父が子供だった頃はまだ自家用車を持っている人が少なかった。だから父が住んでいた西陣の北端あたり、たとえば北大路通りには車はほとんどなく、その代わりに市電(路面電車)が走っていた。ある意味ノドカというか、そんな時代だったが、それでも事故は起きるようで、父が近所の子供たちと遊びに出かけるとき、母親(つまり祖母)からは「電車に気いつけなはれや」と送り出されたそうだ。
路面電車に歩行者が轢かれるような気は余りしないが、実際、車両には前方足元すれすれにバーが付けられており、その後ろに太いロープで編まれた網が張られていた。誰かが飛び出して来たら致命傷にならないように受け止めるのだろう。
時代が進んで、自営業の父は仕事のために自動車を運転するようになった。当時は免許などあって無いようなもので(実際の制度整備はかなり細かな変遷をたどるようだがここでは追わないし、言葉も免許と雑に表現する)、申請したら貰えたそうだ。 そのうちに免許に試験制度が入ったかなにかで、父は(本人曰く「自主的に」)一旦免許を返納して、その試験を受けて免許を取り直したのだという。昭和40年代、自動車の増加と共に交通事故が激増し、「交通戦争」と呼ばれるようになっていた。
運転者に一定の規制を掛けるだけで無く、社会側も対応した。信号の設置、歩道の整備などなど。免許制度は表面的には運転者を制限するものだが、実質的には教育プログラムだ。もちろん歩行者側に対する教育も必要だった。そうして僕らの小学校に「交通安全教室」がやってきた。「右見て左見て右見て渡れ」と呪文を唱えた。