- エドワード・モース「西洋と交流するようになってから,日本はどんどん変わっている」
- 『大日本』ヘンリー・ダイアー
- 当時の外国人から見た日本の記録は重要な証言
- 江戸末期,黒船来航以来日本の記録がされるようになった
- 黒船からは蒸気機関車など,技術の進歩を示すものが持ち込まれた
- 佐賀藩で蒸気機関車の雛形が作られた
- 雛形は動力部まで設計されたものだった
- ペリーは日本人の器用さに気づいていた(報告書にも書いている)
- 開国してから,各地に港が作られた
- 横浜,日本大通りはその時に整備された場所
- 横浜開港資料館には大量の写真が残されている
- 当時持ち込まれたカメラを使っている
- 日本人が被写体になったり,小道具としてキセル,琴,三味線などが使われたりもした
- 外国人は最初日本人が貧しいという先入観を持っていたが,貧しくも幸福に暮らす庶民を見て記録をした
- 職人も観察する中,工業や農業分野では外国人自ら雇われに行っての観察をするほか,外国人を雇って近代技術を取り入れるなどもするようになった.
- 鉄道,製糸(富岡製糸場)など,まず模倣から取り入れることをした
- 日本でも技術者を育てなければならない
- 工部大学校
- 明治6年 ヘンリー・ダイアーが教頭に就任
- ダイアー「日本人は何でも本から学ぼうとする,実技がおろそかになる」
- 工場で働くことを卒業要件にした
- 「技術者こそが革命者」
- 田辺朔郎 京都の近代化に貢献
- 土木の専門
- 江戸時代からの夢(不可能と言われていた)琵琶湖の水を京都に引く大土木工事を計画
- 長等山を貫くトンネルが必要だが,長距離のトンネルを掘るのはきびしい
- 竪坑方式 山から垂直に穴を掘り,そこから水平に掘ることで一箇所から掘る距離を短く
- 外国の技術を日本の事情に合わせて取り入れる発想
- ダイアーにも評価された
- 京都に水を引いたことにより,水力発電が可能になり,電車の運行が始まった