対象とする読者: メモのためなし。強いて言えば、今の合理的な社会に奇妙な違和感を覚えている人
数百年前と比べて世界は極めて合理的な構造となっている。海外の人々との交流のために海を渡り現地に赴く 必要はほぼほぼなくなり、音声通話のために札束を電話会社に投げる必要もなく、単にインターネットを介し てビデオ通話のボタンを押すだけで良い。更にはひと昔前で言う所の「ググる」、「検索する」という行為もAI を使えば必要な情報を即座にまとめてくれる。産業に関しても、農耕技術の発展により飢える事もなくなり、 工業においてはもはやそれ自体が何をする事が目的なのかすら分からないほどの高度な自動化が進み、 「人が物を作る」という属人的な工程はもはやほぼ消え去ったのだった。
しかし、このような合理性がはびこる世界で、人類は真に幸福である、あるいは幸福になれるのだろうか?と、 僕は疑問を呈したい。その疑問を投げるために、更に合理性を突き詰めると何が起きるかをここでは自戒及び 警告もかねて考えてみたい。
合理性を極めるという事は、原因から期待される結果を得るまでの工程を短縮するという事である。そして、 先にも説明したように、人間は産業において、極めて高度な合理性を実現した。言い換えれば、人間は自身の 行動にかかる時間を極限まで短縮した、という事である。しかし、合理化の名目によって、人間の行動の個々 の工程を更に短縮すると待ち受けるものは何か?学校教育を受けずにAIを使って義務教育を7歳で終えて大学 を12歳で卒業する?あるいは、もっと平凡に、結婚式や葬式という非合理的な儀式を省略する?それらも結構 だが、そこはまだ合理性の範囲内で、合理性の極致に達しているとは言えない。
では何が合理性の極致に達するのか?という話であるが、例えばもし、その合理化の魔の手が人生の中身では なく、人生そのものに伸びたらどうなるだろうか?つまりは・・・合理性の極致では、人間の人生そのものを 最適化するという事であり、そうなると人間の「出生」という原因から、精神的、もしくは肉体的な「死」という 結論までを短縮するに至る。言い換えれば、合理性の極致が実現された時、合理性によって人間は産まれた その瞬間に、死ぬのである。
生まれた瞬間に死ぬという事は、自明的に社会的に見れば少子化を引き起こす。これを防ぐために出産という 属人的なプロセスを外す、つまり2020年代前半末期における生命倫理の枠を外れる行為を行うことになる。 たとえば、人間を生むのではなく、「培養する」という形で出生させるのである。言い換えれば、旧ソ連時代 における「ソ連兵は畑で取れる」という言葉が文字通りの意味で現実のものになるのである。勿論、このような 「人工子宮」下での人間の培養には人間の胚が必要になり、その胚に細工、たとえば遺伝子編集などで「天才」を 作ることが可能になるだろう。しかし、合理性の極致に達した世界では、そのような「天才」もまた、生まれた 瞬間に死ぬのである。
ここで気づくことは、そもそも合理性の極致に達してしまった世界においては、人間はもはや必要とはならず、 地球上では脳だけが収納された、極めて整った形の人型アンドロイドのようなロボットが闊歩しているという 未来が容易に想像できてしまう事である。あるいは、強い人工知能が進歩を続け、人間を不要として切り捨てる 時代がやってくるかもしれない。
プログラマである僕の視点、つまりはプログラマの現場の視点から見ると、「属人性を排除しろ」という 合理的極まりない言葉は比較的よくみられる。しかし、その言葉が極致に達してしまった時、人間はもはや 人間でなくなってしまう事を危惧したい。これを避けるには属人性を排除しない、つまりは合理性を求め過ぎ ない事が重要ではないかと思う。
と、いうような事を10年ほど前に僕の恩師と話してて思ったので文章として残しておきます。