(Original article: https://blog.codinghorror.com/are-you-an-expert/ )
ぼくは権威というものが嫌いらしい。 まず自分自身の過去から始めよう。
ぼくは、人々からアマチュア仲間としてではなく、 何らかの専門家や権威だとみなされることがひどく嫌いである。 これまでの仕事の中でなにか学んだことがあるとすれば、それは 「何もかもわかったような専門家」のつもりでソフトウェア開発にかかわると、 確実に失敗するということだ。 専門家について言えることがあるとすれば、彼らはアマチュアよりも正直でなく、 したがって疑わしいということである。 ぼくがここに書くことは、ネットで読む他の記事や、その他すべてのことと同様に まずは疑ってかかる べき だし、他人が書いたものよりも自分で調査した結果や データを優先するべきだ。たとえ相手がぼくや Google や、 世間一般で信じられているどんな権威のある専門家であっても、である。
これまで、自分のことを専門家だと思っているプログラマと 仕事をした経験があるだろうか。そのほぼすべてが痛々しい結果になるような? ぼくはある。ぼくには 反専門家バイアス があると言えるかもしれない。 Wikipedia もそういう考えのようだ。 専門家に対する警告 というセクションには、次のように書いてある:
- 専門家は自分のユーザページでそう名乗ることができ、資格やら経験やらについて好きなことを言うことができます。しかし匿名性を保ったままで、自分の専門知識について証拠を出すのは簡単ではありません。実際には、このような形で自分の専門性を主張しても得るものはほとんどありません (不利になる点のほうが多いです)。
- 専門家だからといって、論争を自分の意見で解決することはできません。(自称) 専門家とそうでない人々の間で意見が割れているとき、専門家が自分の「地位を利用して」勝利宣言することは認められません。端的にいえば、その分野の専門性にかかわらず「自分がそう言ったから」というのが Wikipedia において正当な理由として受け入れられることは決してないのです。同様に、専門家による執筆がその後、専門家でない人々によって修正されないという保証はありませんし、そのような仕組みもありません。理想的には、実際にはつねにそうであることが望まれますが、編集の質のみが重視されるべきなのです。
- Wikipedia には 強力な反-専門家バイアスの潮流がある といえるでしょう。したがって、あなたが専門家と認識された場合には、あなたには非専門家よりも高い行動規範が求められるはずです。
ここでちょっと立ち止まって、フリーかつオープンな百科事典が 専門家による編集を健全な批判精神でもって見る人々によって書かれているというパラドックスを味わうことにしよう。 一体こんなことが、なぜ可能なのだろうか?
ぼくが思うに、これこそが唯一の ありうる 方法に思える – すべての編集が出典に限らず批判的に見られるという方法こそが。 これは権力の根本的な逆転だ。しかし、これこそが必要なのだ。 世の中に専門家は数えるほどしかいないが、名もなきアマチュアは何億人もいる。 そしてこうしたアマチュアによる貢献は不可欠である、とりわけそれが、世の中の… まあ、全てについて載っているサイトを作るのが目的であるならば、だ。 世界はフラクタルな場所であり、無限の詳細によって敷き詰められている。 このことを、ソフトウェア開発者以上によく知っている人々もいないだろう。 プログラマは日夜、塹壕の中で、こうした詳細と格闘しているのである。 そして彼らは、その狭いプログラミング領域ではもっとも詳しい情報を持っているのだ。 周囲に聞けるような専門家は単に存在しない。
それでは一体、専門家であるということは、どういうことなのだろう? とりわけそれが せいぜい非効率、悪くいえば重荷である と考えられている場合には? 最近の この Google の講演 の中で。 James Bach はポストモダンな専門家の真髄ともいえるイメージを提示している – それは、タワーリング・インフェルノ に 出てくる スティーブ・マックイーン だ:
[消防署長に向かって] カッピイ、いまどういう状況だい?
81階の倉庫から出火です。よくありません。煙が濃すぎて、どの程度広がっているか見えないんです。
排気システムは?
自動的に反転しているはずですが、モーターが焼けてしまったんでしょう。
スプリンクラーは?
81階では作動していません。
なんでだい?
わかりません。
[建築家に向かって] ジム、配水管についてざっと教えてくれ。
各フロアには、3インチと1.5インチの口がある。
何ガロン毎秒だ?
地上から68階までは1500だ。68階から100階までは1000。そこから屋上までは500。
エレベータは非常用モードになっているか?
ああ。
図面があるのは何階だ?
79階、私のオフィスだ。
火災の2階下じゃないか。そこを対策本部にしよう。装備を持ってきてくれ。全部の図面が見たい。81階から85階までだ。
わかった。
[警備担当に向かって] 入居者の一覧を見せてくれ。
心配はいりません、全員避難しています。
住人じゃないよ、会社だ。
運がよかったです。ほとんどはまだ越してきていません。すでに入居したものは今晩は人がいません。
場所じゃなくて、どんな会社か知りたいんだ。
これと何の関係があるんですか?
毛糸やシルクの業者がいるかね? 火災の時には、毛糸やシルクはシアン化ガスを発生する。スポーツ用品の業者はいるかね、卓球のボールとか? あれも有毒なガスが出る。まだ説明が必要かい?
入居者の一覧、すぐ持ってきます。
[消防士に向かって] どんな状況だい?
エレベータ・バンクと中央シャフトがあります。業務用エレベータがここ。空調用ダクトは 6インチです。
配管室はあるかね?
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。
81階でなにか工事をしているかね。ガソリンとか洗浄剤とか、爆発しそうなものは置いてあるかい?
ないと思います。
ここからわかることは何だろうか、 …いやその、スティーブ・マックイーンが ヤバカッコいい ということ以外に? それは、 人に自分の知識を話すのが専門家の仕事ではない ということだ。 専門家はどのような質問をすべきかを心得ており、自分の知識をその場の状況に応じて 柔軟に適用する。専門家であるということは、TPO を高度にわきまえた、 分別ある決定ができる人間であるということなのである。
James Bach のプレゼン の 素晴らしいところは、その前半で彼がすべてのものを疑問視し、脱構築する部分である – 彼の専門知識や、技術や、信頼はたまた名声まで! そして、 そこまでしてやっと 彼は継続した学習というプロセスを経て、注意深く元のものを積み上げていくのだ。
レベル 0: 無関心 を克服する。 ここには何か自分が学ぶべきことがある、と悟る。
レベル 1: 畏れ を克服する。 自分はこの問題あるいはスキルについて学ぶことができると感じる。 自分はすでにある程度知っており、自分よりも知識のある人々におじけづくことはない。
レベル 2: 混乱 を克服する。 自分はもうわかっているふりや、ごまかしをすることはない。 自分は熟練しており、議論や実地訓練ができる段階に達している。 自分が喋っていることは、ほぼ自分がわかっていることである。
レベル 3: 自己満足 を克服する。 いまや自分は建設的に自己批判しており、現状に安住してはいない。 自分はリスクをおかし、新しく発明し、教育し、自分自身を駆り立てている。 自分は他の熱心な求道者と同じでありたいと思う。
Bach 氏のこのような洞察は、彼が 立派な「求道者」 であるあかしだ。 彼は「新しい専門家」としての心構えを述べている:
- 1に訓練、2に訓練。とにかく訓練!
- 経験と専門性をごっちゃにするな。
- 言い伝えを信じるな – だが結局それを思い知れ。
- 何事も盲信してはならない。自分の方法論をものにしろ。
- 自分自身を教育する方法を見つけよ – 他に誰もやってくれる人はいないのだから。
- 評判はカネだ。 自分の評判を構築し、それを守れ。
- 資源や、文書や、ツールを容赦なく集めてまわれ。
- 自分自身の基準や倫理を確立すること。
- 自分の技能を矮小化する 認定書のたぐいを避けよ。
- 厳しい仲間とつきあえ。
- 書き、話し、 つねに自分が見たままの真実を語れ 。
もちろん、ここで Bach 氏が話しているのはソフトウェア・テストのことである。 だが彼のアドバイスはプログラム開発にもあてはまると思うし、 プロがやることには何でもあてはまるように思う。 それは すべて を疑うことから始まるのだ。そして、何よりもまず自分自身を。
ということで、もし名目だけでない本物の専門家になりたいと思うなら、 スティーブ・マックイーンから学ぶことがあるはずだ。 他人に説教してまわる奴にはなるな。 なんでも質問してまわる奴になれ。