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A rather personal story in Japanese

25年前のクリスマスイブ

これは 【その2】妻・夫を愛してるITエンジニア Advent Calendar 2016 24日目の記事です [0]

Disclaimer

惚気(のろけ)話です。そのつもりで読んでください。多少の脚色はあります。

以下、である調で。

出会い

妻 京子 と出会ったのは、彼女の記憶によれば、1991年3月のことらしい。そのころからソフトウェアエンジニアをやっていた私は、もともと合コンとかも嫌いだったので、直接出会いの場があったわけでもなく、出会ったのは当時のパソコン通信システムの1つだった「日経mix」だった。そのシステムには「try会議」という、会議のはずなのだが実際はほとんどチャットボード、あるいは今でいえばTwitterのような使われ方しかしていない雑談用の場所があって、私はそこに kenji というIDで日がな出入りしていて、ある日そこに彼女が malte というIDでやってきたのが最初だったらしい [1] 。 そしてどうやら私が彼女に対して最も早くレスポンスを返していたらしい。

付き合ってみようと思ったきっかけは、彼女がThomas MannのTonio Kröger (日本語訳は青空文庫で読める) の一節を引用してきて、それに対しての認識が一致したからだ。キーワードは 滑稽と悲惨市民的生活 の2つだ。この小説の主人公が持つ 異質な者であり同化を拒否されている者 [帰国者] の寂しさについて、語れる人はそういないだろうと思ったからだ。彼女は当時から聡明な人で、ドイツ語を大学で非常勤講師として教えていた。

最初に顔を合わせたのは1991年4月のことだ。新宿のとある高層ビルで待ち合わせていたら、彼女の方から声をかけてきた。もっともこれは私がTIME誌を読んでいて顔を伏せていたのがいけなかったらしい。その後、ハイチ [2] という喫茶店にいった時の会話も思いっきりぎこちなくて、彼女から「第二外国語は何でしたか?」 [3] と聞かれたので、「フランス語をやっていて、第3外国語は韓国語でした」と答えたり、その割には私がドイツ語がぜんぜんできないのを笑われたり、その後飲みに行ったときに「ここにいるカップルの何割が別れてるかなあ」とかいう実にくだらない話で盛り上がったりした。

恋人になってから結婚まで

これはもうドタバタ劇の連続と思い出したくもないことばかりなので、あまり書く気にはならない。ただ覚えているのは、当時はスマホもなく、ケータイもなく、私は留守電に連動するポケットベルを持ち歩いていたくらいで、連絡といえばひたすら固定電話への電話とか、前述のパソ通とか、そんなことばかりだったと思う。随分職場の隣人には迷惑をかけただろう。インターネットのメールすら満足には届かなかったし、存在もしていなかった。だから行き違いも多くて、ある時彼女が「いいかげんうるさいので連絡を断ってくれ」と怒ってきたことがあって、その時に柄にもなくバラをたくさん彼女に送って [4] 許してもらったとか、ヘマばかりしていたような気がする。

結婚してくれとお願いしたのは1991年11月、彼女が名古屋に出張していた時だった。電話の先にいた彼女はかなり当惑した様子だったが応諾してもらったのを覚えている。その後しばらくして、彼女は関西で常勤講師として働くことがその時点である程度決まっていて、私にその件の了解を求めてきた。首都圏での長距離通勤に疲れていて、その時喘息で一週間寝込むという過労状態だった私は、当時の仕事に満足していなかったこともあって、関西でインターネット技術者として [5] 働くべく次の仕事を探した。幸い、京都で、しかも100%リモート可で [6] インターネット技術者として働いてみないかという誘いがあった。それがなかったら今の結婚生活はあり得なかっただろう。

結婚にあたって合意した事項はいくつかあった。それらのうちいくつかを列挙する。

  • 子供は持たない。妻が医師の処方を受けて睡眠導入剤などを恒常的に使用しており妊娠期間中の断薬は不可能だったこと、両者の実家のサポートを得ることは高齢のため不可能だったこと、そして私自身にも健康問題があり無理だったことなどが理由である。
  • 小遣い制は取らず、家庭のことには双方可能な範囲で共同出資する。1999年に地域振興券なる政府の政策が流行ったとき、私と妻はそれをもじって「家庭振興基金」を設立し、そこに現金を定期的に拠出するようにした。どちらかが何かやらかした場合の罰金はすべてこの家庭振興基金の歳入となった。幸いこの基金制度は現在に至るまで続いている。
  • 車は持たない。妻も私も右眼に障害があり、それを知りながら運転することは、事故を起こした際(少なくとも道義的な)責任は免れ得ないとの判断からである。大阪府豊中市北部では車がないとかなり不便ではあるのだが、その後各種通販サービスを活用することで、生活の質はかなり改善した。

結婚最初の10年

1992年4月に彼女が大阪大学に職を得て、私も転職して、3ヶ月ほど遠距離婚約の関係が続いた。この遠距離婚約の間の電話代は20万円を越えていた [7] 。でも電話だけではどうにもならないことがたくさんあって、新幹線でときどき行き来していたのを覚えている。 JR東海の「クリスマス・エクスプレス」 の世界だ。

そんな中、1992年5月25日に、東京に出張していた彼女を泣き落として [8] 、下北沢駅近くの東京都世田谷区役所北沢総合支所に婚姻届を出した。新居は彼女の勤務先である大阪大学豊中キャンパスの近くにした。電話代の都合で06地域が必須だったので、新居は必然的に豊中市内になった。結局その後24年以上その場所に住むことになっている。そして私も縁あって大阪大学情報科学研究科の博士後期課程に通い博士号までいただいた。

結婚式の開催は難渋を極めた。詳細は省くが、両家が折り合わないという状況が続いたからである。1992年8月にどうにか結婚式を開催して終わった時は、もう二度と一切の結婚式にはかかわりたくないとさえ思った [9] 。その後もお金の使い方のこと、仕事のこと、音楽のこと、いろいろなことで喧嘩したのを覚えている。なにしろ出身地が神戸(妻)と世田谷(私)なので、カネの使い方の流儀が全然違っていたし、音楽の趣味も妻はアコースティックピアノとクラシック、私はシンセサイザーとテクノ、と、まったく違っていた。これらについて喧嘩しなくなるようになるには、おそらく15年はかかっただろう。

当時妻は、仕事でLaTeXを使うように迫られていて、それで私も遅ればせながらLaTeXなりTeXを学び、1993年ごろには使いこなせるようになっていた [10] 。そして私は妻にEmacsを使ってもらっていた。最初はIMEはCannaだったが、その後効率を上げるために私はSKKに移行した。妻はコードは書かなかったが、UNIXのコマンドは一通り知っていた。彼女は当時阪大に導入されていたNeXTSTEPを使った授業にも挑戦していたし、彼女の愛機は漢字Talk時代からのMac [11] だった。家の中に早くからUNIXがあったことは幸いだった。

彼女も私も病気がちで、私はアトピー性皮膚炎に悩まされ何度も帯状疱疹にかかり、妻は不眠と胃炎に悩まされていた。そんな中でも1997年9月にカナダ・ケベック州のモントリオールへ二人で旅したことはよい思い出になった。

妻の過労による大うつ病

1997年12月に、妻が過労による大うつ病で職務を続行できないと訴えたため、即時入院し、休職となった。当時すでに妻は助教授(現在は准教授)の立場にあり、さる教授から深夜に翌朝締切の業務指示をたびたび受けるなど、ブラック企業も真っ青の状態で働いていたらしい。この休職を未然に防げなかったのは今でも残念である。不幸中の幸いだったのは、彼女が都市部ではなく山間地の病院の神経科病棟で療養することができたことだ。当時は彼女は国家公務員だったので、休職の条件も現在に比べるとかなり有利だった。

そして私も必然的に家で一人で過ごすことが増えた。ときどき妻の見舞いに行ったり、彼女が一時帰宅を許されたときはできるだけ一緒に過ごした。海外出張は一切取り止めた。幸運にも制約のないリモートワークができていたので、妻の職場との交渉など、諸雑務にも十分にあたることができた。結局彼女は3年休職することになる。この時期に私は職場の許可を得て、日経コンピュータに連載を書くなど、文章修業をさせてもらっていて、かつその原稿料は妻が休職した分の収入を補うには必要不可欠だったことを覚えている [12]

2001年の転職

2000年に私を関西で世話してくれた上司が離職することになり、私も次の仕事先を探すことになった。上司のあっせんで、KDD研究所(現在のKDDI総合研究所)で契約社員として働くことになった。外様だったせいか、最初の1年はプロジェクトもロクに回らず、当時の同僚に難儀した [13] こともあって、周囲には随分迷惑をかけたと思う。幸い、当時の所長がかけあってくれ、2002年4月に新設される大阪大学情報科学研究科の博士後期課程にて共同研究をやることになった。その時の条件はこうだった。

  • 学費は会社からは出さない。
  • 3年で博士を取れ。取れなかった場合の身分は保証できない。
  • 共同研究は業務に含めることを認める。

この時に妻は「あなたならドクターは取って当然なのだから、さっさと取りなさい」と言ってくれた。

その後の様子はこちらに記してある

結婚後10年〜20年

2002年5月に、私はそれまでの心労等が理由で、アトピー性皮膚炎が悪化した敗血症一歩手前の状態になり、4週間弱ほど妻の世話になっていた病院に入院することになった。妻は当時両足骨折していたにもかかわらず、見舞いに来てくれた。この病気と博士課程在学が理由で、結局2005年8月までは海外に行かず国内にとどまることとなった。

その後2004年8月に父が逝去した時は、妻は骨折中であったにもかかわらず、諸事についてフォローしてくれた。そのことには感謝している。

2005年4月に情報通信研究機構に転職し、2010年3月まで有期の専攻研究員を勤めた時も、妻は何も文句を言わずに私の生活を後押ししてくれた。2006年には妻が慢性疲労症候群と診断され入院するが、この時も基本的にはリモートワークだったので問題なく事を進めることができた。そして2007年には、妻が体重増で糖尿病の一歩手前と診断されたため、二人でダイエットすることにした。この時は白米を止め玄米に切り替え、バターや卵の購入を禁止するなど、かなりドラスティックな食生活の改善をやったが、これは二人一緒にやらなかったら成功しなかっただろう。

その後、2010年4月から2012年10月(実際の離職は2013年1月)までは、 原則通勤は必須という大変な悪条件 ではあったものの、研究者としての仕事を続けるために、京都大学情報環境機構の教授 [14] として勤務した。ただ、結局のところ、 北大阪から京都への遠距離通勤 、日々の会議や主業務であったインシデントの対応に疲れ果ててしまって、2012年11月には、妻同様疲労によるうつ状態が原因で病気休暇を取り、そのまま退職せざるを得なくなった。この時退職を促してくれたのは、妻であった。彼女自身が大うつ病の経験者であったこともあるが、妻曰く私が家でロクに口を効かなくなってしまったことで異変を感じ取ったそうである。

この研究生活の間、私はストレス解消のためアマチュア無線の短波交信にうつつを抜かすこともあった。妻は音声での交信には何ら価値を見出さなかったようだが、モールス信号を使った通信については、一定の技能として評価をしてくれたようである。幸か不幸か家のベランダは使い放題だったので(基本的に家の外には物を干さないため)、存分にアンテナの実験もできた。ただし、火災などにつながりかねない事故を起こすようなことは、厳に禁止された。当然ではあるのだが。

失職

2013年2月からは、Bashoジャパンという Basho Technologies の日本法人に縁あって働くことになった。しかしこの仕事は2013年6月に上司からのメール一通による戦力外通告の連絡で終わりを迎えることになる [15] 。この時私を黙って励ましてくれた当時の米国人同僚夫妻には今でも感謝している。そしてこの時の妻の言葉は衝撃的であった。

「私は修士を取ってから9年間定職なく、非常勤で稼いでいたのだから、そんなことぐらいでへこたれないで。」

妻は2010年から彼女の専門であるドイツ語の研究をするために定期的にドイツを訪問していたのだが、2013年9月は私もこの旅行に後から合流し、ドイツのBremenとBerlinにて、妻の心象風景の背景に少しではあるが触れることができた。この旅行に誘ってくれた妻には感謝している。

そしてその後2013年10月から2014年4月20日までは失業者として雇用保険の給付を受けながら暮らすことになった。でも妻はその時に、 私に稼ぎのないことについて、一言も私を責めなかった。 彼女は常に私の仕事については彼女なりの所感を言うのだが、彼女の肝が据わっていることについては、今でも敬意を表している。

そして現在

2014年4月21日に、個人事業主として最初の仕事の依頼を受けるために、 力武健次技術士事務所 を開業した。すでに2年半が経過したとはいえ、順風満帆といえる状態ではないが、お客様に支えられてなんとか生きている。収入の少ない時期はさすがに妻も心配したようで、彼女なりに家計の節約を心がけてくれているようである。

2015年9月には、東京都世田谷区桜上水の実家だった建物が、51年ぶりに建て替えられた。そして晴れて自分の家を手にすることとなった。現在はもっぱら東京に滞在するための拠点として活用している。この家を維持するためには相応の出費は必要であり、かなりの覚悟を強いられたが、なんとか無事にやれている。家のデザインのうち、寝室とカーテンは全面的に妻に任せたのが幸いして、住みやすい場所になっている。もっとも、当分の間はまだ豊中で過ごす覚悟である。妻の家族もいるし、彼女の仕事もある。

2016年8月末に、妻は両眼の白内障手術を受けた。幸い経過は良好である。この時に付き添いができたのは、通勤を必要としない仕事に徹していたからであろうと思っている。

最近は二人共ストレスで甘いものが増えたせいか、ちょっと太ってしまった。数週間前に医者から減量を勧告され、再度ダイエットに取り組んでいるところである。間食をせず、炭水化物を減らし、野菜を食べ、運動を増やすことを心がけている。

夫婦生活の維持とリモートワーク

ここまで長々と身の上話になったが、以下は本題の惚気話である。

24年以上妻との生活を平穏に過ごすことができたのは、私自身がリモートワークに徹し、必要のない夜の付き合いを断り、下手ながらもできるだけ家の雑事について学びこなすことに努めたからだろうと思う。

基本的に家族生活を破壊するものは、通勤や単身赴任といった、業務上の理由による物理的拘束だと思っている。それらにかかわらなければ出世できず、社会人として成功できないのは事実だろう。でもそれは本当に大事なことなのか。私は単身赴任だけはしたくなかった。だから勤務地を変えるために仕事を辞めた。そして 通勤で身体を2度壊した

自分がインターネット技術者を続け、リモートワークで働いてきたのは、 通勤の必要をなくすことによって、自分のような被害者を減らしたい というのが大きな動機である。リモートワークを選ぶことによって、多くの機会を逸失したことは否めない。でも何が本当に大事なのか。自分にとっては妻なしの生活は考えられない。それを維持するための仕事であり、リモートワークだと考えている。

家事

未だに家事は嫌いである。結婚する前は家事はロクにしなかった。そしてできなかった。結婚してからも、しばらくはロクに家の掃除すらしなかった。でも妻が1997年に長期入院してからは、自分でやらざるを得なくなった。そうなると覚えるもので、最低限のことはできるようになっている。ゴミを捨てたり、洗濯機を回すのは、主に私の担当になった。

イヤなことをやれるようにするには、日々の流れのシステムの中に組み込んでしまうのと、面白さを見い出せるように努めることが大事だと思う。妻には服の買い方、ダシの取り方、掃除の仕方まで教えてもらった。もっとも最近は、私が掃除機の掃除の仕方(これが意外に難しい)や、家の片付けの仕方を教えることもある。

要は、こまごまとマメに動いて、新しいことを学ぶようにすれば、家事は自然と片づくのではないだろうかと私は考えて動いている。片づかないものがあったら、アウトソースするなり、原因を断つなり、妻と共に考えて、どうにかするようにしている。

当然のことながら、 家のシステム管理は重要な家事の一部である。 妻は自分がIPv4/IPv6のどっちを使っているかは意識していないが、もはや常識としてIPv6の接続性ぐらいは用意している。そして、妻がNHK-FMの「ベスト・オブ・クラシック」を聞くために、我が家には専用のアンテナを設置した。CATV経由の再送信では音が細くなってしまうからである。これぐらいのことはさすがにしないと技術士としてメシは食えない。NATのポート数不足を起こさないためにYAMAHAのRTX810を導入するぐらいのことはしている。

リラックス

妻も私も温泉はダメである。かといってどこかに行楽に行くということもしない。海外にただ観光旅行に行くということもできない(そんなお金はどこにもない)。

そんな中でリラックスの助けになってくれるのは、もっぱら寝室で二人でゴロゴロすることである。余計なことをせずただ寝ることが、日々のストレス解消の助けにもなってくれる。これを我が家では ゴロゴロジー と呼んでいる。最近、このゴロゴロジーに、東京の拠点(家)で二人で過ごすことが追加された。拠点周辺は、もともとガキのころから勝手知ったる土地なので、私にとってはリラックスできる場所だし、妻も恋人/婚約者時代に何度も来てくれているので、そういう意味ではよい気分転換になる。

また、我が家には世界各地からやってきたぬいぐるみ諸兄がいる。彼等と共に暮らすことは、夫婦での生活の大事な一部になっている。下の写真は、2007年に彼等のセキュリティチームを撮影したものである。

https://gist.githubusercontent.com/jj1bdx/75ca8eab7859aea368b7a6d57391d554/raw/904f07cbc5e37c34eec1c87aa52256cc266e9b17/security-officers-20070709.jpg

二人の会話の話題

妻と私で共通の話題にのぼるのは、 言葉 に関することが多い。もっとも、話す時の立場はいささか違っている。列挙してみよう。

  • 妻はドイツ語教育に従事していて、私は米語で仕事をしている。日本語の共通項は80%ぐらいだろうか?
  • 妻はドイツが好きで、私はどちらかといえば米国が好きである。共通項として、カナダ東海岸は両者ともに受け入れられそうな感じである。
  • 妻はWordやExcelは使うが、普段はもっぱらNotepadで文章を書く。私はあいかわらずEmacsやVimを使っている。

そんなわけでしばしば意見の違いがあって論争になったりする。もっとも、それで口も利かなくなるということは、最近はもうなくなった。

プログラミング言語については、妻は自分ではコードを書かないので、ほとんど論争にはならない。しかし、妻にとっては Erlang の文法の方が、一般的なALGOLやCのブロック構造とあいまいな文法の言語よりはよほど読み易いと感じるらしい。妻曰く

  • 変数が大文字から始まっているのはドイツ語の一般名詞同様でよろしい。
  • 継続のカンマ、複数パターンのセミコロン、そして関数定義がピリオドで終わるのは、ドイツ語の文構造と極めて良く似ていてわかりやすい。

ということだそうである。

音楽については、もっぱら彼女の趣味に私が合わせている。というか、クラシックの辛口の愛好家である妻の批評を聞いていると、他の音楽と相通じるものがあり、グルーヴやノリでクラシックも聞けるということがわかってきたからでもある。

男性が家にいること、そしてミソジニー

妻は幼い時に実母と死別し、その後は叔母(現在の母)と祖母と暮らしてきた。彼女は時々私に「家に男がいないことでどれほどの差別を受けてきたか」ということを述懐する。私はその苦労はしたことがないので、実感はできない。ただ、そういうことがあったんだろうなあ、という話を聞く。そして私がいることによって、どれだけ安心感があるかという話になる。そこまで自分は腕っぷしが強いわけでもないのだが、そういうことであれば妻を守るしかないのだろうな、と思っている。

昨今はソフトウェアエンジニアの世界、そしてその他のIT関連職業にも女性が増え、未だミソジニー(平たくいえば男尊女卑)の考えから抜けられない世代との摩擦や対立の話を聞くようになった。そういう話題になると妻は「それは私の時代からあったことで、自分も同じ嫌な思いをした」と、少しずつ自分の話をするようになった。私は男なので、ただ聞くしかない。それしかできない。人の経験したことに対して、その経験を否定するような意見を述べる資格はないからである。

もし自分が結婚していなかったら、あるいは異性のパートナーがいなかったら、このようなミソジニーの問題を知ることはなかっただろう。「男が家にいないと困る」というのも、結局はミソジニーの一形態である。

そして、25年前のクリスマスイブ

25年前の1991年12月のクリスマスイブ、当時婚約者だった妻と私は、池袋にてバブルの余韻冷めやらぬ街のレストランの相場に面喰っていた。なにしろその日は 1万円のコースディナーしかない といっていたのだ。(今も)ペーペーの我々にはとてもそんなお金はないので、近くの中華料理屋でささやかにディナーを済ませ、連れ立って歩いていた。そうしたら突然通りすがりの男の声がした。

「なんだこいつら、仲良くしやがって」

返事をする間もなく男は去っていった。

その時はどう反応していいのかわからないままだったが、この話を思い出して妻とするたびに、 仲良くするってことは大事なことなんだな と思い直している。

もう亡くなった妻の祖母からも 仲ようしてや と私は何度も神戸の言葉で頼まれた。

私の母からも とにかく二人で仲よくやって と繰り返し言われている。

出世街道は失職で強制的に下ろされた。アマチュア無線の世界でもやれることはやった。そういう意味ではもう思い残すことはない。ただ、仕事と生活だけは、他の誰も頼めない。妻と支え合うしかない。

このごろは、そう思って、日々生きている。

付録: ReST採用の理由

なんでこんな惚気話をReSTで書いたかというと、GitHub Markdownが注釈(footnote)をまともに処理してくれないという理由からである。Qiitaなら処理してくれたと思うが、ただの惚気話をQiitaに書く気にはどうしてもなれなかった。

注釈

[0]本稿は妻に査読してもらい掲載の許可を受けています。
[1]「…らしい」というのは、私にとってははっきりとした記憶のないことを書いている。
[帰国者]私は1974〜1975年まで米国で過ごした帰国者であり、妻は1979〜1980年と1982年をドイツで過ごした帰国者である。帰国者は日本社会ではまっとうに受け入れてはもらえない。なにしろ国民のパスポート所持率は3割未満であり( 外務省の 平成27年度の旅券統計 による)、首都圏や関西圏で「日本語しか話せない」という人達は7割におよぶ( 博報堂「生活定点1992-2016」No.784 「簡単な日常会話ができる外国語は何ですか?」 )国である以上、外国で過ごしたこと自体が特別視され、差別の対象となるのが日本という国である。私のようにかつて帰国子女と罵られた者にとって、この部分で共感できない相手と結婚することはあり得なかった。
[2]今はもうなくなってしまっている。
[3]大学で第二外国語を履修させられたことに良い思い出を持つ人はほとんどいない、ということを妻は知らなかったらしく、後からこの質問のせいで随分出会いを逃したと嘆いている。
[4]私は動物も植物も家に置かれるのを好まない。だから生花も基本的には好きではない。ちょうど銀河英雄伝説OVA本伝第4期第89話のような状況を想定してもらえるとわかると思う。
[5]1991年の時点で、インターネット技術者を志すのは、今でいえば宇宙飛行士を志願するぐらい難しいことだったと思う。しかもソフトウェア産業が集中している東京ではなく、関西への移住が前提だった。だから転職先を探すのは容易ではなかった。
[6]当時は裁量労働制ですら法制化されていなかった。
[7]03地域-06地域間の電話代は3分間400円で、1992年の時点では日本テレコムを使って3分間240円だったと記憶している。( 平成27年版情報通信白書 の6ページ図表1-1-1-5を参照。)
[8]前日に彼女が慶應SFCから私の居所に戻ってきたときに、私はウーロンハイで酔っ払っていて、何を言っても要領を得なかったらしい。なので、この日は彼女は非常に機嫌が悪かった。
[9]その後この縛りを解いたのは、妻の教え子の結婚披露宴に2016年に、妻と共に呼んでいただいた時である。それまでは夫婦の間のタブーですらあった(苦笑)。
[10]1991年に若き日のLeslie Lamport先生と当時の勤務先だった日本DEC研究開発センターでお話ができたのはいい思い出である。
[11]OS X以降現在のmacOSにつながるOSとは別物である。
[12]休職中でも国家公務員共済の月数万円に及ぶ費用は払わなければならなかった。
[13]彼はその後勤務態度不良で離職したらしい。その後のことは知らない。知りたくもないが。
[14]教授といっても、学生教育は当初は 禁止 されており、研究こそ禁止されていなかったものの、基本的には職員と共に学内の業務に専念することが義務づけられていた。同じ職場の他の先生方が自由に教育活動をしていたことを考えると、制約の強い不平等な立場に置かれていたことは否定できない。その後2012年度より機構長の許可の下で教育活動をすることが認められたが、タイミングの関係で私は2012年度の分の手続ができず、2013年度の分の手続を2012年秋にしたものの、結局日の目を見ることはなかった。
[15]戦力外通告の内容は、「今後業務から外す、9月末までは給料を出すからそれまでに仕事を探せ、9月末で会社都合の退職とする」というものであった。
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