点 から 見 て 、 少し は 私 の 我 が 通っ た 事 に なる の です から 。 しかし それ は ほとんど 問題 と する に 足り ない 些細 な 事柄 です 。 ことに 関係 の ない あなた に いわ せ たら 、 さぞ 馬鹿 気 た 意地 に 見える でしょ う 。
私 と 叔父 の 間 に 他 の 親戚 の もの が はいり まし た 。 その 親戚 の もの も 私 は まるで 信用 し て い ませ ん でし た 。 信用 し ない ばかり で なく 、 むしろ 敵視 し て い まし た 。 私 は 叔父 が 私 を 欺い た と 覚る と共に 、 他 の もの も 必ず 自分 を 欺く に 違い ない と 思い詰め まし た 。 父 が あれだけ 賞 め 抜い て い た 叔父 で すら こう だ から 、 他 の もの は という の が 私 の 論理 でし た 。
それでも 彼ら は 私 の ため に 、 私 の 所有 に かかる 一切 の もの を 纏め て くれ まし た 。 それ は 金額 に 見積る と 、 私 の 予期 より 遥か に 少ない もの でし た 。 私 として は 黙っ て それ を 受け取る か 、 でなければ 叔父 を 相手取っ て 公 沙汰 に する か 、 二つ の 方法 しか なかっ た の です 。 私 は 憤り まし た 。 また 迷い まし た 。 訴訟 に する と 落着 まで に 長い 時間 の かかる 事 も 恐れ まし た 。 私 は 修業 中 の からだ です から 、 学生 として 大切 な 時間 を 奪わ れる の は 非常 の 苦痛 だ と も 考え まし た 。 私 は 思案 の 結果 、 市 に おる 中学 の 旧友 に 頼ん で 、 私 の 受け取っ た もの を 、 すべて 金 の 形 に 変えよ う と し まし た 。 旧友 は 止し た 方 が 得 だ と いっ て 忠告 し て くれ まし た が 、 私 は 聞き ませ ん でし た 。 私 は 永く 故郷 を 離れる 決心 を その 時 に 起し た の です 。 叔父 の 顔 を 見 まい と 心 の うち で 誓っ た の です 。
私 は 国 を 立つ 前 に 、 また 父 と 母 の 墓 へ 参り まし た 。 私 は それ ぎりその 墓 を 見 た 事 が あり ませ ん 。 もう 永久 に 見る 機会 も 来 ない でしょ う 。
私 の 旧友 は 私 の 言葉 通り に 取り計らっ て くれ まし た 。 もっとも それ は 私 が 東京 へ 着い て から よほど 経っ た 後 の 事 です 。 田舎 で 畠 地 など を 売ろ う と し た って 容易 に は 売れ ませ ん し 、 いざ と なる と 足元 を 見 て 踏み倒さ れる 恐れ が ある ので 、 私 の 受け取っ た 金額 は 、 時価 に 比べる と よほど 少ない もの でし た 。 自白 する と 、 私 の 財産 は 自分 が 懐 に し て 家 を 出 た 若干 の 公債 と 、 後 から この 友人 に 送っ て もらっ た 金 だけ な の です 。 親 の 遺産 として は 固 より 非常 に 減っ て い た に 相違 あり ませ ん 。 しかも 私 が 積極 的 に 減らし た の で ない から 、 なお 心持 が 悪かっ た の です 。 けれども 学生 として 生活 する に は それ で 充分 以上 でし た 。 実 を いう と 私 は それ から 出る 利子 の 半分 も 使え ませ ん でし た 。 この 余裕 ある 私 の 学生 生活 が 私 を 思い も 寄ら ない 境遇 に 陥 し 入れ た の です 。
「 金 に 不自由 の ない 私 は 、 騒々しい 下宿 を 出 て 、 新しく 一 戸 を 構え て みよ う か という 気 に なっ た の です 。 しかし それ に は 世帯 道具 を 買う 面倒 も あり ます し 、 世話 を し て くれる 婆さん の 必要 も 起り ます し 、 その 婆さん が また 正直 で なけれ ば 困る し 、 宅 を 留守 に し て も 大丈夫 な もの で なけれ ば 心配 だ し 、 と いっ た 訳 で 、 ちょく ら ちょい と 実行 する 事 は 覚 束 なく 見え た の です 。 ある 日 私 は まあ 宅 だけ でも 探し て みよ う か という そぞろ心 から 、 散歩 が てら に 本郷台 を 西 へ 下り て 小石川 の 坂 を 真直 に 伝通院 の 方 へ 上がり まし た 。 電車 の 通路 に なっ て から 、 あそこ い ら の 様子 が まるで 違っ て しまい まし た が 、 その 頃 は 左手 が 砲兵 工廠 の 土塀 で 、 右 は 原 とも 丘 と も つか ない 空地 に 草 が 一 面 に 生え て い た もの です 。 私 は その 草 の 中 に 立っ て 、 何 心 なく 向う の 崖 を 眺め まし た 。 今 でも 悪い 景色 で は あり ませ ん が 、 その 頃 は また ずっと あの 西側 の 趣 が 違っ て い まし た 。 見渡す 限り 緑 が 一 面 に 深く 茂っ て いる だけ でも 、 神経 が 休まり ます 。 私 は ふと ここいら に 適当 な 宅 は ない だろ う か と 思い まし た 。 それで 直ぐ 草原 を 横切っ て 、 細い 通り を 北の方 へ 進ん で 行き まし た 。 いまだに 好い 町 に なり 切れ ない で 、 がたぴし し て いる あの 辺 の 家並 は 、 その 時分 の 事 です から ずいぶん 汚 な らしい もの でし た 。 私 は 露 次 を 抜け たり 、 横丁 を 曲っ たり 、 ぐるぐる 歩き 廻り まし た 。 しまいに 駄菓子 屋 の 上 さん に 、 ここいら に 小ぢんまり し た 貸家 は ない か と 尋ね て み まし た 。 上 さん は 「 そう です ね 」 と いっ て 、 少時 首 を かしげ て い まし た が 、 「 かし 家 は ちょい と … … 」 と 全く 思い当ら ない 風 でし た 。 私 は 望 の ない もの と 諦 ら め て 帰り 掛け まし た 。 すると 上 さん が また 、 「 素人 下宿 じゃ いけ ませ ん か 」 と 聞く の です 。 私 は ちょっと 気 が 変り まし た 。 静か な 素人 屋 に 一 人 で 下宿 し て いる の は 、 かえって 家 を 持つ 面倒 が なくっ て 結構 だろ う と 考え出し た の です 。 それから その 駄菓子 屋 の 店 に 腰 を 掛け て 、 上 さん に 詳しい 事 を 教え て もらい まし た 。
それ は ある 軍人 の 家族 、 と いう より も むしろ 遺族 、 の 住ん で いる 家 でし た 。 主人 は 何 でも 日 清 戦争 の 時 か 何 か に 死ん だ の だ と 上 さん が いい まし た 。 一 年 ばかり 前 まで は 、 市ヶ谷 の 士官 学校 の 傍 とか に 住ん で い た の だ が 、 厩 など が あっ て 、 邸 が 広 過ぎる ので 、 そこ を 売り払っ て 、 ここ へ 引っ越し て 来 た けれども 、 無人 で 淋しくっ て 困る から 相当 の 人 が あっ たら 世話 を し て くれ と 頼ま れ て い た の だ そう です 。 私 は 上 さん から 、 その 家 に は 未亡人 と 一人娘 と 下女 より 外 に い ない の だ という 事 を 確かめ まし た 。 私 は 閑静 で 至極 好かろ う と 心 の 中 に 思い まし た 。 けれども そんな 家族 の うち に 、 私 の よう な もの が 、 突然 行っ た ところ で 、 素性 の 知れ ない 書生 さん という 名称 の もと に 、 すぐ 拒絶 さ れ は し まい か という 掛 念 も あり まし た 。 私 は 止そ う か と も 考え まし た 。 しかし 私 は 書生 として そんなに 見苦しい 服装 は し て い ませ ん でし た 。 それから 大学 の 制帽 を 被っ て い まし た 。 あなた は 笑う でしょ う 、 大学 の 制帽 が どう し た ん だ と いっ て 。 けれども その 頃 の 大学生 は 今 と 違っ て 、 大分 世間 に 信用 の あっ た もの です 。 私 は その 場合 この 四角 な 帽子 に 一種 の 自信 を 見出し た くらい です 。 そうして 駄菓子 屋 の 上 さん に 教わっ た 通り 、 紹介 も 何 も なし に その 軍人 の 遺族 の 家 を 訪ね まし た 。
私 は 未亡人 に 会っ て 来意 を 告げ まし た 。 未亡人 は 私 の 身元 やら 学校 やら 専門 やら について 色々 質問 し まし た 。 そう し て これ なら 大丈夫 だ という ところ を どこ か に 握っ た の でしょ う 、 いつ でも 引っ越し て 来 て 差支え ない という 挨拶 を 即 坐 に 与え て くれ まし た 。 未亡人 は 正しい 人 でし た 、 また 判然 し た 人 でし た 。 私 は 軍人 の 妻 君 という もの は みんな こんな もの か と 思っ て 感服 し まし た 。 感服 も し た が 、 驚き も し まし た 。 この 気性 で どこ が 淋しい の だろ う と 疑い も し まし た 。
「 私 は 早速 その 家 へ 引き 移り まし た 。 私 は 最初 来 た 時 に 未亡人 と 話 を し た 座敷 を 借り た の です 。 そこ は 宅 中 で 一番 好い 室 でし た 。 本郷 辺 に 高等 下宿 といった 風 の 家 が ぽつぽつ 建て られ た 時分 の 事 です から 、 私 は 書生 として 占領 し 得る 最も 好い 間 の 様子 を 心得 て い まし た 。 私 の 新しく 主人 と なっ た 室 は 、 それら より も ずっと 立派 でし た 。 移っ た 当座 は 、 学生 として の 私 に は 過ぎる くらい に 思わ れ た の です 。
室 の 広 さ は 八 畳 でし た 。 床 の 横 に 違い棚 が あっ て 、 縁 と 反対 の 側 に は 一間 の 押入れ が 付い て い まし た 。 窓 は 一つ も なかっ た の です が 、 その 代り 南 向き の 縁 に 明るい 日 が よく 差し まし た 。
私 は 移っ た 日 に 、 その 室 の 床 に 活け られ た 花 と 、 その 横 に 立て 懸け られ た 琴 を 見 まし た 。 どっち も 私 の 気に入り ませ ん でし た 。 私 は 詩 や 書 や 煎茶 を 嗜 なむ 父 の 傍 で 育っ た ので 、 唐 めい た 趣味 を 小 供 の うち から もっ て い まし た 。 その ため で も あり ましょ う か 、 こういう 艶 めかし い 装飾 を いつの間にか 軽蔑 する 癖 が 付い て い た の です 。
私 の 父 が 存生 中 に あつめ た 道具 類 は 、 例 の 叔父 の ため に 滅茶滅茶 に さ れ て しまっ た の です が 、 それでも 多少 は 残っ て い まし た 。 私 は 国 を 立つ 時 それ を 中学 の 旧友 に 預かっ て もらい まし た 。 それから その 中 で 面白 そう な もの を 四 、 五 幅 裸 に し て 行李 の 底 へ 入れ て 来 まし た 。 私 は 移る や 否 や 、 それ を 取り出し て 床 へ 懸け て 楽しむ つもり で い た の です 。 ところが 今 いっ た 琴 と 活花 を 見 た ので 、 急 に 勇気 が なくなっ て しまい まし た 。 後 から 聞い て 始め て この 花 が 私 に対する ご馳走 に 活け られ た の だ という 事 を 知っ た 時 、 私 は 心 の うち で 苦笑 し まし た 。 もっとも 琴 は 前 から そこ に あっ た の です から 、 これ は 置き 所 が ない ため 、 やむをえ ず そのまま に 立て 懸け て あっ た の でしょ う 。
こんな 話 を する と 、 自然 その 裏 に 若い 女 の 影 が あなた の 頭 を 掠め て 通る でしょ う 。 移っ た 私 に も 、 移ら ない 初め から そういう 好奇 心 が すでに 動い て い た の です 。 こうした 邪気 が 予備 的 に 私 の 自然 を 損なっ た ため か 、 または 私 が まだ 人 慣れ なかっ た ため か 、 私 は 始め て そこ の お嬢さん に 会っ た 時 、 へどもど し た 挨拶 を し まし た 。 その 代り お嬢さん の 方 で も 赤い 顔 を し まし た 。
私 は それ まで 未亡人 の 風采 や 態度 から 推し て 、 この お嬢さん の すべて を 想像 し て い た の です 。 しかし その 想像 は お嬢さん に 取っ て あまり 有利 な もの で は あり ませ ん でし た 。 軍人 の 妻君 だ から ああ な の だろ う 、 その 妻君 の 娘 だ から こう だろ う といった 順序 で 、 私 の 推測 は 段々 延び て 行き まし た 。 ところが その 推測 が 、 お嬢さん の 顔 を 見 た 瞬間 に 、 悉く 打ち消さ れ まし た 。 そう し て 私 の 頭 の 中 へ 今 まで 想像 も 及ば なかっ た 異性 の 匂い が 新しく 入っ て 来 まし た 。 私 は それ から 床 の 正面 に 活け て ある 花 が 厭 で なく なり まし た 。 同じ 床 に 立て 懸け て ある 琴 も 邪魔 に なら なくなり まし た 。
その 花 は また 規則正しく 凋 れる 頃 に なる と 活け 更 えら れる の です 。 琴 も 度々 鍵 の 手 に 折れ曲がっ た 筋 違 の 室 に 運び 去ら れる の です 。 私 は 自分 の 居間 で 机 の 上 に 頬杖 を 突き ながら 、 その 琴 の 音 を 聞い て い まし た 。 私 に は その 琴 が 上手 な の か 下手 な の か よく 解ら ない の です 。 けれども 余り 込み入っ た 手 を 弾か ない ところ を 見る と 、 上手 な の じゃ なかろ う と 考え まし た 。 まあ 活花 の 程度 ぐらい な もの だろ う と 思い まし た 。 花 なら 私 に も 好く 分る の です が 、 お嬢さん は 決して 旨い 方 で は なかっ た の です 。
それでも 臆面 なく 色々 の 花 が 私 の 床 を 飾っ て くれ まし た 。 もっとも 活 方 は いつ 見 て も 同じ 事 でし た 。 それから 花瓶 も ついぞ 変っ た 例 が あり ませ ん でし た 。 しかし 片方 の 音楽 に なる と 花 より も もっと 変 でし た 。 ぽ つん ぽ つん 糸 を 鳴らす だけ で 、 一向 肉声 を 聞か せ ない の です 。 唄わ ない の で は あり ませ ん が 、 まるで 内所 話 でも する よう に 小さな 声 しか 出さ ない の です 。 しか も 叱ら れる と 全く 出 なく なる の です 。
私 は 喜ん で この 下手 な 活花 を 眺め て は 、 まず そう な 琴 の 音 に 耳 を 傾け まし た 。
「 私 の 気分 は 国 を 立つ 時 すでに 厭世 的 に なっ て い まし た 。 他 は 頼り に なら ない もの だ という 観念 が 、 その 時 骨 の 中 まで 染み込ん で しまっ た よう に 思わ れ た の です 。 私 は 私 の 敵視 する 叔父 だの 叔母 だの 、 その他 の 親戚 だ の を 、 あたかも 人類 の 代表 者 の ごとく 考え出し まし た 。 汽車 へ 乗っ て さえ 隣 の もの の 様子 を 、 それとなく 注意 し 始め まし た 。 たま に 向う から 話し掛け られ でも する と 、 なお の 事 警戒 を 加え たく なり まし た 。 私 の 心 は 沈鬱 でし た 。 鉛 を 呑ん だ よう に 重苦しく なる 事 が 時々 あり まし た 。 それでいて 私 の 神経 は 、 今 いっ た ごとく に 鋭く 尖っ て しまっ た の です 。
私 が 東京 へ 来 て 下宿 を 出よ う と し た の も 、 これ が 大きな 源 因 に なっ て いる よう に 思わ れ ます 。 金 に 不自由 が なけれ ば こそ 、 一 戸 を 構え て みる 気 に も なっ た の だ と いえ ば それ まで です が 、 元 の 通り の 私 なら ば 、 たとい 懐中 に 余裕 が でき て も 、 好ん で そんな 面倒 な 真似 は し なかっ た でしょ う 。
私 は 小石川 へ 引き 移っ て から も 、 当分 この 緊張 し た 気分 に 寛ぎ を 与える 事 が でき ませ ん でし た 。 私 は 自分 で 自分 が 恥ずかしい ほど 、 きょときょと 周囲 を 見廻し て い まし た 。 不思議 に も よく 働く の は 頭 と 眼 だけ で 、 口 の 方 は それ と 反対 に 、 段々 動か なく なっ て 来 まし た 。 私 は 家 の もの の 様子 を 猫 の よう に よく 観察 し ながら 、 黙っ て 机 の 前 に 坐っ て い まし た 。 時々 は 彼ら に対して 気の毒 だ と 思う ほど 、 私 は 油断 の ない 注意 を 彼ら の 上 に 注い で い た の です 。 おれ は 物 を 偸 ま ない 巾着切 み た よう な もの だ 、 私 は こう 考え て 、 自分 が 厭 に なる 事 さえ あっ た の です 。
あなた は 定め て 変 に 思う でしょ う 。 その 私 が そこ の お嬢さん を どうして 好く 余裕 を もっ て いる か 。 その お嬢さん の 下手 な 活花 を 、 どうして 嬉し がっ て 眺める 余裕 が ある か 。 同じく 下手 な その 人 の 琴 を どうして 喜ん で 聞く 余裕 が ある か 。 そう 質問 さ れ た 時 、 私 は ただ 両方 とも 事実 で あっ た の だ から 、 事実 として あなた に 教え て 上げる と いう より 外 に 仕方 が ない の です 。 解釈 は 頭 の ある あなた に 任せる として 、 私 は ただ 一言 付け足し て おき ましょ う 。 私 は 金 に対して 人類 を 疑っ た けれども 、 愛 に対して は 、 まだ 人類 を 疑わ なかっ た の です 。 だから 他 から 見る と 変 な もの で も 、 また 自分 で 考え て み て 、 矛盾 し た もの で も 、 私 の 胸 の なか で は 平気 で 両立 し て い た の です 。
私 は 未亡人 の 事 を 常に 奥さん と いっ て い まし た から 、 これから 未亡人 と 呼ば ず に 奥さん と いい ます 。 奥さん は 私 を 静か な 人 、 大人しい 男 と 評し まし た 。 それから 勉強 家 だ と も 褒め て くれ まし た 。 けれども 私 の 不安 な 眼 つき や 、 きょときょと し た 様子 について は 、 何事 も 口 へ 出し ませ ん でし た 。 気 が 付か なかっ た の か 、 遠慮 し て い た の か 、 どっち だ か よく 解り ませ ん が 、 何しろ そこ に は まるで 注意 を 払っ て い ない らしく 見え まし た 。 それ のみ なら ず 、 ある 場合 に 私 を 鷹揚 な 方 だ と いっ て 、 さも 尊敬 し た らしい 口 の 利き 方 を し た 事 が あり ます 。 その 時 正直 な 私 は 少し 顔 を 赤らめ て 、 向う の 言葉 を 否定 し まし た 。 すると 奥さん は 「 あなた は 自分 で 気が付か ない から 、 そう おっしゃる ん です 」 と 真面目 に 説明 し て くれ まし た 。 奥さん は 始め 私 の よう な 書生 を 宅 へ 置く つもり で は なかっ た らしい の です 。 どこ か の 役所 へ 勤める 人 か 何 か に 坐 敷 を 貸す 料簡 で 、 近所 の もの に 周旋 を 頼ん で い た らしい の です 。 俸給 が 豊か で なくっ て 、 やむをえ ず 素人 屋 に 下宿 する くらい の 人 だ から という 考え が 、 それで 前 かた から 奥さん の 頭 の どこ か に は いっ て い た の でしょ う 。 奥さん は 自分 の 胸 に 描い た その 想像 の お客 と 私 と を 比較 し て 、 こっち の 方 を 鷹揚 だ と いっ て 褒める の です 。 なるほど そんな 切り詰め た 生活 を する 人 に 比べ たら 、 私 は 金銭 にかけて 、 鷹揚 だっ た かも 知れ ませ ん 。 しかし それ は 気性 の 問題 で は あり ませ ん から 、 私 の 内 生活 に 取っ て ほとんど 関係 の ない の と 一般 でし た 。 奥さん は また 女 だけ に それ を 私 の 全体 に 推し 広げ て 、 同じ 言葉 を 応用 しよ う と 力め る の です 。
「 奥さん の この 態度 が 自然 私 の 気分 に 影響 し て 来 まし た 。 しばらく する うち に 、 私 の 眼 は もと ほど き ょろ 付か なく なり まし た 。 自分 の 心 が 自分 の 坐っ て いる 所 に 、 ちゃんと 落ち 付い て いる よう な 気 に も なれ まし た 。 要するに 奥さん 始め 家 の もの が 、 僻ん だ 私 の 眼 や 疑い深い 私 の 様子 に 、 てんから 取り合わ なかっ た の が 、 私 に 大きな 幸福 を 与え た の でしょ う 。 私 の 神経 は 相手 から 照り返し て 来る 反射 の ない ため に 段々 静まり まし た 。
奥さん は 心得 の ある 人 でし た から 、 わざと 私 を そんな 風 に 取り扱っ て くれ た もの と も 思わ れ ます し 、 また 自分 で 公言 する ごとく 、 実際 私 を 鷹揚 だ と 観察 し て い た の かも 知れ ませ ん 。 私 の こせつき 方 は 頭 の 中 の 現象 で 、 それほど 外 へ 出 なかっ た よう に も 考え られ ます から 、 あるいは 奥さん の 方 で 胡 魔 化 さ れ て い た の かも 解り ませ ん 。
私 の 心 が 静まる と共に 、 私 は 段々 家族 の もの と 接近 し て 来 まし た 。 奥さん とも お嬢さん とも 笑 談 を いう よう に なり まし た 。 茶 を 入れ た から と いっ て 向う の 室 へ 呼ば れる 日 も あり まし た 。 また 私 の 方 で 菓子 を 買っ て 来 て 、 二 人 を こっち へ 招い たり する 晩 も あり まし た 。 私 は 急 に 交際 の 区域 が 殖え た よう に 感じ まし た 。 それ が ため に 大切 な 勉強 の 時間 を 潰さ れる 事 も 何 度 と なく あり まし た 。 不思議 に も 、 その 妨害 が 私 に は 一向 邪魔 に なら なかっ た の です 。 奥さん は もとより 閑人 でし た 。 お嬢さん は 学校 へ 行く 上 に 、 花 だの 琴 だ の を 習っ て いる ん だ から 、 定め て 忙しかろ う と 思う と 、 それ が また 案外 な もの で 、 いくらでも 時間 に 余裕 を もっ て いる よう に 見え まし た 。 それで 三 人 は 顔 さえ 見る と いっしょ に 集まっ て 、 世間 話 を し ながら 遊ん だ の です 。
私 を 呼び に 来る の は 、 大抵 お嬢さん でし た 。 お嬢さん は 縁側 を 直角 に 曲っ て 、 私 の 室 の 前 に 立つ 事 も あり ます し 、 茶の間 を 抜け て 、 次 の 室 の 襖 の 影 から 姿 を 見せる 事 も あり まし た 。 お嬢さん は 、 そこ へ 来 て ちょっと 留まり ます 。 それから きっと 私 の 名 を 呼ん で 、 「 ご 勉強 ? 」 と 聞き ます 。 私 は 大抵 むずかしい 書物 を 机 の 前 に 開け て 、 それ を 見詰め て い まし た から 、 傍 で 見 たら さぞ 勉強 家 の よう に 見え た の でしょ う 。 しかし 実際 を いう と 、 それほど 熱心 に 書物 を 研究 し て は い なかっ た の です 。 頁 の 上 に 眼 は 着け て い ながら 、 お嬢さん の 呼び に 来る の を 待っ て いる くらい な もの でし た 。 待っ て い て 来 ない と 、 仕方 が ない から 私 の 方 で 立ち上がる の です 。 そうして 向う の 室 の 前 へ 行っ て 、 こっち から 「 ご 勉強 です か 」 と 聞く の です 。
お嬢さん の 部屋 は 茶の間 と 続い た 六 畳 でし た 。 奥さん は その 茶の間 に いる 事 も ある し 、 また お嬢さん の 部屋 に いる 事 も あり まし た 。 つまり この 二つ の 部屋 は 仕切 が あっ て も 、 ない と 同じ 事 で 、 親子 二 人 が 往 っ たり 来 たり し て 、 どっち 付か ず に 占領 し て い た の です 。 私 が 外 から 声 を 掛ける と 、 「 お はいん なさい 」 と 答える の は きっと 奥さん でし た 。 お嬢さん は そこ に い て も 滅多 に 返事 を し た 事 が あり ませ ん でし た 。
時たま お嬢さん 一 人 で 、 用 が あっ て 私 の 室 へ はいっ た ついで に 、 そこ に 坐っ て 話し込む よう な 場合 も その 内 に 出 て 来 まし た 。 そういう 時 に は 、 私 の 心 が 妙 に 不安 に 冒さ れ て 来る の です 。 そうして 若い 女 と ただ 差向い で 坐っ て いる の が 不安 な の だ と ばかり は 思え ませ ん でし た 。 私 は 何だか そわそわ し 出す の です 。 自分 で 自分 を 裏切る よう な 不自然 な 態度 が 私 を 苦しめる の です 。 しかし 相手 の 方 は かえって 平気 でし た 。 これ が 琴 を 浚う のに 声 さえ 碌 に 出せ なかっ た あの 女 かしら と 疑わ れる くらい 、 恥ずかし がら ない の です 。 あまり 長く なる ので 、 茶の間 から 母 に 呼ば れ て も 、 「 はい 」 と 返事 を する だけ で 、 容易 に 腰 を 上げ ない 事 さえ あり まし た 。 それでいて お嬢さん は 決して 子供 で は なかっ た の です 。 私 の 眼 に は よく それ が 解っ て い まし た 。 よく 解る よう に 振舞っ て 見せる 痕 迹 さえ 明らか でし た 。
「 私 は お嬢さん の 立っ た あと で 、 ほっと 一息 する の です 。 それ と 同時に 、 物足りない よう な また 済まない よう な 気持 に なる の です 。 私 は 女らしかっ た の かも 知れ ませ ん 。 今 の 青年 の あなた が た から 見 たら なお そう 見える でしょ う 。 しかし その 頃 の 私 たち は 大抵 そんな もの だっ た の です 。
奥さん は 滅多 に 外出 し た 事 が あり ませ ん でし た 。 たま に 宅 を 留守 に する 時 でも 、 お嬢さん と 私 を 二 人 ぎり 残し て 行く よう な 事 は なかっ た の です 。 それ が また 偶然 な の か 、 故意 な の か 、 私 に は 解ら ない の です 。 私 の 口 から いう の は 変 です が 、 奥さん の 様子 を 能 く 観察 し て いる と 、 何だか 自分 の 娘 と 私 と を 接近 さ せ た がっ て いる らしく も 見える の です 。 それでいて 、 或 る 場合 に は 、 私 に対して 暗に 警戒 する ところ も ある よう な の です から 、 始めて こんな 場合 に 出会っ た 私 は 、 時々 心持 を わるく し まし た 。
私 は 奥さん の 態度 を どっち か に 片付け て もらい たかっ た の です 。 頭 の 働き から いえ ば 、 それ が 明らか な 矛盾 に 違い なかっ た の です 。 しかし 叔父 に 欺か れ た 記憶 の まだ 新しい 私 は 、 もう 一 歩 踏み込ん だ 疑い を 挟ま ず に はいら れ ませ ん でし た 。 私 は 奥さん の この 態度 の どっち か が 本当 で 、 どっち か が 偽り だろ う と 推定 し まし た 。 そうして 判断 に 迷い まし た 。 ただ 判断 に 迷う ばかり で なく 、 何で そんな 妙 な 事 を する か その 意味 が 私 に は 呑み込め なかっ た の です 。 理由 を 考え出そ う として も 、 考え出せ ない 私 は 、 罪 を 女 という 一 字 に 塗り付け て 我慢 し た 事 も あり まし た 。 必竟 女 だ から ああ な の だ 、 女 という もの は どうせ 愚 な もの だ 。 私 の 考え は 行き詰まれ ば いつ でも ここ へ 落ち て 来 まし た 。
それほど 女 を 見縊っ て い た 私 が 、 また どうしても お嬢さん を 見縊る 事 が でき なかっ た の です 。 私 の 理屈 は その 人 の 前 に 全く 用 を 為さ ない ほど 動き ませ ん でし た 。 私 は その 人 に対して 、 ほとんど 信仰 に 近い 愛 を もっ て い た の です 。 私 が 宗教 だけ に 用いる この 言葉 を 、 若い 女 に 応用 する の を 見 て 、 あなた は 変 に 思う かも 知れ ませ ん が 、 私 は 今 でも 固く 信じ て いる の です 。 本当 の 愛 は 宗教 心 と そう 違っ た もの で ない という 事 を 固く 信じ て いる の です 。 私 は お嬢さん の 顔 を 見る たび に 、 自分 が 美しく なる よう な 心持 が し まし た 。 お嬢さん の 事 を 考える と 、 気高い 気分 が すぐ 自分 に 乗り移っ て 来る よう に 思い まし た 。 もし 愛 という 不可思議 な もの に 両端 が あっ て 、 その 高い 端 に は 神聖 な 感じ が 働い て 、 低い 端 に は 性欲 が 動い て いる と すれ ば 、 私 の 愛 は たしかに その 高い 極点 を 捕まえ た もの です 。 私 は もとより 人間 として 肉 を 離れる 事 の でき ない 身体 でし た 。 けれども お嬢さん を 見る 私 の 眼 や 、 お嬢さん を 考える 私 の 心 は 、 全く 肉 の 臭い を 帯び て い ませ ん でし た 。
私 は 母 に対して 反感 を 抱く と共に 、 子 に対して 恋愛 の 度 を 増し て 行っ た の です から 、 三 人 の 関係 は 、 下宿 し た 始め より は 段々 複雑 に なっ て 来 まし た 。 もっとも その 変化 は ほとんど 内面 的 で 外 へ は 現れ て 来 なかっ た の です 。 そのうち 私 は ある ひょっと し た 機会 から 、 今 まで 奥さん を 誤解 し て い た の で は なかろ う か という 気 に なり まし た 。 奥さん の 私 に対する 矛盾 し た 態度 が 、 どっち も 偽り で は ない の だろ う と 考え直し て 来 た の です 。 その 上 、 それ が 互い違い に 奥さん の 心 を 支配 する ので なくっ て 、 いつ でも 両方 が 同時に 奥さん の 胸 に 存在 し て いる の だ と 思う よう に なっ た の です 。 つまり 奥さん が できる だけ お嬢さん を 私 に 接近 さ せよ う と し て い ながら 、 同時に 私 に 警戒 を 加え て いる の は 矛盾 の よう だ けれども 、 その 警戒 を 加える 時 に 、 片方 の 態度 を 忘れる の でも 翻す の で も 何 で も なく 、 やはり 依然として 二 人 を 接近 さ せ た がっ て い た の だ と 観察 し た の です 。 ただ 自分 が 正当 と 認める 程度 以上 に 、 二 人 が 密着 する の を 忌む の だ と 解釈 し た の です 。 お嬢さん に対して 、 肉 の 方面 から 近づく 念 の 萌さ なかっ た 私 は 、 その 時 入ら ぬ 心配 だ と 思い まし た 。 しかし 奥さん を 悪く 思う 気 は それ から なくなり まし た 。
「 私 は 奥さん の 態度 を 色々 綜合 し て 見 て 、 私 が ここ の 家 で 充分 信用 さ れ て いる 事 を 確かめ まし た 。 しかも その 信用 は 初対面 の 時 から あっ た の だ という 証拠 さえ 発見 し まし た 。 他 を 疑り 始め た 私 の 胸 に は 、 この 発見 が 少し 奇異 な くらい に 響い た の です 。 私 は 男 に 比べる と 女 の 方 が それだけ 直覚 に 富ん で いる の だろ う と 思い まし た 。 同時に 、 女 が 男 の ため に 、 欺 さ れる の も ここ に ある の で は なかろ う か と 思い まし た 。 奥さん を そう 観察 する 私 が 、 お嬢さん に対して 同じ よう な 直覚 を 強く 働かせ て い た の だ から 、 今 考える と おかしい の です 。 私 は 他 を 信じ ない と 心 に 誓い ながら 、 絶対 に お嬢さん を 信じ て い た の です から 。 それでいて 、 私 を 信じ て いる 奥さん を 奇異 に 思っ た の です から 。
私 は 郷里 の 事 について 余り 多く を 語ら なかっ た の です 。 ことに 今度 の 事件 について は 何 も いわ なかっ た の です 。 私 は それ を 念頭 に 浮べ て さえ すでに 一種 の 不愉快 を 感じ まし た 。 私 は なるべく 奥さん の 方 の 話 だけ を 聞こ う と 力め まし た 。 ところが それでは 向う が 承知 し ませ ん 。 何 か に 付け て 、 私 の 国元 の 事情 を 知り た がる の です 。 私 は とうとう 何もかも 話し て しまい まし た 。 私 は 二度と 国 へ は 帰ら ない 。 帰っ て も 何 に も ない 、 ある の は ただ 父 と 母 の 墓 ばかり だ と 告げ た 時 、 奥さん は 大変 感動 し た らしい 様子 を 見せ まし た 。 お嬢さん は 泣き まし た 。 私 は 話し て 好い 事 を し た と 思い まし た 。 私 は 嬉しかっ た の です 。
私 の すべて を 聞い た 奥さん は 、 はたして 自分 の 直覚 が 的中 し た と いわ ない ばかり の 顔 を し 出し まし た 。 それ から は 私 を 自分 の 親戚 に 当る 若い もの か 何 か を 取り扱う よう に 待遇 する の です 。 私 は 腹 も 立ち ませ ん でし た 。 むしろ 愉快 に 感じ た くらい です 。 ところが その うち に 私 の 猜疑 心 が また 起っ て 来 まし た 。
私 が 奥さん を 疑り 始め た の は 、 ごく 些細 な 事 から でし た 。 しかし その 些細 な 事 を 重ね て 行く うち に 、 疑惑 は 段々 と 根 を 張っ て 来 ます 。 私 は どういう 拍子 か ふと 奥さん が 、 叔父 と 同じ よう な 意味 で 、 お嬢さん を 私 に 接近 さ せよ う と 力め る の で は ない か と 考え出し た の です 。 すると 今 まで 親切 に 見え た 人 が 、 急 に 狡猾 な 策略 家 として 私 の 眼 に 映じ て 来 た の です 。 私 は 苦々しい 唇 を 噛み まし た 。
奥さん は 最初 から 、 無人 で 淋しい から 、 客 を 置い て 世話 を する の だ と 公言 し て い まし た 。 私 も それ を 嘘 と は 思い ませ ん でし た 。 懇意 に なっ て 色々 打ち明け 話 を 聞い た 後 でも 、 そこ に 間違い は なかっ た よう に 思わ れ ます 。 しかし 一般 の 経済 状態 は 大して 豊か だ と いう ほど で は あり ませ ん でし た 。 利害 問題 から 考え て み て 、 私 と 特殊 の 関係 を つける の は 、 先方 に 取っ て 決して 損 で は なかっ た の です 。
私 は また 警戒 を 加え まし た 。 けれども 娘 に対して 前 いっ た くらい の 強い 愛 を もっ て いる 私 が 、 その 母 に対して いくら 警戒 を 加え た って 何 に なる でしょ う 。 私 は 一 人 で 自分 を 嘲笑 し まし た 。 馬鹿 だ な と いっ て 、 自分 を 罵っ た 事 も あり ます 。 しかし それだけ の 矛盾 なら いくら 馬鹿 でも 私 は 大した 苦痛 も 感ぜ ず に 済ん だ の です 。 私 の 煩悶 は 、 奥さん と 同じ よう に お嬢さん も 策略 家 で は なかろ う か という 疑問 に 会っ て 始め て 起る の です 。 二 人 が 私 の 背後 で 打ち合せ を し た 上 、 万事 を やっ て いる の だろ う と 思う と 、 私 は 急 に 苦しくっ て 堪ら なく なる の です 。 不愉快 な の で は あり ませ ん 。 絶体絶命 の よう な 行き詰まっ た 心持 に なる の です 。 それでいて 私 は 、 一方 に お嬢さん を 固く 信じ て 疑わ なかっ た の です 。 だから 私 は 信念 と 迷い の 途中 に 立っ て 、 少し も 動く 事 が でき なく なっ て しまい まし た 。 私 に は どっち も 想像 で あり 、 また どっち も 真実 で あっ た の です 。
「 私 は 相 変ら ず 学校 へ 出席 し て い まし た 。 しかし 教壇 に 立つ 人 の 講義 が 、 遠く の 方 で 聞こえる よう な 心持 が し まし た 。 勉強 も その 通り でし た 。 眼 の 中 へ は いる 活字 は 心 の 底 まで 浸 み 渡ら ない うち に 烟 の ごとく 消え て 行く の です 。 私 は その 上 無口 に なり まし た 。 それ を 二 、 三 の 友達 が 誤解 し て 、 冥 想 に 耽っ て でも いる か の よう に 、 他 の 友達 に 伝え まし た 。 私 は この 誤解 を 解こ う と は し ませ ん でし た 。 都合 の 好い 仮面 を 人 が 貸し て くれ た の を 、 かえって 仕合せ として 喜び まし た 。 それでも 時々 は 気 が 済まなかっ た の でしょ う 、 発作 的 に 焦燥 ぎ 廻っ て 彼ら を 驚かし た 事 も あり ます 。
私 の 宿 は 人出 入り の 少ない 家 でし た 。 親類 も 多く は ない よう でし た 。 お嬢さん の 学校 友達 が ときたま 遊び に 来る 事 は あり まし た が 、 極めて 小さな 声 で 、 いる の だ かい ない の だ か 分ら ない よう な 話 を し て 帰っ て しまう の が 常 でし た 。 それ が 私 に対する 遠慮 から だ と は 、 いか な 私 に も 気が付き ませ ん でし た 。 私 の 所 へ 訪ね て 来る もの は 、 大した 乱暴 者 で も あり ませ ん でし た けれども 、 宅 の 人 に 気 兼 を する ほど な 男 は 一 人 も なかっ た の です から 。 そんな ところ に なる と 、 下宿 人 の 私 は 主人 の よう な もの で 、 肝心 の お嬢さん が かえって 食客 の 位地 に い た と 同じ 事 です 。
しかし これ は ただ 思い出し た ついで に 書い た だけ で 、 実は どう でも 構わ ない 点 です 。 ただ そこ に どう でも よく ない 事 が 一つ あっ た の です 。 茶の間 か 、 さもなければ お嬢さん の 室 で 、 突然 男 の 声 が 聞こえる の です 。 その 声 が また 私 の 客 と 違っ て 、 すこぶる 低い の です 。 だから 何 を 話し て いる の か まるで 分ら ない の です 。 そう し て 分ら なけれ ば 分ら ない ほど 、 私 の 神経 に 一種 の 昂奮 を 与える の です 。 私 は 坐っ て い て 変 に いらいら し 出し ます 。 私 は あれ は 親類 な の だろ う か 、 それとも ただ の 知り合い な の だろ う か と まず 考え て 見る の です 。 それ から 若い 男 だろ う か 年輩 の 人 だろ う か と 思案 し て みる の です 。 坐っ て い て そんな 事 の 知れよ う はず が あり ませ ん 。 そう か と いっ て 、 起っ て 行っ て 障子 を 開け て 見る 訳 に は なお いき ませ ん 。 私 の 神経 は 震える と いう より も 、 大きな 波動 を 打っ て 私 を 苦しめ ます 。 私 は 客 の 帰っ た 後 で 、 きっと 忘れ ず に その 人 の 名 を 聞き まし た 。 お嬢さん や 奥さん の 返事 は 、 また 極めて 簡単 でし た 。 私 は 物足りない 顔 を 二 人 に 見せ ながら 、 物 足りる まで 追窮 する 勇気 を もっ て い なかっ た の です 。 権利 は 無論 もっ て い なかっ た の でしょ う 。 私 は 自分 の 品格 を 重んじ なけれ ば なら ない という 教育 から 来 た 自尊心 と 、 現に その 自尊心 を 裏切 し て いる 物欲しそう な 顔 付 と を 同時に 彼ら の 前 に 示す の です 。 彼ら は 笑い まし た 。 それ が 嘲笑 の 意味 で なくっ て 、 好意 から 来 た もの か 、 また 好意 らしく 見せる つもり な の か 、 私 は 即 坐 に 解釈 の 余地 を 見出し 得 ない ほど 落付 を 失っ て しまう の です 。 そうして 事 が 済ん だ 後 で 、 いつ まで も 、 馬鹿 に さ れ た の だ 、 馬鹿 に さ れ た ん じゃ なかろ う か と 、 何 遍 も 心 の うち で 繰り返す の です 。
私 は 自由 な 身体 でし た 。 たとい 学校 を 中途 で 已めよ う が 、 また どこ へ 行っ て どう 暮らそ う が 、 あるいは どこ の 何者 と 結婚 しよ う が 、 誰 と も 相談 する 必要 の ない 位地 に 立っ て い まし た 。 私 は 思い切っ て 奥さん に お嬢さん を 貰い 受ける 話 を し て 見よ う か という 決心 を し た 事 が それ まで に 何 度 と なく あり まし た 。 けれども その たび ごと に 私 は 躊躇 し て 、 口 へ は とうとう 出さ ず に しまっ た の です 。 断ら れる の が 恐ろしい から で は あり ませ ん 。 もし 断ら れ たら 、 私 の 運命 が どう 変化 する か 分り ませ ん けれども 、 その 代り 今 まで と は 方角 の 違っ た 場所 に 立っ て 、 新しい 世の中 を 見渡す 便宜 も 生じ て 来る の です から 、 その くらい の 勇気 は 出せ ば 出せ た の です 。 しかし 私 は 誘き寄せ られる の が 厭 でし た 。 他 の 手 に 乗る の は 何 より も 業腹 でし た 。 叔父 に 欺 さ れ た 私 は 、 これから 先 どんな 事 が あっ て も 、 人 に は 欺 さ れ まい と 決心 し た の です 。
「 私 が 書物 ばかり 買う の を 見 て 、 奥さん は 少し 着物 を 拵えろ と いい まし た 。 私 は 実際 田舎 で 織っ た 木綿 もの しか もっ て い なかっ た の です 。 その 頃 の 学生 は 絹 の 入っ た 着物 を 肌 に 着け ませ ん でし た 。 私 の 友達 に 横浜 の 商人 か 何 か で 、 宅 は なかなか 派出 に 暮し て いる もの が あり まし た が 、 そこ へ ある 時 羽二重 の 胴着 が 配達 で 届い た 事 が あり ます 。 すると 皆 な が それ を 見 て 笑い まし た 。 その 男 は 恥ずかし がっ て 色々 弁解 し まし た が 、 折角 の 胴着 を 行李 の 底 へ 放り込ん で 利用 し ない の です 。 それ を また 大勢 が 寄っ て たかっ て 、 わざと 着せ まし た 。 すると 運 悪く その 胴着 に 蝨 が たかり まし た 。 友達 は ちょうど 幸い と でも 思っ た の でしょ う 、 評判 の 胴着 を ぐるぐる と 丸め て 、 散歩 に 出 た ついで に 、 根津 の 大きな 泥 溝 の 中 へ 棄て て しまい まし た 。 その 時 いっしょ に 歩い て い た 私 は 、 橋 の 上 に 立っ て 笑い ながら 友達 の 所作 を 眺め て い まし た が 、 私 の 胸 の どこ に も 勿体ない という 気 は 少し も 起り ませ ん でし た 。
その 頃 から 見る と 私 も 大分 大人 に なっ て い まし た 。 けれども まだ 自分 で 余所 行 の 着物 を 拵える と いう ほど の 分別 は 出 なかっ た の です 。 私 は 卒業 し て 髯 を 生やす 時代 が 来 なけれ ば 、 服装 の 心配 など は する に 及ば ない もの だ という 変 な 考え を もっ て い た の です 。 それで 奥さん に 書物 は 要る が 着物 は 要ら ない と いい まし た 。 奥さん は 私 の 買う 書物 の 分量 を 知っ て い まし た 。 買っ た 本 を みんな 読む の か と 聞く の です 。 私 の 買う もの の 中 に は 字 引き も あり ます が 、 当然 眼 を 通す べき はず で あり ながら 、 頁 さえ 切っ て ない の も 多少 あっ た の です から 、 私 は 返事 に 窮 し まし た 。 私 は どうせ 要ら ない もの を 買う なら 、 書物 で も 衣服 で も 同じ だ という 事 に 気が付き まし た 。 その 上 私 は 色々 世話 に なる という 口実 の 下 に 、 お嬢さん の 気に入る よう な 帯 か 反物 を 買っ て やり たかっ た の です 。 それで 万事 を 奥さん に 依頼 し まし た 。
奥さん は 自分 一 人 で 行く と は いい ませ ん 。 私 に も いっしょ に 来い と 命令 する の です 。 お嬢さん も 行か なく て は いけ ない という の です 。 今 と 違っ た 空気 の 中 に 育て られ た 私 ども は 、 学生 の 身分 として 、 あまり 若い 女 など と いっしょ に 歩き 廻る 習慣 を もっ て い なかっ た もの です 。 その 頃 の 私 は 今 より も まだ 習慣 の 奴隷 でし た から 、 多少 躊躇 し まし た が 、 思い切っ て 出掛け まし た 。
お嬢さん は 大層 着飾っ て い まし た 。 地 体 が 色 の 白い くせ に 、 白粉 を 豊富 に 塗っ た もの だ から なお 目立ち ます 。 往来 の 人 が じろじろ 見 て ゆく の です 。 そうして お嬢さん を 見 た もの は きっと その 視線 を ひるがえし て 、 私 の 顔 を 見る の だ から 、 変 な もの でし た 。
三 人 は 日本橋 へ 行っ て 買い たい もの を 買い まし た 。 買う 間 に も 色々 気 が 変る ので 、 思っ た より 暇 が かかり まし た 。 奥さん は わざわざ 私 の 名 を 呼ん で どう だろ う と 相談 を する の です 。 時々 反物 を お嬢さん の 肩 から 胸 へ 竪 に 宛て て おい て 、 私 に 二 、 三 歩 遠 退い て 見 て くれろ と いう の です 。 私 は その たび ごと に 、 それ は 駄目 だ とか 、 それ は よく 似合う とか 、 とにかく 一 人前 の 口 を 聞き まし た 。
こんな 事 で 時間 が 掛っ て 帰り は 夕飯 の 時刻 に なり まし た 。 奥さん は 私 に対する お礼 に 何 か ご馳走 する と いっ て 、 木原 店 という 寄席 の ある 狭い 横丁 へ 私 を 連れ込み まし た 。 横丁 も 狭い が 、 飯 を 食わ せる 家 も 狭い もの でし た 。 この 辺 の 地理 を 一向 心得 ない 私 は 、 奥さん の 知識 に 驚い た くらい です 。
我々 は 夜 に 入っ て 家 へ 帰り まし た 。 その 翌日 は 日曜 でし た から 、 私 は 終日 室 の 中 に 閉じ 籠っ て い まし た 。 月曜 に なっ て 、 学校 へ 出る と 、 私 は 朝っぱら そう そう 級友 の 一 人 から 調 戯 われ まし た 。 い つ 妻 を 迎え た の か と いっ て わざとらしく 聞か れる の です 。 それから 私 の 細君 は 非常 に 美人 だ と いっ て 賞 め る の です 。 私 は 三 人 連 で 日本橋 へ 出掛け た ところ を 、 その 男 に どこ か で 見 られ た もの と みえ ます 。
「 私 は 宅 へ 帰っ て 奥さん と お嬢さん に その 話 を し まし た 。 奥さん は 笑い まし た 。 しかし 定め て 迷惑 だろ う と いっ て 私 の 顔 を 見 まし た 。 私 は その 時 腹 の なか で 、 男 は こんな 風 に し て 、 女 から 気 を 引い て 見 られる の か と 思い まし た 。 奥さん の 眼 は 充分 私 に そう 思わ せる だけ の 意味 を もっ て い た の です 。 私 は その 時 自分 の 考え て いる 通り を 直截 に 打ち明け て しまえ ば 好かっ た かも 知れ ませ ん 。 しかし 私 に は もう 狐疑 という 薩 張り し ない 塊 り が こびり付い て い まし た 。 私 は 打ち明けよ う として 、 ひょいと 留まり まし た 。 そうして 話 の 角度 を 故意 に 少し 外らし まし た 。
私 は 肝心 の 自分 という もの を 問題 の 中 から 引き抜い て しまい まし た 。 そうして お嬢さん の 結婚 について 、 奥さん の 意中 を 探っ た の です 。 奥さん は 二 、 三 そういう 話 の ない でも ない よう な 事 を 、 明らか に 私 に 告げ まし た 。 しかし まだ 学校 へ 出 て いる くらい で 年 が 若い から 、 こちら で はさ ほど 急が ない の だ と 説明 し まし た 。 奥さん は 口 へ は 出さ ない けれども 、 お嬢さん の 容色 に 大分 重き を 置い て いる らしく 見え まし た 。 極めよ う と 思え ば いつ でも 極め られる ん だ から という よう な 事 さえ 口外 し まし た 。 それから お嬢さん より 外 に 子供 が ない の も 、 容易 に 手 離し た がら ない 源 因 に なっ て い まし た 。 嫁 に やる か 、 聟 を 取る か 、 それ に さえ 迷っ て いる の で は なかろ う か と 思わ れる ところ も あり まし た 。
話し て いる うち に 、 私 は 色々 の 知識 を 奥さん から 得 た よう な 気 が し まし た 。 しかし それ が ため に 、 私 は 機会 を 逸し た と 同様 の 結果 に 陥っ て しまい まし た 。 私 は 自分 について 、 ついに 一言 も 口 を 開く 事 が でき ませ ん でし た 。 私 は 好い加減 な ところ で 話 を 切り上げ て 、 自分 の 室 へ 帰ろ う と し まし た 。
さっき まで 傍 に い て 、 あんまり だ わ とか 何とか いっ て 笑っ た お嬢さん は 、 いつの間にか 向う の 隅 に 行っ て 、 背中 を こっち へ 向け て い まし た 。 私 は 立と う として 振り返っ た 時 、 その 後姿 を 見 た の です 。 後姿 だけ で 人間 の 心 が 読める はず は あり ませ ん 。 お嬢さん が この 問題 について どう 考え て いる か 、 私 に は 見当 が 付き ませ ん でし た 。 お嬢さん は 戸棚 を 前 に し て 坐っ て い まし た 。 その 戸棚 の 一 尺 ばかり 開い て いる 隙間 から 、 お嬢さん は 何 か 引き出し て 膝 の 上 へ 置い て 眺め て いる らしかっ た の です 。 私 の 眼 は その 隙間 の 端 に 、 一昨日 買っ た 反物 を 見付け 出し まし た 。 私 の 着物 も お嬢さん の も 同じ 戸棚 の 隅 に 重ね て あっ た の です 。
私 が 何 と も いわ ず に 席 を 立ち 掛ける と 、 奥さん は 急 に 改まっ た 調子 に なっ て 、 私 に どう 思う か と 聞く の です 。 その 聞き 方 は 何 を どう 思う の か と 反問 し なけれ ば 解ら ない ほど 不意 でし た 。 それ が お嬢さん を 早く 片付け た 方 が 得策 だろ う か という 意味 だ と 判然 し た 時 、 私 は なるべく 緩く ら な 方 が いい だろ う と 答え まし た 。 奥さん は 自分 も そう 思う と いい まし た 。
奥さん と お嬢さん と 私 の 関係 が こう なっ て いる 所 へ 、 もう 一 人 男 が 入り込ま なけれ ば なら ない 事 に なり まし た 。 その 男 が この 家庭 の 一員 と なっ た 結果 は 、 私 の 運命 に 非常 な 変化 を 来し て い ます 。 もし その 男 が 私 の 生活 の 行路 を 横切ら なかっ た なら ば 、 おそらく こういう 長い もの を あなた に 書き残す 必要 も 起ら なかっ た でしょ う 。 私 は 手 も なく 、 魔 の 通る 前 に 立っ て 、 その 瞬間 の 影 に 一生 を 薄暗く さ れ て 気が付か ず に い た の と 同じ 事 です 。 自白 する と 、 私 は 自分 で その 男 を 宅 へ 引張っ て 来 た の です 。 無論 奥さん の 許諾 も 必要 です から 、 私 は 最初 何もかも 隠さ ず 打ち明け て 、 奥さん に 頼ん だ の です 。 ところが 奥さん は 止せ と いい まし た 。 私 に は 連れ て 来 なけれ ば 済まない 事情 が 充分 ある のに 、 止せ という 奥さん の 方 に は 、 筋 の 立っ た 理屈 は まるで なかっ た の です 。 だから 私 は 私 の 善い と 思う ところ を 強いて 断行 し て しまい まし た 。
「 私 は その 友達 の 名 を ここ に K と 呼ん で おき ます 。 私 は この K と 小 供 の 時 から の 仲 好 でし た 。 小 供 の 時 から と いえ ば 断ら ない でも 解っ て いる でしょ う 、 二 人 に は 同郷 の 縁故 が あっ た の です 。 K は 真宗 の 坊さん の 子 でし た 。 もっとも 長男 で は あり ませ ん 、 次男 でし た 。 それ で ある 医者 の 所 へ 養子 に やら れ た の です 。 私 の 生れ た 地方 は 大変 本願寺 派 の 勢力 の 強い 所 でし た から 、 真宗 の 坊さん は 他 の もの に 比べる と 、 物質 的 に 割 が 好かっ た よう です 。 一 例 を 挙げる と 、 もし 坊さん に 女の子 が あっ て 、 その 女の子 が 年頃 に なっ た と する と 、 檀家 の もの が 相談 し て 、 どこ か 適当 な 所 へ 嫁 に やっ て くれ ます 。 無論 費用 は 坊さん の 懐 から 出る の で は あり ませ ん 。 そんな 訳 で 真宗寺 は 大抵 有福 でし た 。
K の 生れ た 家 も 相応 に 暮らし て い た の です 。 しかし 次男 を 東京 へ 修業 に 出す ほど の 余力 が あっ た か どうか 知り ませ ん 。 また 修業 に 出 られる 便宜 が ある ので 、 養子 の 相談 が 纏まっ た もの か どう か 、 そこ も 私 に は 分り ませ ん 。 とにかく K は 医者 の 家 へ 養子 に 行っ た の です 。 それ は 私 たち が まだ 中学 に いる 時 の 事 でし た 。 私 は 教場 で 先生 が 名簿 を 呼ぶ 時 に 、 K の 姓 が 急 に 変っ て い た ので 驚い た の を 今 でも 記憶 し て い ます 。
K の 養子 先 も かなり な 財産 家 でし た 。 K は そこ から 学資 を 貰っ て 東京 へ 出 て 来 た の です 。 出 て 来 た の は 私 と いっしょ で なかっ た けれども 、 東京 へ 着い て から は 、 すぐ 同じ 下宿 に 入り まし た 。 その 時分 は 一つ 室 に よく 二 人 も 三 人 も 机 を 並べ て 寝起き し た もの です 。 K と 私 も 二 人 で 同じ 間 に い まし た 。 山 で 生 捕ら れ た 動物 が 、 檻 の 中 で 抱き合い ながら 、 外 を 睨める よう な もの でし たろ う 。 二 人 は 東京 と 東京 の 人 を 畏れ まし た 。 それでいて 六 畳 の 間 の 中 で は 、 天下 を 睥睨 する よう な 事 を いっ て い た の です 。
しかし 我々 は 真面目 でし た 。 我々 は 実際 偉く なる つもり で い た の です 。 ことに K は 強かっ た の です 。 寺 に 生れ た 彼 は 、 常に 精進 という 言葉 を 使い まし た 。 そう し て 彼 の 行為 動作 は 悉く この 精進 の 一語 で 形容 さ れる よう に 、 私 に は 見え た の です 。 私 は 心 の うち で 常に K を 畏敬 し て い まし た 。
K は 中学 に い た 頃 から 、 宗教 とか 哲学 とかいう むずかしい 問題 で 、 私 を 困ら せ まし た 。 これ は 彼 の 父 の 感化 な の か 、 または 自分 の 生れ た 家 、 すなわち 寺 という 一種 特別 な 建物 に 属する 空気 の 影響 な の か 、 解り ませ ん 。 ともかく も 彼 は 普通 の 坊さん より は 遥か に 坊さん らしい 性格 を もっ て い た よう に 見受け られ ます 。 元来 K の 養家 で は 彼 を 医者 に する つもり で 東京 へ 出し た の です 。 しかるに 頑固 な 彼 は 医者 に は なら ない 決心 を もっ て 、 東京 へ 出 て 来 た の です 。 私 は 彼 に 向っ て 、 それでは 養父母 を 欺く と 同じ 事 で は ない か と 詰り まし た 。 大胆 な 彼 は そう だ と 答える の です 。 道 の ため なら 、 その くらい の 事 を し て も 構わ ない という の です 。 その 時 彼 の 用い た 道 という 言葉 は 、 おそらく 彼 に も よく 解っ て い なかっ た でしょ う 。 私 は 無論 解っ た と は いえ ませ ん 。 しかし 年 の 若い 私 たち に は 、 この 漠然と し た 言葉 が 尊 とく 響い た の です 。 よし 解ら ない に し て も 気高い 心持 に 支配 さ れ て 、 そちら の 方 へ 動い て 行こ う と する 意気 組 に 卑しい ところ の 見える はず は あり ませ ん 。 私 は K の 説 に 賛成 し まし た 。 私 の 同意 が K にとって どの くらい 有力 で あっ た か 、 それ は 私 も 知り ませ ん 。 一 図 な 彼 は 、 たとい 私 が いくら 反対 しよ う とも 、 やはり 自分 の 思い 通り を 貫い た に 違い なかろ う と は 察せ られ ます 。 しかし 万一 の 場合 、 賛成 の 声援 を 与え た 私 に 、 多少 の 責任 が でき て くる ぐらい の 事 は 、 子供 ながら 私 は よく 承知 し て い た つもり です 。 よし その 時 に それだけ の 覚悟 が ない に し て も 、 成人 し た 眼 で 、 過去 を 振り返る 必要 が 起っ た 場合 に は 、 私 に 割り当て られ た だけ の 責任 は 、 私 の 方 で 帯びる の が 至当 に なる くらい な 語気 で 私 は 賛成 し た の です 。
「 K と 私 は 同じ 科 へ 入学 し まし た 。 K は 澄まし た 顔 を し て 、 養家 から 送っ て くれる 金 で 、 自分 の 好き な 道 を 歩き 出し た の です 。 知れ は し ない という 安心 と 、 知れ た って 構う もの か という 度胸 と が 、 二つながら K の 心 に あっ た もの と 見る より ほか 仕方 が あり ませ ん 。 K は 私 より も 平気 でし た 。
最初 の 夏休み に K は 国 へ 帰り ませ ん でし た 。 駒込 の ある 寺 の 一間 を 借り て 勉強 する の だ と いっ て い まし た 。 私 が 帰っ て 来 た の は 九月 上旬 でし た が 、 彼 は はたして 大観 音 の 傍 の 汚い 寺 の 中 に 閉じ 籠っ て い まし た 。 彼 の 座敷 は 本堂 の すぐ 傍 の 狭い 室 でし た が 、 彼 は そこ で 自分 の 思う 通り に 勉強 が でき た の を 喜ん で いる らしく 見え まし た 。 私 は その 時 彼 の 生活 の 段々 坊さん らしく なっ て 行く の を 認め た よう に 思い ます 。 彼 は 手 頸 に 珠 数 を 懸け て い まし た 。 私 が それ は 何 の ため だ と 尋ね たら 、 彼 は 親指 で 一つ 二つ と 勘定 する 真似 を し て 見せ まし た 。 彼 は こうして 日 に 何 遍 も 珠 数 の 輪 を 勘定 する らしかっ た の です 。 ただし その 意味 は 私 に は 解り ませ ん 。 円い 輪 に なっ て いる もの を 一 粒 ずつ 数え て ゆけ ば 、 どこ まで 数え て いっ て も 終局 は あり ませ ん 。 K は どんな 所 で どんな 心持 が し て 、 爪繰る 手 を 留め た でしょ う 。 詰ら ない 事 です が 、 私 は よく それ を 思う の です 。
私 は また 彼 の 室 に 聖書 を 見 まし た 。 私 は それ まで に お 経 の 名 を 度々 彼 の 口 から 聞い た 覚え が あり ます が 、 基督教 について は 、 問わ れ た 事 も 答え られ た 例 も なかっ た の です から 、 ちょっと 驚き まし た 。 私 は その 理由 を 訊ね ず に はいら れ ませ ん でし た 。 K は 理由 は ない と いい まし た 。 これ ほど 人 の 有難がる 書物 なら 読ん で みる の が 当り前 だろ う と も いい まし た 。 その 上 彼 は 機会 が あっ たら 、 『 コーラン 』 も 読ん で みる つもり だ と いい まし た 。 彼 は モハメッド と 剣 という 言葉 に 大いなる 興味 を もっ て いる よう でし た 。
二 年 目 の 夏 に 彼 は 国 から 催促 を 受け て ようやく 帰り まし た 。 帰っ て も 専門 の 事 は 何 に も いわ なかっ た もの と みえ ます 。 家 で も また そこ に 気が付か なかっ た の です 。 あなた は 学校 教育 を 受け た 人 だ から 、 こういう 消息 を よく 解し て いる でしょ う が 、 世間 は 学生 の 生活 だの 、 学校 の 規則 だ の に関して 、 驚く べく 無知 な もの です 。 我々 に 何 で も ない 事 が 一向 外部 へ は 通じ て い ませ ん 。 我々 は また 比較的 内部 の 空気 ばかり 吸っ て いる ので 、 校内 の 事 は 細大 とも に 世の中 に 知れ渡っ て いる はず だ と 思い 過ぎる 癖 が あり ます 。 K は その 点 にかけて 、 私 より 世間 を 知っ て い た の でしょ う 、 澄まし た 顔 で また 戻っ て 来 まし た 。 国 を 立つ 時 は 私 も いっしょ でし た から 、 汽車 へ 乗る や 否や すぐ どう だっ た と K に 問い まし た 。 K は どう で も なかっ た と 答え た の です 。
三 度目 の 夏 は ちょうど 私 が 永久 に 父母 の 墳墓 の 地 を 去ろ う と 決心 し た 年 です 。 私 は その 時 K に 帰国 を 勧め まし た が 、 K は 応じ ませ ん でし た 。 そう 毎年 家 へ 帰っ て 何 を する の だ という の です 。 彼 は また 踏み 留まっ て 勉強 する つもり らしかっ た の です 。 私 は 仕方 なし に 一 人 で 東京 を 立つ 事 に し まし た 。 私 の 郷里 で 暮らし た その 二 カ月 間 が 、 私 の 運命 にとって 、 いかに 波瀾 に 富ん だ もの か は 、 前 に 書い た 通り です から 繰り返し ませ ん 。 私 は 不平 と 幽 欝 と 孤独 の 淋し さ と を 一つ 胸 に 抱い て 、 九月 に 入っ て また K に 逢い まし た 。 すると 彼 の 運命 も また 私 と 同様 に 変調 を 示し て い まし た 。 彼 は 私 の 知ら ない うち に 、 養家 先 へ 手紙 を 出し て 、 こっち から 自分 の 詐り を 白状 し て しまっ た の です 。 彼 は 最初 から その 覚悟 で い た の だ そう です 。 今更 仕方 が ない から 、 お前 の 好き な もの を やる より 外 に 途 は ある まい と 、 向う に いわ せる つもり も あっ た の でしょ う か 。 とにかく 大学 へ 入っ て まで も 養父母 を 欺き 通す 気 は なかっ た らしい の です 。 また 欺こ う として も 、 そう 長く 続く もの で は ない と 見抜い た の かも 知れ ませ ん 。
「 K の 手紙 を 見 た 養父 は 大変 怒り まし た 。 親 を 騙す よう な 不埒 な もの に 学資 を 送る 事 は でき ない という 厳しい 返事 を すぐ 寄こし た の です 。 K は それ を 私 に 見せ まし た 。 K は また それ と 前後 し て 実家 から 受け取っ た 書翰 も 見せ まし た 。 これ に も 前 に 劣ら ない ほど 厳しい 詰責 の 言葉 が あり まし た 。 養家 先 へ 対し て 済まない という 義理 が 加わっ て いる から でも あり ましょ う が 、 こっち で も 一切 構わ ない と 書い て あり まし た 。 K が この 事件 の ため に 復籍 し て しまう か 、 それとも 他 に 妥協 の 道 を 講じ て 、 依然 養家 に 留まる か 、 そこ は これから 起る 問題 として 、 差し当り どう か し なけれ ば なら ない の は 、 月々 に 必要 な 学資 でし た 。
私 は その 点 について K に 何 か 考え が ある の か と 尋ね まし た 。 K は 夜 学校 の 教師 でも する つもり だ と 答え まし た 。 その 時分 は 今 に 比べる と 、 存外 世の中 が 寛 ろ いで い まし た から 、 内職 の 口 は あなた が 考える ほど 払底 で も なかっ た の です 。 私 は K が それ で 充分 やっ て 行ける だろ う と 考え まし た 。 しかし 私 に は 私 の 責任 が あり ます 。 K が 養家 の 希望 に 背い て 、 自分 の 行き たい 道 を 行こ う と し た 時 、 賛成 し た もの は 私 です 。 私 は そう か と いっ て 手 を 拱い で いる 訳 に ゆき ませ ん 。 私 は その 場 で 物質 的 の 補助 を すぐ 申し出 し まし た 。 すると K は 一 も 二 も なく それ を 跳ね 付け まし た 。 彼 の 性格 から いっ て 、 自活 の 方 が 友達 の 保護 の 下 に 立つ より 遥 に 快 よく 思わ れ た の でしょ う 。 彼 は 大学 へ はいっ た 以上 、 自分 一 人 ぐらい どうか でき なけれ ば 男 で ない よう な 事 を いい まし た 。 私 は 私 の 責任 を 完 う する ため に 、 K の 感情 を 傷つける に 忍び ませ ん でし た 。 それで 彼 の 思う 通り に さ せ て 、 私 は 手 を 引き まし た 。
K は 自分 の 望む よう な 口 を ほどなく 探し出し まし た 。 しかし 時間 を 惜しむ 彼 にとって 、 この 仕事 が どの くらい 辛かっ た か は 想像 する まで も ない 事 です 。 彼 は 今 まで 通り 勉強 の 手 を ちっとも 緩め ず に 、 新しい 荷 を 背負っ て 猛進 し た の です 。 私 は 彼 の 健康 を 気遣い まし た 。 しかし 剛 気 な 彼 は 笑う だけ で 、 少し も 私 の 注意 に 取り合い ませ ん でし た 。
同時に 彼 と 養家 と の 関係 は 、 段々 こん 絡 が って 来 まし た 。 時間 に 余裕 の なくなっ た 彼 は 、 前 の よう に 私 と 話す 機会 を 奪わ れ た ので 、 私 は ついに その 顛末 を 詳しく 聞か ず に しまい まし た が 、 解決 の ますます 困難 に なっ て ゆく 事 だけ は 承知 し て い まし た 。 人 が 仲 に 入っ て 調停 を 試み た 事 も 知っ て い まし た 。 その 人 は 手紙 で K に 帰国 を 促し た の です が 、 K は 到底 駄目 だ と いっ て 、 応じ ませ ん でし た 。 この 剛 情な ところが 、 —— K は 学年 中 で 帰れ ない の だ から 仕方 が ない と いい まし た けれども 、 向う から 見れ ば 剛 情 でしょ う 。 そこ が 事態 を ますます 険悪 に し た よう に も 見え まし た 。 彼 は 養家 の 感情 を 害する と共に 、 実家 の 怒り も 買う よう に なり まし た 。 私 が 心配 し て 双方 を 融和 する ため に 手紙 を 書い た 時 は 、 もう 何 の 効果 も あり ませ ん でし た 。 私 の 手紙 は 一言 の 返事 さえ 受け ず に 葬ら れ て しまっ た の です 。 私 も 腹 が 立ち まし た 。 今 まで も 行 掛り 上 、 K に 同情 し て い た 私 は 、 それ 以後 は 理 否 を 度外 に 置い て も K の 味方 を する 気 に なり まし た 。
最後 に K は とうとう 復籍 に 決し まし た 。 養家 から 出し て もらっ た 学資 は 、 実家 で 弁償 する 事 に なっ た の です 。 その 代り 実家 の 方 でも 構わ ない から 、 これから は 勝手 に しろ と いう の です 。 昔 の 言葉 で いえ ば 、 まあ 勘当 な の でしょ う 。 あるいは それほど 強い もの で なかっ た かも 知れ ませ ん が 、 当人 は そう 解釈 し て い まし た 。 K は 母 の ない 男 でし た 。 彼 の 性格 の 一 面 は 、 たしかに 継母 に 育て られ た 結果 と も 見る 事 が できる よう です 。 もし 彼 の 実 の 母 が 生き て い たら 、 あるいは 彼 と 実家 と の 関係 に 、 こう まで 隔たり が でき ず に 済ん だ かも 知れ ない と 私 は 思う の です 。 彼 の 父 は いう まで も なく 僧侶 でし た 。 けれども 義理堅い 点 において 、 むしろ 武士 に 似 た ところ が あり は し ない か と 疑わ れ ます 。
「 K の 事件 が 一段落 つい た 後 で 、 私 は 彼 の 姉 の 夫 から 長い 封書 を 受け取り まし た 。 K の 養子 に 行っ た 先 は 、 この 人 の 親類 に 当る の です から 、 彼 を 周旋 し た 時 に も 、 彼 を 復籍 さ せ た 時 に も 、 この 人 の 意見 が 重き を なし て い た の だ と 、 K は 私 に 話し て 聞か せ まし た 。
手紙 に は その後 K が どう し て いる か 知らせ て くれ と 書い て あり まし た 。 姉 が 心配 し て いる から 、 なるべく 早く 返事 を 貰い たい という 依頼 も 付け加え て あり まし た 。 K は 寺 を 嗣い だ 兄 より も 、 他家 へ 縁づい た この 姉 を 好い て い まし た 。 彼ら は みんな 一つ 腹 から 生れ た 姉 弟 です けれども 、 この 姉 と K と の 間 に は 大分 年歯 の 差 が あっ た の です 。 それで K の 小 供 の 時分 に は 、 継母 より も この 姉 の 方 が 、 かえって 本当 の 母 らしく 見え た の でしょ う 。
私 は K に 手紙 を 見せ まし た 。 K は 何とも いい ませ ん でし た けれども 、 自分 の 所 へ この 姉 から 同じ よう な 意味 の 書状 が 二 、 三 度 来 た という 事 を 打ち明け まし た 。 K は その たび に 心配 する に 及ば ない と 答え て やっ た の だ そう です 。 運 悪く この 姉 は 生活 に 余裕 の ない 家 に 片付い た ため に 、 いくら K に 同情 が あっ て も 、 物質 的 に 弟 を どうして やる 訳 に も 行か なかっ た の です 。
私 は K と 同じ よう な 返事 を 彼 の 義兄 宛 で 出し まし た 。 その 中 に 、 万一 の 場合 に は 私 が どう でも する から 、 安心 する よう に という 意味 を 強い 言葉 で 書き 現 わし まし た 。 これ は 固 より 私 の 一存 でし た 。 K の 行先 を 心配 する この 姉 に 安心 を 与えよ う という 好意 は 無論 含ま れ て い まし た が 、 私 を 軽蔑 し た と より 外 に 取り よう の ない 彼 の 実家 や 養家 に対する 意地 も あっ た の です 。
K の 復籍 し た の は 一 年生 の 時 でし た 。 それ から 二 年生 の 中頃 に なる まで 、 約 一 年 半 の 間 、 彼 は 独力 で 己 れ を 支え て いっ た の です 。 ところが この 過度 の 労力 が 次第に 彼 の 健康 と 精神 の 上 に 影響 し て 来 た よう に 見え 出し まし た 。 それ に は 無論 養家 を 出る 出 ない の 蒼 蠅 い 問題 も 手伝っ て い た でしょ う 。 彼 は 段々 感傷 的 に なっ て 来 た の です 。 時に よる と 、 自分 だけ が 世の中 の 不幸 を 一 人 で 背負っ て 立っ て いる よう な 事 を いい ます 。 そう し て それ を 打ち消せ ば すぐ 激 する の です 。 それから 自分 の 未来 に 横たわる 光明 が 、 次第に 彼 の 眼 を 遠 退い て 行く よう に も 思っ て 、 いらいら する の です 。 学問 を やり 始め た 時 に は 、 誰 しも 偉大 な 抱負 を もっ て 、 新しい 旅 に 上る の が 常 です が 、 一 年 と 立ち 二 年 と 過ぎ 、 もう 卒業 も 間近 に なる と 、 急 に 自分 の 足 の 運び の 鈍い の に 気が付い て 、 過半 は そこ で 失望 する の が 当り前 に なっ て い ます から 、 K の 場合 も 同じ な の です が 、 彼 の 焦慮 り 方 は また 普通 に 比べる と 遥か に 甚 しかっ た の です 。 私 は ついに 彼 の 気分 を 落ち 付ける の が 専一 だ と 考え まし た 。
私 は 彼 に 向っ て 、 余計 な 仕事 を する の は 止せ と いい まし た 。 そうして 当分 身体 を 楽 に し て 、 遊ぶ 方 が 大きな 将来 の ため に 得策 だ と 忠告 し まし た 。 剛 情な K の 事 です から 、 容易 に 私 の いう 事 など は 聞く まい と 、 かねて 予期 し て い た の です が 、 実際 いい 出し て 見る と 、 思っ た より も 説き 落す の に 骨 が 折れ た ので 弱り まし た 。 K は ただ 学問 が 自分 の 目的 で は ない と 主張 する の です 。 意志 の 力 を 養っ て 強い 人 に なる の が 自分 の 考え だ という の です 。 それ に は なるべく 窮屈 な 境遇 に い なく て は なら ない と 結論 する の です 。 普通 の 人 から 見れ ば 、 まるで 酔 興 です 。 その 上 窮屈 な 境遇 に いる 彼 の 意志 は 、 ちっとも 強く なっ て い ない の です 。 彼 は むしろ 神経 衰弱 に 罹っ て いる くらい な の です 。 私 は 仕方 が ない から 、 彼 に 向っ て 至極 同感 で ある よう な 様子 を 見せ まし た 。 自分 も そういう 点 に 向っ て 、 人生 を 進む つもり だっ た と ついに は 明言 し まし た 。 ( もっとも これ は 私 に 取っ て まんざら 空虚 な 言葉 で も なかっ た の です 。 K の 説 を 聞い て いる と 、 段々 そういう ところ に 釣り込ま れ て 来る くらい 、 彼 に は 力 が あっ た の です から ) 。 最後 に 私 は K と いっしょ に 住ん で 、 いっしょ に 向上 の 路 を 辿っ て 行き たい と 発議 し まし た 。 私 は 彼 の 剛 情 を 折り曲げる ため に 、 彼 の 前 に 跪く 事 を あえて し た の です 。 そうして 漸 と の 事 で 彼 を 私 の 家 に 連れ て 来 まし た 。
「 私 の 座敷 に は 控え の 間 という よう な 四 畳 が 付属 し て い まし た 。 玄関 を 上がっ て 私 の いる 所 へ 通ろ う と する に は 、 ぜひ この 四 畳 を 横切ら なけれ ば なら ない の だ から 、 実用 の 点 から 見る と 、 至極 不便 な 室 でし た 。 私 は ここ へ K を 入れ た の です 。 もっとも 最初 は 同じ 八 畳 に 二つ 机 を 並べ て 、 次の間 を 共有 に し て 置く 考え だっ た の です が 、 K は 狭苦しくっ て も 一 人 で いる 方 が 好い と いっ て 、 自分 で そっち の ほう を 択ん だ の です 。
前 に も 話し た 通り 、 奥さん は 私 の この 所 置 に対して 始め は 不賛成 だっ た の です 。 下宿 屋 なら ば 、 一 人 より 二 人 が 便利 だ し 、 二 人 より 三 人 が 得 に なる けれども 、 商売 で ない の だ から 、 なるべく なら 止し た 方 が 好い という の です 。 私 が 決して 世話 の 焼ける 人 で ない から 構う まい と いう と 、 世話 は 焼け ない でも 、 気心 の 知れ ない 人 は 厭 だ と 答える の です 。 それでは 今 厄介 に なっ て いる 私 だって 同じ 事 で は ない か と 詰る と 、 私 の 気心 は 初め から よく 分っ て いる と 弁解 し て 已 ま ない の です 。 私 は 苦笑 し まし た 。 すると 奥さん は また 理屈 の 方向 を 更 え ます 。 そんな 人 を 連れ て 来る の は 、 私 の ため に 悪い から 止せ と いい 直し ます 。 なぜ 私 の ため に 悪い か と 聞く と 、 今度 は 向う で 苦笑 する の です 。
実 を いう と 私 だって 強い て K と いっしょ に いる 必要 は なかっ た の です 。 けれども 月々 の 費用 を 金 の 形 で 彼 の 前 に 並べ て 見せる と 、 彼 は きっと それ を 受け取る 時 に 躊躇 する だろ う と 思っ た の です 。 彼 は それほど 独立 心 の 強い 男 でし た 。 だから 私 は 彼 を 私 の 宅 へ 置い て 、 二 人前 の 食料 を 彼 の 知ら ない 間 に そっと 奥さん の 手 に 渡そ う と し た の です 。 しかし 私 は K の 経済 問題 について 、 一言 も 奥さん に 打ち明ける 気 は あり ませ ん でし た 。
私 は ただ K の 健康 について 云々 し まし た 。 一 人 で 置く と ますます 人間 が 偏屈 に なる ばかり だ から と いい まし た 。 それ に 付け足し て 、 K が 養家 と 折合 の 悪かっ た 事 や 、 実家 と 離れ て しまっ た 事 や 、 色々 話し て 聞か せ まし た 。 私 は 溺れ かかっ た 人 を 抱い て 、 自分 の 熱 を 向う に 移し て やる 覚悟 で 、 K を 引き取る の だ と 告げ まし た 。 その つもり で あたたかい 面倒 を 見 て やっ て くれ と 、 奥さん に も お嬢さん に も 頼み まし た 。 私 は ここ まで 来 て 漸 々 奥さん を 説き伏せ た の です 。 しかし 私 から 何 に も 聞か ない K は 、 この 顛末 を まるで 知ら ず に い まし た 。 私 も かえって それ を 満足 に 思っ て 、 のっそり 引き 移っ て 来 た K を 、 知らん顔 で 迎え まし た 。
奥さん と お嬢さん は 、 親切 に 彼 の 荷物 を 片付ける 世話 や 何 か を し て くれ まし た 。 すべて それ を 私 に対する 好意 から 来 た の だ と 解釈 し た 私 は 、 心 の うち で 喜び まし た 。 —— K が 相 変ら ず むっちり し た 様子 を し て いる に も かかわら ず 。
私 が K に 向っ て 新しい 住居 の 心持 は どう だ と 聞い た 時 に 、 彼 は ただ 一言 悪く ない といった だけ でし た 。 私 から いわ せれ ば 悪く ない どころ で は ない の です 。 彼 の 今 まで い た 所 は 北 向き の 湿っぽい 臭い の する 汚い 室 でし た 。 食物 も 室 相応 に 粗末 でし た 。 私 の 家 へ 引き 移っ た 彼 は 、 幽谷 から 喬木 に 移っ た 趣 が あっ た くらい です 。 それ を さ ほど に 思う 気色 を 見せ ない の は 、 一つ は 彼 の 強情 から 来 て いる の です が 、 一つ は 彼 の 主張 から も 出 て いる の です 。 仏教 の 教義 で 養わ れ た 彼 は 、 衣食住 について とかく の 贅沢 を いう の を あたかも 不道徳 の よう に 考え て い まし た 。 なまじい 昔 の 高僧 だ とか 聖徒 だ とか の 伝 を 読ん だ 彼 に は 、 やや ともすると 精神 と 肉体 と を 切り離し た がる 癖 が あり まし た 。 肉 を 鞭撻 すれ ば 霊 の 光輝 が 増す よう に 感ずる 場合 さえ あっ た の かも 知れ ませ ん 。
私 は なるべく 彼 に 逆らわ ない 方針 を 取り まし た 。 私 は 氷 を 日向 へ 出し て 溶かす 工夫 を し た の です 。 今 に 融け て 温かい 水 に なれ ば 、 自分 で 自分 に 気が付く 時機 が 来る に 違い ない と 思っ た の です 。
「 私 は 奥さん から そういう 風 に 取り扱わ れ た 結果 、 段々 快活 に なっ て 来 た の です 。 それ を 自覚 し て い た から 、 同じ もの を 今度 は K の 上 に 応用 しよ う と 試み た の です 。 K と 私 と が 性格 の 上 において 、 大分 相違 の ある 事 は 、 長く 交際 って 来 た 私 に よく 解っ て い まし た けれども 、 私 の 神経 が この 家庭 に 入っ て から 多少 角 が 取れ た ごとく 、 K の 心 も ここ に 置け ば いつか 沈ま る 事 が ある だろ う と 考え た の です 。
K は 私 より 強い 決心 を 有し て いる 男 でし た 。 勉強 も 私 の 倍 ぐらい は し た でしょ う 。 その 上 持っ て 生れ た 頭 の 質 が 私 より も ずっと よかっ た の です 。 後 で は 専門 が 違い まし た から 何とも いえ ませ ん が 、 同じ 級 に いる 間 は 、 中学 でも 高等 学校 で も 、 K の 方 が 常に 上席 を 占め て い まし た 。 私 に は 平生 から 何 を し て も K に 及ば ない という 自覚 が あっ た くらい です 。 けれども 私 が 強い て K を 私 の 宅 へ 引っ張っ て 来 た 時 に は 、 私 の 方 が よく 事理 を 弁え て いる と 信じ て い まし た 。 私 に いわ せる と 、 彼 は 我慢 と 忍耐 の 区別 を 了解 し て い ない よう に 思わ れ た の です 。 これ は とくに あなた の ため に 付け足し て おき たい の です から 聞い て 下さい 。 肉体 なり 精神 なり すべて 我々 の 能力 は 、 外部 の 刺戟 で 、 発達 も する し 、 破壊 さ れ も する でしょ う が 、 どっち に し て も 刺戟 を 段々 に 強く する 必要 の ある の は 無論 です から 、 よく 考え ない と 、 非常 に 険悪 な 方向 へ むい て 進ん で 行き ながら 、 自分 は もちろん 傍 の もの も 気が付か ず に いる 恐れ が 生じ て き ます 。 医者 の 説明 を 聞く と 、 人間 の 胃袋 ほど 横着 な もの は ない そう です 。 粥 ばかり 食っ て いる と 、 それ 以上 の 堅い もの を 消化 す 力 が いつの間にか なくなっ て しまう の だ そう です 。 だから 何 でも 食う 稽古 を し て おけ と 医者 は いう の です 。 けれども これ は ただ 慣れる という 意味 で は なかろ う と 思い ます 。 次第に 刺戟 を 増す に従って 、 次第に 営養 機能 の 抵抗 力 が 強く なる という 意味 で なく て は なり ます まい 。 もし 反対 に 胃 の 力 の 方 が じりじり 弱っ て 行っ た なら 結果 は どう なる だろ う と 想像 し て みれ ば すぐ 解る 事 です 。 K は 私 より 偉大 な 男 でし た けれども 、 全く ここ に 気が付い て い なかっ た の です 。 ただ 困難 に 慣れ て しまえ ば 、 しまいに その 困難 は 何でも なくなる もの だ と 極め て い た らしい の です 。 艱苦 を 繰り返せ ば 、 繰り返す と いう だけ の 功徳 で 、 その 艱苦 が 気 に かから なく なる 時機 に 邂逅 える もの と 信じ 切っ て い た らしい の です 。
私 は K を 説く とき に 、 ぜひ そこ を 明らか に し て やり たかっ た の です 。 しかし いえ ば きっと 反抗 さ れる に 極 って い まし た 。 また 昔 の 人 の 例 など を 、 引合 に 持っ て 来る に 違い ない と 思い まし た 。 そう なれ ば 私 だって 、 その 人 たち と K と 違っ て いる 点 を 明白 に 述べ なけれ ば なら なく なり ます 。 それ を 首肯 って くれる よう な K なら いい の です けれども 、 彼 の 性質 として 、 議論 が そこ まで ゆく と 容易 に 後 へ は 返り ませ ん 。 なお 先 へ 出 ます 。 そうして 、 口 で 先 へ 出 た 通り を 、 行為 で 実現 し に 掛り ます 。 彼 は こう なる と 恐る べき 男 でし た 。 偉大 でし た 。 自分 で 自分 を 破壊 し つつ 進み ます 。 結果 から 見れ ば 、 彼 は ただ 自己 の 成功 を 打ち砕く 意味 において 、 偉大 な のに 過ぎ ない の です けれども 、 それでも 決して 平凡 で は あり ませ ん でし た 。 彼 の 気性 を よく 知っ た 私 は ついに 何とも いう 事 が でき なかっ た の です 。 その 上 私 から 見る と 、 彼 は 前 に も 述べ た 通り 、 多少 神経 衰弱 に 罹っ て い た よう に 思わ れ た の です 。 よし 私 が 彼 を 説き伏せ た ところ で 、 彼 は 必ず 激 する に 違い ない の です 。 私 は 彼 と 喧嘩 を する 事 は 恐れ て は い ませ ん でし た けれども 、 私 が 孤独 の 感 に 堪え なかっ た 自分 の 境遇 を 顧みる と 、 親友 の 彼 を 、 同じ 孤独 の 境遇 に 置く の は 、 私 に 取っ て 忍び ない 事 でし た 。 一 歩 進ん で 、 より 孤独 な 境遇 に 突き 落す の は なお 厭 でし た 。 それで 私 は 彼 が 宅 へ 引き 移っ て から も 、 当分 の 間 は 批評 が まし い 批評 を 彼 の 上 に 加え ず に い まし た 。 ただ 穏やか に 周囲 の 彼 に 及ぼす 結果 を 見る 事 に し た の です 。
「 私 は 蔭 へ 廻っ て 、 奥さん と お嬢さん に 、 なるべく K と 話 を する よう に 頼み まし た 。 私 は 彼 の これ まで 通っ て 来 た 無言 生活 が 彼 に 祟っ て いる の だろ う と 信じ た から です 。 使わ ない 鉄 が 腐る よう に 、 彼 の 心 に は 錆 が 出 て い た と しか 、 私 に は 思わ れ なかっ た の です 。
奥さん は 取り付き 把 の ない 人 だ と いっ て 笑っ て い まし た 。 お嬢さん は また わざわざ その 例 を 挙げ て 私 に 説明 し て 聞か せる の です 。 火鉢 に 火 が ある か と 尋ねる と 、 K は ない と 答える そう です 。 で は 持っ て 来よ う と いう と 、 要ら ない と 断る そう です 。 寒く は ない か と 聞く と 、 寒い けれども 要ら ない ん だ といった ぎり 応対 を し ない の だ そう です 。 私 は ただ 苦笑 し て いる 訳 に も ゆき ませ ん 。 気の毒 だ から 、 何とか いっ て その 場 を 取り繕っ て おか なけれ ば 済まなく なり ます 。 もっとも それ は 春 の 事 です から 、 強いて 火 にあたる 必要 も なかっ た の です が 、 これ で は 取り付き 把 が ない と いわ れる の も 無理 は ない と 思い まし た 。
それで 私 は なるべく 、 自分 が 中心 に なっ て 、 女 二 人 と K と の 連絡 を はかる よう に 力め まし た 。 K と 私 が 話し て いる 所 へ 家 の 人 を 呼ぶ とか 、 または 家 の 人 と 私 が 一つ 室 に 落ち合っ た 所 へ 、 K を 引っ張り 出す とか 、 どっち でも その 場合 に 応じ た 方法 を とっ て 、 彼ら を 接近 さ せよ う と し た の です 。 もちろん K は それ を あまり 好み ませ ん でし た 。 ある 時 は ふい と 起っ て 室 の 外 へ 出 まし た 。 また ある 時 は いくら 呼ん で も なかなか 出 て 来 ませ ん でし た 。 K は あんな 無駄 話 を し て どこ が 面白い という の です 。 私 は ただ 笑っ て い まし た 。 しかし 心 の 中 で は 、 K が その ため に 私 を 軽蔑 し て いる こと が よく 解り まし た 。
私 は ある 意味 から 見 て 実際 彼 の 軽蔑 に 価し て い た かも 知れ ませ ん 。 彼 の 眼 の 着け 所 は 私 より 遥か に 高い ところ に あっ た と も いわ れる でしょ う 。 私 も それ を 否み は し ませ ん 。 しかし 眼 だけ 高くっ て 、 外 が 釣り合わ ない の は 手 も なく 不具 です 。 私 は 何 を 措い て も 、 この 際 彼 を 人間らしく する の が 専一 だ と 考え た の です 。 いくら 彼 の 頭 が 偉い 人 の 影像 で 埋まっ て い て も 、 彼 自身 が 偉く なっ て ゆか ない 以上 は 、 何 の 役 に も 立た ない という 事 を 発見 し た の です 。 私 は 彼 を 人間らしく する 第 一 の 手段 として 、 まず 異性 の 傍 に 彼 を 坐ら せる 方法 を 講じ た の です 。 そう し て そこ から 出る 空気 に 彼 を 曝し た 上 、 錆び付き かかっ た 彼 の 血液 を 新しく しよ う と 試み た の です 。
この 試み は 次第に 成功 し まし た 。 初め の うち 融合 し にくい よう に 見え た もの が 、 段々 一つ に 纏まっ て 来 出し まし た 。 彼 は 自分 以外 に 世界 の ある 事 を 少し ずつ 悟っ て ゆく よう でし た 。 彼 は ある 日 私 に 向っ て 、 女 は そう 軽蔑 す べき もの で ない という よう な 事 を いい まし た 。 K は はじめ 女 から も 、 私 同様 の 知識 と 学問 を 要求 し て い た らしい の です 。 そう し て それ が 見付から ない と 、 すぐ 軽蔑 の 念 を 生じ た もの と 思わ れ ます 。 今 まで の 彼 は 、 性 によって 立場 を 変える 事 を 知ら ず に 、 同じ 視線 で すべて の 男女 を 一様 に 観察 し て い た の です 。 私 は 彼 に 、 もし 我ら 二 人 だけ が 男 同志 で 永久 に 話 を 交換 し て いる なら ば 、 二 人 は ただ 直線 的 に 先 へ 延び て 行く に 過ぎ ない だろ う と いい まし た 。 彼 は もっとも だ と 答え まし た 。 私 は その 時 お嬢さん の 事 で 、 多少 夢中 に なっ て いる 頃 でし た から 、 自然 そんな 言葉 も 使う よう に なっ た の でしょ う 。 しかし 裏面 の 消息 は 彼 に は 一口 も 打ち明け ませ ん でし た 。
今 まで 書物 で 城壁 を きずい て その 中 に 立て 籠っ て い た よう な K の 心 が 、 段々 打ち解け て 来る の を 見 て いる の は 、 私 に 取っ て 何 より も 愉快 でし た 。 私 は 最初 から そうした 目的 で 事 を やり 出し た の です から 、 自分 の 成功 に 伴う 喜悦 を 感ぜ ず に は い られ なかっ た の です 。 私 は 本人 に いわ ない 代り に 、 奥さん と お嬢さん に 自分 の 思っ た 通り を 話し まし た 。 二 人 も 満足 の 様子 でし た 。
「 K と 私 は 同じ 科 に おり ながら 、 専攻 の 学問 が 違っ て い まし た から 、 自然 出る 時 や 帰る 時 に 遅速 が あり まし た 。 私 の 方 が 早けれ ば 、 ただ 彼 の 空 室 を 通り抜ける だけ です が 、 遅い と 簡単 な 挨拶 を し て 自分 の 部屋 へ はいる の を 例 に し て い まし た 。 K は いつも の 眼 を 書物 から はなし て 、 襖 を 開ける 私 を ちょっと 見 ます 。 そうして きっと 今 帰っ た の か と いい ます 。 私 は 何 も 答え ない で 点頭く 事 も あり ます し 、 あるいは ただ 「 うん 」 と 答え て 行き 過ぎる 場合 も あり ます 。
ある 日 私 は 神田 に 用 が あっ て 、 帰り が いつも より ずっと 後れ まし た 。 私 は 急ぎ足 に 門前 まで 来 て 、 格子 を がらり と 開け まし た 。 それ と 同時に 、 私 は お嬢さん の 声 を 聞い た の です 。 声 は 慥か に K の 室 から 出 た と 思い まし た 。 玄関 から 真直 に 行け ば 、 茶の間 、 お嬢さん の 部屋 と 二つ 続い て い て 、 それ を 左 へ 折れる と 、 K の 室 、 私 の 室 、 という 間 取 な の です から 、 どこ で 誰 の 声 が し た くらい は 、 久しく 厄介 に なっ て いる 私 に は よく 分る の です 。 私 は すぐ 格子 を 締め まし た 。 すると お嬢さん の 声 も すぐ 已 み まし た 。 私 が 靴 を 脱い で いる うち 、 —— 私 は その 時分 から ハイカラ で 手数 の かかる 編 上 を 穿い て い た の です が 、 —— 私 が こごん で その 靴 紐 を 解い て いる うち 、 K の 部屋 で は 誰 の 声 も し ませ ん でし た 。 私 は 変 に 思い まし た 。 ことに よる と 、 私 の 疳 違 かも 知れ ない と 考え た の です 。 しかし 私 が いつも の 通り K の 室 を 抜けよ う として 、 襖 を 開ける と 、 そこ に 二 人 は ちゃんと 坐っ て い まし た 。 K は 例 の 通り 今 帰っ た か と いい まし た 。 お嬢さん も 「 お 帰り 」 と 坐っ た まま で 挨拶 し まし た 。 私 に は 気 の せい か その 簡単 な 挨拶 が 少し 硬い よう に 聞こえ まし た 。 どこ か で 自然 を 踏み外し て いる よう な 調子 として 、 私 の 鼓膜 に 響い た の です 。 私 は お嬢さん に 、 奥さん は と 尋ね まし た 。 私 の 質問 に は 何 の 意味 も あり ませ ん でし た 。 家 の うち が 平常 より 何だか ひっそり し て い た から 聞い て 見 た だけ の 事 です 。
奥さん は はたして 留守 でし た 。 下女 も 奥さん と いっしょ に 出 た の でし た 。 だから 家 に 残っ て いる の は 、 K と お嬢さん だけ だっ た の です 。 私 は ちょっと 首 を 傾け まし た 。 今 まで 長い 間 世話 に なっ て い た けれども 、 奥さん が お嬢さん と 私 だけ を 置き去り に し て 、 宅 を 空け た 例 は まだ なかっ た の です から 。 私 は 何 か 急用 で も でき た の か と お嬢さん に 聞き返し まし た 。 お嬢さん は ただ 笑っ て いる の です 。 私 は こんな 時 に 笑う 女 が 嫌い でし た 。 若い 女 に 共通 な 点 だ と いえ ば それ まで かも 知れ ませ ん が 、 お嬢さん も 下ら ない 事 に よく 笑い た がる 女 でし た 。 しかし お嬢さん は 私 の 顔色 を 見 て 、 すぐ 不断 の 表情 に 帰り まし た 。 急用 で は ない が 、 ちょっと 用 が あっ て 出 た の だ と 真面目 に 答え まし た 。 下宿 人 の 私 に は それ 以上 問い詰める 権利 は あり ませ ん 。 私 は 沈黙 し まし た 。
私 が 着物 を 改めて 席 に 着く か 着か ない うち に 、 奥さん も 下女 も 帰っ て 来 まし た 。 やがて 晩食 の 食卓 で みんな が 顔 を 合わせる 時刻 が 来 まし た 。 下宿 し た 当座 は 万事 客扱い だっ た ので 、 食事 の たび に 下女 が 膳 を 運ん で 来 て くれ た の です が 、 それ が いつの間にか 崩れ て 、 飯 時 に は 向う へ 呼ば れ て 行く 習慣 に なっ て い た の です 。 K が 新しく 引き 移っ た 時 も 、 私 が 主張 し て 彼 を 私 と 同じ よう に 取り扱わ せる 事 に 極め まし た 。 その 代り 私 は 薄い 板 で 造っ た 足 の 畳み込める 華奢 な 食卓 を 奥さん に 寄附 し まし た 。 今 で は どこ の 宅 でも 使っ て いる よう です が 、 その 頃 そんな 卓 の 周囲 に 並ん で 飯 を 食う 家族 は ほとんど なかっ た の です 。 私 は わざわざ 御茶の水 の 家具 屋 へ 行っ て 、 私 の 工夫 通り に それ を 造り上げ させ た の です 。
私 は その 卓上 で 奥さん から その 日 いつも の 時刻 に 肴 屋 が 来 なかっ た ので 、 私 たち に 食わ せる もの を 買い に 町 へ 行か なけれ ば なら なかっ た の だ という 説明 を 聞かさ れ まし た 。 なるほど 客 を 置い て いる 以上 、 それ も もっとも な 事 だ と 私 が 考え た 時 、 お嬢さん は 私 の 顔 を 見 て また 笑い 出し まし た 。 しかし 今度 は 奥さん に 叱ら れ て すぐ 已め まし た 。
「 一 週間 ばかり し て 私 は また K と お嬢さん が いっしょ に 話し て いる 室 を 通り抜け まし た 。 その 時 お嬢さん は 私 の 顔 を 見る や 否や 笑い 出し まし た 。 私 は すぐ 何 が おかしい の か と 聞け ば よかっ た の でしょ う 。 それ を つい 黙っ て 自分 の 居間 まで 来 て しまっ た の です 。 だから K も いつも の よう に 、 今 帰っ た か と 声 を 掛ける 事 が でき なく なり まし た 。 お嬢さん は すぐ 障子 を 開け て 茶の間 へ 入っ た よう でし た 。
夕飯 の 時 、 お嬢さん は 私 を 変 な 人 だ と いい まし た 。 私 は その 時 も なぜ 変 な の か 聞か ず に しまい まし た 。 ただ 奥さん が 睨める よう な 眼 を お嬢さん に 向ける の に 気が付い た だけ でし た 。
私 は 食後 K を 散歩 に 連れ出し まし た 。 二 人 は 伝通院 の 裏手 から 植物 園 の 通り を ぐるり と 廻っ て また 富 坂 の 下 へ 出 まし た 。 散歩 として は 短い 方 で は あり ませ ん でし た が 、 その間 に 話し た 事 は 極めて 少なかっ た の です 。 性質 から いう と 、 K は 私 より も 無口 な 男 でし た 。 私 も 多弁 な 方 で は なかっ た の です 。 しかし 私 は 歩き ながら 、 できるだけ 話 を 彼 に 仕掛け て み まし た 。 私 の 問題 は おもに 二 人 の 下宿 し て いる 家族 について でし た 。 私 は 奥さん や お嬢さん を 彼 が どう 見 て いる か 知り たかっ た の です 。 ところが 彼 は 海 の もの とも 山 の もの とも 見分け の 付か ない よう な 返事 ばかり する の です 。 しかも その 返事 は 要領 を 得 ない くせ に 、 極めて 簡単 でし た 。 彼 は 二 人 の 女 に関して より も 、 専攻 の 学科 の 方 に 多く の 注意 を 払っ て いる よう に 見え まし た 。 もっとも それ は 二 学年 目 の 試験 が 目 の 前 に 逼 って いる 頃 でし た から 、 普通 の 人間 の 立場 から 見 て 、 彼 の 方 が 学生 らしい 学生 だっ た の でしょ う 。 その 上 彼 は シュエデンボルグ が どう だ と か こう だ とか いっ て 、 無学 な 私 を 驚か せ まし た 。
我々 が 首尾 よく 試験 を 済まし まし た 時 、 二 人 と もも う 後 一 年 だ と いっ て 奥さん は 喜ん で くれ まし た 。 そういう 奥さん の 唯一 の 誇り と も 見 られる お嬢さん の 卒業 も 、 間もなく 来る 順 に なっ て い た の です 。 K は 私 に 向っ て 、 女 という もの は 何 に も 知ら ない で 学校 を 出る の だ と いい まし た 。 K は お嬢さん が 学問 以外 に 稽古 し て いる 縫針 だの 琴 だの 活花 だ の を 、 まるで 眼中 に 置い て い ない よう でし た 。 私 は 彼 の 迂闊 を 笑っ て やり まし た 。 そうして 女 の 価値 は そんな 所 に ある もの で ない という 昔 の 議論 を また 彼 の 前 で 繰り返し まし た 。 彼 は 別段 反駁 も し ませ ん でし た 。 その 代り なる ほど という 様子 も 見せ ませ ん でし た 。 私 に は そこ が 愉快 でし た 。 彼 の ふん といった よう な 調子 が 、 依然として 女 を 軽蔑 し て いる よう に 見え た から です 。 女 の 代表 者 として 私 の 知っ て いる お嬢さん を 、 物の数 とも 思っ て い ない らしかっ た から です 。 今 から 回顧 する と 、 私 の K に対する 嫉妬 は 、 その 時 に もう 充分 萌し て い た の です 。
私 は 夏休み に どこ か へ 行こ う か と K に 相談 し まし た 。 K は 行き たく ない よう な 口 振 を 見せ まし た 。 無論 彼 は 自分 の 自由 意志 で どこ へ も 行ける 身体 で は あり ませ ん が 、 私 が 誘い さえ すれ ば 、 また どこ へ 行っ て も 差支え ない 身体 だっ た の です 。 私 は なぜ 行き たく ない の か と 彼 に 尋ね て み まし た 。 彼 は 理由 も 何 に も ない という の です 。 宅 で 書物 を 読ん だ 方 が 自分 の 勝手 だ という の です 。 私 が 避暑 地 へ 行っ て 涼しい 所 で 勉強 し た 方 が 、 身体 の ため だ と 主張 する と 、 それなら 私 一 人 行っ たら よかろ う という の です 。 しかし 私 は K 一 人 を ここ に 残し て 行く 気 に は なれ ない の です 。 私 は ただ で さえ K と 宅 の もの が 段々 親しく なっ て 行く の を 見 て いる の が 、 余り 好い 心持 で は なかっ た の です 。 私 が 最初 希望 し た 通り に なる の が 、 何で 私 の 心持 を 悪く する の か と いわ れれ ば それ まで です 。 私 は 馬鹿 に 違い ない の です 。 果し の つか ない 二 人 の 議論 を 見る に 見かね て 奥さん が 仲 へ 入り まし た 。 二 人 は とうとう いっしょ に 房州 へ 行く 事 に なり まし た 。
「 K は あまり 旅 へ 出 ない 男 でし た 。 私 に も 房州 は 始め て でし た 。 二 人 は 何 に も 知ら ない で 、 船 が 一番 先 へ 着い た 所 から 上陸 し た の です 。 たしか 保田 とか いい まし た 。 今 で は どんなに 変っ て いる か 知り ませ ん が 、 その 頃 は ひどい 漁村 でし た 。 第 一 どこ も かしこ も 腥い の です 。 それから 海 へ 入る と 、 波 に 押し倒さ れ て 、 すぐ 手 だの 足 だ の を 擦り 剥く の です 。 拳 の よう な 大きな 石 が 打ち寄せる 波 に 揉ま れ て 、 始終 ごろごろ し て いる の です 。
私 は すぐ 厭 に なり まし た 。 しかし K は 好い とも 悪い とも いい ませ ん 。 少なくとも 顔 付 だけ は 平気 な もの でし た 。 その くせ 彼 は 海 へ 入る たんび に どこ か に 怪我 を し ない 事 は なかっ た の です 。 私 は とうとう 彼 を 説き伏せ て 、 そこ から 富浦 に 行き まし た 。 富浦 から また 那古 に 移り まし た 。 すべて この 沿岸 は その 時分 から 重 に 学生 の 集まる 所 でし た から 、 どこ でも 我々 に は ちょうど 手頃 の 海水浴 場 だっ た の です 。 K と 私 は よく 海岸 の 岩 の 上 に 坐っ て 、 遠い 海 の 色 や 、 近い 水 の 底 を 眺め まし た 。 岩 の 上 から 見下す 水 は 、 また 特別 に 綺麗 な もの でし た 。 赤い 色 だの 藍 の 色 だの 、 普通 市場 に 上ら ない よう な 色 を し た 小 魚 が 、 透き通る 波 の 中 を あちら こちら と 泳い で いる の が 鮮やか に 指ささ れ まし た 。
私 は そこ に 坐っ て 、 よく 書物 を ひろげ まし た 。 K は 何 も せ ず に 黙っ て いる 方 が 多かっ た の です 。 私 に は それ が 考え に 耽っ て いる の か 、 景色 に 見惚れ て いる の か 、 もしくは 好き な 想像 を 描い て いる の か 、 全く 解ら なかっ た の です 。 私 は 時々 眼 を 上げ て 、 K に 何 を し て いる の だ と 聞き まし た 。 K は 何 も し て い ない と 一 口 答える だけ でし た 。 私 は 自分 の 傍 に こう じっと し て 坐っ て いる もの が 、 K で なくっ て 、 お嬢さん だっ たら さぞ 愉快 だろ う と 思う 事 が よく あり まし た 。 それだけ なら まだ いい の です が 、 時に は K の 方 で も 私 と 同じ よう な 希望 を 抱い て 岩 の 上 に 坐っ て いる の で は ない かしら と 忽然 疑い 出す の です 。 すると 落ち 付い て そこ に 書物 を ひろげ て いる の が 急 に 厭 に なり ます 。 私 は 不意 に 立ち上り ます 。 そうして 遠慮 の ない 大きな 声 を 出し て 怒鳴り ます 。 纏まっ た 詩 だの 歌 だ の を 面白 そう に 吟ずる よう な 手緩い 事 は でき ない の です 。 ただ 野蛮 人 の ご とく に わめく の です 。 ある 時 私 は 突然 彼 の 襟 頸 を 後ろ から ぐいと 攫み まし た 。 こうして 海 の 中 へ 突き 落し たら どう する と いっ て K に 聞き まし た 。 K は 動き ませ ん でし た 。 後ろ向き の まま 、 ちょうど 好い 、 やっ て くれ と 答え まし た 。 私 は すぐ 首筋 を 抑え た 手 を 放し まし た 。
K の 神経 衰弱 は この 時 もう 大分 よく なっ て い た らしい の です 。 それ と 反比例 に 、 私 の 方 は 段々 過敏 に なっ て 来 て い た の です 。 私 は 自分 より 落ち 付い て いる K を 見 て 、 羨まし がり まし た 。 また 憎らし がり まし た 。 彼 は どうしても 私 に 取り合う 気色 を 見せ なかっ た から です 。 私 に は それ が 一種 の 自信 の ごとく 映り まし た 。 しかし その 自信 を 彼 に 認め た ところ で 、 私 は 決して 満足 でき なかっ た の です 。 私 の 疑い は もう 一 歩 前 へ 出 て 、 その 性質 を 明らめ た がり まし た 。 彼 は 学問 なり 事業 なり について 、 これから 自分 の 進ん で 行く べき 前途 の 光明 を 再び 取り返し た 心持 に なっ た の だろ う か 。 単に それ だけ なら ば 、 K と 私 と の 利害 に 何 の 衝突 の 起る 訳 は ない の です 。 私 は かえって 世話 の し 甲斐 が あっ た の を 嬉しく 思う くらい な もの です 。 けれども 彼 の 安心 が もし お嬢さん に対して で ある と すれ ば 、 私 は 決して 彼 を 許す 事 が でき なく なる の です 。 不思議 に も 彼 は 私 の お嬢さん を 愛し て いる 素 振 に 全く 気 が 付い て い ない よう に 見え まし た 。 無論 私 も それ が K の 眼 に 付く よう に わざとらしく は 振舞い ませ ん でし た けれども 。 K は 元来 そういう 点 に かける と 鈍い 人 な の です 。 私 に は 最初 から K なら 大丈夫 という 安心 が あっ た ので 、 彼 を わざわざ 宅 へ 連れ て 来 た の です 。
「 私 は 思い切っ て 自分 の 心 を K に 打ち明けよ う と し まし た 。 もっとも これ は その 時 に 始まっ た 訳 で も なかっ た の です 。 旅 に 出 ない 前 から 、 私 に は そうした 腹 が でき て い た の です けれども 、 打ち明ける 機会 を つら まえる 事 も 、 その 機会 を 作り出す 事 も 、 私 の 手際 で は 旨く ゆか なかっ た の です 。 今 から 思う と 、 その 頃 私 の 周囲 に い た 人間 は みんな 妙 でし た 。 女 に関して 立ち入っ た 話 など を する もの は 一 人 も あり ませ ん でし た 。 中 に は 話す 種 を もた ない の も 大分 い た でしょ う が 、 たとい もっ て い て も 黙っ て いる の が 普通 の よう でし た 。 比較的 自由 な 空気 を 呼吸 し て いる 今 の あなた が た から 見 たら 、 定めし 変 に 思わ れる でしょ う 。 それ が 道学 の 余 習 な の か 、 または 一種 の はにかみ な の か 、 判断 は あなた の 理解 に 任せ て おき ます 。
K と 私 は 何 でも 話し合える 中 でし た 。 偶 に は 愛 とか 恋 とかいう 問題 も 、 口 に 上ら ない で は あり ませ ん でし た が 、 いつ でも 抽象 的 な 理論 に 落ち て しまう だけ でし た 。 それ も 滅多 に は 話題 に なら なかっ た の です 。 大抵 は 書物 の 話 と 学問 の 話 と 、 未来 の 事業 と 、 抱負 と 、 修養 の 話 ぐらい で 持ち切っ て い た の です 。 いくら 親しくっ て も こう 堅く なっ た 日 に は 、 突然 調子 を 崩せる もの で は あり ませ ん 。 二 人 は ただ 堅い なり に 親しく なる だけ です 。 私 は お嬢さん の 事 を K に 打ち明けよ う と 思い立っ て から 、 何 遍 歯がゆい 不快 に 悩まさ れ た か 知れ ませ ん 。 私 は K の 頭 の どこ か 一 カ所 を 突き破っ て 、 そこ から 柔らかい 空気 を 吹き込ん で やり たい 気 が し まし た 。
あなた が た から 見 て 笑止千万 な 事 も その 時 の 私 に は 実際 大 困難 だっ た の です 。 私 は 旅先 で も 宅 に い た 時 と 同じ よう に 卑怯 でし た 。 私 は 始終 機会 を 捕える 気 で K を 観察 し て い ながら 、 変 に 高踏 的 な 彼 の 態度 を どう する 事 も でき なかっ た の です 。 私 に いわ せる と 、 彼 の 心臓 の 周囲 は 黒い 漆 で 重く 塗り 固め られ た の も 同然 でし た 。 私 の 注ぎ 懸けよ う と する 血潮 は 、 一滴 も その 心臓 の 中 へ は 入ら ない で 、 悉く 弾き返さ れ て しまう の です 。
或 る 時 は あまり K の 様子 が 強く て 高い ので 、 私 は かえって 安心 し た 事 も あり ます 。 そうして 自分 の 疑い を 腹の中 で 後悔 する と共に 、 同じ 腹の中 で 、 K に 詫び まし た 。 詫び ながら 自分 が 非常 に 下等 な 人間 の よう に 見え て 、 急 に 厭 な 心持 に なる の です 。 しかし 少時 する と 、 以前 の 疑い が また 逆戻り を し て 、 強く 打ち返し て 来 ます 。 すべて が 疑い から 割り出さ れる の です から 、 すべて が 私 に は 不利益 でし た 。 容貌 も K の 方 が 女 に 好か れる よう に 見え まし た 。 性質 も 私 の よう に こせこせ し て い ない ところ が 、 異性 に は 気に入る だろ う と 思わ れ まし た 。 どこ か 間 が 抜け て い て 、 それで どこ か に 確か り し た 男らしい ところ の ある 点 も 、 私 より は 優勢 に 見え まし た 。 学力 に なれ ば 専門 こそ 違い ます が 、 私 は 無論 K の 敵 で ない と 自覚 し て い まし た 。 —— すべて 向う の 好い ところ だけ が こう 一 度 に 眼 先 へ 散ら つき 出す と 、 ちょっと 安心 し た 私 は すぐ 元 の 不安 に 立ち返る の です 。
K は 落ち 付 か ない 私 の 様子 を 見 て 、 厭 なら ひとまず 東京 へ 帰っ て も いい といった の です が 、 そう いわ れる と 、 私 は 急 に 帰り たく なくなり まし た 。 実は K を 東京 へ 帰し たく なかっ た の かも 知れ ませ ん 。 二 人 は 房州 の 鼻 を 廻っ て 向う側 へ 出 まし た 。 我々 は 暑い 日 に 射 られ ながら 、 苦しい 思い を し て 、 上総 の そこ 一 里 に 騙さ れ ながら 、 うん うん 歩き まし た 。 私 に は そうして 歩い て いる 意味 が まるで 解ら なかっ た くらい です 。 私 は 冗談 半分 K に そう いい まし た 。 すると K は 足 が ある から 歩く の だ と 答え まし た 。 そうして 暑く なる と 、 海 に 入っ て 行こ う と いっ て 、 どこ でも 構わ ず 潮 へ 漬 り まし た 。 その後 を また 強い 日 で 照り付け られる の です から 、 身体 が 倦怠 く て ぐたぐた に なり まし た 。
「 こんな 風 に し て 歩い て いる と 、 暑 さ と 疲労 と で 自然 身体 の 調子 が 狂っ て 来る もの です 。 もっとも 病気 と は 違い ます 。 急 に 他 の 身体 の 中 へ 、 自分 の 霊魂 が 宿 替 を し た よう な 気分 に なる の です 。 私 は 平生 の 通り K と 口 を 利き ながら 、 どこ か で 平生 の 心持 と 離れる よう に なり まし た 。 彼 に対する 親しみ も 憎しみ も 、 旅 中 限り という 特別 な 性質 を 帯びる 風 に なっ た の です 。 つまり 二 人 は 暑 さ の ため 、 潮 の ため 、 また 歩行 の ため 、 在来 と 異なっ た 新しい 関係 に 入る 事 が でき た の でしょ う 。 その 時 の 我々 は あたかも 道づれ に なっ た 行商 の よう な もの でし た 。 いくら 話 を し て も いつも と 違っ て 、 頭 を 使う 込み入っ た 問題 に は 触れ ませ ん でし た 。
我々 は この 調子 で とうとう 銚子 まで 行っ た の です が 、 道中 たった 一つ の 例外 が あっ た の を 今 に 忘れる 事 が でき ない の です 。 まだ 房州 を 離れ ない 前 、 二 人 は 小湊 という 所 で 、 鯛 の 浦 を 見物 し まし た 。 もう 年数 も よほど 経っ て い ます し 、 それに 私 に は それほど 興味 の ない 事 です から 、 判然 と は 覚え て い ませ ん が 、 何でも そこ は 日蓮 の 生れ た 村 だ とかいう 話 でし た 。 日蓮 の 生れ た 日 に 、 鯛 が 二 尾 磯 に 打ち上げ られ て い た とかいう 言伝え に なっ て いる の です 。 それ 以来 村 の 漁師 が 鯛 を とる 事 を 遠慮 し て 今 に 至っ た の だ から 、 浦 に は 鯛 が 沢山 いる の です 。 我々 は 小舟 を 傭っ て 、 その 鯛 を わざわざ 見 に 出掛け た の です 。
その 時 私 は ただ 一 図 に 波 を 見 て い まし た 。 そうして その 波 の 中 に 動く 少し 紫 がかっ た 鯛 の 色 を 、 面白い 現象 の 一つ として 飽か ず 眺め まし た 。 しかし K は 私 ほど それ に 興味 を もち 得 なかっ た もの と みえ ます 。 彼 は 鯛 より も かえって 日蓮 の 方 を 頭 の 中 で 想像 し て い た らしい の です 。 ちょうど そこ に 誕生寺 という 寺 が あり まし た 。 日蓮 の 生れ た 村 だ から 誕生寺 と で も 名 を 付け た もの でしょ う 、 立派 な 伽藍 でし た 。 K は その 寺 に 行っ て 住持 に 会っ て みる と いい 出し まし た 。 実 を いう と 、 我々 は ずいぶん 変 な 服装 を し て い た の です 。 ことに K は 風 の ため に 帽子 を 海 に 吹き飛ばさ れ た 結果 、 菅笠 を 買っ て 被っ て い まし た 。 着物 は 固 より 双方 とも 垢 じみ た 上 に 汗 で 臭く なっ て い まし た 。 私 は 坊さん など に 会う の は 止そ う と いい まし た 。 K は 強情 だ から 聞き ませ ん 。 厭 なら 私 だけ 外 に 待っ て いろ という の です 。 私 は 仕方 が ない から いっしょ に 玄関 に かかり まし た が 、 心 の うち で は きっと 断ら れる に 違い ない と 思っ て い まし た 。 ところが 坊さん という もの は 案外 丁寧 な もの で 、 広い 立派 な 座敷 へ 私 たち を通して 、 すぐ 会っ て くれ まし た 。 その 時分 の 私 は K と 大分 考え が 違っ て い まし た から 、 坊さん と K の 談話 に それほど 耳 を 傾ける 気 も 起り ませ ん でし た が 、 K は しきりに 日蓮 の 事 を 聞い て い た よう です 。 日蓮 は 草 日蓮 と いわ れる くらい で 、 草書 が 大変 上手 で あっ た と 坊さん が いっ た 時 、 字 の 拙い K は 、 何だ 下ら ない という 顔 を し た の を 私 は まだ 覚え て い ます 。 K は そんな 事 より も 、 もっと 深い 意味 の 日蓮 が 知り たかっ た の でしょ う 。 坊さん が その 点 で K を 満足 さ せ た か どう か は 疑問 です が 、 彼 は 寺 の 境内 を 出る と 、 しきりに 私 に 向っ て 日蓮 の 事 を 云々 し 出し まし た 。 私 は 暑く て 草臥れ て 、 それどころ で は あり ませ ん でし た から 、 ただ 口 の 先 で 好い加減 な 挨拶 を し て い まし た 。 それ も 面倒 に なっ て しまいに は 全く 黙っ て しまっ た の です 。
たしか その 翌 る 晩 の 事 だ と 思い ます が 、 二 人 は 宿 へ 着い て 飯 を 食っ て 、 もう 寝よ う という 少し 前 に なっ て から 、 急 に むずかしい 問題 を 論じ 合い 出し まし た 。 K は 昨日 自分 の 方 から 話しかけ た 日蓮 の 事 について 、 私 が 取り合わ なかっ た の を 、 快く 思っ て い なかっ た の です 。 精神 的 に 向上心 が ない もの は 馬鹿 だ と いっ て 、 何だか 私 を さも 軽 薄もの の よう に やり込める の です 。 ところが 私 の 胸 に は お嬢さん の 事 が 蟠っ て い ます から 、 彼 の 侮蔑 に 近い 言葉 を ただ 笑っ て 受け取る 訳 に いき ませ ん 。 私 は 私 で 弁解 を 始め た の です 。
「 その 時 私 は しきりに 人間らしい という 言葉 を 使い まし た 。 K は この 人間らしい という 言葉 の うち に 、 私 が 自分 の 弱点 の すべて を 隠し て いる という の です 。 なるほど 後 から 考えれ ば 、 K の いう 通り でし た 。 しかし 人間らしく ない 意味 を K に 納得 さ せる ため に その 言葉 を 使い 出し た 私 に は 、 出立 点 が すでに 反抗 的 でし た から 、 それ を 反省 する よう な 余裕 は あり ませ ん 。 私 は なお の 事 自説 を 主張 し まし た 。 すると K が 彼 の どこ を つら まえ て 人間らしく ない という の か と 私 に 聞く の です 。 私 は 彼 に 告げ まし た 。 —— 君 は 人間らしい の だ 。 あるいは 人間らし 過ぎる かも 知れ ない の だ 。 けれども 口 の 先 だけ で は 人間らしく ない よう な 事 を いう の だ 。 また 人間らしく ない よう に 振舞お う と する の だ 。
私 が こう いっ た 時 、 彼 は ただ 自分 の 修養 が 足り ない から 、 他 に は そう 見える かも 知れ ない と 答え た だけ で 、 一向 私 を 反駁 しよ う と し ませ ん でし た 。 私 は 張合い が 抜け た と いう より も 、 かえって 気の毒 に なり まし た 。 私 は すぐ 議論 を そこで 切り上げ まし た 。 彼 の 調子 も だんだん 沈ん で 来 まし た 。 もし 私 が 彼 の 知っ て いる 通り 昔 の 人 を 知る なら ば 、 そんな 攻撃 は し ない だろ う と いっ て 悵然 として い まし た 。 K の 口 に し た 昔 の 人 と は 、 無論 英雄 で も なけれ ば 豪傑 で も ない の です 。 霊 の ため に 肉 を 虐げ たり 、 道 の ため に 体 を 鞭 うっ たり し た いわゆる 難行苦行 の 人 を 指す の です 。 K は 私 に 、 彼 が どの くらい その ため に 苦しん で いる か 解ら ない の が 、 いかにも 残念 だ と 明言 し まし た 。
K と 私 と は それ ぎり 寝 て しまい まし た 。 そうして その 翌 る 日 から また 普通 の 行商 の 態度 に 返っ て 、 うん うん 汗 を 流し ながら 歩き 出し た の です 。 しかし 私 は 路 々 その 晩 の 事 を ひょいひょい と 思い出し まし た 。 私 に は この 上 も ない 好い 機会 が 与え られ た のに 、 知ら ない 振り を し て なぜ それ を やり過ごし た の だろ う という 悔恨 の 念 が 燃え た の です 。 私 は 人間らしい という 抽象 的 な 言葉 を 用いる 代り に 、 もっと 直截 で 簡単 な 話 を K に 打ち明け て しまえ ば 好かっ た と 思い出し た の です 。 実 を いう と 、 私 が そんな 言葉 を 創造 し た の も 、 お嬢さん に対する 私 の 感情 が 土台 に なっ て い た の です から 、 事実 を 蒸溜 し て 拵え た 理論 など を K の 耳 に 吹き込む より も 、 原 の 形 そのまま を 彼 の 眼 の 前 に 露出 し た 方 が 、 私 に は たしかに 利益 だっ た でしょ う 。 私 に それ が でき なかっ た の は 、 学問 の 交際 が 基調 を 構成 し て いる 二 人 の 親しみ に 、 自 から 一 種 の 惰性 が あっ た ため 、 思い切っ て それ を 突き破る だけ の 勇気 が 私 に 欠け て い た の だ という 事 を ここ に 自白 し ます 。 気取り 過ぎ た と いっ て も 、 虚栄 心 が 祟っ た と いっ て も 同じ でしょ う が 、 私 の いう 気取る とか 虚栄 とかいう 意味 は 、 普通 の と は 少し 違い ます 。 それ が あなた に 通じ さえ すれ ば 、 私 は 満足 な の です 。
我々 は 真黒 に なっ て 東京 へ 帰り まし た 。 帰っ た 時 は 私 の 気分 が また 変っ て い まし た 。 人間 らしい とか 、 人間らしく ない とかいう 小理屈 は ほとんど 頭 の 中 に 残っ て い ませ ん でし た 。 K に も 宗教 家 らしい 様子 が 全く 見え なく なり まし た 。 おそらく 彼 の 心 の どこ に も 霊 が どう の 肉 が どう の という 問題 は 、 その 時 宿っ て い なかっ た でしょ う 。 二 人 は 異 人種 の よう な 顔 を し て 、 忙し そう に 見える 東京 を ぐるぐる 眺め まし た 。 それから 両国 へ 来 て 、 暑い のに 軍鶏 を 食い まし た 。 K は その 勢い で 小石川 まで 歩い て 帰ろ う という の です 。 体力 から いえ ば K より も 私 の 方 が 強い の です から 、 私 は すぐ 応じ まし た 。
宅 へ 着い た 時 、 奥さん は 二 人 の 姿 を 見 て 驚き まし た 。 二 人 は ただ 色 が 黒く なっ た ばかり で なく 、 むやみ に 歩い て い た うち に 大変 瘠せ て しまっ た の です 。 奥さん は それでも 丈夫 そう に なっ た と いっ て 賞 め て くれる の です 。 お嬢さん は 奥さん の 矛盾 が おかしい と いっ て また 笑い 出し まし た 。 旅行 前 時々 腹 の 立っ た 私 も 、 その 時 だけ は 愉快 な 心持 が し まし た 。 場合 が 場合 な の と 、 久しぶり に 聞い た せい でしょ う 。
「 それ のみ なら ず 私 は お嬢さん の 態度 の 少し 前 と 変っ て いる の に 気が付き まし た 。 久しぶり で 旅 から 帰っ た 私 たち が 平生 の 通り 落ち 付く まで に は 、 万事 について 女 の 手 が 必要 だっ た の です が 、 その 世話 を し て くれる 奥さん は とにかく 、 お嬢さん が すべて 私 の 方 を 先 に し て 、 K を 後廻し に する よう に 見え た の です 。 それ を 露骨 に やら れ て は 、 私 も 迷惑 し た かも しれ ませ ん 。 場合 によって は かえって 不快 の 念 さえ 起し かね なかっ たろ う と 思う の です が 、 お嬢さん の 所作 は その 点 で 甚だ 要領 を 得 て い た から 、 私 は 嬉しかっ た の です 。 つまり お嬢さん は 私 だけ に 解る よう に 、 持前 の 親切 を 余分 に 私 の 方 へ 割り 宛て て くれ た の です 。 だから K は 別に 厭 な 顔 も せ ず に 平気 で い まし た 。 私 は 心 の 中 で ひそか に 彼 に対する ※ 歌 を 奏し まし た 。
やがて 夏 も 過ぎ て 九月 の 中頃 から 我々 は また 学校 の 課業 に 出席 し なけれ ば なら ない 事 に なり まし た 。 K と 私 と は 各自 の 時間 の 都合 で 出入り の 刻限 に また 遅速 が でき て き まし た 。 私 が K より 後れ て 帰る 時 は 一週 に 三 度 ほど あり まし た が 、 いつ 帰っ て も お嬢さん の 影 を K の 室 に 認める 事 は ない よう に なり まし た 。 K は 例 の 眼 を 私 の 方 に 向け て 、 「 今 帰っ た の か 」 を 規則 の ごとく 繰り返し まし た 。 私 の 会釈 も ほとんど 器械 の ごとく 簡単 で かつ 無 意味 でし た 。
たしか 十月 の 中頃 と 思い ます 。 私 は 寝坊 を し た 結果 、 日本 服 の まま 急い で 学校 へ 出 た 事 が あり ます 。 穿物 も 編 上 など を 結ん で いる 時間 が 惜しい ので 、 草履 を 突っ かけ た なり 飛び出し た の です 。 その 日 は 時間割 から いう と 、 K より も 私 の 方 が 先 へ 帰る はず に なっ て い まし た 。 私 は 戻っ て 来る と 、 その つもり で 玄関 の 格子 を がらり と 開け た の です 。 する と い ない と 思っ て い た K の 声 が ひょいと 聞こえ まし た 。 同時に お嬢さん の 笑い声 が 私 の 耳 に 響き まし た 。 私 は いつも の よう に 手数 の かかる 靴 を 穿い て い ない から 、 すぐ 玄関 に 上がっ て 仕切 の 襖 を 開け まし た 。 私 は 例 の 通り 机 の 前 に 坐っ て いる K を 見 まし た 。 しかし お嬢さん は もう そこ に は い なかっ た の です 。 私 は あたかも K の 室 から 逃れ 出る よう に 去る その 後姿 を ちらりと 認め た だけ でし た 。 私 は K に どうして 早く 帰っ た の か と 問い まし た 。 K は 心持 が 悪い から 休ん だ の だ と 答え まし た 。 私 が 自分 の 室 に は いっ て そのまま 坐っ て いる と 、 間もなく お嬢さん が 茶 を 持っ て 来 て くれ まし た 。 その 時 お嬢さん は 始め て お 帰り と いっ て 私 に 挨拶 を し まし た 。 私 は 笑い ながら さっき は なぜ 逃げ た ん です と 聞ける よう な 捌け た 男 で は あり ませ ん 。 それでいて 腹の中 で は 何だか その 事 が 気 に かかる よう な 人間 だっ た の です 。 お嬢さん は すぐ 座 を 立っ て 縁側 伝い に 向う へ 行っ て しまい まし た 。 しかし K の 室 の 前 に 立ち 留まっ て 、 二言 三 言 内 と 外 と で 話 を し て い まし た 。 それ は 先刻 の 続き らしかっ た の です が 、 前 を 聞か ない 私 に は まるで 解り ませ ん でし た 。
そのうち お嬢さん の 態度 が だんだん 平気 に なっ て 来 まし た 。 K と 私 が いっしょ に 宅 に いる 時 でも 、 よく K の 室 の 縁側 へ 来 て 彼 の 名 を 呼び まし た 。 そう し て そこ へ 入っ て 、 ゆっくり し て い まし た 。 無論 郵便 を 持っ て 来る 事 も ある し 、 洗濯 物 を 置い て ゆく 事 も ある の です から 、 その くらい の 交通 は 同じ 宅 に いる 二 人 の 関係 上 、 当然 と 見 なけれ ば なら ない の でしょ う が 、 ぜひ お嬢さん を 専有 し たい という 強烈 な 一念 に 動かさ れ て いる 私 に は 、 どうしても それ が 当然 以上 に 見え た の です 。 ある 時 は お嬢さん が わざわざ 私 の 室 へ 来る の を 回避 し て 、 K の 方 ばかり へ 行く よう に 思わ れる 事 さえ あっ た くらい です 。 それなら なぜ K に 宅 を 出 て もらわ ない の か と あなた は 聞く でしょ う 。 しかし そう すれ ば 私 が K を 無理 に 引張っ て 来 た 主意 が 立た なく なる だけ です 。 私 に は それ が でき ない の です 。
「 十一月 の 寒い 雨 の 降る 日 の 事 でし た 。 私 は 外套 を 濡らし て 例 の 通り 蒟蒻 閻魔 を 抜け て 細い 坂路 を 上っ て 宅 へ 帰り まし た 。 K の 室 は 空虚 でし た けれども 、 火鉢 に は 継ぎ たて の 火 が 暖か そう に 燃え て い まし た 。 私 も 冷たい 手 を 早く 赤い 炭 の 上 に 翳そ う と 思っ て 、 急い で 自分 の 室 の 仕切り を 開け まし た 。 すると 私 の 火鉢 に は 冷たい 灰 が 白く 残っ て いる だけ で 、 火種 さえ 尽き て いる の です 。 私 は 急 に 不愉快 に なり まし た 。
その 時 私 の 足音 を 聞い て 出 て 来 た の は 、 奥さん でし た 。 奥さん は 黙っ て 室 の 真中 に 立っ て いる 私 を 見 て 、 気の毒 そう に 外套 を 脱が せ て くれ たり 、 日本 服 を 着せ て くれ たり し まし た 。 それから 私 が 寒い という の を 聞い て 、 すぐ 次の間 から K の 火鉢 を 持っ て 来 て くれ まし た 。 私 が K は もう 帰っ た の か と 聞き まし たら 、 奥さん は 帰っ て また 出 た と 答え まし た 。 その 日 も K は 私 より 後れ て 帰る 時間割 だっ た の です から 、 私 は どう し た 訳 か と 思い まし た 。 奥さん は 大方 用事 で も でき た の だろ う と いっ て い まし た 。
私 は しばらく そこ に 坐っ た まま 書見 を し まし た 。 宅 の 中 が しんと 静まっ て 、 誰 の 話し声 も 聞こえ ない うち に 、 初冬 の 寒 さ と 佗 びしさとが 、 私 の 身体 に 食い込む よう な 感じ が し まし た 。 私 は すぐ 書物 を 伏せ て 立ち上り まし た 。 私 は ふと 賑やか な 所 へ 行き たく なっ た の です 。 雨 は やっと 歇 っ た よう です が 、 空 は まだ 冷たい 鉛 の よう に 重く 見え た ので 、 私 は 用心 の ため 、 蛇の目 を 肩 に 担い で 、 砲兵 工廠 の 裏手 の 土塀 について 東 へ 坂 を 下り まし た 。 その 時分 は まだ 道路 の 改正 が でき ない 頃 な ので 、 坂 の 勾配 が 今 より も ずっと 急 でし た 。 道幅 も 狭く て 、 ああ 真直 で は なかっ た の です 。 その 上 あの 谷 へ 下りる と 、 南 が 高い 建物 で 塞がっ て いる の と 、 放水 が よく ない の と で 、 往来 は どろどろ でし た 。 ことに 細い 石橋 を 渡っ て 柳 町 の 通り へ 出る 間 が 非道 かっ た の です 。 足駄 で も 長靴 でも むやみ に 歩く 訳 に は ゆき ませ ん 。 誰 でも 路 の 真中 に 自然 と 細長く 泥 が 掻き分け られ た 所 を 、 後生大事 に 辿っ て 行か なけれ ば なら ない の です 。 その 幅 は 僅か 一 、 二 尺 しか ない の です から 、 手 も なく 往来 に 敷い て ある 帯 の 上 を 踏ん で 向う へ 越す の と 同じ 事 です 。 行く 人 は みんな 一 列 に なっ て そろそろ 通り抜け ます 。 私 は この 細 帯 の 上 で 、 は たり と K に 出合い まし た 。 足 の 方 に ばかり 気 を 取ら れ て い た 私 は 、 彼 と 向き合う まで 、 彼 の 存在 に まるで 気が付か ず に い た の です 。 私 は 不意 に 自分 の 前 が 塞がっ た ので 偶然 眼 を 上げ た 時 、 始め て そこ に 立っ て いる K を 認め た の です 。 私 は K に どこ へ 行っ た の か と 聞き まし た 。 K は ちょっと そこ まで といった ぎり でし た 。 彼 の 答え は いつも の 通り ふん という 調子 でし た 。 K と 私 は 細い 帯 の 上 で 身体 を 替 せ まし た 。 すると K の すぐ 後ろ に 一 人 の 若い 女 が 立っ て いる の が 見え まし た 。 近眼 の 私 に は 、 今 まで それ が よく 分ら なかっ た の です が 、 K を やり 越し た 後 で 、 その 女 の 顔 を 見る と 、 それ が 宅 の お嬢さん だっ た ので 、 私 は 少なから ず 驚き まし た 。 お嬢さん は 心持 薄 赤い 顔 を し て 、 私 に 挨拶 を し まし た 。 その 時分 の 束髪 は 今 と 違っ て 廂 が 出 て い ない の です 、 そうして 頭 の 真中 に 蛇 の よう に ぐるぐる 巻き つけ て あっ た もの です 。 私 は ぼんやり お嬢さん の 頭 を 見 て い まし た が 、 次 の 瞬間 に 、 どっち か 路 を 譲ら なけれ ば なら ない の だ という 事 に 気が付き まし た 。 私 は 思い切っ て どろどろ の 中 へ 片足 踏ん 込み まし た 。 そうして 比較的 通り やすい 所 を 空け て 、 お嬢さん を 渡し て やり まし た 。
それから 柳 町 の 通り へ 出 た 私 は どこ へ 行っ て 好い か 自分 に も 分ら なく なり まし た 。 どこ へ 行っ て も 面白く ない よう な 心持 が する の です 。 私 は 飛 泥 の 上がる の も 構わ ず に 、 糠 る 海 の 中 を 自暴 に どしどし 歩き まし た 。 それ から 直ぐ 宅 へ 帰っ て 来 まし た 。
「 私 は K に 向っ て お嬢さん と いっしょ に 出 た の か と 聞き まし た 。 K は そう で は ない と 答え まし た 。 真砂 町 で 偶然 出会っ た から 連れ立っ て 帰っ て 来 た の だ と 説明 し まし た 。 私 は それ 以上 に 立ち入っ た 質問 を 控え なけれ ば なり ませ ん でし た 。 しかし 食事 の 時 、 また お嬢さん に 向っ て 、 同じ 問い を 掛け たく なり まし た 。 すると お嬢さん は 私 の 嫌い な 例 の 笑い 方 を する の です 。 そう し て どこ へ 行っ た か 中 て て みろ と しまいに いう の です 。 その 頃 の 私 は まだ 癇癪 持ち でし た から 、 そう 不 真面目 に 若い 女 から 取り扱わ れる と 腹 が 立ち まし た 。 ところが そこ に 気 の 付く の は 、 同じ 食卓 に 着い て いる もの の うち で 奥さん 一 人 だっ た の です 。 K は むしろ 平気 でし た 。 お嬢さん の 態度 に なる と 、 知っ て わざと やる の か 、 知ら ない で 無邪気 に やる の か 、 そこ の 区別 が ちょっと 判然 し ない 点 が あり まし た 。 若い 女 として お嬢さん は 思慮 に 富ん だ 方 でし た けれども 、 その 若い 女 に 共通 な 私 の 嫌い な ところ も 、 ある と 思え ば 思え なく も なかっ た の です 。 そうして その 嫌い な ところ は 、 K が 宅 へ 来 て から 、 始め て 私 の 眼 に 着き 出し た の です 。 私 は それ を K に対する 私 の 嫉妬 に 帰し て いい もの か 、 または 私 に対する お嬢さん の 技巧 と 見 傚 し て しかる べき もの か 、 ちょっと 分別 に 迷い まし た 。 私 は 今 でも 決して その 時 の 私 の 嫉妬 心 を 打ち消す 気 は あり ませ ん 。 私 は たびたび 繰り返し た 通り 、 愛 の 裏面 に この 感情 の 働き を 明らか に 意識 し て い た の です から 。 しかも 傍 の もの から 見る と 、 ほとんど 取る に 足り ない 瑣事 に 、 この 感情 が きっと 首 を 持ち上げ た がる の でし た から 。 これ は 余事 です が 、 こういう 嫉妬 は 愛 の 半面 じゃ ない でしょ う か 。 私 は 結婚 し て から 、 この 感情 が だんだん 薄らい で 行く の を 自覚 し まし た 。 その 代り 愛情 の 方 も 決して 元 の よう に 猛烈 で は ない の です 。
私 は それ まで 躊躇 し て い た 自分 の 心 を 、 一 思い に 相手 の 胸 へ 擲 き 付けよ う か と 考え出し まし た 。 私 の 相手 という の は お嬢さん で は あり ませ ん 、 奥さん の 事 です 。 奥さん に お嬢さん を 呉れろ と 明白 な 談判 を 開こ う か と 考え た の です 。 しかし そう 決心 し ながら 、 一 日 一 日 と 私 は 断行 の 日 を 延ばし て 行っ た の です 。 そう いう と 私 は いかにも 優柔 な 男 の よう に 見え ます 、 また 見え て も 構い ませ ん が 、 実際 私 の 進み かね た の は 、 意志 の 力 に 不足 が あっ た ため で は あり ませ ん 。 K の 来 ない うち は 、 他 の 手 に 乗る の が 厭 だ という 我慢 が 私 を 抑え 付け て 、 一 歩 も 動け ない よう に し て い まし た 。 K の 来 た 後 は 、 もしか する と お嬢さん が K の 方 に 意 が ある の で は なかろ う か という 疑念 が 絶えず 私 を 制する よう に なっ た の です 。 はたして お嬢さん が 私 より も K に 心 を 傾け て いる なら ば 、 この 恋 は 口 へ いい 出す 価値 の ない もの と 私 は 決心 し て い た の です 。 恥 を 掻か せ られる の が 辛い など という の と は 少し 訳 が 違い ます 。 こっち で いくら 思っ て も 、 向う が 内心 他 の 人 に 愛 の 眼 を 注い で いる なら ば 、 私 は そんな 女 と いっしょ に なる の は 厭 な の です 。 世の中 で は 否応なしに 自分 の 好い た 女 を 嫁 に 貰っ て 嬉し がっ て いる 人 も あり ます が 、 それ は 私 たち より よっぽど 世間 ずれ の し た 男 か 、 さもなければ 愛 の 心理 が よく 呑み込め ない 鈍物 の する 事 と 、 当時 の 私 は 考え て い た の です 。 一度 貰っ て しまえ ば どう か こうか 落ち 付く もの だ ぐらい の 哲理 で は 、 承知 する 事 が でき ない くらい 私 は 熱し て い まし た 。 つまり 私 は 極めて 高尚 な 愛 の 理論 家 だっ た の です 。 同時に もっとも 迂遠 な 愛 の 実際 家 だっ た の です 。
肝心 の お嬢さん に 、 直接 この 私 という もの を 打ち明ける 機会 も 、 長く いっしょ に いる うち に は 時々 出 て 来 た の です が 、 私 は わざと それ を 避け まし た 。 日本 の 習慣 として 、 そういう 事 は 許さ れ て い ない の だ という 自覚 が 、 その 頃 の 私 に は 強く あり まし た 。 しかし 決して それ ばかり が 私 を 束縛 し た と は いえ ませ ん 。 日本人 、 ことに 日本 の 若い 女 は 、 そんな 場合 に 、 相手 に 気 兼 なく 自分 の 思っ た 通り を 遠慮 せ ず に 口 に する だけ の 勇気 に 乏しい もの と 私 は 見込ん で い た の です 。
「 こんな 訳 で 私 は どちら の 方面 へ 向っ て も 進む 事 が でき ず に 立ち竦ん で い まし た 。 身体 の 悪い 時 に 午睡 など を する と 、 眼 だけ 覚め て 周囲 の もの が 判然 見える のに 、 どうしても 手足 の 動かせ ない 場合 が あり ましょ う 。 私 は 時として ああ いう 苦しみ を 人知れず 感じ た の です 。
その 内 年 が 暮れ て 春 に なり まし た 。 ある 日 奥さん が K に 歌留多 を やる から 誰 か 友達 を 連れ て 来 ない か といった 事 が あり ます 。 すると K は すぐ 友達 なぞ は 一 人 も ない と 答え た ので 、 奥さん は 驚い て しまい まし た 。 なるほど K に 友達 と いう ほど の 友達 は 一 人 も なかっ た の です 。 往来 で 会っ た 時 挨拶 を する くらい の もの は 多少 あり まし た が 、 それら だって 決して 歌留多 など を 取る 柄 で は なかっ た の です 。 奥さん は それ じゃ 私 の 知っ た もの でも 呼ん で 来 たら どう か と いい 直し まし た が 、 私 も 生憎 そんな 陽気 な 遊び を する 心持 に なれ ない ので 、 好い加減 な 生返事 を し た なり 、 打ち やっ て おき まし た 。 ところが 晩 に なっ て K と 私 は とうとう お嬢さん に 引っ張り 出さ れ て しまい まし た 。 客 も 誰 も 来 ない のに 、 内々 の 小 人数 だけ で 取ろ う という 歌留多 です から すこぶる 静か な もの でし た 。 その 上 こういう 遊技 を やり 付け ない K は 、 まるで 懐手 を し て いる 人 と 同様 でし た 。 私 は K に 一体 百 人 一 首 の 歌 を 知っ て いる の か と 尋ね まし た 。 K は よく 知ら ない と 答え まし た 。 私 の 言葉 を 聞い た お嬢さん は 、 大方 K を 軽蔑 する と でも 取っ た の でしょ う 。 それから 眼 に 立つ よう に K の 加勢 を し 出し まし た 。 しまいに は 二 人 が ほとんど 組 に なっ て 私 に 当る という 有様 に なっ て 来 まし た 。 私 は 相手 次第 で は 喧嘩 を 始め た かも 知れ なかっ た の です 。 幸い に K の 態度 は 少し も 最初 と 変り ませ ん でし た 。 彼 の どこ に も 得意 らしい 様子 を 認め なかっ た 私 は 、 無事 に その 場 を 切り上げる 事 が でき まし た 。
それから 二 、 三 日 経っ た 後 の 事 でし たろ う 、 奥さん と お嬢さん は 朝 から 市ヶ谷 に いる 親類 の 所 へ 行く と いっ て 宅 を 出 まし た 。 K も 私 も まだ 学校 の 始まら ない 頃 でし た から 、 留守居 同様 あと に 残っ て い まし た 。 私 は 書物 を 読む の も 散歩 に 出る の も 厭 だっ た ので 、 ただ 漠然と 火鉢 の 縁 に 肱 を 載せ て 凝 と 顋 を 支え た なり 考え て い まし た 。 隣 の 室 に いる K も 一向 音 を 立て ませ ん でし た 。 双方 と も いる の だ かい ない の だ か 分ら ない くらい 静か でし た 。 もっとも こういう 事 は 、 二 人 の 間柄 として 別に 珍しく も 何 と も なかっ た の です から 、 私 は 別段 それ を 気 に も 留め ませ ん でし た 。
十 時 頃 に なっ て 、 K は 不意 に 仕切り の 襖 を 開け て 私 と 顔 を 見合せ まし た 。 彼 は 敷居 の 上 に 立っ た まま 、 私 に 何 を 考え て いる と 聞き まし た 。 私 は もとより 何 も 考え て い なかっ た の です 。 もし 考え て い た と すれ ば 、 いつも の 通り お嬢さん が 問題 だっ た かも 知れ ませ ん 。 その お嬢さん に は 無論 奥さん も 食っ 付い て い ます が 、 近頃 で は K 自身 が 切り離す べから ざる 人 の よう に 、 私 の 頭 の 中 を ぐるぐる 回っ て 、 この 問題 を 複雑 に し て いる の です 。 K と 顔 を 見合せ た 私 は 、 今 まで 朧気 に 彼 を 一種 の 邪魔 ものの 如く 意識 し て い ながら 、 明らか に そう と 答える 訳 に いか なかっ た の です 。 私 は 依然として 彼 の 顔 を 見 て 黙っ て い まし た 。 すると K の 方 から つかつか と 私 の 座敷 へ 入っ て 来 て 、 私 の あたっ て いる 火鉢 の 前 に 坐り まし た 。 私 は すぐ 両 肱 を 火鉢 の 縁 から 取り除け て 、 心持 それ を K の 方 へ 押しやる よう に し まし た 。
K は いつも に 似合わ ない 話 を 始め まし た 。 奥さん と お嬢さん は 市ヶ谷 の どこ へ 行っ た の だろ う という の です 。 私 は 大方 叔母さん の 所 だろ う と 答え まし た 。 K は その 叔母さん は 何 だ と また 聞き ます 。 私 は やはり 軍人 の 細君 だ と 教え て やり まし た 。 すると 女 の 年始 は 大抵 十 五 日 過 だ のに 、 なぜ そんなに 早く 出掛け た の だろ う と 質問 する の です 。 私 は なぜ だ か 知ら ない と 挨拶 する より 外 に 仕方 が あり ませ ん でし た 。
「 K は なかなか 奥さん と お嬢さん の 話 を 已め ませ ん でし た 。 しまいに は 私 も 答え られ ない よう な 立ち入っ た 事 まで 聞く の です 。 私 は 面倒 より も 不思議 の 感 に 打た れ まし た 。 以前 私 の 方 から 二 人 を 問題 に し て 話しかけ た 時 の 彼 を 思い出す と 、 私 は どうしても 彼 の 調子 の 変っ て いる ところ に 気が付か ず に は い られ ない の です 。 私 は とうとう なぜ 今日 に 限っ て そんな 事 ばかり いう の か と 彼 に 尋ね まし た 。 その 時 彼 は 突然 黙り まし た 。 しかし 私 は 彼 の 結ん だ 口元 の 肉 が 顫 える よう に 動い て いる の を 注視 し まし た 。 彼 は 元来 無口 な 男 でし た 。 平生 から 何 か いおう と する と 、 いう 前 に よく 口 の あたり を もぐもぐ さ せる 癖 が あり まし た 。 彼 の 唇 が わざと 彼 の 意志 に 反抗 する よう に 容易く 開か ない ところ に 、 彼 の 言葉 の 重み も 籠っ て い た の でしょ う 。 一旦 声 が 口 を 破っ て 出る と なる と 、 その 声 に は 普通 の 人 より も 倍 の 強い 力 が あり まし た 。
彼 の 口元 を ちょっと 眺め た 時 、 私 は また 何 か 出 て 来る な と すぐ 疳 付い た の です が 、 それ が はたして 何 の 準備 な の か 、 私 の 予覚 はまる で なかっ た の です 。 だから 驚い た の です 。 彼 の 重々しい 口 から 、 彼 の お嬢さん に対する 切ない 恋 を 打ち明け られ た 時 の 私 を 想像 し て み て 下さい 。 私 は 彼 の 魔法 棒 の ため に 一 度 に 化石 さ れ た よう な もの です 。 口 を もぐもぐ さ せる 働き さえ 、 私 に は なくなっ て しまっ た の です 。
その 時 の 私 は 恐ろし さ の 塊 り と いい ましょ う か 、 または 苦し さ の 塊 り と いい ましょ う か 、 何しろ 一つ の 塊 り でし た 。 石 か 鉄 の よう に 頭 から 足 の 先 まで が 急 に 固く なっ た の です 。 呼吸 を する 弾力 性 さえ 失わ れ た くらい に 堅く なっ た の です 。 幸い な 事 に その 状態 は 長く 続き ませ ん でし た 。 私 は 一 瞬間 の 後 に 、 また 人間らしい 気分 を 取り戻し まし た 。 そうして 、 すぐ 失策 っ た と 思い まし た 。 先 を 越さ れ た な と 思い まし た 。
しかし その 先 を どう しよ う という 分別 は まるで 起り ませ ん 。 恐らく 起る だけ の 余裕 が なかっ た の でしょ う 。 私 は 腋の下 から 出る 気味 の わるい 汗 が 襯衣 に 滲み 透る の を 凝 と 我慢 し て 動か ず に い まし た 。 K は その間 いつも の 通り 重い 口 を 切っ て は 、 ぽつりぽつり と 自分 の 心 を 打ち明け て ゆき ます 。 私 は 苦しくっ て 堪り ませ ん でし た 。 おそらく その 苦し さ は 、 大きな 広告 の よう に 、 私 の 顔 の 上 に 判然 り し た 字 で 貼り 付け られ て あっ たろ う と 私 は 思う の です 。 いくら K でも そこ に 気 の 付か ない はず は ない の です が 、 彼 は また 彼 で 、 自分 の 事 に 一切 を 集中 し て いる から 、 私 の 表情 など に 注意 する 暇 が なかっ た の でしょ う 。 彼 の 自白 は 最初 から 最後 まで 同じ 調子 で 貫い て い まし た 。 重く て 鈍い 代り に 、 とても 容易 な 事 で は 動か せ ない という 感じ を 私 に 与え た の です 。 私 の 心 は 半分 その 自白 を 聞い て い ながら 、 半分 どうし よう どう しよ う という 念 に 絶えず 掻き乱さ れ て い まし た から 、 細かい 点 に なる と ほとんど 耳 へ 入ら ない と 同様 でし た が 、 それでも 彼 の 口 に 出す 言葉 の 調子 だけ は 強く 胸 に 響き まし た 。 その ため に 私 は 前 いっ た 苦痛 ばかり で なく 、 ときには 一種 の 恐ろし さ を 感ずる よう に なっ た の です 。 つまり 相手 は 自分 より 強い の だ という 恐怖 の 念 が 萌し 始め た の です 。
K の 話 が 一 通り 済ん だ 時 、 私 は 何とも いう 事 が でき ませ ん でし た 。 こっち も 彼 の 前 に 同じ 意味 の 自白 を し た もの だろ う か 、 それとも 打ち明け ず に いる 方 が 得策 だろ う か 、 私 は そんな 利害 を 考え て 黙っ て い た の で は あり ませ ん 。 ただ 何事 も いえ なかっ た の です 。 また いう 気 に も なら なかっ た の です 。
午 食 の 時 、 K と 私 は 向い合せ に 席 を 占め まし た 。 下女 に 給仕 を し て もらっ て 、 私 は いつ に ない 不味い 飯 を 済ませ まし た 。 二 人 は 食事 中 も ほとんど 口 を 利き ませ ん でし た 。 奥さん と お嬢さん は いつ 帰る の だ か 分り ませ ん でし た 。
「 二 人 は 各自 の 室 に 引き取っ た ぎり 顔 を 合わせ ませ ん でし た 。 K の 静か な 事 は 朝 と 同じ でし た 。 私 も 凝 と 考え込ん で い まし た 。
私 は 当然 自分 の 心 を K に 打ち明ける べき はず だ と 思い まし た 。 しかし それ に は もう 時機 が 後れ て しまっ た という 気 も 起り まし た 。 なぜ 先刻 K の 言葉 を 遮っ て 、 こっち から 逆襲 し なかっ た の か 、 そこ が 非常 な 手 落 り の よう に 見え て 来 まし た 。 せめて K の 後 に 続い て 、 自分 は 自分 の 思う 通り を その 場 で 話し て しまっ たら 、 まだ 好かっ た ろう に と も 考え まし た 。 K の 自白 に 一段落 が 付い た 今 と なっ て 、 こっち から また 同じ 事 を 切り出す の は 、 どう 思案 し て も 変 でし た 。 私 は この 不自然 に 打ち勝つ 方法 を 知ら なかっ た の です 。 私 の 頭 は 悔恨 に 揺ら れ て ぐらぐら し まし た 。
私 は K が 再び 仕切り の 襖 を 開け て 向う から 突進 し て き て くれれ ば 好い と 思い まし た 。 私 に いわ せれ ば 、 先刻 は まるで 不意 撃 に 会っ た も 同じ でし た 。 私 に は K に 応ずる 準備 も 何 も なかっ た の です 。 私 は 午前 に 失っ た もの を 、 今度 は 取り戻そ う という 下心 を 持っ て い まし た 。 それで 時々 眼 を 上げ て 、 襖 を 眺め まし た 。 しかし その 襖 は いつ まで 経っ て も 開き ませ ん 。 そう し て K は 永久 に 静か な の です 。
その 内 私 の 頭 は 段々 この 静か さ に 掻き乱さ れる よう に なっ て 来 まし た 。 K は 今 襖 の 向う で 何 を 考え て いる だろ う と 思う と 、 それ が 気 に なっ て 堪ら ない の です 。 不断 も こんな 風 に お互い が 仕切 一 枚 を 間 に 置い て 黙り 合っ て いる 場合 は 始終 あっ た の です が 、 私 は K が 静か で あれ ば ある ほど 、 彼 の 存在 を 忘れる の が 普通 の 状態 だっ た の です から 、 その 時 の 私 は よほど 調子 が 狂っ て い た もの と 見 なけれ ば なり ませ ん 。 それでいて 私 は こっち から 進ん で 襖 を 開ける 事 が でき なかっ た の です 。 一旦 いい そびれ た 私 は 、 また 向う から 働き掛け られる 時機 を 待つ より 外 に 仕方 が なかっ た の です 。
しまいに 私 は 凝 として おら れ なく なり まし た 。 無理 に 凝 と し て いれ ば 、 K の 部屋 へ 飛び込み たく なる の です 。 私 は 仕方 なし に 立っ て 縁側 へ 出 まし た 。 そこ から 茶の間 へ 来 て 、 何 という 目的 も なく 、 鉄瓶 の 湯 を 湯呑 に 注 で 一杯 呑み まし た 。 それから 玄関 へ 出 まし た 。 私 は わざと K の 室 を 回避 する よう に し て 、 こんな 風 に 自分 を 往来 の 真中 に 見出し た の です 。 私 に は 無論 どこ へ 行く という 的 も あり ませ ん 。 ただ 凝 と し て い られ ない だけ でし た 。 それで 方角 も 何 も 構わ ず に 、 正月 の 町 を 、 むやみ に 歩き 廻っ た の です 。 私 の 頭 は いくら 歩い て も K の 事 で いっぱい に なっ て い まし た 。 私 も K を 振い落す 気 で 歩き 廻る 訳 で は なかっ た の です 。 むしろ 自分 から 進ん で 彼 の 姿 を 咀嚼 し ながら うろつい て い た の です 。
私 に は 第 一 に 彼 が 解し がたい 男 の よう に 見え まし た 。 どうして あんな 事 を 突然 私 に 打ち明け た の か 、 また どうして 打ち明け なけれ ば い られ ない ほど に 、 彼 の 恋 が 募っ て 来 た の か 、 そうして 平生 の 彼 は どこ に 吹き飛ばさ れ て しまっ た の か 、 すべて 私 に は 解し にくい 問題 でし た 。 私 は 彼 の 強い 事 を 知っ て い まし た 。 また 彼 の 真面目 な 事 を 知っ て い まし た 。 私 は これから 私 の 取る べき 態度 を 決する 前 に 、 彼 について 聞か なけれ ば なら ない 多く を もっ て いる と 信じ まし た 。 同時に これから さき 彼 を 相手 に する の が 変 に 気味が悪かっ た の です 。 私 は 夢中 に 町 の 中 を 歩き ながら 、 自分 の 室 に 凝 と 坐っ て いる 彼 の 容貌 を 始終 眼 の 前 に 描き出し まし た 。 しかも いくら 私 が 歩い て も 彼 を 動かす 事 は 到底 でき ない の だ という 声 が どこ か で 聞こえる の です 。 つまり 私 に は 彼 が 一種 の 魔物 の よう に 思え た から でしょ う 。 私 は 永久 彼 に 祟ら れ た の で は なかろ う か という 気 さえ し まし た 。
私 が 疲れ て 宅 へ 帰っ た 時 、 彼 の 室 は 依然として 人気 の ない よう に 静か でし た 。
「 私 が 家 へ はいる と 間もなく 俥 の 音 が 聞こえ まし た 。 今 の よう に 護謨 輪 の ない 時分 でし た から 、 がらがら いう 厭 な 響き が かなり の 距離 で も 耳 に 立つ の です 。 車 は やがて 門前 で 留まり まし た 。
私 が 夕飯 に 呼び出さ れ た の は 、 それ から 三 十 分 ばかり 経っ た 後 の 事 でし た が 、 まだ 奥さん と お嬢さん の 晴着 が 脱ぎ 棄て られ た まま 、 次 の 室 を 乱雑 に 彩っ て い まし た 。 二 人 は 遅く なる と 私 たち に 済まない と いう ので 、 飯 の 支度 に 間に合う よう に 、 急い で 帰っ て 来 た の だ そう です 。 しかし 奥さん の 親切 は K と 私 と に 取っ て ほとんど 無効 も 同じ 事 でし た 。 私 は 食卓 に 坐り ながら 、 言葉 を 惜し がる 人 の よう に 、 素 気 ない 挨拶 ばかり し て い まし た 。 K は 私 より も なお 寡言 でし た 。 たま に 親子 連 で 外出 し た 女 二 人 の 気分 が 、 また 平生 より は 勝れ て 晴れやか だっ た ので 、 我々 の 態度 は なお の 事 眼 に 付き ます 。 奥さん は 私 に どうか し た の か と 聞き まし た 。 私 は 少し 心持 が 悪い と 答え まし た 。 実際 私 は 心持 が 悪かっ た の です 。 すると 今度 は お嬢さん が K に 同じ 問い を 掛け まし た 。 K は 私 の よう に 心持 が 悪い と は 答え ませ ん 。 ただ 口 が 利き たく ない から だ と いい まし た 。 お嬢さん は なぜ 口 が 利き たく ない の か と 追窮 し まし た 。 私 は その 時 ふと 重たい 瞼 を 上げ て K の 顔 を 見 まし た 。 私 に は K が 何と 答える だろ う か という 好奇 心 が あっ た の です 。 K の 唇 は 例 の よう に 少し 顫 え て い まし た 。 それ が 知ら ない 人 から 見る と 、 まるで 返事 に 迷っ て いる と しか 思わ れ ない の です 。 お嬢さん は 笑い ながら また 何 か むずかしい 事 を 考え て いる の だろ う と いい まし た 。 K の 顔 は 心持 薄 赤く なり まし た 。
その 晩 私 は いつも より 早く 床 へ 入り まし た 。 私 が 食事 の 時 気分 が 悪い といった の を 気 に し て 、 奥さん は 十 時 頃 蕎麦湯 を 持っ て 来 て くれ まし た 。 しかし 私 の 室 は もう 真暗 でし た 。 奥さん は お やおや と いっ て 、 仕切り の 襖 を 細目 に 開け まし た 。 洋 燈 の 光 が K の 机 から 斜め に ぼんやり と 私 の 室 に 差し込み まし た 。 K は まだ 起き て い た もの と みえ ます 。 奥さん は 枕元 に 坐っ て 、 大方 風邪 を 引い た の だろ う から 身体 を 暖 ためる が いい と いっ て 、 湯呑 を 顔 の 傍 へ 突き付ける の です 。 私 は やむをえ ず 、 どろどろ し た 蕎麦湯 を 奥さん の 見 て いる 前 で 飲み まし た 。
私 は 遅く なる まで 暗い なか で 考え て い まし た 。 無論 一つ 問題 を ぐるぐる 廻転 さ せる だけ で 、 外 に 何 の 効力 も なかっ た の です 。 私 は 突然 K が 今 隣り の 室 で 何 を し て いる だろ う と 思い出し まし た 。 私 は 半ば 無意識 に おい と 声 を 掛け まし た 。 すると 向う で も おい と 返事 を し まし た 。 K も まだ 起き て い た の です 。 私 は まだ 寝 ない の か と 襖 ご し に 聞き まし た 。 もう 寝る という 簡単 な 挨拶 が あり まし た 。 何 を し て いる の だ と 私 は 重ね て 問い まし た 。 今度 は K の 答え が あり ませ ん 。 その 代り 五 、 六 分 経っ た と 思う 頃 に 、 押入 を がらり と 開け て 、 床 を 延べる 音 が 手 に 取る よう に 聞こえ まし た 。 私 は もう 何時 か と また 尋ね まし た 。 K は 一時 二 十分 だ と 答え まし た 。 やがて 洋 燈 を ふっと 吹き 消す 音 が し て 、 家中 が 真暗 な うち に 、 しんと 静まり まし た 。
しかし 私 の 眼 は その 暗い なか で いよいよ 冴え て 来る ばかり です 。 私 は また 半ば 無意識 な 状態 で 、 おい と K に 声 を 掛け まし た 。 K も 以前 と 同じ よう な 調子 で 、 おい と 答え まし た 。 私 は 今朝 彼 から 聞い た 事 について 、 もっと 詳しい 話 を し たい が 、 彼 の 都合 は どう だ と 、 とうとう こっち から 切り出し まし た 。 私 は 無論 襖 越 に そんな 談話 を 交換 する 気 は なかっ た の です が 、 K の 返答 だけ は 即 坐 に 得 られる 事 と 考え た の です 。 ところが K は 先刻 から 二 度 おい と 呼ば れ て 、 二 度 おい と 答え た よう な 素直 な 調子 で 、 今度 は 応じ ませ ん 。 そう だ なあ と 低い 声 で 渋っ て い ます 。 私 は また はっと 思わ せ られ まし た 。
「 K の 生返事 は 翌日 に なっ て も 、 その 翌日 に なっ て も 、 彼 の 態度 に よく 現われ て い まし た 。 彼 は 自分 から 進ん で 例 の 問題 に 触れよ う と する 気色 を 決して 見せ ませ ん でし た 。 もっとも 機会 も なかっ た の です 。 奥さん と お嬢さん が 揃っ て 一 日 宅 を 空け で も し なけれ ば 、 二 人 は ゆっくり 落ち 付い て 、 そういう 事 を 話し合う 訳 に も 行か ない の です から 。 私 は それ を よく 心得 て い まし た 。 心得 て い ながら 、 変 に いらいら し 出す の です 。 その 結果 始め は 向う から 来る の を 待つ つもり で 、 暗に 用意 を し て い た 私 が 、 折 が あっ たら こっち で 口 を 切ろ う と 決心 する よう に なっ た の です 。
同時に 私 は 黙っ て 家 の もの の 様子 を 観察 し て 見 まし た 。 しかし 奥さん の 態度 に も お嬢さん の 素 振 に も 、 別に 平生 と 変っ た 点 は あり ませ ん でし た 。 K の 自白 以前 と 自白 以後 と で 、 彼ら の 挙動 に これ という 差違 が 生じ ない なら ば 、 彼 の 自白 は 単に 私 だけ に 限ら れ た 自白 で 、 肝心 の 本人 に も 、 また その 監督 者 たる 奥さん に も 、 まだ 通じ て い ない の は 慥か でし た 。 そう 考え た 時 私 は 少し 安心 し まし た 。 それで 無理 に 機会 を 拵え て 、 わざとらしく 話 を 持ち出す より は 、 自然 の 与え て くれる もの を 取り逃さ ない よう に する 方 が 好かろ う と 思っ て 、 例 の 問題 に は しばらく 手 を 着け ず に そっと し て おく 事 に し まし た 。
こう いっ て しまえ ば 大変 簡単 に 聞こえ ます が 、 そうした 心 の 経過 に は 、 潮 の 満干 と 同じ よう に 、 色々 の 高低 が あっ た の です 。 私 は K の 動か ない 様子 を 見 て 、 それ に さまざま の 意味 を 付け加え まし た 。 奥さん と お嬢さん の 言語 動作 を 観察 し て 、 二 人 の 心 が はたして そこ に 現われ て いる 通り な の だろ う か と 疑っ て も み まし た 。 そうして 人間 の 胸 の 中 に 装置 さ れ た 複雑 な 器械 が 、 時計 の 針 の よう に 、 明瞭 に 偽り なく 、 盤上 の 数字 を 指し 得る もの だろ う か と 考え まし た 。 要するに 私 は 同じ 事 を こう も 取り 、 ああ も 取り し た 揚句 、 漸く ここ に 落ち 付い た もの と 思っ て 下さい 。 更に むずかしく いえ ば 、 落ち 付く など という 言葉 は 、 この 際 決して 使わ れ た 義理 で なかっ た の かも 知れ ませ ん 。
その 内 学校 が また 始まり まし た 。 私 たち は 時間 の 同じ 日 に は 連れ立っ て 宅 を 出 ます 。 都合 が よけれ ば 帰る 時 に も やはり いっしょ に 帰り まし た 。 外部 から 見 た K と 私 は 、 何 に も 前 と 違っ た ところ が ない よう に 親しく なっ た の です 。 けれども 腹の中 で は 、 各自 に 各自 の 事 を 勝手 に 考え て い た に 違い あり ませ ん 。 ある 日 私 は 突然 往来 で K に 肉薄 し まし た 。 私 が 第 一 に 聞い た の は 、 この間 の 自白 が 私 だけ に 限ら れ て いる か 、 または 奥さん や お嬢さん に も 通じ て いる か の 点 に あっ た の です 。 私 の これから 取る べき 態度 は 、 この 問い に対する 彼 の 答え 次第 で 極め なけれ ば なら ない と 、 私 は 思っ た の です 。 すると 彼 は 外 の 人 に は まだ 誰 に も 打ち明け て い ない と 明言 し まし た 。 私 は 事情 が 自分 の 推察 通り だっ た ので 、 内心 嬉し がり まし た 。 私 は K の 私 より 横着 な の を よく 知っ て い まし た 。 彼 の 度胸 に も 敵 わ ない という 自覚 が あっ た の です 。 けれども 一方 で は また 妙 に 彼 を 信じ て い まし た 。 学資 の 事 で 養家 を 三 年 も 欺い て い た 彼 です けれども 、 彼 の 信用 は 私 に対して 少し も 損 われ て い なかっ た の です 。 私 は それ が ため に かえって 彼 を 信じ 出し た くらい です 。 だから いくら 疑い深い 私 でも 、 明白 な 彼 の 答え を 腹の中 で 否定 する 気 は 起り よう が なかっ た の です 。
私 は また 彼 に 向っ て 、 彼 の 恋 を どう 取り扱う つもり か と 尋ね まし た 。 それ が 単なる 自白 に 過ぎ ない の か 、 または その 自白 に ついで 、 実際 的 の 効果 を も 収める 気 な の か と 問う た の です 。 しかるに 彼 は そこ に なる と 、 何 に も 答え ませ ん 。 黙っ て 下 を 向い て 歩き 出し ます 。 私 は 彼 に 隠し立て を し て くれる な 、 すべて 思っ た 通り を 話し て くれ と 頼み まし た 。 彼 は 何 も 私 に 隠す 必要 は ない と 判然 断言 し まし た 。 しかし 私 の 知ろ う と する 点 に は 、 一言 の 返事 も 与え ない の です 。 私 も 往来 だ から わざわざ 立ち 留まっ て 底 まで 突き 留める 訳 に いき ませ ん 。 つい それなり に し て しまい まし た 。
「 ある 日 私 は 久しぶり に 学校 の 図書館 に 入り まし た 。 私 は 広い 机 の 片隅 で 窓 から 射す 光線 を 半身 に 受け ながら 、 新着 の 外国 雑誌 を 、 あちら こちら と 引っ繰り返し て 見 て い まし た 。 私 は 担任 教師 から 専攻 の 学科 に関して 、 次 の 週 まで に ある 事項 を 調べ て 来い と 命ぜ られ た の です 。 しかし 私 に 必要 な 事柄 が なかなか 見付から ない ので 、 私 は 二 度 も 三 度 も 雑誌 を 借り 替え なけれ ば なり ませ ん でし た 。 最後 に 私 は やっと 自分 に 必要 な 論文 を 探し出し て 、 一心に それ を 読み出し まし た 。 すると 突然 幅 の 広い 机 の 向う側 から 小さな 声 で 私 の 名 を 呼ぶ もの が あり ます 。 私 は ふと 眼 を 上げ て そこ に 立っ て いる K を 見 まし た 。 K は その 上半身 を 机 の 上 に 折り曲げる よう に し て 、 彼 の 顔 を 私 に 近付け まし た 。 ご 承知 の 通り 図書館 で は 他 の 人 の 邪魔 に なる よう な 大きな 声 で 話 を する 訳 に ゆか ない の です から 、 K の この 所作 は 誰 で も やる 普通 の 事 な の です が 、 私 は その 時 に 限っ て 、 一種 変 な 心持 が し まし た 。
K は 低い 声 で 勉強 か と 聞き まし た 。 私 は ちょっと 調べ もの が ある の だ と 答え まし た 。 それでも K は まだ その 顔 を 私 から 放し ませ ん 。 同じ 低い 調子 で いっしょ に 散歩 を し ない か という の です 。 私 は 少し 待っ て いれ ば し て も いい と 答え まし た 。 彼 は 待っ て いる といった まま 、 すぐ 私 の 前 の 空席 に 腰 を おろし まし た 。 すると 私 は 気 が 散っ て 急 に 雑誌 が 読め なく なり まし た 。 何だか K の 胸 に 一物 が あっ て 、 談判 で も し に 来ら れ た よう に 思わ れ て 仕方 が ない の です 。 私 は やむをえ ず 読みかけ た 雑誌 を 伏せ て 、 立ち上がろ う と し まし た 。 K は 落ち 付き 払っ て もう 済ん だ の か と 聞き ます 。 私 は どう でも いい の だ と 答え て 、 雑誌 を 返す と共に 、 K と 図書館 を 出 まし た 。
二 人 は 別 に 行く 所 も なかっ た ので 、 竜岡 町 から 池 の 端 へ 出 て 、 上野 の 公園 の 中 へ 入り まし た 。 その 時 彼 は 例 の 事件 について 、 突然 向う から 口 を 切り まし た 。 前後 の 様子 を 綜合 し て 考える と 、 K は その ため に 私 を わざわざ 散歩 に 引っ張り 出し た らしい の です 。 けれども 彼 の 態度 は まだ 実際 的 の 方面 へ 向っ て ちっとも 進ん で い ませ ん でし た 。 彼 は 私 に 向っ て 、 ただ 漠然と 、 どう 思う という の です 。 どう 思う という の は 、 そうした 恋愛 の 淵 に 陥っ た 彼 を 、 どんな 眼 で 私 が 眺める か という 質問 な の です 。 一言 で いう と 、 彼 は 現在 の 自分 について 、 私 の 批判 を 求め たい よう な の です 。 そこ に 私 は 彼 の 平生 と 異なる 点 を 確か に 認める 事 が でき た と 思い まし た 。 たびたび 繰り返す よう です が 、 彼 の 天性 は 他 の 思わ く を 憚 かる ほど 弱く でき 上っ て は い なかっ た の です 。 こう と 信じ たら 一 人 で どんどん 進ん で 行く だけ の 度胸 も あり 勇気 も ある 男 な の です 。 養家 事件 で その 特色 を 強く 胸 の 裏 に 彫り 付け られ た 私 が 、 これ は 様子 が 違う と 明らか に 意識 し た の は 当然 の 結果 な の です 。
私 が K に 向っ て 、 この 際 何 んで 私 の 批評 が 必要 な の か と 尋ね た 時 、 彼 は いつも に も 似 ない 悄然 と し た 口調 で 、 自分 の 弱い 人間 で ある の が 実際 恥ずかしい と いい まし た 。 そう し て 迷っ て いる から 自分 で 自分 が 分ら なく なっ て しまっ た ので 、 私 に 公平 な 批評 を 求める より 外 に 仕方 が ない と いい まし た 。 私 は 隙 かさ ず 迷う という 意味 を 聞き糺し まし た 。 彼 は 進ん で いい か 退い て いい か 、 それ に 迷う の だ と 説明 し まし た 。 私 は すぐ 一 歩 先 へ 出 まし た 。 そうして 退こ う と 思え ば 退ける の か と 彼 に 聞き まし た 。 すると 彼 の 言葉 が そこ で 不意 に 行き詰り まし た 。 彼 は ただ 苦しい といった だけ でし た 。 実際 彼 の 表情 に は 苦し そう な ところ が ありあり と 見え て い まし た 。 もし 相手 が お嬢さん で なかっ た なら ば 、 私 は どんなに 彼 に 都合 の いい 返事 を 、 その 渇き 切っ た 顔 の 上 に 慈雨 の 如く 注い で やっ た か 分り ませ ん 。 私 は その くらい の 美しい 同情 を もっ て 生れ て 来 た 人間 と 自分 ながら 信じ て い ます 。 しかし その 時 の 私 は 違っ て い まし た 。
「 私 は ちょうど 他流 試合 でも する 人 の よう に K を 注意 し て 見 て い た の です 。 私 は 、 私 の 眼 、 私 の 心 、 私 の 身体 、 すべて 私 という 名 の 付く もの を 五 分の 隙間 も ない よう に 用意 し て 、 K に 向っ た の です 。 罪 の ない K は 穴 だらけ と いう より むしろ 明け放し と 評する の が 適当 な くらい に 無 用心 でし た 。 私 は 彼 自身 の 手 から 、 彼 の 保管 し て いる 要塞 の 地図 を 受け取っ て 、 彼 の 眼 の 前 で ゆっくり それ を 眺める 事 が でき た も 同じ でし た 。
K が 理想 と 現実 の 間 に 彷徨 し て ふらふら し て いる の を 発見 し た 私 は 、 ただ 一打 で 彼 を 倒す 事 が できる だろ う という 点 に ばかり 眼 を 着け まし た 。 そうして すぐ 彼 の 虚 に 付け込ん だ の です 。 私 は 彼 に 向っ て 急 に 厳粛 な 改まっ た 態度 を 示し 出し まし た 。 無論 策略 から です が 、 その 態度 に 相応 する くらい な 緊張 し た 気分 も あっ た の です から 、 自分 に 滑稽 だの 羞恥 だ の を 感ずる 余裕 は あり ませ ん でし た 。 私 は まず 「 精神 的 に 向上心 の ない もの は 馬鹿 だ 」 と いい 放ち まし た 。 これ は 二 人 で 房州 を 旅行 し て いる 際 、 K が 私 に 向っ て 使っ た 言葉 です 。 私 は 彼 の 使っ た 通り を 、 彼 と 同じ よう な 口調 で 、 再び 彼 に 投げ 返し た の です 。 しかし 決して 復讐 で は あり ませ ん 。 私 は 復讐 以上 に 残酷 な 意味 を もっ て い た という 事 を 自白 し ます 。 私 は その 一言 で K の 前 に 横たわる 恋 の 行手 を 塞ご う と し た の です 。
K は 真宗寺 に 生れ た 男 でし た 。 しかし 彼 の 傾向 は 中学 時代 から 決して 生家 の 宗旨 に 近い もの で は なかっ た の です 。 教義 上 の 区別 を よく 知ら ない 私 が 、 こんな 事 を いう 資格 に 乏しい の は 承知 し て い ます が 、 私 は ただ 男女 に 関係 し た 点 について のみ 、 そう 認め て い た の です 。 K は 昔 から 精進 という 言葉 が 好き でし た 。 私 は その 言葉 の 中 に 、 禁欲 という 意味 も 籠っ て いる の だろ う と 解釈 し て い まし た 。 しかし 後で 実際 を 聞い て 見る と 、 それ より も まだ 厳重 な 意味 が 含ま れ て いる ので 、 私 は 驚き まし た 。 道 の ため に は すべて を 犠牲 に す べき もの だ という の が 彼 の 第 一 信条 な の です から 、 摂 欲 や 禁欲 は 無論 、 たとい 欲 を 離れ た 恋 そのもの で も 道 の 妨害 に なる の です 。 K が 自活 生活 を し て いる 時分 に 、 私 は よく 彼 から 彼 の 主張 を 聞かさ れ た の でし た 。 その 頃 から お嬢さん を 思っ て い た 私 は 、 勢い どうしても 彼 に 反対 し なけれ ば なら なかっ た の です 。 私 が 反対 する と 、 彼 は いつ でも 気の毒 そう な 顔 を し まし た 。 そこ に は 同情 より も 侮蔑 の 方 が 余計 に 現われ て い まし た 。
こういう 過去 を 二 人 の 間 に 通り抜け て 来 て いる の です から 、 精神 的 に 向上心 の ない もの は 馬鹿 だ という 言葉 は 、 K に 取っ て 痛い に 違い なかっ た の です 。 しかし 前 に も いっ た 通り 、 私 は この 一言 で 、 彼 が 折角 積み上げ た 過去 を 蹴 散らし た つもり で は あり ませ ん 。 かえって それ を 今 まで 通り 積み重ね て 行か せよ う と し た の です 。 それ が 道 に 達し よう が 、 天 に 届こ う が 、 私 は 構い ませ ん 。 私 は ただ K が 急 に 生活 の 方向 を 転換 し て 、 私 の 利害 と 衝突 する の を 恐れ た の です 。 要するに 私 の 言葉 は 単なる 利己 心 の 発現 でし た 。
「 精神 的 に 向上心 の ない もの は 、 馬鹿 だ 」
私 は 二 度 同じ 言葉 を 繰り返し まし た 。 そうして 、 その 言葉 が K の 上 に どう 影響 する か を 見詰め て い まし た 。
「 馬鹿 だ 」 と やがて K が 答え まし た 。 「 僕 は 馬鹿 だ 」
K は ぴたり と そこ へ 立ち 留まっ た まま 動き ませ ん 。 彼 は 地面 の 上 を 見詰め て い ます 。 私 は 思わず ぎょっと し まし た 。 私 に は K が その 刹那 に 居直り強盗 の ごとく 感ぜ られ た の です 。 しかし それ に し て は 彼 の 声 が いかにも 力 に 乏しい という 事 に 気が付き まし た 。 私 は 彼 の 眼 遣い を 参考 に し たかっ た の です が 、 彼 は 最後 まで 私 の 顔 を 見 ない の です 。 そうして 、 徐々 と また 歩き 出し まし た 。
「 私 は K と 並ん で 足 を 運ば せ ながら 、 彼 の 口 を 出る 次 の 言葉 を 腹の中 で 暗に 待ち受け まし た 。 あるいは 待ち伏せ といった 方 が まだ 適当 かも 知れ ませ ん 。 その 時 の 私 は たとい K を 騙し 打ち に し て も 構わ ない くらい に 思っ て い た の です 。 しかし 私 に も 教育 相当 の 良心 は あり ます から 、 もし 誰 か 私 の 傍 へ 来 て 、 お前 は 卑怯 だ と 一言 私語 い て くれる もの が あっ た なら 、 私 は その 瞬間 に 、 はっと 我 に 立ち 帰っ た かも 知れ ませ ん 。 もし K が その 人 で あっ た なら 、 私 は おそらく 彼 の 前 に 赤面 し た でしょ う 。 ただ K は 私 を 窘める に は 余りに 正直 でし た 。 余りに 単純 でし た 。 余りに 人格 が 善良 だっ た の です 。 目 の くらん だ 私 は 、 そこ に 敬意 を 払う 事 を 忘れ て 、 かえって そこ に 付け込ん だ の です 。 そこ を 利用 し て 彼 を 打ち倒そ う と し た の です 。
K は しばらく し て 、 私 の 名 を 呼ん で 私 の 方 を 見 まし た 。 今度 は 私 の 方 で 自然 と 足 を 留め まし た 。 すると K も 留まり まし た 。 私 は その 時 やっと K の 眼 を 真向 に 見る 事 が でき た の です 。 K は 私 より 背 の 高い 男 でし た から 、 私 は 勢い 彼 の 顔 を 見上げる よう に し なけれ ば なり ませ ん 。 私 は そうした 態度 で 、 狼 の ごとき 心 を 罪 の ない 羊 に 向け た の です 。
「 もう その 話 は 止めよ う 」 と 彼 が いい まし た 。 彼 の 眼 に も 彼 の 言葉 に も 変 に 悲痛 な ところ が あり まし た 。 私 は ちょっと 挨拶 が でき なかっ た の です 。 すると K は 、 「 止め て くれ 」 と 今度 は 頼む よう に いい 直し まし た 。 私 は その 時 彼 に 向っ て 残酷 な 答 を 与え た の です 。 狼 が 隙 を 見 て 羊 の 咽 喉笛 へ 食い 付く よう に 。
「 止め て くれ って 、 僕 が いい 出し た 事 じゃ ない 、 もともと 君 の 方 から 持ち出し た 話 じゃ ない か 。 しかし 君 が 止め たけれ ば 、 止め て も いい が 、 ただ 口 の 先 で 止め た って 仕方 が ある まい 。 君 の 心 で それ を 止める だけ の 覚悟 が なけれ ば 。 一体 君 は 君 の 平生 の 主張 を どう する つもり な の か 」
私 が こう いっ た 時 、 背 の 高い 彼 は 自然 と 私 の 前 に 萎縮 し て 小さく なる よう な 感じ が し まし た 。 彼 は いつも 話す 通り 頗る 強情 な 男 でし た けれども 、 一方 で は また 人一倍 の 正直 者 でし た から 、 自分 の 矛盾 など を ひどく 非難 さ れる 場合 に は 、 決して 平気 で い られ ない 質 だっ た の です 。 私 は 彼 の 様子 を 見 て ようやく 安心 し まし た 。 すると 彼 は 卒然 「 覚悟 ? 」 と 聞き まし た 。 そう し て 私 が まだ 何とも 答え ない 先 に 「 覚悟 、 —— 覚悟 なら ない 事 も ない 」 と 付け加え まし た 。 彼 の 調子 は 独言 の よう でし た 。 また 夢 の 中 の 言葉 の よう でし た 。
二 人 は それ ぎり 話 を 切り上げ て 、 小石川 の 宿 の 方 に 足 を 向け まし た 。 割合 に 風 の ない 暖か な 日 でし た けれども 、 何しろ 冬 の 事 です から 、 公園 の なか は 淋しい もの でし た 。 ことに 霜 に 打た れ て 蒼 味 を 失っ た 杉 の 木立 の 茶褐色 が 、 薄 黒い 空 の 中 に 、 梢 を 並べ て 聳え て いる の を 振り返っ て 見 た 時 は 、 寒 さ が 背中 へ 噛 り 付い た よう な 心持 が し まし た 。 我々 は 夕暮 の 本郷台 を 急ぎ足 で どしどし 通り抜け て 、 また 向う の 岡 へ 上る べく 小石川 の 谷 へ 下り た の です 。 私 は その 頃 に なっ て 、 ようやく 外套 の 下 に 体 の 温 味 を 感じ 出し た ぐらい です 。
急い だ ため で も あり ましょ う が 、 我々 は 帰り 路 に は ほとんど 口 を 聞き ませ ん でし た 。 宅 へ 帰っ て 食卓 に 向っ た 時 、 奥さん は どうして 遅く なっ た の か と 尋ね まし た 。 私 は K に 誘わ れ て 上野 へ 行っ た と 答え まし た 。 奥さん は この 寒い のに と いっ て 驚い た 様子 を 見せ まし た 。 お嬢さん は 上野 に 何 が あっ た の か と 聞き た がり ます 。 私 は 何 も ない が 、 ただ 散歩 し た の だ という 返事 だけ し て おき まし た 。 平生 から 無口 な K は 、 いつも より なお 黙っ て い まし た 。 奥さん が 話しかけ て も 、 お嬢さん が 笑っ て も 、 碌 な 挨拶 は し ませ ん でし た 。 それから 飯 を 呑み込む よう に 掻き込ん で 、 私 が まだ 席 を 立た ない うち に 、 自分 の 室 へ 引き取り まし た 。
「 その 頃 は 覚醒 とか 新しい 生活 とかいう 文字 の まだ ない 時分 でし た 。 しかし K が 古い 自分 を さらり と 投げ出し て 、 一意 に 新しい 方角 へ 走り出さ なかっ た の は 、 現代 人 の 考え が 彼 に 欠け て い た から で は ない の です 。 彼 に は 投げ出す 事 の でき ない ほど 尊い 過去 が あっ た から です 。 彼 は その ため に 今日 まで 生き て 来 た と いっ て も いい くらい な の です 。 だから K が 一直線 に 愛 の 目的 物 に 向っ て 猛進 し ない と いっ て 、 決して その 愛 の 生温い 事 を 証拠立てる 訳 に は ゆき ませ ん 。 いくら 熾烈 な 感情 が 燃え て い て も 、 彼 は むやみ に 動け ない の です 。 前後 を 忘れる ほど の 衝動 が 起る 機会 を 彼 に 与え ない 以上 、 K は どうしても ちょっと 踏み 留まっ て 自分 の 過去 を 振り返ら なけれ ば なら なかっ た の です 。 そうすると 過去 が 指し示す 路 を 今 まで 通り 歩か なけれ ば なら なく なる の です 。 その 上 彼 に は 現代 人 の もた ない 強情 と 我慢 が あり まし た 。 私 は この 双方 の 点 において よく 彼 の 心 を 見抜い て い た つもり な の です 。
上野 から 帰っ た 晩 は 、 私 に 取っ て 比較的 安静 な 夜 でし た 。 私 は K が 室 へ 引き上げ た あと を 追い 懸け て 、 彼 の 机 の 傍 に 坐り込み まし た 。 そうして 取り留め も ない 世間 話 を わざと 彼 に 仕向け まし た 。 彼 は 迷惑 そう でし た 。 私 の 眼 に は 勝利 の 色 が 多少 輝い て い た でしょ う 、 私 の 声 に は たしかに 得意 の 響き が あっ た の です 。 私 は しばらく K と 一つ 火鉢 に 手 を 翳し た 後 、 自分 の 室 に 帰り まし た 。 外 の 事 にかけて は 何 を し て も 彼 に 及ば なかっ た 私 も 、 その 時 だけ は 恐る る に 足り ない という 自覚 を 彼 に対して もっ て い た の です 。
私 は ほどなく 穏やか な 眠り に 落ち まし た 。 しかし 突然 私 の 名 を 呼ぶ 声 で 眼 を 覚まし まし た 。 見る と 、 間 の 襖 が 二 尺 ばかり 開い て 、 そこ に K の 黒い 影 が 立っ て い ます 。 そう し て 彼 の 室 に は 宵 の 通り まだ 燈火 が 点い て いる の です 。 急 に 世界 の 変っ た 私 は 、 少し の 間口 を 利く 事 も でき ず に 、 ぼうっと し て 、 その 光景 を 眺め て い まし た 。
その 時 K は もう 寝 た の か と 聞き まし た 。 K は いつ でも 遅く まで 起き て いる 男 でし た 。 私 は 黒い 影法師 の よう な K に 向っ て 、 何 か 用 か と 聞き返し まし た 。 K は 大した 用 で も ない 、 ただ もう 寝 た か 、 まだ 起き て いる か と 思っ て 、 便所 へ 行っ た ついで に 聞い て み た だけ だ と 答え まし た 。 K は 洋 燈 の 灯 を 背中 に 受け て いる ので 、 彼 の 顔色 や 眼 つき は 、 全く 私 に は 分り ませ ん でし た 。 けれども 彼 の 声 は 不断 より も かえって 落ち 付い て い た くらい でし た 。
K は やがて 開け た 襖 を ぴたり と 立て 切り まし た 。 私 の 室 は すぐ 元 の 暗闇 に 帰り まし た 。 私 は その 暗闇 より 静か な 夢 を 見る べく また 眼 を 閉じ まし た 。 私 は それ ぎり 何 も 知り ませ ん 。 しかし 翌朝 に なっ て 、 昨夕 の 事 を 考え て みる と 、 何だか 不思議 でし た 。 私 は ことに よる と 、 すべて が 夢 で は ない か と 思い まし た 。 それで 飯 を 食う 時 、 K に 聞き まし た 。 K は たしかに 襖 を 開け て 私 の 名 を 呼ん だ と いい ます 。 なぜ そんな 事 を し た の か と 尋ねる と 、 別に 判然 し た 返事 も し ませ ん 。 調子 の 抜け た 頃 に なっ て 、 近頃 は 熟睡 が できる の か と かえって 向う から 私 に 問う の です 。 私 は 何だか 変 に 感じ まし た 。
その 日 ちょうど 同じ 時間 に 講義 の 始まる 時間割 に なっ て い た ので 、 二 人 は やがて いっしょ に 宅 を 出 まし た 。 今朝 から 昨夕 の 事 が 気 に 掛っ て いる 私 は 、 途中 で また K を 追窮 し まし た 。 けれども K は やはり 私 を 満足 さ せる よう な 答え を し ませ ん 。 私 は あの 事件 について 何 か 話す つもり で は なかっ た の か と 念 を 押し て み まし た 。 K は そう で は ない と 強い 調子 で いい 切り まし た 。 昨日 上野 で 「 その 話 は もう 止めよ う 」 といった で は ない か と 注意 する ごとく に も 聞こえ まし た 。 K は そういう 点 に 掛け て 鋭い 自尊心 を もっ た 男 な の です 。 ふと そこ に 気 の つい た 私 は 突然 彼 の 用い た 「 覚悟 」 という 言葉 を 連想 し 出し まし た 。 すると 今 まで まるで 気 に なら なかっ た その 二 字 が 妙 な 力 で 私 の 頭 を 抑え 始め た の です 。
「 K の 果断 に 富ん だ 性格 は 私 に よく 知れ て い まし た 。 彼 の この 事件 について のみ 優柔 な 訳 も 私 に は ちゃんと 呑み込め て い た の です 。 つまり 私 は 一般 を 心得 た 上 で 、 例外 の 場合 を しっかり 攫ま え た つもり で 得意 だっ た の です 。 ところが 「 覚悟 」 という 彼 の 言葉 を 、 頭 の なか で 何 遍 も 咀嚼 し て いる うち に 、 私 の 得意 は だんだん 色 を 失っ て 、 しまいに は ぐらぐら 揺 き 始める よう に なり まし た 。 私 は この 場合 も あるいは 彼 にとって 例外 で ない の かも 知れ ない と 思い出し た の です 。 すべて の 疑惑 、 煩悶 、 懊悩 、 を 一 度 に 解決 する 最後 の 手段 を 、 彼 は 胸 の なか に 畳み込ん で いる の で は なかろ うかと 疑り 始め た の です 。 そうした 新しい 光 で 覚悟 の 二 字 を 眺め 返し て み た 私 は 、 はっと 驚き まし た 。 その 時 の 私 が もし この 驚き を もっ て 、 もう 一 返 彼 の 口 に し た 覚悟 の 内容 を 公平 に 見廻し たら ば 、 まだ よかっ た かも 知れ ませ ん 。 悲しい 事 に 私 は 片 眼 でし た 。 私 は ただ K が お嬢さん に対して 進ん で 行く という 意味 に その 言葉 を 解釈 し まし た 。 果断 に 富ん だ 彼 の 性格 が 、 恋 の 方面 に 発揮 さ れる の が すなわち 彼 の 覚悟 だろ う と 一 図 に 思い込ん で しまっ た の です 。
私 は 私 に も 最後 の 決断 が 必要 だ という 声 を 心 の 耳 で 聞き まし た 。 私 は すぐ その 声 に 応じ て 勇気 を 振り起し まし た 。 私 は K より 先 に 、 しかも K の 知ら ない 間 に 、 事 を 運ば なく て は なら ない と 覚悟 を 極め まし た 。 私 は 黙っ て 機会 を 覘 って い まし た 。 しかし 二 日 経っ て も 三 日 経っ て も 、 私 は それ を 捕まえる 事 が でき ませ ん 。 私 は K の い ない 時 、 また お嬢さん の 留守 な 折 を 待っ て 、 奥さん に 談判 を 開こ う と 考え た の です 。 しかし 片方 が い なけれ ば 、 片方 が 邪魔 を する といった 風 の 日 ばかり 続い て 、 どうしても 「 今 だ 」 と 思う 好都合 が 出 て 来 て くれ ない の です 。 私 は いらいら し まし た 。
一 週間 の 後 私 は とうとう 堪え 切れ なく なっ て 仮病 を 遣い まし た 。 奥さん から も お嬢さん から も 、 K 自身 から も 、 起きろ という 催促 を 受け た 私 は 、 生返事 を し た だけ で 、 十 時 頃 まで 蒲団 を 被っ て 寝 て い まし た 。 私 は K も お嬢さん も い なく なっ て 、 家 の 内 が ひっそり 静まっ た 頃 を 見計らっ て 寝床 を 出 まし た 。 私 の 顔 を 見 た 奥さん は 、 すぐ どこ が 悪い か と 尋ね まし た 。 食物 は 枕元 へ 運ん で やる から 、 もっと 寝 て い たら よかろ う と 忠告 し て も くれ まし た 。 身体 に 異状 の ない 私 は 、 とても 寝る 気 に は なれ ませ ん 。 顔 を 洗っ て いつも の 通り 茶の間 で 飯 を 食い まし た 。 その 時 奥さん は 長火鉢 の 向 側 から 給仕 を し て くれ た の です 。 私 は 朝飯 とも 午 飯 と も 片付か ない 茶 椀 を 手 に 持っ た まま 、 どんな 風 に 問題 を 切り出し た もの だろ う か と 、 それ ばかり に 屈托 し て い た から 、 外観 から は 実際 気分 の 好く ない 病人 らしく 見え た だろ う と 思い ます 。
私 は 飯 を 終っ て 烟草 を 吹かし 出し まし た 。 私 が 立た ない ので 奥さん も 火鉢 の 傍 を 離れる 訳 に ゆき ませ ん 。 下女 を 呼ん で 膳 を 下げ させ た 上 、 鉄瓶 に 水 を 注し たり 、 火鉢 の 縁 を 拭い たり し て 、 私 に 調子 を 合わせ て い ます 。 私 は 奥さん に 特別 な 用事 で も ある の か と 問い まし た 。 奥さん は いい えと 答え まし た が 、 今度 は 向う で なぜ です と 聞き返し て 来 まし た 。 私 は 実は 少し 話し たい 事 が ある の だ と いい まし た 。 奥さん は 何 です か と いっ て 、 私 の 顔 を 見 まし た 。 奥さん の 調子 は まるで 私 の 気分 に はいり 込め ない よう な 軽い もの でし た から 、 私 は 次に 出す べき 文句 も 少し 渋り まし た 。
私 は 仕方 なし に 言葉 の 上 で 、 好い加減 に うろつき 廻っ た 末 、 K が 近頃 何 か いい は し なかっ た か と 奥さん に 聞い て み まし た 。 奥さん は 思い も 寄ら ない という 風 を し て 、 「 何 を ? 」 と また 反問 し て 来 まし た 。 そう し て 私 の 答える 前 に 、 「 あなた に は 何 か おっしゃっ た ん です か 」 と かえって 向う で 聞く の です 。
「 K から 聞かさ れ た 打ち明け 話 を 、 奥さん に 伝える 気 の なかっ た 私 は 、 「 いいえ 」 と いっ て しまっ た 後 で 、 すぐ 自分 の 嘘 を 快から ず 感じ まし た 。 仕方 が ない から 、 別段 何 も 頼ま れ た 覚え は ない の だ から 、 K に関する 用件 で は ない の だ と いい 直し まし た 。 奥さん は 「 そう です か 」 と いっ て 、 後 を 待っ て い ます 。 私 は どうしても 切り出さ なけれ ば なら なく なり まし た 。 私 は 突然 「 奥さん 、 お嬢さん を 私 に 下さい 」 と いい まし た 。 奥さん は 私 の 予期 し て かかっ た ほど 驚い た 様子 も 見せ ませ ん でし た が 、 それでも 少時 返事 が でき なかっ た もの と 見え て 、 黙っ て 私 の 顔 を 眺め て い まし た 。 一度 いい 出し た 私 は 、 いくら 顔 を 見 られ て も 、 それ に 頓着 など は し て い られ ませ ん 。 「 下さい 、 ぜひ 下さい 」 と いい まし た 。 「 私 の 妻 として ぜひ 下さい 」 と いい まし た 。 奥さん は 年 を 取っ て いる だけ に 、 私 より も ずっと 落ち 付い て い まし た 。 「 上げ て も いい が 、 あんまり 急 じゃ あり ませ ん か 」 と 聞く の です 。 私 が 「 急 に 貰い たい の だ 」 と すぐ 答え たら 笑い 出し まし た 。 そうして 「 よく 考え た の です か 」 と 念 を 押す の です 。 私 は いい 出し た の は 突然 でも 、 考え た の は 突然 で ない という 訳 を 強い 言葉 で 説明 し まし た 。
それから まだ 二つ 三つ の 問答 が あり まし た が 、 私 は それ を 忘れ て しまい まし た 。 男 の よう に 判然 し た ところ の ある 奥さん は 、 普通 の 女 と 違っ て こんな 場合 に は 大変 心持 よく 話 の できる 人 でし た 。 「 宜 ご ざんす 、 差し上げ ましょ う 」 と いい まし た 。 「 差し上げる なんて 威張っ た 口 の 利 ける 境遇 で は あり ませ ん 。 どうぞ 貰っ て 下さい 。 ご存じ の 通り 父親 の ない 憐れ な 子 です 」 と 後 で は 向う から 頼み まし た 。
話 は 簡単 で かつ 明瞭 に 片付い て しまい まし た 。 最初 から し まい まで に おそらく 十 五 分 と は 掛ら なかっ た でしょ う 。 奥さん は 何 の 条件 も 持ち出さ なかっ た の です 。 親類 に 相談 する 必要 も ない 、 後 から 断れ ば それで 沢山 だ と いい まし た 。 本人 の 意嚮 さえ たしかめる に 及ば ない と 明言 し まし た 。 そんな 点 に なる と 、 学問 を し た 私 の 方 が 、 かえって 形式 に 拘泥 する くらい に 思わ れ た の です 。 親類 は とにかく 、 当人 に は あらかじめ 話し て 承諾 を 得る の が 順序 らしい と 私 が 注意 し た 時 、 奥さん は 「 大丈夫 です 。 本人 が 不承知 の 所 へ 、 私 が あの 子 を やる はず が あり ませ ん から 」 と いい まし た 。
自分 の 室 へ 帰っ た 私 は 、 事 の あまりに 訳 も なく 進行 し た の を 考え て 、 かえって 変 な 気持 に なり まし た 。 はたして 大丈夫 な の だろ う か という 疑念 さえ 、 どこ から か 頭 の 底 に 這い 込ん で 来 た くらい です 。 けれども 大体 の 上 において 、 私 の 未来 の 運命 は 、 これ で 定め られ た の だ という 観念 が 私 の すべて を 新た に し まし た 。
私 は 午 頃 また 茶の間 へ 出掛け て 行っ て 、 奥さん に 、 今朝 の 話 を お嬢さん に 何 時 通じ て くれる つもり か と 尋ね まし た 。 奥さん は 、 自分 さえ 承知 し て いれ ば 、 いつ 話し て も 構わ なかろ う という よう な 事 を いう の です 。 こう なる と 何だか 私 より も 相手 の 方 が 男 み た よう な ので 、 私 は それ ぎり 引き込も う と し まし た 。 すると 奥さん が 私 を 引き留め て 、 もし 早い 方 が 希望 なら ば 、 今日 でも いい 、 稽古 から 帰っ て 来 たら 、 すぐ 話そ う という の です 。 私 は そう し て もらう 方 が 都合 が 好い と 答え て また 自分 の 室 に 帰り まし た 。 しかし 黙っ て 自分 の 机 の 前 に 坐っ て 、 二 人 の こそこそ 話 を 遠く から 聞い て いる 私 を 想像 し て みる と 、 何だか 落ち 付い て い られ ない よう な 気 も する の です 。 私 は とうとう 帽子 を 被っ て 表 へ 出 まし た 。 そうして また 坂の下 で お嬢さん に 行き合い まし た 。 何 に も 知ら ない お嬢さん は 私 を 見 て 驚い た らしかっ た の です 。 私 が 帽子 を 脱 って 「 今 お 帰り 」 と 尋ねる と 、 向う で は もう 病気 は 癒 っ た の か と 不思議 そう に 聞く の です 。 私 は 「 ええ 癒 り まし た 、 癒 り まし た 」 と 答え て 、 ずんずん 水道 橋 の 方 へ 曲っ て しまい まし た 。
「 私 は 猿楽 町 から 神保 町 の 通り へ 出 て 、 小川 町 の 方 へ 曲り まし た 。 私 が この 界隈 を 歩く の は 、 いつも 古本屋 を ひやかす の が 目的 でし た が 、 その 日 は 手 摺れ の し た 書物 など を 眺める 気 が 、 どうして も 起ら ない の です 。 私 は 歩き ながら 絶えず 宅 の 事 を 考え て い まし た 。 私 に は 先刻 の 奥さん の 記憶 が あり まし た 。 それから お嬢さん が 宅 へ 帰っ て から の 想像 が あり まし た 。 私 は つまり この 二つ の もの で 歩か せ られ て い た よう な もの です 。 その 上 私 は 時々 往来 の 真中 で 我 知らず ふと 立ち 留まり まし た 。 そうして 今頃 は 奥さん が お嬢さん に もう あの 話 を し て いる 時分 だろ う など と 考え まし た 。 また 或 る 時 は 、 もう あの 話 が 済ん だ 頃 だ と も 思い まし た 。
私 は とうとう 万 世 橋 を 渡っ て 、 明神 の 坂 を 上がっ て 、 本郷台 へ 来 て 、 それから また 菊 坂 を 下り て 、 しまいに 小石川 の 谷 へ 下り た の です 。 私 の 歩い た 距離 は この 三 区 に 跨が って 、 いびつ な 円 を 描い た と も いわ れる でしょ う が 、 私 は この 長い 散歩 の 間 ほとんど K の 事 を 考え なかっ た の です 。 今 その 時 の 私 を 回顧 し て 、 なぜ だ と 自分 に 聞い て み て も 一向 分り ませ ん 。 ただ 不思議 に 思う だけ です 。 私 の 心 が K を 忘れ 得る くらい 、 一方 に 緊張 し て い た と みれ ば それ まで です が 、 私 の 良心 が また それ を 許す べき はず は なかっ た の です から 。
K に対する 私 の 良心 が 復活 し た の は 、 私 が 宅 の 格子 を 開け て 、 玄関 から 坐 敷 へ 通る 時 、 すなわち 例 の ごとく 彼 の 室 を 抜けよ う と し た 瞬間 でし た 。 彼 は いつも の 通り 机 に 向っ て 書見 を し て い まし た 。 彼 は いつも の 通り 書物 から 眼 を 放し て 、 私 を 見 まし た 。 しかし 彼 は いつも の 通り 今 帰っ た の か と は いい ませ ん でし た 。 彼 は 「 病気 は もう 癒 い の か 、 医者 へ で も 行っ た の か 」 と 聞き まし た 。 私 は その 刹那 に 、 彼 の 前 に 手 を 突い て 、 詫 まり たく なっ た の です 。 しかも 私 の 受け た その 時 の 衝動 は 決して 弱い もの で は なかっ た の です 。 もし K と 私 が たった 二 人 曠野 の 真中 に でも 立っ て い た なら ば 、 私 は きっと 良心 の 命令 に従って 、 その 場 で 彼 に 謝罪 し たろ う と 思い ます 。 しかし 奥 に は 人 が い ます 。 私 の 自然 は すぐ そこ で 食い 留め られ て しまっ た の です 。 そう し て 悲しい 事 に 永久 に 復活 し なかっ た の です 。
夕飯 の 時 K と 私 は また 顔 を 合せ まし た 。 何 に も 知ら ない K は ただ 沈ん で い た だけ で 、 少し も 疑い深い 眼 を 私 に 向け ませ ん 。 何 に も 知ら ない 奥さん は いつも より 嬉し そう でし た 。 私 だけ が すべて を 知っ て い た の です 。 私 は 鉛 の よう な 飯 を 食い まし た 。 その 時 お嬢さん は いつも の よう に みんな と 同じ 食卓 に 並び ませ ん でし た 。 奥さん が 催促 する と 、 次 の 室 で 只今 と 答える だけ でし た 。 それ を K は 不思議 そう に 聞い て い まし た 。 しまいに どう し た の か と 奥さん に 尋ね まし た 。 奥さん は 大方 極り が 悪い の だろ う と いっ て 、 ちょっと 私 の 顔 を 見 まし た 。 K は なお 不思議 そう に 、 なんで 極り が 悪い の か と 追窮 し に 掛かり まし た 。 奥さん は 微笑 し ながら また 私 の 顔 を 見る の です 。
私 は 食卓 に 着い た 初め から 、 奥さん の 顔 付 で 、 事 の 成行 を ほぼ 推察 し て い まし た 。 しかし K に 説明 を 与える ため に 、 私 の いる 前 で 、 それ を 悉く 話さ れ て は 堪ら ない と 考え まし た 。 奥さん は また その くらい の 事 を 平気 で する 女 な の です から 、 私 は ひやひや し た の です 。 幸い に K は また 元 の 沈黙 に 帰り まし た 。 平生 より 多少 機嫌 の よかっ た 奥さん も 、 とうとう 私 の 恐れ を 抱い て いる 点 まで は 話 を 進め ず に しまい まし た 。 私 は ほっと 一息 し て 室 へ 帰り まし た 。 しかし 私 が これから 先 K に対して 取る べき 態度 は 、 どう し た もの だろ う か 、 私 は それ を 考え ず に はいら れ ませ ん でし た 。 私 は 色々 の 弁護 を 自分 の 胸 で 拵え て み まし た 。 けれども どの 弁護 も K に対して 面 と 向う に は 足り ませ ん でし た 、 卑怯 な 私 は ついに 自分 で 自分 を K に 説明 する の が 厭 に なっ た の です 。
「 私 は そのまま 二 、 三 日 過ごし まし た 。 その 二 、 三 日 の 間 K に対する 絶え ざる 不安 が 私 の 胸 を 重く し て い た の は いう まで も あり ませ ん 。 私 は ただ で さえ 何とか し なけれ ば 、 彼 に 済まない と 思っ た の です 。 その 上 奥さん の 調子 や 、 お嬢さん の 態度 が 、 始終 私 を 突 ッ つく よう に 刺戟 する の です から 、 私 は なお 辛かっ た の です 。 どこ か 男らしい 気性 を 具え た 奥さん は 、 いつ 私 の 事 を 食卓 で K に 素 ぱ 抜か ない と も 限り ませ ん 。 それ 以来 こと に 目立つ よう に 思え た 私 に対する お嬢さん の 挙止 動作 も 、 K の 心 を 曇らす 不審 の 種 と なら ない と は 断言 でき ませ ん 。 私 は 何とか し て 、 私 と この 家族 と の 間 に 成り立っ た 新しい 関係 を 、 K に 知らせ なけれ ば なら ない 位置 に 立ち まし た 。 しかし 倫理 的 に 弱点 を もっ て いる と 、 自分 で 自分 を 認め て いる 私 に は 、 それ が また 至難 の 事 の よう に 感ぜ られ た の です 。
私 は 仕方 が ない から 、 奥さん に 頼ん で K に 改めて そう いっ て もらお う か と 考え まし た 。 無論 私 の い ない 時 に です 。 しかし ありのまま を 告げ られ て は 、 直接 と 間接 の 区別 が ある だけ で 、 面目 の ない のに 変り は あり ませ ん 。 と いっ て 、 拵え事 を 話し て もらお う と すれ ば 、 奥さん から その 理由 を 詰問 さ れる に 極 って い ます 。 もし 奥さん に すべて の 事情 を 打ち明け て 頼む と すれ ば 、 私 は 好ん で 自分 の 弱点 を 自分 の 愛人 と その 母親 の 前 に 曝 け 出さ なけれ ば なり ませ ん 。 真面目 な 私 に は 、 それ が 私 の 未来 の 信用 に関する と しか 思わ れ なかっ た の です 。 結婚 する 前 から 恋人 の 信用 を 失う の は 、 たとい 一 分 一 厘 でも 、 私 に は 堪え 切れ ない 不幸 の よう に 見え まし た 。
要するに 私 は 正直 な 路 を 歩く つもり で 、 つい 足 を 滑らし た 馬鹿 もの でし た 。 もしくは 狡猾 な 男 でし た 。 そう し て そこ に 気 の つい て いる もの は 、 今 の ところ ただ 天 と 私 の 心 だけ だっ た の です 。 しかし 立ち直っ て 、 もう 一 歩 前 へ 踏み出そ う と する に は 、 今 滑っ た 事 を ぜひとも 周囲 の 人 に 知ら れ なけれ ば なら ない 窮境 に 陥っ た の です 。 私 は あくまで 滑っ た 事 を 隠し た がり まし た 。 同時に 、 どうしても 前 へ 出 ず に は い られ なかっ た の です 。 私 は この間 に 挟まっ て また 立ち竦み まし た 。
五 、 六 日 経っ た 後 、 奥さん は 突然 私 に 向っ て 、 K に あの 事 を 話し た か と 聞く の です 。 私 は まだ 話さ ない と 答え まし た 。 すると なぜ 話さ ない の か と 、 奥さん が 私 を 詰る の です 。 私 は この 問い の 前 に 固く なり まし た 。 その 時 奥さん が 私 を 驚かし た 言葉 を 、 私 は 今 でも 忘れ ず に 覚え て い ます 。
「 道理 で 妾 が 話し たら 変 な 顔 を し て い まし た よ 。 あなた も よく ない じゃ あり ませ ん か 。 平生 あんなに 親しく し て いる 間柄 だ のに 、 黙っ て 知らん顔 を し て いる の は 」
私 は K が その 時 何 か いい は し なかっ た か と 奥さん に 聞き まし た 。 奥さん は 別段 何 に も いわ ない と 答え まし た 。 しかし 私 は 進ん で もっと 細かい 事 を 尋ね ず に はいら れ ませ ん でし た 。 奥さん は 固 より 何 も 隠す 訳 が あり ませ ん 。 大した 話 も ない が と いい ながら 、 一々 K の 様子 を 語っ て 聞か せ て くれ まし た 。
奥さん の いう ところ を 綜合 し て 考え て みる と 、 K は この 最後 の 打撃 を 、 最も 落ち 付い た 驚き を もっ て 迎え た らしい の です 。 K は お嬢さん と 私 と の 間 に 結ば れ た 新しい 関係 について 、 最初 は そう です か と ただ 一 口 いっ た だけ だっ た そう です 。 しかし 奥さん が 、 「 あなた も 喜ん で 下さい 」 と 述べ た 時 、 彼 は はじめて 奥さん の 顔 を 見 て 微笑 を 洩らし ながら 、 「 おめでとう ござい ます 」 といった まま 席 を 立っ た そう です 。 そうして 茶の間 の 障子 を 開ける 前 に 、 また 奥さん を 振り返っ て 、 「 結婚 は い つ です か 」 と 聞い た そう です 。 それから 「 何 か お祝い を 上げ たい が 、 私 は 金 が ない から 上げる 事 が でき ませ ん 」 といった そう です 。 奥さん の 前 に 坐っ て い た 私 は 、 その 話 を 聞い て 胸 が 塞 る よう な 苦し さ を 覚え まし た 。
「 勘定 し て 見る と 奥さん が K に 話 を し て から もう 二 日 余り に なり ます 。 その間 K は 私 に対して 少し も 以前 と 異なっ た 様子 を 見せ なかっ た ので 、 私 は 全く それ に 気が付か ず に い た の です 。 彼 の 超然 と し た 態度 は たとい 外観 だけ に も せよ 、 敬服 に 値す べき だ と 私 は 考え まし た 。 彼 と 私 を 頭 の 中 で 並べ て みる と 、 彼 の 方 が 遥か に 立派 に 見え まし た 。 「 おれ は 策略 で 勝っ て も 人間 として は 負け た の だ 」 という 感じ が 私 の 胸 に 渦巻い て 起り まし た 。 私 は その 時 さぞ K が 軽蔑 し て いる 事 だろ う と 思っ て 、 一 人 で 顔 を 赧 ら め まし た 。 しかし 今更 K の 前 に 出 て 、 恥 を 掻か せ られる の は 、 私 の 自尊心 にとって 大 い な 苦痛 でし た 。
私 が 進も う か 止そ う か と 考え て 、 ともかく も 翌日 まで 待と う と 決心 し た の は 土曜 の 晩 でし た 。 ところが その 晩 に 、 K は 自殺 し て 死ん で しまっ た の です 。 私 は 今 でも その 光景 を 思い出す と 慄然 と し ます 。 いつも 東 枕 で 寝る 私 が 、 その 晩 に 限っ て 、 偶然 西 枕 に 床 を 敷い た の も 、 何 か の 因縁 かも 知れ ませ ん 。 私 は 枕元 から 吹き込む 寒い 風 で ふと 眼 を 覚まし た の です 。 見る と 、 いつも 立て 切っ て ある K と 私 の 室 と の 仕切 の 襖 が 、 この間 の 晩 と 同じ くらい 開い て い ます 。 けれども この間 の よう に 、 K の 黒い 姿 は そこ に は 立っ て い ませ ん 。 私 は 暗示 を 受け た 人 の よう に 、 床 の 上 に 肱 を 突い て 起き上がり ながら 、 屹 と K の 室 を 覗き まし た 。 洋 燈 が 暗く 点っ て いる の です 。 それで 床 も 敷い て ある の です 。 しかし 掛蒲団 は 跳返 さ れ た よう に 裾 の 方 に 重なり合っ て いる の です 。 そう し て K 自身 は 向う むき に 突 ッ 伏し て いる の です 。
私 は おい と いっ て 声 を 掛け まし た 。 しかし 何 の 答え も あり ませ ん 。 おいど うかし た の か と 私 は また K を 呼び まし た 。 それでも K の 身体 は 些 とも 動き ませ ん 。 私 は すぐ 起き 上っ て 、 敷居 際 まで 行き まし た 。 そこ から 彼 の 室 の 様子 を 、 暗い 洋 燈 の 光 で 見廻し て み まし た 。
その 時 私 の 受け た 第 一 の 感じ は 、 K から 突然 恋 の 自白 を 聞かさ れ た 時 の それ と ほぼ 同じ でし た 。 私 の 眼 は 彼 の 室 の 中 を 一目 見る や 否 や 、 あたかも 硝子 で 作っ た 義眼 の よう に 、 動く 能力 を 失い まし た 。 私 は 棒立ち に 立ち竦み まし た 。 それ が 疾風 の ごとく 私 を 通過 し た あと で 、 私 は また ああ 失策 っ た と 思い まし た 。 もう 取り返し が 付か ない という 黒い 光 が 、 私 の 未来 を 貫い て 、 一 瞬間 に 私 の 前 に 横たわる 全 生涯 を 物凄く 照らし まし た 。 そう し て 私 は がたがた 顫 え 出し た の です 。
それでも 私 は ついに 私 を 忘れる 事 が でき ませ ん でし た 。 私 は すぐ 机 の 上 に 置い て ある 手紙 に 眼 を 着け まし た 。 それ は 予期 通り 私 の 名宛 に なっ て い まし た 。 私 は 夢中 で 封 を 切り まし た 。 しかし 中 に は 私 の 予期 し た よう な 事 は 何 に も 書い て あり ませ ん でし た 。 私 は 私 に 取っ て どんなに 辛い 文句 が その 中 に 書き 列ね て ある だろ う と 予期 し た の です 。 そうして 、 もし それ が 奥さん や お嬢さん の 眼 に 触れ たら 、 どんなに 軽蔑 さ れる かも 知れ ない という 恐怖 が あっ た の です 。 私 は ちょっと 眼 を 通し た だけ で 、 まず 助かっ た と 思い まし た 。 ( 固 より 世間体 の 上 だけ で 助かっ た の です が 、 その 世間体 が この 場合 、 私 にとって は 非常 な 重大 事件 に 見え た の です 。 )
手紙 の 内容 は 簡単 でし た 。 そうして むしろ 抽象 的 でし た 。 自分 は 薄志弱行 で 到底 行先 の 望み が ない から 、 自殺 する と いう だけ な の です 。 それから 今 まで 私 に 世話 に なっ た 礼 が 、 ごく あっさり と し た 文句 で その後 に 付け加え て あり まし た 。 世話 ついで に 死後 の 片 付 方 も 頼み たい という 言葉 も あり まし た 。 奥さん に 迷惑 を 掛け て 済ま ん から 宜しく 詫 を し て くれ という 句 も あり まし た 。 国元 へ は 私 から 知らせ て もらい たい という 依頼 も あり まし た 。 必要 な 事 は みんな 一 口 ずつ 書い て ある 中 に お嬢さん の 名前 だけ は どこ に も 見え ませ ん 。 私 は し まい まで 読ん で 、 すぐ K が わざと 回避 し た の だ という 事 に 気が付き まし た 。 しかし 私 の もっとも 痛切 に 感じ た の は 、 最後 に 墨 の 余り で 書き添え たらしく 見える 、 もっと 早く 死ぬ べき だ のに なぜ 今 まで 生き て い た の だろ う という 意味 の 文句 でし た 。
私 は 顫 える 手 で 、 手紙 を 巻き 収め て 、 再び 封 の 中 へ 入れ まし た 。 私 は わざと それ を 皆 な の 眼 に 着く よう に 、 元 の 通り 机 の 上 に 置き まし た 。 そう し て 振り返っ て 、 襖 に 迸っ て いる 血潮 を 始め て 見 た の です 。
「 私 は 突然 K の 頭 を 抱える よう に 両手 で 少し 持ち上げ まし た 。 私 は K の 死 顔 が 一目 見 たかっ た の です 。 しかし 俯伏 し に なっ て いる 彼 の 顔 を 、 こうして 下 から 覗き 込ん だ 時 、 私 は すぐ その 手 を 放し て しまい まし た 。 慄 と し た ばかり で は ない の です 。 彼 の 頭 が 非常 に 重たく 感ぜ られ た の です 。 私 は 上 から 今 触っ た 冷たい 耳 と 、 平生 に 変ら ない 五 分 刈 の 濃い 髪の毛 を 少時 眺め て い まし た 。 私 は 少し も 泣く 気 に は なれ ませ ん でし た 。 私 は ただ 恐ろしかっ た の です 。 そうして その 恐ろし さ は 、 眼 の 前 の 光景 が 官能 を 刺激 し て 起る 単調 な 恐ろし さ ばかり で は あり ませ ん 。 私 は 忽然と 冷たく なっ た この 友達 によって 暗示 さ れ た 運命 の 恐ろし さ を 深く 感じ た の です 。
私 は 何 の 分別 も なく また 私 の 室 に 帰り まし た 。 そうして 八 畳 の 中 を ぐるぐる 廻り 始め まし た 。 私 の 頭 は 無意味 でも 当分 そうして 動い て いろ と 私 に 命令 する の です 。 私 は どうか し なけれ ば なら ない と 思い まし た 。 同時に もう どう する 事 も でき ない の だ と 思い まし た 。 座敷 の 中 を ぐるぐる 廻ら なけれ ば い られ なく なっ た の です 。 檻 の 中 へ 入れ られ た 熊 の よう な 態度 で 。
私 は 時々 奥 へ 行っ て 奥さん を 起そ う という 気 に なり ます 。 けれども 女 に この 恐ろしい 有様 を 見せ て は 悪い という 心持 が すぐ 私 を 遮り ます 。 奥さん は とにかく 、 お嬢さん を 驚かす 事 は 、 とても でき ない という 強い 意志 が 私 を 抑え つけ ます 。 私 は また ぐるぐる 廻り 始める の です 。
私 は その間 に 自分 の 室 の 洋 燈 を 点け まし た 。 それから 時計 を 折々 見 まし た 。 その 時 の 時計 ほど 埒 の 明か ない 遅い もの は あり ませ ん でし た 。 私 の 起き た 時間 は 、 正確 に 分ら ない の です けれども 、 もう 夜明 に 間 も なかっ た 事 だけ は 明らか です 。 ぐるぐる 廻り ながら 、 その 夜明 を 待ち 焦れ た 私 は 、 永久 に 暗い 夜 が 続く の で は なかろ う か という 思い に 悩まさ れ まし た 。
我々 は 七 時 前 に 起きる 習慣 でし た 。 学校 は 八 時 に 始まる 事 が 多い ので 、 それ で ない と 授業 に 間に合わ ない の です 。 下女 は その 関係 で 六 時 頃 に 起きる 訳 に なっ て い まし た 。 しかし その 日 私 が 下女 を 起し に 行っ た の は まだ 六 時 前 でし た 。 すると 奥さん が 今日 は 日曜 だ と いっ て 注意 し て くれ まし た 。 奥さん は 私 の 足音 で 眼 を 覚まし た の です 。 私 は 奥さん に 眼 が 覚め て いる なら 、 ちょっと 私 の 室 まで 来 て くれ と 頼み まし た 。 奥さん は 寝巻 の 上 へ 不断 着 の 羽織 を 引っ掛け て 、 私 の 後 に 跟 い て 来 まし た 。 私 は 室 へ は いる や 否 や 、 今 まで 開い て い た 仕切り の 襖 を すぐ 立て 切り まし た 。 そうして 奥さん に 飛ん だ 事 が でき た と 小声 で 告げ まし た 。 奥さん は 何 だ と 聞き まし た 。 私 は 顋 で 隣 の 室 を 指す よう に し て 、 「 驚い ちゃ いけ ませ ん 」 と いい まし た 。 奥さん は 蒼い 顔 を し まし た 。 「 奥さん 、 K は 自殺 し まし た 」 と 私 が また いい まし た 。 奥さん は そこ に 居竦まっ た よう に 、 私 の 顔 を 見 て 黙っ て い まし た 。 その 時 私 は 突然 奥さん の 前 へ 手 を 突い て 頭 を 下げ まし た 。 「 済み ませ ん 。 私 が 悪かっ た の です 。 あなた に も お嬢さん に も 済まない 事 に なり まし た 」 と 詫 まり まし た 。 私 は 奥さん と 向い 合う まで 、 そんな 言葉 を 口 に する 気 はまる で なかっ た の です 。 しかし 奥さん の 顔 を 見 た 時 不意 に 我と も 知ら ず そう いっ て しまっ た の です 。 K に 詫 まる 事 の でき ない 私 は 、 こうして 奥さん と お嬢さん に 詫び なけれ ば い られ なく なっ た の だ と 思っ て 下さい 。 つまり 私 の 自然 が 平生 の 私 を 出し抜い て ふらふら と 懺悔 の 口 を 開か し た の です 。 奥さん が そんな 深い 意味 に 、 私 の 言葉 を 解釈 し なかっ た の は 私 にとって 幸い でし た 。 蒼い 顔 を し ながら 、 「 不慮 の 出来事 なら 仕方 が ない じゃ あり ませ ん か 」 と 慰める よう に いっ て くれ まし た 。 しかし その 顔 に は 驚き と 怖 れ と が 、 彫り 付け られ た よう に 、 硬く 筋肉 を 攫ん で い まし た 。
「 私 は 奥さん に 気の毒 でし た けれども 、 また 立っ て 今 閉め た ばかり の 唐紙 を 開け まし た 。 その 時 K の 洋 燈 に 油 が 尽き た と 見え て 、 室 の 中 は ほとんど 真暗 でし た 。 私 は 引き返し て 自分 の 洋 燈 を 手 に 持っ た まま 、 入口 に 立っ て 奥さん を 顧み まし た 。 奥さん は 私 の 後ろ から 隠れる よう に し て 、 四 畳 の 中 を 覗き 込み まし た 。 しかし はいろ う と は し ませ ん 。 そこ は そのまま に し て おい て 、 雨戸 を 開け て くれ と 私 に いい まし た 。
それから 後 の 奥さん の 態度 は 、 さすが に 軍人 の 未亡人 だけ あっ て 要領 を 得 て い まし た 。 私 は 医者 の 所 へ も 行き まし た 。 また 警察 へ も 行き まし た 。 しかし みんな 奥さん に 命令 さ れ て 行っ た の です 。 奥さん は そうした 手続 の 済む まで 、 誰 も K の 部屋 へ は 入れ ませ ん でし た 。
K は 小さな ナイフ で 頸動 脈 を 切っ て 一息 に 死ん で しまっ た の です 。 外 に 創 らしい もの は 何 に も あり ませ ん でし た 。 私 が 夢 の よう な 薄暗い 灯 で 見 た 唐紙 の 血潮 は 、 彼 の 頸筋 から 一 度 に 迸っ た もの と 知れ まし た 。 私 は 日 中 の 光 で 明らか に その 迹 を 再び 眺め まし た 。 そうして 人間 の 血 の 勢い という もの の 劇 し い の に 驚き まし た 。
奥さん と 私 は できる だけ の 手際 と 工夫 を 用い て 、 K の 室 を 掃除 し まし た 。 彼 の 血潮 の 大 部分 は 、 幸い 彼 の 蒲団 に 吸収 さ れ て しまっ た ので 、 畳 は それほど 汚れ ない で 済み まし た から 、 後始末 は まだ 楽 でし た 。 二 人 は 彼 の 死骸 を 私 の 室 に 入れ て 、 不断 の 通り 寝 て いる 体 に 横 に し まし た 。 私 は それ から 彼 の 実家 へ 電報 を 打ち に 出 た の です 。
私 が 帰っ た 時 は 、 K の 枕元 に もう 線香 が 立て られ て い まし た 。 室 へ はいる と すぐ 仏 臭い 烟 で 鼻 を 撲 たれ た 私 は 、 その 烟 の 中 に 坐っ て いる 女 二 人 を 認め まし た 。 私 が お嬢さん の 顔 を 見 た の は 、 昨夜 来 この 時 が 始め て でし た 。 お嬢さん は 泣い て い まし た 。 奥さん も 眼 を 赤く し て い まし た 。 事件 が 起っ て から それ まで 泣く 事 を 忘れ て い た 私 は 、 その 時 ようやく 悲しい 気分 に 誘わ れる 事 が でき た の です 。 私 の 胸 は その 悲し さ の ため に 、 どの くらい 寛 ろ いだか 知れ ませ ん 。 苦痛 と 恐怖 で ぐいと 握り締め られ た 私 の 心 に 、 一滴 の 潤 を 与え て くれ た もの は 、 その 時 の 悲し さ でし た 。
私 は 黙っ て 二 人 の 傍 に 坐っ て い まし た 。 奥さん は 私 に も 線香 を 上げ て やれ と いい ます 。 私 は 線香 を 上げ て また 黙っ て 坐っ て い まし た 。 お嬢さん は 私 に は 何とも いい ませ ん 。 たま に 奥さん と 一 口 二 口言葉 を 換わ す 事 が あり まし た が 、 それ は 当座 の 用事 について のみ でし た 。 お嬢さん に は K の 生前 について 語る ほど の 余裕 が まだ 出 て 来 なかっ た の です 。 私 は それでも 昨夜 の 物凄い 有様 を 見せ ず に 済ん で まだ よかっ た と 心 の うち で 思い まし た 。 若い 美しい 人 に 恐ろしい もの を 見せる と 、 折角 の 美し さ が 、 その ため に 破壊 さ れ て しまい そう で 私 は 怖かっ た の です 。 私 の 恐ろし さ が 私 の 髪の毛 の 末端 まで 来 た 時 で すら 、 私 は その 考え を 度外 に 置い て 行動 する 事 は でき ませ ん でし た 。 私 に は 綺麗 な 花 を 罪 も ない のに 妄り に 鞭 うつ と 同じ よう な 不快 が その うち に 籠っ て い た の です 。
国元 から K の 父 と 兄 が 出 て 来 た 時 、 私 は K の 遺骨 を どこ へ 埋める か について 自分 の 意見 を 述べ まし た 。 私 は 彼 の 生前 に 雑司ヶ谷 近辺 を よく いっしょ に 散歩 し た 事 が あり ます 。 K に は そこ が 大変 気に入っ て い た の です 。 それで 私 は 笑 談 半分 に 、 そんなに 好き なら 死ん だら ここ へ 埋め て やろ う と 約束 し た 覚え が ある の です 。 私 も 今 その 約束 通り K を 雑司ヶ谷 へ 葬っ た ところ で 、 どの くらい の 功徳 に なる もの か と は 思い まし た 。 けれども 私 は 私 の 生き て いる 限り 、 K の 墓 の 前 に 跪い て 月々 私 の 懺悔 を 新た に し たかっ た の です 。 今 まで 構い 付け なかっ た K を 、 私 が 万事 世話 を し て 来 た という 義理 も あっ た の でしょ う 、 K の 父 も 兄 も 私 の いう 事 を 聞い て くれ まし た 。
「 K の 葬式 の 帰り 路 に 、 私 は その 友人 の 一 人 から 、 K が どうして 自殺 し た の だろ う という 質問 を 受け まし た 。 事件 が あっ て 以来 私 は もう 何 度 と なく この 質問 で 苦しめ られ て い た の です 。 奥さん も お嬢さん も 、 国 から 出 て 来 た K の 父兄 も 、 通知 を 出し た 知り合い も 、 彼 と は 何 の 縁故 も ない 新聞 記者 まで も 、 必ず 同様 の 質問 を 私 に 掛け ない 事 は なかっ た の です 。 私 の 良心 は その たび に ちくちく 刺さ れる よう に 痛み まし た 。 そう し て 私 は この 質問 の 裏 に 、 早く お前 が 殺し た と 白状 し て しまえ という 声 を 聞い た の です 。
私 の 答え は 誰 に対して も 同じ でし た 。 私 は ただ 彼 の 私 宛 で 書き残し た 手紙 を 繰り返す だけ で 、 外 に 一口 も 附け 加える 事 は し ませ ん でし た 。 葬式 の 帰り に 同じ 問い を 掛け て 、 同じ 答え を 得 た K の 友人 は 、 懐 から 一 枚 の 新聞 を 出し て 私 に 見せ まし た 。 私 は 歩き ながら その 友人 によって 指し示さ れ た 箇所 を 読み まし た 。 それ に は K が 父兄 から 勘当 さ れ た 結果 厭世 的 な 考え を 起し て 自殺 し た と 書い て ある の です 。 私 は 何 に も いわ ず に 、 その 新聞 を 畳ん で 友人 の 手 に 帰し まし た 。 友人 は この 外 に も K が 気 が 狂っ て 自殺 し た と 書い た 新聞 が ある と いっ て 教え て くれ まし た 。 忙しい ので 、 ほとんど 新聞 を 読む 暇 が なかっ た 私 は 、 まるで そうした 方面 の 知識 を 欠い て い まし た が 、 腹の中 で は 始終 気 に かかっ て い た ところ でし た 。 私 は 何 より も 宅 の もの の 迷惑 に なる よう な 記事 の 出る の を 恐れ た の です 。 ことに 名前 だけ に せよ お嬢さん が 引合い に 出 たら 堪ら ない と 思っ て い た の です 。 私 は その 友人 に 外 に 何とか 書い た の は ない か と 聞き まし た 。 友人 は 自分 の 眼 に 着い た の は 、 ただ その 二 種 ぎり だ と 答え まし た 。
私 が 今 おる 家 へ 引っ越し た の は それ から 間もなく でし た 。 奥さん も お嬢さん も 前 の 所 に いる の を 厭 がり ます し 、 私 も その 夜 の 記憶 を 毎晩 繰り返す の が 苦痛 だっ た ので 、 相談 の 上 移る 事 に 極め た の です 。
移っ て 二 カ月 ほど し て から 私 は 無事 に 大学 を 卒業 し まし た 。 卒業 し て 半年 も 経た ない うち に 、 私 は とうとう お嬢さん と 結婚 し まし た 。 外側 から 見れ ば 、 万事 が 予期 通り に 運ん だ の です から 、 目出度 と いわ なけれ ば なり ませ ん 。 奥さん も お嬢さん も いかにも 幸福 らしく 見え まし た 。 私 も 幸福 だっ た の です 。 けれども 私 の 幸福 に は 黒い 影 が 随 い て い まし た 。 私 は この 幸福 が 最後 に 私 を 悲しい 運命 に 連れ て 行く 導火 線 で は なかろ う か と 思い まし た 。
結婚 し た 時 お嬢さん が 、 —— もう お嬢さん で は あり ませ ん から 、 妻 と いい ます 。 —— 妻 が 、 何 を 思い出し た の か 、 二 人 で K の 墓参り を しよ う と いい 出し まし た 。 私 は 意味 も なく ただ ぎょっと し まし た 。 どうして そんな 事 を 急 に 思い立っ た の か と 聞き まし た 。 妻 は 二 人 揃っ て お参り を し たら 、 K が さぞ 喜ぶ だろ う という の です 。 私 は 何事 も 知ら ない 妻 の 顔 を しけ じ け 眺め て い まし た が 、 妻 から なぜ そんな 顔 を する の か と 問わ れ て 始め て 気が付き まし た 。
私 は 妻 の 望み 通り 二 人 連れ立っ て 雑司ヶ谷 へ 行き まし た 。 私 は 新しい K の 墓 へ 水 を かけ て 洗っ て やり まし た 。 妻 は その 前 へ 線香 と 花 を 立て まし た 。 二 人 は 頭 を 下げ て 、 合掌 し まし た 。 妻 は 定め て 私 と いっしょ に なっ た 顛末 を 述べ て K に 喜ん で もらう つもり でし たろ う 。 私 は 腹の中 で 、 ただ 自分 が 悪かっ た と 繰り返す だけ でし た 。
その 時 妻 は K の 墓 を 撫で て み て 立派 だ と 評し て い まし た 。 その 墓 は 大した もの で は ない の です けれども 、 私 が 自分 で 石屋 へ 行っ て 見立て たり し た 因縁 が ある ので 、 妻 は とくに そう いい たかっ た の でしょ う 。 私 は その 新しい 墓 と 、 新しい 私 の 妻 と 、 それから 地面 の 下 に 埋め られ た K の 新しい 白骨 と を 思い 比べ て 、 運命 の 冷罵 を 感ぜ ず に は い られ なかっ た の です 。 私 は それ 以後 決して 妻 と いっしょ に K の 墓参り を し ない 事 に し まし た 。
「 私 の 亡友 に対する こうした 感じ は いつ まで も 続き まし た 。 実は 私 も 初め から それ を 恐れ て い た の です 。 年来 の 希望 で あっ た 結婚 すら 、 不安 の うち に 式 を 挙げ た と いえ ば いえ ない 事 も ない でしょ う 。 しかし 自分 で 自分 の 先 が 見え ない 人間 の 事 です から 、 ことに よる と あるいは これ が 私 の 心持 を 一転 し て 新しい 生涯 に 入る 端緒 に なる かも 知れ ない と も 思っ た の です 。 ところが いよいよ 夫 として 朝夕 妻 と 顔 を 合せ て みる と 、 私 の 果敢ない 希望 は 手厳しい 現実 の ため に 脆く も 破壊 さ れ て しまい まし た 。 私 は 妻 と 顔 を 合せ て いる うち に 、 卒然 K に 脅かさ れる の です 。 つまり 妻 が 中間 に 立っ て 、 K と 私 を どこ まで も 結び付け て 離さ ない よう に する の です 。 妻 の どこ に も 不足 を 感じ ない 私 は 、 ただ この 一 点 において 彼女 を 遠ざけ た がり まし た 。 すると 女 の 胸 に は すぐ それ が 映り ます 。 映る けれども 、 理由 は 解ら ない の です 。 私 は 時々 妻 から なぜ そんなに 考え て いる の だ とか 、 何 か 気に入ら ない 事 が ある の だろ う とかいう 詰問 を 受け まし た 。 笑っ て 済ませる 時 は それ で 差支え ない の です が 、 時に よる と 、 妻 の 癇 も 高じ て 来 ます 。 しまいに は 「 あなた は 私 を 嫌っ て いらっしゃる ん でしょ う 」 とか 、 「 何でも 私 に 隠し て いらっしゃる 事 が ある に 違い ない 」 とかいう 怨言 も 聞か なく て は なり ませ ん 。 私 は その たび に 苦しみ まし た 。
私 は 一層 思い切っ て 、 ありのまま を 妻 に 打ち明けよ う と し た 事 が 何 度 も あり ます 。 しかし いざ という 間際 に なる と 自分 以外 の ある 力 が 不意 に 来 て 私 を 抑え 付ける の です 。 私 を 理解 し て くれる あなた の 事 だ から 、 説明 する 必要 も ある まい と 思い ます が 、 話す べき 筋 だ から 話し て おき ます 。 その 時分 の 私 は 妻 に対して 己 れ を 飾る 気 はまる で なかっ た の です 。 もし 私 が 亡友 に対する と 同じ よう な 善良 な 心 で 、 妻 の 前 に 懺悔 の 言葉 を 並べ た なら 、 妻 は 嬉し涙 を こぼし て も 私 の 罪 を 許し て くれ た に 違い ない の です 。 それ を あえて し ない 私 に 利害 の 打算 が ある はず は あり ませ ん 。 私 は ただ 妻 の 記憶 に 暗黒 な 一 点 を 印する に 忍び なかっ た から 打ち明け なかっ た の です 。 純白 な もの に 一 雫 の 印 気 で も 容赦 なく 振り掛ける の は 、 私 にとって 大変 な 苦痛 だっ た の だ と 解釈 し て 下さい 。
一 年 経っ て も K を 忘れる 事 の でき なかっ た 私 の 心 は 常に 不安 でし た 。 私 は この 不安 を 駆逐 する ため に 書物 に 溺れよ う と 力め まし た 。 私 は 猛烈 な 勢 を もっ て 勉強 し 始め た の です 。 そうして その 結果 を 世の中 に 公 に する 日 の 来る の を 待ち まし た 。 けれども 無理 に 目的 を 拵え て 、 無理 に その 目的 の 達せ られる 日 を 待つ の は 嘘 です から 不愉快 です 。 私 は どうしても 書物 の なか に 心 を 埋め て い られ なく なり まし た 。 私 は また 腕組み を し て 世の中 を 眺め だし た の です 。
妻 は それ を 今日 に 困ら ない から 心 に 弛み が 出る の だ と 観察 し て い た よう でし た 。 妻 の 家 に も 親子 二 人 ぐらい は 坐っ て い て どう かこう か 暮し て 行ける 財産 が ある 上 に 、 私 も 職業 を 求め ない で 差支え の ない 境遇 に い た の です から 、 そう 思わ れる の も もっとも です 。 私 も 幾分 か スポイル さ れ た 気味 が あり ましょ う 。 しかし 私 の 動か なく なっ た 原因 の 主 な もの は 、 全く そこ に は なかっ た の です 。 叔父 に 欺か れ た 当時 の 私 は 、 他 の 頼み に なら ない 事 を つくづく と 感じ た に は 相違 あり ませ ん が 、 他 を 悪く 取る だけ あっ て 、 自分 は まだ 確か な 気 が し て い まし た 。 世間 は どう あろ う と も この 己 は 立派 な 人間 だ という 信念 が どこ か に あっ た の です 。 それ が K の ため に 美事 に 破壊 さ れ て しまっ て 、 自分 も あの 叔父 と 同じ 人間 だ と 意識 し た 時 、 私 は 急 に ふらふら し まし た 。 他 に 愛想 を 尽かし た 私 は 、 自分 に も 愛想 を 尽かし て 動け なく なっ た の です 。
「 書物 の 中 に 自分 を 生埋め に する 事 の でき なかっ た 私 は 、 酒 に 魂 を 浸し て 、 己 れ を 忘れよ う と 試み た 時期 も あり ます 。 私 は 酒 が 好き だ と は いい ませ ん 。 けれども 飲め ば 飲める 質 でし た から 、 ただ 量 を 頼み に 心 を 盛り潰そ う と 力め た の です 。 この 浅薄 な 方便 は しばらく する うち に 私 を なお 厭世 的 に し まし た 。 私 は 爛酔 の 真最中 に ふと 自分 の 位置 に 気が付く の です 。 自分 は わざと こんな 真似 を し て 己 れ を 偽っ て いる 愚物 だ という 事 に 気が付く の です 。 すると 身 振 い と共に 眼 も 心 も 醒め て しまい ます 。 時 に は いくら 飲ん で も こうした 仮装 状態 に さえ 入り込め ない で むやみ に 沈ん で 行く 場合 も 出 て 来 ます 。 その 上 技巧 で 愉快 を 買っ た 後 に は 、 きっと 沈鬱 な 反動 が ある の です 。 私 は 自分 の 最も 愛し て いる 妻 と その 母親 に 、 いつ でも そこ を 見せ なけれ ば なら なかっ た の です 。 しかも 彼ら は 彼ら に 自然 な 立場 から 私 を 解釈 し て 掛り ます 。
妻 の 母 は 時々 気 拙い 事 を 妻 に いう よう でし た 。 それ を 妻 は 私 に 隠し て い まし た 。 しかし 自分 は 自分 で 、 単独 に 私 を 責め なけれ ば 気 が 済まなかっ た らしい の です 。 責める と いっ て も 、 決して 強い 言葉 で は あり ませ ん 。 妻 から 何 か いわ れ た ため に 、 私 が 激 し た 例 は ほとんど なかっ た くらい です から 。 妻 は たびたび どこ が 気に入ら ない の か 遠慮なく いっ て くれ と 頼み まし た 。 それから 私 の 未来 の ため に 酒 を 止めろ と 忠告 し まし た 。 ある 時 は 泣い て 「 あなた は この 頃 人間 が 違っ た 」 と いい まし た 。 それだけ なら まだ いい の です けれども 、 「 K さん が 生き て い たら 、 あなた も そんなに は なら なかっ た でしょ う 」 という の です 。 私 は そう かも 知れ ない と 答え た 事 が あり まし た が 、 私 の 答え た 意味 と 、 妻 の 了解 し た 意味 と は 全く 違っ て い た の です から 、 私 は 心 の うち で 悲しかっ た の です 。 それでも 私 は 妻 に 何事 も 説明 する 気 に は なれ ませ ん でし た 。
私 は 時々 妻 に 詫 まり まし た 。 それ は 多く 酒 に 酔っ て 遅く 帰っ た 翌日 の 朝 でし た 。 妻 は 笑い まし た 。 あるいは 黙っ て い まし た 。 たま に ぽろぽろ と 涙 を 落す 事 も あり まし た 。 私 は どっち に し て も 自分 が 不愉快 で 堪ら なかっ た の です 。 だから 私 の 妻 に 詫 まる の は 、 自分 に 詫 まる の と つまり 同じ 事 に なる の です 。 私 は しまいに 酒 を 止め まし た 。 妻 の 忠告 で 止め た と いう より 、 自分 で 厭 に なっ た から 止め た といった 方 が 適当 でしょ う 。
酒 は 止め た けれども 、 何 も する 気 に は なり ませ ん 。 仕方 が ない から 書物 を 読み ます 。 しかし 読め ば 読ん だ なり で 、 打ち 遣っ て 置き ます 。 私 は 妻 から 何 の ため に 勉強 する の か という 質問 を たびたび 受け まし た 。 私 は ただ 苦笑 し て い まし た 。 しかし 腹 の 底 で は 、 世の中 で 自分 が 最も 信愛 し て いる たった 一 人 の 人間 すら 、 自分 を 理解 し て い ない の か と 思う と 、 悲しかっ た の です 。 理解 さ せる 手段 が ある のに 、 理解 さ せる 勇気 が 出せ ない の だ と 思う と ますます 悲しかっ た の です 。 私 は 寂寞 でし た 。 どこ から も 切り離さ れ て 世の中 に たった 一 人 住ん で いる よう な 気 の し た 事 も よく あり まし た 。
同時に 私 は K の 死因 を 繰り返し 繰り返し 考え た の です 。 その 当座 は 頭 が ただ 恋 の 一 字 で 支配 さ れ て い た せい で も あり ましょ う が 、 私 の 観察 は むしろ 簡単 で しかも 直線 的 でし た 。 K は 正しく 失恋 の ため に 死ん だ もの と すぐ 極め て しまっ た の です 。 しかし 段々 落ち 付い た 気分 で 、 同じ 現象 に 向っ て みる と 、 そう 容易く は 解決 が 着か ない よう に 思わ れ て 来 まし た 。 現実 と 理想 の 衝突 、 —— それでも まだ 不充分 でし た 。 私 は しまいに K が 私 の よう に たった 一 人 で 淋しくっ て 仕方 が なくなっ た 結果 、 急 に 所 決し た の で は なかろ う か と 疑い 出し まし た 。 そうして また 慄 と し た の です 。 私 も K の 歩い た 路 を 、 K と 同じ よう に 辿っ て いる の だ という 予覚 が 、 折々 風 の よう に 私 の 胸 を 横 過り 始め た から です 。
「 その 内妻 の 母 が 病気 に なり まし た 。 医者 に 見せる と 到底 癒 ら ない という 診断 でし た 。 私 は 力 の 及ぶ かぎり 懇切 に 看護 を し て やり まし た 。 これ は 病人 自身 の ため で も あり ます し 、 また 愛する 妻 の ため で も あり まし た が 、 もっと 大きな 意味 から いう と 、 ついに 人間 の ため でし た 。 私 は それ まで に も 何 か し たくっ て 堪ら なかっ た の だ けれども 、 何 も する 事 が でき ない ので やむをえ ず 懐手 を し て い た に 違い あり ませ ん 。 世間 と 切り離さ れ た 私 が 、 始めて 自分 から 手 を 出し て 、 幾分 で も 善い 事 を し た という 自覚 を 得 た の は この 時 でし た 。 私 は 罪滅し と でも 名づけ なけれ ば なら ない 、 一種 の 気分 に 支配 さ れ て い た の です 。
母 は 死に まし た 。 私 と 妻 は たった 二 人 ぎり に なり まし た 。 妻 は 私 に 向っ て 、 これから 世の中 で 頼り に する もの は 一 人 しか なくなっ た と いい まし た 。 自分 自身 さえ 頼り に する 事 の でき ない 私 は 、 妻 の 顔 を 見 て 思わず 涙ぐみ まし た 。 そうして 妻 を 不幸 な 女 だ と 思い まし た 。 また 不幸 な 女 だ と 口 へ 出し て も いい まし た 。 妻 は なぜ だ と 聞き ます 。 妻 に は 私 の 意味 が 解ら ない の です 。 私 も それ を 説明 し て やる 事 が でき ない の です 。 妻 は 泣き まし た 。 私 が 不断 から ひねくれ た 考え で 彼女 を 観察 し て いる ため に 、 そんな 事 も いう よう に なる の だ と 恨み まし た 。
母 の 亡くなっ た 後 、 私 は できるだけ 妻 を 親切 に 取り扱っ て やり まし た 。 ただ 、 当人 を 愛し て い た から ばかり で は あり ませ ん 。 私 の 親切 に は 箇人 を 離れ て もっと 広い 背景 が あっ た よう です 。 ちょうど 妻 の 母 の 看護 を し た と 同じ 意味 で 、 私 の 心 は 動い た らしい の です 。 妻 は 満足 らしく 見え まし た 。 けれども その 満足 の うち に は 、 私 を 理解 し 得 ない ため に 起る ぼんやり し た 稀薄 な 点 が どこ か に 含ま れ て いる よう でし た 。 しかし 妻 が 私 を 理解 し 得 た に し た ところ で 、 この 物足りな さ は 増す と も 減る 気遣い は なかっ た の です 。 女 に は 大きな 人道 の 立場 から 来る 愛情 より も 、 多少 義理 を はずれ て も 自分 だけ に 集 注さ れる 親切 を 嬉し がる 性質 が 、 男 より も 強い よう に 思わ れ ます から 。
妻 は ある 時 、 男 の 心 と 女 の 心 と は どうしても ぴたり と 一つ に なれ ない もの だろ う か と いい まし た 。 私 は ただ 若い 時 なら なれる だろ う と 曖昧 な 返事 を し て おき まし た 。 妻 は 自分 の 過去 を 振り返っ て 眺め て いる よう でし た が 、 やがて 微か な 溜息 を 洩らし まし た 。
私 の 胸 に は その 時分 から 時々 恐ろしい 影 が 閃き まし た 。 初め は それ が 偶然 外 から 襲っ て 来る の です 。 私 は 驚き まし た 。 私 は ぞっと し まし た 。 しかし しばらく し て いる 中 に 、 私 の 心 が その 物凄い 閃き に 応ずる よう に なり まし た 。 しまいに は 外 から 来 ない でも 、 自分 の 胸 の 底 に 生れ た 時 から 潜ん で いる ものの ごとく に 思わ れ 出し て 来 た の です 。 私 は そうした 心持 に なる たび に 、 自分 の 頭 が どうか し た の で は なかろ う か と 疑っ て み まし た 。 けれども 私 は 医者 に も 誰 に も 診 て もらう 気 に は なり ませ ん でし た 。
私 は ただ 人間 の 罪 という もの を 深く 感じ た の です 。 その 感じ が 私 を K の 墓 へ 毎月 行か せ ます 。 その 感じ が 私 に 妻 の 母 の 看護 を さ せ ます 。 そうして その 感じ が 妻 に 優しく してやれ と 私 に 命じ ます 。 私 は その 感じ の ため に 、 知ら ない 路傍 の 人 から 鞭 うた れ たい と まで 思っ た 事 も あり ます 、 こうした 階段 を 段々 経過 し て 行く うち に 、 人 に 鞭 うた れる より も 、 自分 で 自分 を 鞭 うつ べき だ という 気 に なり ます 。 自分 で 自分 を 鞭 うつ より も 、 自分 で 自分 を 殺す べき だ という 考え が 起り ます 。 私 は 仕方 が ない から 、 死ん だ 気 で 生き て 行こ う と 決心 し まし た 。
私 が そう 決心 し て から 今日 まで 何 年 に なる でしょ う 。 私 と 妻 と は 元 の 通り 仲 好く 暮し て 来 まし た 。 私 と 妻 と は 決して 不幸 で は あり ませ ん 、 幸福 でし た 。 しかし 私 の もっ て いる 一 点 、 私 に 取っ て は 容易 なら ん この 一 点 が 、 妻 に は 常に 暗黒 に 見え た らしい の です 。 それ を 思う と 、 私 は 妻 に対して 非常 に 気の毒 な 気 が し ます 。
「 死ん だ つもり で 生き て 行こ う と 決心 し た 私 の 心 は 、 時々 外界 の 刺戟 で 躍り上がり まし た 。 しかし 私 が どの 方面 か へ 切っ て 出よ う と 思い立つ や 否 や 、 恐ろしい 力 が どこ から か 出 て 来 て 、 私 の 心 を ぐいと 握り締め て 少し も 動け ない よう に する の です 。 そうして その 力 が 私 に お前 は 何 を する 資格 も ない 男 だ と 抑え 付ける よう に いっ て 聞か せ ます 。 すると 私 は その 一言 で 直ぐ たり と 萎れ て しまい ます 。 しばらく し て また 立ち上がろ う と する と 、 また 締め付け られ ます 。 私 は 歯 を 食いしばっ て 、 何で 他 の 邪魔 を する の か と 怒鳴り 付け ます 。 不可思議 な 力 は 冷やか な 声 で 笑い ます 。 自分 で よく 知っ て いる くせ に と いい ます 。 私 は またぐ たり と なり ます 。
波瀾 も 曲折 も ない 単調 な 生活 を 続け て 来 た 私 の 内面 に は 、 常に こうした 苦しい 戦争 が あっ た もの と 思っ て 下さい 。 妻 が 見 て 歯痒 がる 前 に 、 私 自身 が 何 層 倍 歯痒い 思い を 重ね て 来 た か 知れ ない くらい です 。 私 が この 牢屋 の 中 に 凝 と し て いる 事 が どうしても でき なく なっ た 時 、 また その 牢屋 を どうしても 突き破る 事 が でき なく なっ た 時 、 必竟 私 にとって 一番 楽 な 努力 で 遂行 できる もの は 自殺 より 外 に ない と 私 は 感ずる よう に なっ た の です 。 あなた は なぜ と いっ て 眼 を ※ る かも 知れ ませ ん が 、 いつも 私 の 心 を 握り締め に 来る その 不可思議 な 恐ろしい 力 は 、 私 の 活動 を あらゆる 方面 で 食い 留め ながら 、 死 の 道 だけ を 自由 に 私 の ため に 開け て おく の です 。 動か ず に いれ ば ともかく も 、 少し でも 動く 以上 は 、 その道 を 歩い て 進ま なけれ ば 私 に は 進み よう が なくなっ た の です 。
私 は 今日 に 至る まで すでに 二 、 三 度 運命 の 導い て 行く 最も 楽 な 方向 へ 進も う と し た 事 が あり ます 。 しかし 私 は いつ でも 妻 に 心 を 惹か さ れ まし た 。 そうして その 妻 を いっしょ に 連れ て 行く 勇気 は 無論 ない の です 。 妻 に すべて を 打ち明ける 事 の でき ない くらい な 私 です から 、 自分 の 運命 の 犠牲 として 、 妻 の 天寿 を 奪う など という 手荒 な 所作 は 、 考え て さえ 恐ろしかっ た の です 。 私 に 私 の 宿命 が ある 通り 、 妻 に は 妻 の 廻り合せ が あり ます 、 二 人 を 一 束 に し て 火 に 燻べる の は 、 無理 という 点 から 見 て も 、 痛ましい 極端 と しか 私 に は 思え ませ ん でし た 。
同時に 私 だけ が い なく なっ た 後 の 妻 を 想像 し て みる と いかにも 不憫 でし た 。 母 の 死ん だ 時 、 これから 世の中 で 頼り に する もの は 私 より 外 に なくなっ た といった 彼女 の 述懐 を 、 私 は 腸 に 沁み 込む よう に 記憶 さ せ られ て い た の です 。 私 は いつも 躊躇 し まし た 。 妻 の 顔 を 見 て 、 止し て よかっ た と 思う 事 も あり まし た 。 そうして また 凝 と 竦ん で しまい ます 。 そうして 妻 から 時々 物足りな そう な 眼 で 眺め られる の です 。
記憶 し て 下さい 。 私 は こんな 風 に し て 生き て 来 た の です 。 始め て あなた に 鎌倉 で 会っ た 時 も 、 あなた と いっしょ に 郊外 を 散歩 し た 時 も 、 私 の 気分 に 大した 変り は なかっ た の です 。 私 の 後ろ に は いつ でも 黒い 影 が 括 ッ 付い て い まし た 。 私 は 妻 の ため に 、 命 を 引きずっ て 世の中 を 歩い て い た よう な もの です 。 あなた が 卒業 し て 国 へ 帰る 時 も 同じ 事 でし た 。 九月 に なっ たら また あなた に 会お う と 約束 し た 私 は 、 嘘 を 吐い た の で は あり ませ ん 。 全く 会う 気 で い た の です 。 秋 が 去っ て 、 冬 が 来 て 、 その 冬 が 尽き て も 、 きっと 会う つもり で い た の です 。
すると 夏 の 暑い 盛り に 明治天皇 が 崩御 に なり まし た 。 その 時 私 は 明治 の 精神 が 天皇 に 始まっ て 天皇 に 終っ た よう な 気 が し まし た 。 最も 強く 明治 の 影響 を 受け た 私 ども が 、 その後 に 生き残っ て いる の は 必竟 時勢 遅れ だ という 感じ が 烈しく 私 の 胸 を 打ち まし た 。 私 は 明白 さま に 妻 に そう いい まし た 。 妻 は 笑っ て 取り合い ませ ん でし た が 、 何 を 思っ た もの か 、 突然 私 に 、 では 殉死 で も し たら よ か ろうと 調 戯 い まし た 。
「 私 は 殉死 という 言葉 を ほとんど 忘れ て い まし た 。 平生 使う 必要 の ない 字 だ から 、 記憶 の 底 に 沈ん だ まま 、 腐れ かけ て い た もの と 見え ます 。 妻 の 笑 談 を 聞い て 始め て それ を 思い出し た 時 、 私 は 妻 に 向っ て もし 自分 が 殉死 する なら ば 、 明治 の 精神 に 殉死 する つもり だ と 答え まし た 。 私 の 答え も 無論 笑 談 に 過ぎ なかっ た の です が 、 私 は その 時 何だか 古い 不要 な 言葉 に 新しい 意義 を 盛り 得 た よう な 心持 が し た の です 。
それから 約 一 カ月 ほど 経ち まし た 。 御大 葬 の 夜 私 は いつも の 通り 書斎 に 坐っ て 、 相 図 の 号砲 を 聞き まし た 。 私 に は それ が 明治 が 永久 に 去っ た 報知 の ごとく 聞こえ まし た 。 後で 考える と 、 それ が 乃木 大将 の 永久 に 去っ た 報知 に も なっ て い た の です 。 私 は 号外 を 手 に し て 、 思わず 妻 に 殉死 だ 殉死 だ と いい まし た 。
私 は 新聞 で 乃木 大将 の 死ぬ 前 に 書き残し て 行っ た もの を 読み まし た 。 西南 戦争 の 時 敵 に 旗 を 奪 られ て 以来 、 申し訳 の ため に 死の う 死の う と 思っ て 、 つい 今日 まで 生き て い た という 意味 の 句 を 見 た 時 、 私 は 思わず 指 を 折っ て 、 乃木 さん が 死ぬ 覚悟 を し ながら 生きながらえ て 来 た 年月 を 勘定 し て 見 まし た 。 西南 戦争 は 明治 十 年 です から 、 明治 四 十 五 年 まで に は 三 十 五 年 の 距離 が あり ます 。 乃木 さん は この 三 十 五 年 の 間 死の う 死の う と 思っ て 、 死ぬ 機会 を 待っ て い た らしい の です 。 私 は そういう 人 に 取っ て 、 生き て い た 三 十 五 年 が 苦しい か 、 また 刀 を 腹 へ 突き立て た 一 刹那 が 苦しい か 、 どっち が 苦しい だろ う と 考え まし た 。
それから 二 、 三 日 し て 、 私 は とうとう 自殺 する 決心 を し た の です 。 私 に 乃木 さん の 死ん だ 理由 が よく 解ら ない よう に 、 あなた に も 私 の 自殺 する 訳 が 明らか に 呑み込め ない かも 知れ ませ ん が 、 もし そう だ と する と 、 それ は 時勢 の 推移 から 来る 人間 の 相違 だ から 仕方 が あり ませ ん 。 あるいは 箇人 の もっ て 生れ た 性格 の 相違 といった 方 が 確か かも 知れ ませ ん 。 私 は 私 の できる 限り この 不可思議 な 私 という もの を 、 あなた に 解ら せる よう に 、 今 まで の 叙述 で 己 れ を 尽し た つもり です 。
私 は 妻 を 残し て 行き ます 。 私 が い なく なっ て も 妻 に 衣食住 の 心配 が ない の は 仕合せ です 。 私 は 妻 に 残酷 な 驚 怖 を 与える 事 を 好み ませ ん 。 私 は 妻 に 血 の 色 を 見せ ない で 死ぬ つもり です 。 妻 の 知ら ない 間 に 、 こっそり この世 から い なく なる よう に し ます 。 私 は 死ん だ 後 で 、 妻 から 頓死 し た と 思わ れ たい の です 。 気 が 狂っ た と 思わ れ て も 満足 な の です 。
私 が 死の う と 決心 し て から 、 もう 十 日 以上 に なり ます が 、 その 大 部分 は あなた に この 長い 自叙伝 の 一節 を 書き残す ため に 使用 さ れ た もの と 思っ て 下さい 。 始め は あなた に 会っ て 話 を する 気 で い た の です が 、 書い て みる と 、 かえって その 方 が 自分 を 判然 描き出す 事 が でき た よう な 心持 が し て 嬉しい の です 。 私 は 酔 興 に 書く の で は あり ませ ん 。 私 を 生ん だ 私 の 過去 は 、 人間 の 経験 の 一部分 として 、 私 より 外 に 誰 も 語り 得る もの は ない の です から 、 それ を 偽り なく 書き残し て 置く 私 の 努力 は 、 人間 を 知る 上 において 、 あなた にとって も 、 外 の 人 にとって も 、 徒労 で は なかろ う と 思い ます 。 渡辺 華山 は 邯鄲 という 画 を 描く ため に 、 死期 を 一 週間 繰り延べ た という 話 を つい 先達て 聞き まし た 。 他 から 見 たら 余計 な 事 の よう に も 解釈 でき ましょ う が 、 当人 に は また 当人 相応 の 要求 が 心 の 中 に ある の だ から やむをえ ない と も いわ れる でしょ う 。 私 の 努力 も 単に あなた に対する 約束 を 果たす ため ばかり で は あり ませ ん 。 半ば 以上 は 自分 自身 の 要求 に 動かさ れ た 結果 な の です 。
しかし 私 は 今 その 要求 を 果たし まし た 。 もう 何 に も する 事 は あり ませ ん 。 この 手紙 が あなた の 手 に 落ちる 頃 に は 、 私 は もう この世 に は い ない でしょ う 。 とくに 死ん で いる でしょ う 。 妻 は 十 日 ばかり 前 から 市ヶ谷 の 叔母 の 所 へ 行き まし た 。 叔母 が 病気 で 手 が 足り ない と いう から 私 が 勧め て やっ た の です 。 私 は 妻 の 留守 の 間 に 、 この 長い もの の 大 部分 を 書き まし た 。 時々 妻 が 帰っ て 来る と 、 私 は すぐ それ を 隠し まし た 。
私 は 私 の 過去 を 善悪 とも に 他 の 参考 に 供する つもり です 。 しかし 妻 だけ は たった 一 人 の 例外 だ と 承知 し て 下さい 。 私 は 妻 に は 何 に も 知ら せ たく ない の です 。 妻 が 己 れ の 過去 に対して もつ 記憶 を 、 なるべく 純白 に 保存 し て おい て やり たい の が 私 の 唯一 の 希望 な の です から 、 私 が 死ん だ 後 でも 、 妻 が 生き て いる 以上 は 、 あなた 限り に 打ち明け られ た 私 の 秘密 として 、 すべて を 腹の中 に しまっ て おい て 下さい 。 」
Sign up for free to join this conversation on GitHub. Already have an account? Sign in to comment