Skip to content

Instantly share code, notes, and snippets.

@takahashim
Created September 28, 2020 14:32
Show Gist options
  • Star 0 You must be signed in to star a gist
  • Fork 0 You must be signed in to fork a gist
  • Save takahashim/9089ad64cfe0989904432cb068cd9a0d to your computer and use it in GitHub Desktop.
Save takahashim/9089ad64cfe0989904432cb068cd9a0d to your computer and use it in GitHub Desktop.
(original: http://furukawablog.spaces.live.com/Blog/cns!1pmWgsL289nm7Shn7cS0jHzA!2225.entry)
(archived: https://web.archive.org/web/20061105073147/http://furukawablog.spaces.live.com/Blog/cns!1pmWgsL289nm7Shn7cS0jHzA!2225.entry)
November 04
私のマイコン遍歴、日本のパソコン30年史、その1
私がその昔、秋葉原少年だった頃(今のアキバ系とちょっと違うとは思うのだけど、まぁ普通の人から見ると同類項だったのかな?)秋葉原にはアスターインターナショナル、コンピュータLab、若松通商、ビットイン、本田通商、そして新宿のムーンベース、タンディ・ラジオシャック、御苑前のアスターインターナショナル本店などに当時のマイコン少年は毎日たむろしていたのでした。
当時はTK-80、KIM-1、SCAMP、HitachiやL-Kit16などの10万円ほどする、いわゆるワンボードマイコンが全盛期でありました。Altair、IMSAI、SOL-20、Horizon North Star、クロメムコといったS-100バスのコンピュータはテレタイプに紙テープで操作するもので50万から80万円、8インチのフロッピー・ディスクを搭載したものが100万から150万円もする時代でありました。(ご参考までに、大卒初任給は10万円ぐらいの時代のことです。)
当時浪人受験生の私にはワンボードマイコンすら高値の花で、最初に手がけたチップが6502の自作マイコンで、たまたま入手したKIM-1のメンテナンス用IOチップ(その中にシステムROMが書き込まれていた)にTTLとスタティックRAM(2102)で6502マイコンの自作とプログラミングをしていました。その頃、6502を使ったApple1の話が海外から入ってきて、日本にもその後AppleIIが当時の代理店経由で78万円という価格で日本に入ってきました。この頃は既に、私はS-100バスのIMSAI8080というマシンを海外からメールオーダーで取り寄せ組み立ててはパソコンショップで完成品として販売して次なる部品を調達する。手元には納品前のコンピュータがいつも2から3台机の上に並んでいるという状態でありました。アメリカに訪問すると飛行機代は当時東京ロスアンジェルスの往復が8万円から12万円の時代(当時1ドルは180円から240円でした)、コンピュータのキットを2台仕入れて完成した一台を店頭で販売してもらうと、航空券と自分のコンピュータがタダになるという勘定で小遣い稼ぎまくっておりました。
当時のマイコンショップも今から考えると凄い商売をしていたもので、当時のコンピュータはほとんどがリース物件で5年や10年のリースが終了すると、簿価上はタダなのでくず鉄として引き取りに行くのですが、まだ使えるコンピュータだと問題なのでハンマーで叩き壊して証拠のポラロイド写真を撮るのですが..コンピュータではなくハンマーで叩くフリだけしてそのコンピュータは中古市場なりリサイクル部品として秋葉原の店頭や路上販売で提供されていたのでありました。アルバイトでそのようなリース終了物件の引き取りに同行したことがあるのですが、米軍基地から放出されるテレタイプASR33が3000円でそれを綺麗に磨いて調整すると10万円で飛ぶように売れた時代であります。RICOH殿で販売されていたRICOM8というオフコンには入出力装置としてIBMの電動タイプがとてつもない大きさの金属机に埋め込んであり、それを丸ごと引き取って中身の電動タイプを販売すると6万円なりの価格が付くという時代でありました。
当時誕生した米国のパソコンご三家といえば、AppleII、PET、TRS-80というマシンでありまして1977年頃から順次デビューを飾ったのですが、日本のパソコンNECのPC-8001、日立のベーシックマスター、SharpのMZ80Kなどがデビューを飾る前に日本のガレージメーカーが独自に開発したパソコンがあったのです。当時のソード、アイ電子、電算などは独自のマイコンシステムを生産提供していたことは日本のパソコンの歴史に出てくる話ですが、そん隙間を縫って本当のガレージメーカーから「コスモターミナルD」という6809CPUを搭載したパーソナルコンピュータがアスターインターナショナルから販売されていました。これを企画開発した方は吉田雅夫さんという当時の有名人で、「コスモターミナルD」以前にVT1020というCRTターミナル(当時、スタートレックを遊ぶ白黒の80文字x25行の英数字が表示されるモニター+キーボード、CPUは無い)が50万円から100万円する時代に脅威の198,000円という価格でCRTターミナルを発売されていました。ガレージメーカーのことゆえタイプライタ型のキーボードを調達することもできず、TK-80に使っていたクリヤキャップを被せるキーを並べてキーボードを形成し、スペースバーの入手ができなかったので、子供のお弁当に使う箸箱を型にしてエポキシを流し込み、手作りで作成したスペースバーのターミナルを20万円弱で販売しているような時代の産物でありました。その当時、この吉田雅夫さんの工房当時(㈱ソフィアには6809のメインボード、電源、筐体がバラバラの部品で持ち込まれ夜通し半田付け、ネジ止めして月末の納品に間に合わせていました。 それが日本で最初のパソコンと言っても良いでしょう、「コスモターミナルD」でありました。その名前は、当時のアスキー編集長、吉崎氏が宇宙戦艦ヤマトのコスモクリーナーにヒントを得て名づけたという、今では某宗教でも使われている名前と全く同じ背景..という逸話であります。
私もその工房で1977年頃マイコンのイロハを勉強したのでありました。
パソコンを繋ぐことが可能なモニターTVは白黒で10万円、カラーですと30万円もする時代でしたので、サンヨーのカラーTVを購入してきて分解しTVチューナーから出力されるビデオ回路廻りにカッターで切れ目を入れて外部ビデオ入力ピンを準備する(今では黄色いビデオコネクタやS端子は当たり前のことですが、当時はビデオゲームの出力をRFモジュレーションしてTVの2chや空きchに映すというのが普通でありました。)今では数万円で高品位の液晶やCRTベースのモニターが入手できますが、当時の個人ユーザーが手にできる価格の製品はそのような背景で世の中に受け入れられていったのです。
当時大学に入学するべく予備校に通うフリをしながら、そんな人生を送っていたので大学に行っても自分の好きな領域を極めることは出来ないだろうと思っていました。その意思を決意させた一つの事件は、東大生が個人か研究費で買ったか100万はするコンピュータのキットを組み立てたのに動作しないと持ち込まれたコンピュータ..私が拝見、調査すると全ての部品がとても綺麗に瞬間接着剤で固着されており…おいおい、東大で学ぶコンピュータ・サイエンスの学生ってこのレベルのもんかいな?と思い、私は実学の道を歩こうと決意を固めたのでありました。
私自身の記憶が薄らいでいく前に、個人史も含めてパソコン黎明期の話をすこしずつアップしていきたいと思います、ご笑覧ください。
では、ふるかわでした
------
(名前なし)
山下良蔵と申します。
私は、1981年当時、USのマイクロソフトでシフトJISのデザインを担当
しました。(私はMS漢字コードと名前を付けたのですが、MSAがシフト
JISという名前を考案して、その方が通りが良くてポピュラーになりま
した。MSという私企業の名前を使ったのが敗因でしょうが。)
実務担当者として、把握している当時の状況をお伝えしようと思います。
残念なから、資料と呼べるものは残っていません。
私はシアトルでデザインをしましたが、古川さんをはじめ多くの関係者
がいらっしゃいますし、私の知らない動きもあったようですので、ここ
に記すことは、事実の一面しか伝えていないかも知れません。でも、少
なくとも私がかかわった部分に関しては事実とお考えいただいて大丈夫
と思います。(古い話なので、記憶違いが無いと保証はできませんが。)
・1981年、三菱電機のMULTI-16の開発にあたり、OSにCP/M-86を搭載す
ることになっていました。本格的に日本語をサポートすることになっ
ており、文字コードについて、OSを担当するディジタルリサーチ社と、
その上の言語などを担当するMSが協議することになりました。
私は、当時、シアトルのMSで日本各社のパソコンにBASICインタープ
リタを移植する仕事をしていました。唯一の日本人エンジニアという
ことで、文字コードを検討する仕事を担当することになりました。
・ディジタルリサーチ社にGary Kildall氏を訪問して、文字コードにつ
いて相談しましたが、Kildall氏には、日本語文字コードについてあ
まり知識がなかったため、以後、実質的に私がデザインする立場にな
りました。
・私は1980年にMSでALPS電気が製造する日本語をサポートしたオフィス
コンピュータに、MS Basicインタープリタに日本語を扱う機能を加え
てインプリメントする作業をしていました。その作業を通じて、2バ
イト文字コードをMSのBasicインタープリタで扱う場合の問題点につ
いて把握していました。
・その経験を通じ、当初は、半角カナをサポートする必要性は低いと考
えていたので、JIS X 0208の8ビット目を立ててそのままマッピング
するのが、ベースとなるMS Basic処理系に対する影響がもっとも少な
く、安全な方法と考えていました。
・JIS X 0208のようにシフトコードを使う方法は、言語処理系やスクリー
ンエディタなどの処理が煩雑になり、性能にも影響するので、避けた
いと考えました。ここで決めるのは内部コードで、必要な場合には本
来のJISコードに変換すれば良いと考えました。
初代MULTI-16は4.4MHzの8088(8ビットバス)でしたから、性能は気に
かけるべき重要な要素でした。
http://www.ipsj.or.jp/katsudou/museum/computer/4060.html
・しかし、アスキーマイクロソフトで三菱電機とのインターフェースを
していた深瀬さん(その後IIJ会長)から、半角カナをサポートする
ことが既存のデータ資産を継承する上で重要である、と強力に説得さ
れ、三菱電機から提案されていた、半角カナを避けてJIS X 0208をマッ
ピングする方式の検討を始めました。
・その後、三菱電機でこの部分に携わっていた人に聞いた話では、この
マッピング方式のオリジナルはNECのワープロだとのことです。
・深瀬さんの熱心な説得がなければ、EUCスタイルにしていたことと思
います。
・方針として、以下の点に気をつけました。
1. 既存の米国ソフトウェアに対するインパクトを最小にする。
2. JISコードを簡単なアルゴリズムでマッピングする。
3. 半角カナと共存する。
・1については、制御コードを極力排除するようにしました。1FH以下は
もちろん、7FHも。言語処理系で使う記号も極力さけるため、2バイト
目のスタートを40Hにしました。
・コード領域の末尾をFCHにした理由は、ディジタルリサーチ社が開発
していたMP/Mというマルチプログラミングをサポートする、CP/Mの後
継と予想されたOSで、タスク間の通信メッセージパケットの識別に
0FDH以降のコードが使われていたからで、MP/Mに影響を与えることを
遠慮しました。MP/Mは、結局、普及しなかったので、無駄な遠慮になっ
てしましましたが。
・しばらく試行錯誤しましたが、要件を満たしながらコード空間にうま
く収まるマッピング方法を見つけた時にはとてもうれしかったのを覚
えています。(ハサミで紙を切ってならべ方を考えていた、というのは
残念ながら覚えていません^^; どちらかというと、西さんがやりそうな
ことのように思いますが‥)
・MSの他のプロダクトについても、担当者に文字コードについての要件
についてヒアリングしました。特に想定外の意見はありませんでした。
・案をまとめて、Bill Gates氏に承認をもらうために説明しました。
Gates氏は、私が良いというのならそれで良い、とすぐに承認してく
れました。
・その案を日本にFAXすべく、Gates氏の部屋を出たところでChris
Larson氏にばったり出会いました。彼とは漢字コードについてそれま
でに何度か話し合ったことがありました。
漢字コードはこうすることに決まった、とGates氏に説明した紙を見
せたところ、彼は彼なりに考えていたようで、コードの並びはこう変
えた方が良いと提案されました。廊下での立ち話でしたが。
それまでの私の案は、JISコードをそのままマップしていたので、第
二バイトの小さい方が第一水準、大きい方が第二水準という、第一水
準、第二水準のコードが左右にならぶ形になっていましたが、彼の案
では、現在のShift JISのように上下に第一水準と第二水準の文字が
並ぶようになります。
・確かにこの方が文字コードでソートする場合などに手間が省けてスマー
トだと思ったので、Gates氏の部屋にとって返し、Larson氏の提案の
ように変えたい、と申し出たところ、私が良いというのならそれで良
い、という同じ返事でした。MS漢字コードが決まった瞬間です。
・CRT画面上、全角の空白文字と半角の空白文字2文字の区別ができない
が、見た目が同じなのに違う文字コードは避けたいので、2121Hを
2020Hにマッピングする、という話はMSAから届いていましたが、コー
ド体系の話に、そういうインプリの話を混ぜるのは筋違いだと思った
ので、断りました。JISコードの文書をシフトJISに変換し、再度JISに
戻すと、元のJISの文書と変わってしまうことになるわけですし。
・私が関与したのはここまでです。
・拡張性について難点があるのは理解していました。しかし、制御文字
領域には手を付けていないので、将来拡張が必要になるなら、シフト
コードを使ってページを切り替えるなど、いくらも方法はあるだろう
と思っていました。
5CHがまずい、というのは後からわかりましたが、残念ながら、後の祭
りでした。その問題が発覚したときに、ムッとした記憶があるので、私
としてはシフトJISコードのマッピングを知らずに、後からMS-DOSがそ
こを使ったのだと思っています。
MS漢字コードとシフトJISコードの相違点は、空白文字の扱いだけだと
思います。現在では全角空白文字を半角空白文字に変換する、という
処理は行われていないと思いますので、コード体系としてはMS漢字コー
ドがシフトJISコードという名前で使われていることになります。
開発者は誰か、という件については、三菱電機とアスキーマイクロソフ
ト、およびマイクロソフトということになると思います。三菱電機が参
考にしたというNECのコード設計者も加えるべきかとは思いますが、私
にはわかりません。
MSAは空白文字の変換を行うシフトJISコードを制定した会社、というこ
とになると思いますが、すでにその変換処理は行われていないので、現
在のシフトJISの開発者には加えられないのではないでしょうか。
空白文字を変換するシフトJISコードは、CP/Mでしか使われなかったと
思います。その後、OS分野ではMSDOSが優勢になりましたが、MSDOSでは
当初よりMS漢字コードを使っていましたし、CP/Mで動くMSのソフトも空
白文字を変換するような操作はしていなかったと思います。
MS漢字コードのデザインは、USのソフトを最小の工数で日本語を扱える
ようにできることを意図しました。オリジナルのソフトに与えるインパ
クトが少ないほど、低コスト、短期間で日本語を扱うことができるよう
にできます。
MS Basicインタープリタについては、コーディングレベルの知見を得て
いましたが、その知識をもとに設計することは、他のUSのソフトについ
ても同様の効果があると考えました。
加藤弘一さんの「ほら貝」ページに下記の記述があります。
http://www.horagai.com/www/moji/code2.htm
>  2バイト文字が全角、1バイト文字が半角だと、文字列のデータ量(バ
> イト数)と表示幅(表示桁数)が一致します。特にシフトJISですと、
> 文字集合を呼びだす隠し文字(エスケープシークェンス)がはさまりま
> せんので、文字列のバイト数=表示桁数になり、アメリカ製のソフトを
> 移植する上では工程がいくつかはぶけました。シフトJISが支持され
> た最大の理由はこれでした。真似ばかりしている黄色い猿にしては上出
> 来ですが、ケガの功名といったところでしょうか。
上出来とお褒めいただいて光栄ですが、「ケガの功名」というのはちょっ
と違うと思います。大辞林でケガの功名を引くと、
> 間違ってしたことや何気なくしたことから、偶然に好結果が生まれるこ
> と。
とありますが、好結果をねらって意図的に設計したつもりですから。
September 21 8:26 PM
小形克宏
古川様
ご返答ありがとうございます。せっかくお答えいただいたのに、私のブログで古川さんのお名前を間違えてしまい、大変失礼いたしました。古川さんに僕の原稿を読んでいただいて、うれしいです。
僕は古川さんのブログは、現代版の『高松宮日記』だと思っています。シフトJISは中国、台湾、韓国の符号化方法に大きな影響を与えました。つまり8ビットコード=アルファベット圏のものだったコンピュータの世界を、漢字使用国にも押し広げた立役者と言えると思います。その意味では、世界に誇れる日本の技術ではないでしょうか。しかし、そんなシフトJISですら、今まで誰がどうやって作ったのか、ほとんど公にされることはありませんでした。
もちろん話はシフトJISだけではありません。古川さんには、ぜひ高松宮のように歴史を動かしていた主役の一人として、80〜90年代のアスキーや、マイクロソフトの話を、もっともっと書いていただければと思います。
すいません、話はもどりますが、もう一つ質問させてください。「シフトJIS」という名称を考えたのは、どなたなのでしょうか?
December 28 11:22 PM
(http://d.hatena.ne.jp/ogwata/)
古川享(サム本人)
小形さま、コメント拝受いたしました。
私のニュアンスでも拝読した安岡さまの研究においてなんらその記述を否定するもので無いとご理解頂けることと思います。そして、小形さまの連載記事も拝見して、広い見識と探究心に関心しておりました。
自分の記憶が曖昧になってくる前にこのような機会で少しずつ過去の履歴を明らかにしていくことは自分にとっても楽しみなことです。
そうそう、入力ミスで英語の綴りが変でした、クリス・ラーソンはChris Larsonが正しい表記です。
ビルゲイツと同じレイクサイド・ハイスクールの出身でEdit80の作者ではありますが、書くコードの品質に問題ありで若くして規格屋さん、スペック屋さんとなりました。初期のWindows日本語化やマイクロソフト・ワードの日本語化にも貢献しましたが..あまりに感情の起伏が激しく実はシアトル本社から日本に島流しにあったというのが実情でもありました。
昔の逸話で、ビルゲイツと社員が夜中に車を飛ばして山の中に入り込み、キーを付けたままのブルドーザーを乗り回して遊んだ...時の相方であります。 早くして引退し、マリナーズの個人株主として最大の株式を保有し、6人か8人だかの里子をファミリーに生活をしています。
山下良蔵さんは、未だにアスキーの関連会社でケーブルTV系のソフト開発をしているとか...彼は鈴木仁志という人間と一緒にMSXのBASICも開発しています。このコーディングには、100%山下氏は関わっていましたが...Multi-16のM-BASIC86の開発はマークチェンバレンという外人マネージャを中心としたアメリカ人の部隊でした。何故、山下氏がBASICを含む漢字コード体系に関わりを持っていたかというと、アルプス電気が開発したBASIC80を漢字化した経理専用マシンにて、漢字処理が必要だったのでその開発経過で議論された漢字コードが、CP/M86用M-BASIC86、そして日本語MS-DOS1.25として採用されたのでした。(実際の出荷はMS-DOS2.0からされたメーカーも多かったです。)
アルプス電気のマシンは、ミロク経理に納入され会計士さんの専用マシン、としてミロク・コンピュータ・システムから提供されていました。
同じく漢字化されたBASICは、ソード・コンピュータシステムの16ビットマシン、ロジック・システムのiBex7000、松下通信工業のマイブレーン3000、Hitachi のMB16000などにも採用され
それが東芝のPASPIA16以前に市場で、デビューを飾っていました。
では、ふるかわでした
では、ふるかわでした
では、ふるかわでした
December 28 3:35 PM
(http://spaces.msn.com/members/furukawablog/)
小形克宏
古川さま
ご返事いただき感激しています。詳細な証言、ありがとうございます。とても興味深く読ませていただきました。
最初、いただいたメールから読んだので、もしやブログでは公開されないおつもりなのかと思いましたが、こうして公にされているのをみて安心しました。
こういうことは、人目に晒すことが大切なので、ぜひ別にエントリーをたてて、なるべく多くの人に読んでいただきたいと思います。
ひとつだけ、僕の書き方で誤解をあたえてしまったかもしれません。
安岡さんの研究は、シフトJISの搭載された製品の発売について、膨大な資料の山から地道に後付をされたものです(もちろん、ここに書かれているのはそれだけではありませんが)。逆に言えばここに書かれているのは製品の発売史だけで、開発史ではありません。これについて僕は「アスキーとマイクロソフトが開発したのは間違い」などとと、あたかもこの研究でそれが立証されているようなことを書いてしまいましたが、これは僕の勇み足であり、この研究にはそのような言及はないことを、念のため申し上げたく思います。
おっしゃるとおり「何年何月にモノが出荷されたという事実だけをトレースしたり研究しても、決して史実は見えてこない」のは確かではありますが、まずはそのような事実から先に固めなければ、なにも見えてこないことも確かだと、個人的には思っております。
したがって、古川さんの証言は、安岡さんの研究の裏付けになりこそすれ、否定するものなどではないと思いました。ともあれ、日本のコンピューター史にとって、非常に貴重な証言を得られたことを喜んでおります。どうもありがとうございました。とくにデジタルリサーチと日本IBMの狭間で苦心するあたり、手に汗握る思いで読ませていただきました。すばらしい現場におられたものですね。あらためて感服いたしました。
December 28 2:25 PM
(http://d.hatena.ne.jp/ogwata/)
古川享(サム本人)
小形さま、コメントありがとうございます。
個人メールでも返答をさしあげましたが、以下はそれをコメント欄で公開するものです。いずれ、本ブログで文章の表現など精査したうえで再録するかもしれませんが、まず取り急ぎお返事まで...
歴史的背景と技術的に何が議論され誰が関わったか、全て自分自身の目で見てきました。
誰かが、以下のような研究結果を出されているのであればそれは事実に反する勘違いであります。
>>>「アスキーとマイクロソフトが開発した」というものがあります。しかしこれは間違いであることが、ここ数年の研究で分かりました。  
事実: Multi16のBASIC(M-BASIC86)はマイクロソフトが開発し、それに関わった技術者、アスキーの山下良蔵氏、マイクロソフトのChirs Lartson氏、三菱電機の技術者(飯川氏)そしてデジタル・リサーチ技術(吉本さん)の方(当時は、MSAが代理店: http://www.msa.co.jp/company/history.html)で定義したのがShiftJISの原型です。
全てのマッピングは、アスキーの山下氏が発案し、それに対しクリス・ラーソン氏がそれに助言、飯川氏はその決定をデジタル・リサーチ側に伝える役目でした。
それがまぎれもない史実であることは、当時のマイクロソフトの本社(シアトルのNorthupにあった今のキャンバスではない前の本社ビルの廊下に256x256の升目と紙に切り抜いたブロックを紙片をずらしながら紙と鋏でマッピングの配置を山下さんが考え、それに対する助言をアスキーの西さんや、古川が求められた記憶があります。
その当時が、非常に微妙な時期であったのは、IBMPC の発表前であったものの、IBM5550への開発へ向けて従来のEBCIDIC漢字でも無い、JIS漢字でも無い漢字コードをIBMの大和開発部門に提案しなければならない時期でした。というわけで、三菱電機のMulti-16に対する提案は同時にIBMの意向も秘密裏に取り付けなければならないという責務を背負っていたのです。
当時のIBM大和のご担当は、大和研究所のトップであった丸山さん、その後マイクロソフトの社員になった道白さん、横川さんです。
MSAとデジタル・リサーチはMulti-16において、CP/M86が採用されたそしてそこで定義された漢字コードは、CP-8800のCP/M80そして、NEC N5200-05用のCP/M86として搭載されそれがShjiftJISの基礎となる提言をしたと社史に書いておられますが、
http://www.msa.co.jp/company/history.html
これもまた、疑問を感じる表現でありまして、NECのPC-8800用CP/M80のBIOS, そしてN5200-05用のBIOSはアスキーの内部の開設されたアスキー・ラボラトリーズがその開発そしてNEC殿に対する技術支援を提供しており、アスキーの山下さんとも相談しておりました。)MSAが会社としてアスキーと資本提携を解消するまでは、アスキー・マイクロソフトがCP/MとマイクロソフトBASICのライセンスをし、MSAがCP/MとMS-BASIC各言語の小売パッケージを販売するというネジレ現象があり、私はアスキーの技術担当、アスキー・マイクロソフトのライセンス営業担当副社長であり、山下良蔵氏は阪大の助教授という肩書きを持ちながら、アスキー・マイクロソフトとMSA両者の技術担当(唯一のソフトウェア技術リーダー)を兼任していたのです。
というわけで、デジタル・リサーチジャパンが独自に会社を立ち上げ、現在MPテクノロジーの吉本さんが技術のトップになる前にShiftJISの全ての規格は山下良蔵氏によって定義されていました。そこに、クリス・ラーソンが関わり(いくつかのマッピングが特定の文字コード、主にIBMPCで使用しているグラッフィック・キャラとの衝突を避けるためにさらにマッピングをずらすという助言をクリスはしているので、マイクロソフトが関わったという歴史的事実はそれで十分でしょう。)
さてMulti-16のCP/M86で最終的に採用されたコードは、デジタル・リサーチ側の抵抗にあって、ShiftJISと関係の無いものになってしまいました。
それは、スペースコードの取り扱いで、アスキー+マイクロソフトの定義では、1バイトのスペースコードは20hですが、2バイト系のスペースは別途定義したダブル幅のスペース
コードと文字データを定義するというものでしたが、デジタル・リサーチ側は2バイトの2020hで代用する、という定義を主張しました。当然ですが漢字で記述された文字列の文字数がそのやり方では2バイトスペースが2文字として計算されてしまい、データベースで文字列から文字数を計算する時、カーソル位置にてカーソルサイズを1バイト幅にするか2バイト幅にするか?画面上の文字を消去するのに1回Deleteキーを押すのか2回なのか?といった問題を引き起こすのは明快なことでした。
多分、Multi-16のCP/M86漢字コードはデジタルリサーチとMSAも関わったという事実を残しておきたいがために、2020hを採用するという独自路線を走り、三菱電機もその議論に加わりながらデジタルリサーチを説得することはできませんでした。 アスキー+マイクロソフト側はこの漢字コードをShiftJISと名付け、当時ほぼ同時に開発を進めていた東芝、日立、松下通信工業、アルプス電気、ロジック・システムズ、NEC,のMS-DOSマシン、そしてIBMの5550で全て採択されること、そしてアスキーから提供されるUNIXと当時のマイクロソフト版XENIXで採用されるということを守秘義務の観点から全てを三菱殿にもデジタル・リサーチにもお伝えしきれませんでした。
そこで。Shiift JISの定義をいち早く受領しながら、そこに2020hを独自に判断するという方言を加えてしまったゆえに、アスキーとマイクロソフトが考案しそれをMS-DOSより早く採用するというチャンスをCP/M86は自ら失ってしまったのです。そして1982年の10月に漢字化されたCP/M86がデビューしたわけですが…MSAの社長の岡田氏や、デジタリサーチの方がShiftJISの原型となる漢字コードを考案した、という予見を与えるような表現を残してしまったのです。
上記から、誰が考え、誰がそれに関わったかという事実は以上の通りです。もし、裏取りをされるのであれば、山下良蔵氏、飯川氏、クリスラーソン氏に確認されても結構ですが、多分本件に関しては私の記憶が一番明確だと思います。
実は、私自身もその当時プログラマーでPC-8001、PC-8800、PDA800、Babcom80、OKI if800、などのBIOSを私、中島聡、増川美樹、林淳二の4人で(中島、増川は大学生のバイト)アスキー・ラボラトリーズという開発部隊で開発提供しました。というわけで、8ビットのCP/M80が中心ではありましたが、NECのPC-8800漢字ボード(JISコードでマッピング)されているものをどうやって呼び出すか、といったチャレンジ、そして平行してアスキー・マイクロソフトの深瀬氏と大野氏が担当していたバークレイ版のUNIX漢字コードをどうするか?(UNIXの標準漢字コードが定まる前にはShiftJISが一時的に標準であった)その4つの動き(Multi-16用MS-BASIC86、MS-DOSの日本語化、CP/M80からCP/M86へのBIOS移植仕事、UNIXに努めたのでありました。
何年何月にモノが出荷されたという事実だけをトレースしたり研究しても、決して史実は見えてこないという良い例でしょうね。
では、ふるかわでした
P.S. 上記文章の著作権と文責は古川享にありますが、それを明記していただければ小形さんが上記文章を引用され、他の記事や書籍に公開されることはOKです。
ちょっとストーリーが長くなりすぎましたが、極一部分だけを引用して誰かの批判をしたり、喧嘩を売っているような誤解を与えるようなことが無いように心がけていただきたいと思います。
December 28 9:29 AM
(http://spaces.msn.com/members/furukawablog/)
小形克宏
こんにちは、フリーライターをやっている小形と申します。いつもこのブログを大変楽しみに読ませていただいております。
あまり本文と関係のないコメントかもしれませんが、こんなことを書いていただけないかというリクエストをしたくて、ここに書き込みます。
古川さんはシフトJISの発祥について、なにかご存知ではないでしょうか?
私自身は、文字コードについて原稿を書いている者です(http://internet.watch.impress.co.jp/www/column/ogata/sp29.htm)。シフトJISこそが日本語をパソコンに根付かせたと言ってよいと思います。しかし、この符号化方法の出自について、わかっていることはあまり多くありません。シフトJISのよく言われる「神話」として「アスキーとマイクロソフトが開発した」というものがあります。しかしこれは間違いであることが、ここ数年の研究で分かりました。
   安岡孝一「日本における最新文字コード事情(上)」 (システム/制御/情報 2001年9月号 p.4
   http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~yasuoka/publications/ISCIE2001.pdf
上記に1982年4月、三菱電機から発売の『Multi 16』上で動作したM-BASIC plusに実装されたのが初めてとあります。そして同年12月に『Multi 16』の日本語CP/M、同じ月の東芝『パソピア16』のMS-DOS ver.2.0でシフトJISが採用された、とあります。ここでは根拠として開発者による資料が挙げられていますから、事実としてはこれで動かないだろうと思われます。
では、なぜシフトJISはアスキーとマイクロソフトが開発したと巷間信じられているのか? 僕はそこに興味があります。別のエントリーで古川さんがアスキー時代、ジャストシステムに日本語ワープロ開発を依頼したことを書かれていましたね。じつは僕自身1980年代後半にアスキー大仁堂ビルで働いていたことがあり、先輩からこの頃の話を聞いたことがあります。たしか、その開発の中でシフトJISができた、というようなことを言っていたような、いなかったような……。
もしや古川さんならば、この間の事情について、何かご存知のことがあるのではないかと思い、勝手ながらこのようなコメントを投稿させていただきました。よろしければ、ご検討ください。
December 28 3:14 AM
(http://d.hatena.ne.jp/ogwata/)
川俣晶
 ずいぶん間をおいてのコメントになってしまい、失礼しました。
 最近、AJaxというあからさまなブームと、XMLデータベースという目立たない静かなブームに関わって、とても忙しいのです。(それでお金がいっぱい儲かれば言うことはないのですが、これがなかなか……)
 さて、「この当時の話は、川俣さん、まだ小学校だったのではないですか?」という件ですが、小学校高学年から中学の1~2年ぐらいまでの印象はごちゃごちゃになっていて定かではありませんが。最初にマイコンの本を読んだのは小学生の頃で間違いないと思います。
 ちなみに、小学生の頃は、電子工作少年→アマチュア無線少年という進化の途上にありました。そこで最初に感じたマイコンの魅力というのは「凄い電子ブロック」です。
 つまり、お小遣いも僅かな子供からすれば、電子工作をやろうにも電子部品を買うお金が足りません。そこで、同じ部品を使い回せる電子ブロックというのは素晴らしい存在だったわけです。しかし、電子ブロックで実現できる機能などたかが知れています。せいぜいフリップフロップ相当の機能を組むのが限界。それと比べて、マイコンというのはプログラムを入れ替えれば、いろいろ複雑な機能を持たせられるので、とても強い興味を持っていました。
 (部品を買う金がないという対策としては、捨ててある電子機器を拾ってきて部品を取るというのもやっていました。しかし、世代が古すぎて抵抗やコンデンサは何とかなってもトランジスタは無理でした)
 ちなみに、自作した8080Aマシンのメモリの件は少し思い出してきました。たぶん2101のCMOS版のμPD5101(TK-80で使っていたもの)です。バッテリバックアップしようと目論んでCMOSにしたものの、結局そのための回路までは作らなかったような気がします。
 MB8861とは懐かしい。NECも独自拡張命令付きの8080を作っていましたね。そういう改良はけして悪いことではないと思います。私は面白い時代だったと思います。その時代のことを思うと、Webブラウザに独自拡張の機能があるのがイカンというような最近の風潮には賛成できません。Webブラウザが非互換であるということを前提にするAjaxが大好きなのは、まさにCPUに独自命令を追加したり、BASICに独自命令を追加するような時代の再来のように感じられるからです。
 さて、「きっとこの手のディープな話を知っている人、面白いと思う人は日本に100人もいないと思うので、今日はここらで止めにしておきます」というところですが、確かに100人もいないかもしれませんね。TTYでマイコンを使うという発想は、秋葉原に集うマニアの感覚の外にあります。
 とはいえ、そのことはあまり重大な問題だとは認識していません。この話題については、その100人以外の人が読んだ場合、自分には関係ない話題だとすぐ分かるからです。昔話で困るのは、「自分に関係ある」と誤認されることです。たとえば、昔の小さなBASICの話を始めたときに、「そうそう。MSX懐かしいな。ベーマガ(ベーシックマガジン)買ってたよ」というリアクションをもらうと、とても困るのです (汗。
November 14 12:49 PM
(http://mag.autumn.org/)
rikachanmama
予備校の。。。という部分に惹かれて?出てまいりました。
つい先日、古川さんの中高の際のH先生(現在、副教頭ですよね。)とお話していたときに、古川さんのお話をお聞きしたばかりでした。強烈に思い出深い生徒の1人だということでした。OSTでお見かけすることなくなり、少しさびしい気持ちです。
yokoyamaさんの会社のデスクにあった、電子立国で古川さんのお話を読んだ一人としては、このブログのコメント欄でyokoyamaさんのお名前も発見し、うれしいです。二人目の子供が生まれ、一人目は小学校に入学、VとPでがんばってます!
November 08 8:24 PM
(http://spaces.msn.com/members/rikamama/)
古川享(サム本人)
川俣さん、みなさんコメントありがとうございます。
この当時の話は、川俣さん、まだ小学校だったのではないですか?新宿のムーンベースあたりに出没していたマイコン少年だったのかな?
KIM-1は、他のワンボードマイコンのほとんどがシリアルポートそのままか、RS-232Cインターフェイスを持っている中で、唯一TTY(テレタイプ20mAカレントループ)インターフェイスを標準実装していました。もちろんLED日の字型セグメントと16進キーでちょっとしたプログラムを書くこともできましたが、8Kbの拡張メモリを搭載するとテレタイプから紙テープで提供されたマイクロソフト7Kb 6502BASICを即実行できました。このBASICはAppleIIの6KBASICの前にKIM-1およびSYM-1用にマイクロソフトで開発されJohnson Computer からレリースされたものです。KIM-1は日本で完成品119800円(CPUクロック1MHz+8KbRAM、多分今なら3000円くらいか?)。20mAカレントループには何を繋いでも20mAしか流れないのだろうと、TTYインターフェイスに100VのACラインを繋いだ東大生がKIM-1のボードに2cmぐらいの銃弾が貫通したような穴を開けて修理に持ち込まれました。それを修理するときに予備で入手したMOSTechnologyの6520カスタム(MC6820のカスタム)にシリアルポート、タイマー、システムROMを40ピンのチップ2本に焼きこんだものが本ブログで紹介したモノです。
MEK6800DMkIIには、ブルーと白の16進キーLEDで直接プログラミングができました。このボードには6830L2/MINIBUG MIKBUGというシステムモニターROMが乗っており、多くの6800ユーザーのお手本となったものです。コスモターミナルDのシステムROMもこれまたMIKBUGの多くのファンクションを踏襲していました。
記憶が甦ってきました。「コスモターミナルD」は、6809ではなく、6800でもなく、
富士通のMB8861という6800互換のCPUで命令が5つ追加されたモノを使っておりました。
白いセラミックで、モトローラ製のMC6800に比べてトラブルも少なく安定しておりました。
システムROMには多くのPROMが3電源を必要としたのに単一5Vで運用可能な富士通製PROMを使用していました。 IOにはMC6820ではなく、富士通の互換チップMB8862が使われていました。
2102は1bitx1024のチップですので最低8本は必要、当時は4ビットx256系のスタティックRAM2111やTK-80AやH68/TRで使用された2114がありました。当時は8KbのRAMカードが6万円、32Kbが20万円、64KbのダイナミックRAMカードが30万円の時代でした。
私も6502ワンチップ、6800系コスモターミナルD、SWTPC6800、Z80ベースのクロメムコS-100バスCPU,同じくZ80ベースのコスモターミナルDMkIIへと続くのですが、PC-8001の段階では趣味の世界からお仕事に突入してしまいました。が6502->6800(09ではなく)->Z80とウロウロしていました。
では、ふるかわでした
P.S. きっとこの手のディープな話を知っている人、面白いと思う人は日本に100人もいないと思うので、今日はここらで止めにしておきます。失礼しました。
November 05 4:56 PM
(http://spaces.msn.com/members/furukawablog/)
_RyuichiMiyamoto_
スゴすぎます。
闇市のような商売・・・・しかし、収益率いいですね(笑)
じつは、カミングアウトしてしまいますが、似たようなことをやったことが・・・・あははは。
十数年前、PHSが日本で導入され始めた頃のお話です。
オイラは、まだ某メーカーに在籍しておりました。
技術上がりの技術企画部兼国内商品企画部に特命で移動したときに、
ちょうど旧称パルディオの名称で「みかか」様向けの納入を開始。
もちろん、タダ配り様の廉価モデルゆえ、量販店からの良品返品がたくさんありました。
最初の頃は、産廃として廃棄していたのです。
ときに、タイでPHSが導入されることになり現地コンソーシアムのメンバーになったオイラは、
規格がほぼ日本と一緒ということになり、会社として参入を表明。
まあ、会社のビジネスにはならなかったんですが、量販からの良品返品の端末を
バラバラにしてリサイクルバルクとしてタイに持ち込みました。
当時、バンコクに友達が住んでいましたので、その家に居候して組み立てなおして
某電脳街ビルに持ち込んで卸商いです。日本円にして1台4万円くらいで売れたと
記憶しています。30台持ち込んだ・・・うししし。それを3回くらい繰り返して、アメリカから
Gateway2000を直輸入、オーストラリアとインドに旅行にいく費用となりました。
あははは・・・・・もう時効ですな。
November 05 11:00 AM
(http://spaces.msn.com/members/ryuichiblog/)
川俣晶
 なに~~~~!?
 「米軍基地から放出されるテレタイプASR33が3000円でそれを綺麗に磨いて調整すると10万円」だって!?
 あれが高すぎて買えないために、TTY前提の初期の米国製ワンボードマイコン類は購入候補から落とさなければならなかったのに!
 原価はそんなに安かったのか!
 いや、当時はお子様ですので、それが3000円でもワンボードマイコンは容易には買えなかったのですが……。ASR33が高くて、机上の空論の購入計画からも落ちていたのです (汗。
 以上が話題の99%です。以下余談。
 まあ、KIM-1やMEK6800D2あたりは、TTYなしで動いたので購入候補になっていましたが……。
 特にKIM-1は日本でも比較的安く売っていて、魅力を感じさせるマシンでした。それのシステムROMが入ったチップが入手できるとは知りませんでした。
 2102も懐かしいですね。乏しい記憶を探ると、残念ながら2102は使ったことがないのです。8080Aで自作した時は、別の石をメモリに使ったはずですが、番号を忘れてしまいました! (残念)
 本文中の"Hitachi"はH68/TRのことでしょうか? それは持っています。これのメモリは2114なのですよね。パラレルI/Oのチップは6820が乗っていますが、昔話で6820の話をすると浮きます。みんな6821しか知らないので。
 ところで、SC/MP(SCAMP)は、ケースに入ったCOMKIT-8060のあたりではなく、ニブルBASICが乗ったワンボードのタイプの方ですか? (そういうものがあったような微かな記憶が……)。SC/MP-IIではなく、SC/MP-Iの方だと私には分からない可能性もあります。
 もう1つ、コスモターミナルDは6809ではなく、6800ではないでしょうか?
 ちなみに、マイマシンの遍歴は、自作(自設計)8080A→H68/TR→PC-8001→……と80系と68系を行ったり来たりしていますが、68系とは6800だと信じていて、6809や68000は邪道だと思っています (笑。(あの制約が多くて使えない命令セットを使いこなさずに、68の何が面白いのか!!)。なので、6800ファンとしては、6800と6809の違いは気になるのです (笑。
 もう1つ。テレビの改造の話題は懐かしいですね。自分では実行していませんが、直接ビデオ信号を入れるとか、4.5MHzの音声トラップを外すとか、そういう改造の話題はよく覚えています。
November 05 10:32 AM
(http://mag.autumn.org/)
guest
超有名大学卒博士への辛い思い出。
高校卒にとっては、研究所の下請研究するのは非常に辛い。
例えば、どこの国でも半導体の試作は、その国の産業の命運を担うほどの
重要産業であり、研究者の為に、試験装置を設計製作する作業は
職人芸となり、個人レベルでしか取り組めない。
この分野の試験装置は、金が掛かるから、補助金や助成が絡む(けっこう巨額)、
企画、設計、製作マネジメント、試験、研究リポートの代筆、後処理(会計)等を
含め、この分野に携わる博士への研究下請けサービス(これもどうかと思うけど)を
中小零細企業の実務的高卒者が行うことが多い。
通常、各省庁がからむこの手の補助は、全額が支払われることはなく、
大企業レベルで事前に見積もれれた、金額の**%が支払われる
契約に基づき、研究所が若干を抜いて、中小下請へ研究が投げられる。
だから、補助なり助成なりされる予定の研究開発費はもともと、金額が
少ない(*千万円以上だけれど)上に、研究所が抜くから、いくら中小零細
企業と言えども、再三は合わないのであり、仕方なく辞退見積もりとして
提出する。しかし、ことは、これでは収まらない。
学会の発表は、所轄省庁から要請されているから、発表が事前申請されて
いれば、なにがなんでも、どこかへ、頼まねばならない。設計図すら読めない
博士レベルに実務的進行は不可能なのだ。
そうすると、ありとあらゆるレベルから圧力を掛けて、補助金なり、助成金の
範囲内で下請研究をやらせよとする。社長にさえ圧力が大企業から掛けられる。
プロジェクトが終ってみれば、間違い無く巨額な赤字は発生し、プロジェクト担当
研究推進者が全責任を取るハメになる。
あまりにバカバカしすぎて、いい機会だと思い、辞表を出したことは言うまでもない。
僕で3人目の辞任だと、後日に気付いた。 
利口な人の頭の計算がよく解らない。
November 05 9:05 AM
(http://blogs.yahoo.co.jp/ya1428/MYBLOG/yblog.html)
mnr
古川さま、返事していただきありがとうございます。
それにしても、昔の計算機はとても高価だったのですね。
いろいろな貴重な話、もっとたくさん聞きたいです。
これから、よろしくお願いいたします。^-^
November 05 2:18 AM
(http://mnr.mint.cx/)
古川享(サム本人)
mnrさま、ご指摘ありがとうございます。
本件は既に本文を、「テレタイプ」修正させていただきました。
では、ふるかわでした
P.S.あれ、一貫性のないことでごめなさい。
November 04 6:11 PM
(http://spaces.msn.com/members/furukawablog/)
mnr
いつもたのしく読ませていただいております。
米軍から放出される「テレタイぷ」、という
最後の文字が誤字になってます。
November 04 4:23 PM
(http://mnr.mint.cx/)
古川享(サム本人)
Yokoyamaさま、コメントありがとうございます。
そうでした、SC/MPと書いてスキャンプと読むのでありました。ご指摘の通りであります。
頂いたコメントとの関連性を残すために、本文はそのままといたします。
今後も、ご指摘ください。
では、ふるかわでした
November 04 2:32 PM
(http://spaces.msn.com/members/furukawablog/)
Yokoyama
こんにちは。懐かしい話ですね。
ところで、SCAMPは、確かにそう読むのですが、正式にはSC/MPだったと思います。
ナショナルセミコンダクタの石ですよね。
November 04 1:36 PM
Sign up for free to join this conversation on GitHub. Already have an account? Sign in to comment