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コスティキャンのゲーム論

コスティキャンのゲーム論

読んだ上でのメモ

はじめに

ゲームデザイナーは、ゲームを評価し、ゲームを理解し、それがどのように機能し、なぜ面白いのかを理解するための方法を求めている。 つまりゲームを分析するための手法を考えなければならないわけだ。

ゲームの良し悪しのみを語っても意味が無い。ゲームの好き嫌いを語っても意味が無い。
ゲームを語る前に、ゲームとは何かをちゃんとチームで共有しない限り、議論はすれ違ったままになる。

ただ、ここで議論の対象となるのは「ゲームとは何か」であって、「売れるゲームとは何か」ではないことは注意。

そもそも「ゲーム」とは何なのか?

「ゲーム」は、パズルではない

実際、ほとんど全てのゲームが、多かれ少なかれパズルの要素を含んでいる。
純粋なシミュレーション・ウォーゲームにおいてさえ、プレーヤーは、例えば「特定のユニット群を使って、特定の地点に最適な攻撃を仕掛けるには、どうすればよいか」といったパズルを解かなければならない。
パズルの要素を全く含まないゲームがあるとすれば、ほとんど「探検」を行うだけのゲームがそれに相当するだろう。
うまい例として、CD-ROM版「おばあちゃんとぼくと」が挙げられる。これはいわゆる「インタラクティブ絵本」というやつで、ゲームに似た意志決定や探検の要素を含んでいる。つまり、画面のあちこちをクリックすると、面白い音や動きを引き起こすことが出来る。しかし、そこには事実上何も「解決」すべき課題はないし、ましてや戦術は必要ない。
(中略)
→「パズル」は静的であり、「ゲーム」はインタラクティブである。

ここで言いたいのはパズル=ゲームではないというだけであり、パズルゲームがゲームではない、という意味ではない。

数独はゲームではないとしたら、ピクロスはゲームか?数独アプリはゲームアプリではないのか?という議論に意味は無い。

パズル要素のみ、パズルを解く要素のみでゲームは成立しない、というだけの話。

「ゲーム」は、玩具ではない

ボールそれ自体にはゲームの要素は含まれていない。プレーヤー間で決められた約束事の集合体がゲームなのであり、ボールはそれを実行するために使われる玩具に過ぎない。
(中略)
→「玩具」もインタラクティブだが、「ゲーム」はそれに加えて「目標」を持つ。

トランプそのものはゲームではないが、トランプで行うポーカーはゲームだよね、という話。ここで話している目標には、ルールも含まれている。

ルールの存在しない目標は成立しない。

「ゲーム」は、ストーリーではない

ストーリーは、もともと直線的なものである。
登場人物が厳しい選択に直面し、苦悩のあげく決断を下すシーンがあったとしよう。しかし、実はその決断は作者によってあらかじめ定められたものであり、読者が何度ストーリーを読み返しても変化しない。その決断によって生ずる結末もまた変わらない。
あるいは、こう言うことも出来る。ストーリーはまさに直線的であるが故に、人を感動させる力を持つ。
(中略)
→「ストーリー」は直線的である。「ゲーム」はそうではない。

短絡的な不要論ではない。ユーザーに許容する自由度と、ユーザーを飽きさせないためのストーリーの必要性のせめぎあいを認識しろって話。

構造や機構のみがゲームを形作るなら、なんでぷよぷよにキャラが居て、アングリーバードのオープニーングシーンが必要になるの?

「ゲーム」には、参加者が必要である

ゲームはルールの集合体を提供する。そして、プレーヤーがそれらを使って自分自身のプレイを創造してゆく。これはJohn Cage の音楽作法に似ている。彼は、完全な楽譜ではなく、テーマだけを作曲する。演奏家は、このテーマをもとに、即興で演奏しなければならない。ゲームデザイナーもテーマだけを作る。プレイするのはプレーヤーである。これこそ、民主主義の時代にふさわしい民主的な芸術形態であろう。
(中略)
→伝統的な芸術形態は、受身の聴衆に対して与えられる。ゲームは、積極的な参加者を求める。

受け身だろうとなんだろうと、観測者がいないと成立しないのは一緒。観測者ではなく、参加を求めてる時点でこの比較って必要なのかなとは思う。

ここで言う参加者とは、ゲームのルールに参加することに合意した人、と受け取ることもできる。だから、曖昧なルールやハウスルールがたまに喧嘩の元になる(自分が合意したつもりのないルールに参加ことになっているから)

それで「ゲーム」とは結局のところ何なのか?

ゲームとは、芸術の一形態であり、プレーヤーと呼ばれる参加者が目標達成を目指して、ゲームトークンを介して資源管理のため意志決定するものである。

だ、そうです。芸術の一形態ではあるのかもしれないけど、作る人がそれを意識する必要はないと思う。矜持は持つが、高慢はいらない。

意志決定

まず、あの大げさに騒がれている愚かな「インタラクティブ性」という言葉を、「意志決定」という用語で撃墜してやろうと思う。
「これからはインタラクティブ性の時代だ」とかいった話を何度聞かされたことだろう。こういう空虚な言葉と「これからはクルムヘトロジャンの時代だ」とか口からでまかせ言うのと、どこが違うというのか。啓蒙的という点では、どっこいどっこいだろう。
インタラクティブ性がそんなに重要だと思うなら、電灯のスイッチを考えてみるとよい。スイッチを上げると電灯がつく。スイッチを下げると電灯が消える。おお、インタラクティブだ。しかし、これが面白いかね。
(中略)
全てのゲームはインタラクティブである。すなわち、ゲームの状況はプレーヤーの行動によって変わってゆく。もし、そうでないなら、それはゲームでなくてパズルだろう。しかし、だからどうだと言うのだ。インタラクティブ性それ自体は何の価値もない。インタラクションが意味を持つためには、「目標」がなければならないのだ。
(中略)
→ゲームを分析するときには、「このゲームでは、どのような意志決定が求められるのか」ということを考えなければならない。

カードゲームならどのカードを使うか、ボードゲームならどのリソースを使うか、シューティングなら、アクションなら。全てはプレイヤーの意思と、その意志の源泉となる「目標」が必要ですよねという当たり前の話。

目標

ともあれ、目標がなければ意志決定は無意味になってしまう。AもBも同じこと。どちらでも好きな方を選びたまえ。どっちを選んでもどうせ何の違いもないのだから。 どちらを選ぶかが違いを生むためには、つまりゲームが意味を持つためには、何か狙うべき対象、つまり目標が必要になるのだ。
(中略)
→ゲームを分析するときには、「このゲームの目標は何か。目標は単一か。複数の目標があるなら、各プレーヤーが自分の目標を決めることが出来るようにするための仕掛けは何か」ということを考えなければならない。

目標のないものをゲームとして成立させることは難しい(「ゲーム」ではなく、「玩具」、つまりそれを使って遊ぶ人それぞれがゲームを定義する遊びとしてなら成立する)。
明確に目標を提示しなくても、ユーザーが自分で目標を見つけられるようになっている必要がある。
マインクラフトはそのへんのバランスが凄く上手い。ハマる人はハマるし、目標を設定するのが苦手なユーザーには受けない。

ニコニコ動画が、動画をアップするという遊びに直結するため、日本でのブームの下支えを行なっている(結果的に目標をゲーム外が提供できる)状況になっているのもでかいと思う。

障害物

何をゲームの目標として設定するにせよ、プレーヤーがその目標に向かって努力するように仕向けなければならない。プレーヤー同士を敵対関係にするのも一つの方法だが、他にも方法はある。また、プレーヤー同士が敵対している場合でも、さらに他の障害物を出して双方を叩くというのも、ゲームを面白く感動的なものに出来る手法だ。
(中略) そして、努力のいらないゲームは、死んで腐ったゲームなのである。
→ゲームを分析するときには、「このゲームの障害物は何か。それを克服する努力を強いる仕掛けは何か」ということを考えなければならない。

プレイヤーが取り組むに値すると感じる目標を示さなきゃいけない。その筋道を認識してもらわなければならない。システムに放り出して、ユーザーが手探りで楽しんでくれるゲームは稀。

資源管理

これをやればお金と経験点を得ることが出来るが、リサに嫌われてしまうかも知れない。食料を盗めば飢え死にしなくて済むが、捕まれば見せしめに手を切断されるはめになる。バロア王家に対して宣戦布告すれば、エドワード英国王は我にガスコーニュを領地として与えて下さるだろうが、教皇は我を破門するかも知れぬ。さすれば我が永遠なる魂も風前の灯なり・・・。
これらの意志決定は、単に複雑だというだけでなく、面白い葛藤になっている。そして、面白い葛藤は、ゲームを面白いものにしてくれる。
(中略)
結局のところ、「管理すべき資源」というのは、目標を達成するために管理すべきルール上の要素、ということになる。なぜなら、ルール上の意味がない「資源」をいくら考慮しても、目標を達成するために役に立たないわけだから、つまるところ管理するだけ無駄ということになるからだ。
→ゲームを分析するときには、「このゲームにおいて、プレーヤーが管理すべき資源は何か。それらの資源は、意志決定の際に葛藤を引き起こすよう配置されているか。その意志決定は面白いものになっているか」という点を考えなければならない。

葛藤は葛藤でも、「面白い葛藤」であることが前提。複雑性、戦略性を増すという名のもとに単純にユーザーのストレスましてるだけの葛藤に意味は無い。

面白い葛藤ってなんだろう。ポーカーでどのカードを切るかの判断?たぶん、資源を使うことでAとBが得られるが、AかBしか(少なくとも今は)得られない、という時一番楽しい葛藤になる。プレイスタイルっていうのも、この葛藤を元に発生するものなんだろう。

ゲームトークン

ゲームにおける行動は、ゲームトークンによって実行される。ゲームトークンとは、直接プレーヤーが操作できる任意のものである。ボードゲームにおけるコマ、カードゲームにおけるカード、RPGにおけるキャラクター、スポーツにおいてはプレーヤー自身が、ゲームトークンである。
(中略)
プレーヤーが、自分の運命を自分で決めていると感じる、つまりゲームをプレイしていると実感するには、ゲームトークンが不可欠なのである。
ゲームをデザインするときは、ゲームトークンの数を少なくすればするほど、個々のゲームトークンを詳細化するように注意しなければならない。各プレーヤーにたった1つしかトークンを与えないRPGにおいて、トークンの機能が他に例を見ないほど細かく規定されるのは、決して偶然ではないのである。
→ゲームを分析するときには、「このゲームにおいて、プレーヤーに与えられるゲームトークンは何か。そのトークンの機能は何か。トークンが動かす資源は何か。それを面白くしている仕掛けは何か」という点を考えなければならない。

ソーシャルカードゲームで言うと、ユーザー。カードは、ゲームによってトークンだったり資源だったりする。しかし、トークンが絞られているにもかかわらず、ユーザーがそのトークンを「操作している」感が少ないものが多い。これは、単純に仕組み・表現不足の部分が大きい。

情報

重要な情報はちゃんとプレーヤーに教えるべきだ。そして、プレーヤーは、微妙な意志決定を行う際に、充分な情報を与えられているべきである。
「プレーヤーには全ての情報を知らせるべきだ」と主張しているわけではない。情報を隠すことがとてもうまく働く場合もある。「戦闘が始まるまで自分の部隊の戦闘力は分からないよ」というのは全く理にかなっている。だが、この場合でも、戦闘力がどのくらいの範囲に入っているかについて、ある程度の推測が可能になってなければならないだろう。
(中略) →ゲームを分析するときには、「プレーヤーに意志決定させるためにどんな情報が必要とされるか。プレーヤーに適切な情報が適切なときに与えられるようになっているか。プレーヤーが考えれば必要な情報が何でありどうすれば手に入るか推測できるようになっているか」という点を考えなければならない。

情報を教えるべきなのはそのとおりだが、単純にヘルプや説明書に書けばいいという話ではない。適切な場所、適切なタイミングで情報を付与・保管することが大事。

チュートリアルの構造を考える、チュートリアル外での補完を増やす。操作しているうちに理解できるUIを考えるなどやるべきことが多い。

「ゲーム」を魅力的なものにする他の要素

相互支援と交渉

コンピュータゲームは本質的にほぼ完全な一人遊びであるため、コンピュータ側のNPCと交渉することが出来る場合でも、一般にそのような交渉はあまり面白くない。これに対して、ネットワークゲームは、本質的に交渉ゲームである。あるいは、そうあるべきである。
(中略)
→ゲームを分析するときは、「プレーヤーは、いかにして互いに協力したり足を引っ張ったりできるか。そうさせる動機は何か。交渉のネタになる資源は何か」ということを考えなければならない。

ソシャゲって、ネットワークゲームが前提になっているが、交渉や支援という部分がかなり弱い。それは、支援するにしても交渉するにしても、あくまでもその時操作している主体(プレイヤー)が行った行動の結果が反映されているだけであり「相互」とユーザーが認識しづらいことが原因。

多分考えなきゃいけないのはニコニコ動画などで有名になった「擬似同期性」。古い情報でも、ゲーム内の時間軸に置き換えることであたかもリアルタイムにユーザーがやり取りを行えているように見える(最近はやりのリアルタイムバトルもこれに近い。ただ、こっちは正確に作れば多分本当の同期性をもたせることも可能)

雰囲気

このように、ゲームに心ひかれる魅力を与える上で、雰囲気作り、細かい設定、よいセンスといった要素は馬鹿にできない。これらがゲームの本質には何の関係もないとしてもだ。
(中略) →ゲームを分析するときには、「このゲームは、雰囲気を盛り上げ、背景世界を魅力的にするためにどんな工夫がほどこされているか。これをより雰囲気たっぷりにするには、どこをどう改善すればよいか」ということを考えなければならない。

ソーシャルカードゲームを分解していくと、最終的にじゃんけんまでその内容を簡略化できる。じゃあ、なぜみんなじゃんけんの札を手に入れるために(更にいうと、じゃんけん以上に持っている「札」は固定的)あそこまで血眼にガチャを引くのだろうか。

それを支える一部が雰囲気なのだろう。世界観、キャラクターと言ってもいい。

シミュレーション

だが、前述したように、雰囲気というものはゲームをとても魅力的なものにしてくれる。そして、現実に存在する何かをシミュレートするというのは、この雰囲気作りのための1つの有効な手法なのである。
(中略)
何かをちゃんとシミュレートしようとすると、単に雰囲気作りのために名前だけ拝借するのと比べて、まず確実にゲームが複雑になってしまう。だから、全てのゲームがシミュレーションという手法を取り入れるべきだと言うつもりはない。
しかし、シミュレートという手法は、ときとして真に驚くべきパワーを発揮することがあるということもまた事実なのである。
→ゲームを分析するときは、「シミュレーションという要素が、このゲームをどのように魅力的なものにしているのか」という点を考えなければならない。

シミュレートは作るのも、遊んでいてそれを理解するのもかなり難しい。だからこそ、それをしっかりと表現出来たゲームは強い。

多彩な展開

いわゆるゲームの「ランダム要素」というものは、決して完全にランダムなわけではない。ある範囲内でランダムな揺らぎを作り出すだけだ。
(中略)
何度プレイしても、毎回同じ展開になるようなゲームは、ゲロゲロに退屈だ。
プレーヤーは、今までに経験したことがないゲーム展開を望んでいるのである。そのためには、そのゲームがとりうる局面の数が極めて大きくなければならない。そうすれば、プレイする度に、いつも何かしら新しい展開が生ずることが可能になるのだ。
(中略)
→ゲームを分析するときは、「このゲームでは、どのような展開が生ずるか。それらはプレーヤーが何度も試してみたくなるほど多彩であるか。その多彩さを生み出す仕掛けは何か。展開をもっと多彩にするにはどうすればよいか」という点を考えなければならない。

パズルゲームは、ユーザーの行動に起因するランダム性の少ないゲームと思われているかもしれないが、必ずユーザーの行動の結果+αという形でランダム性が存在する(いわゆるまぐれ当たり)。それが、実力だけが重要なゲームだととっつきにくいゲームが多くのユーザーに受け入れらている一因だと思う。

感情移入

ゲームでも同じことだ。プレーヤーが、自分が味方している勢力に感情移入し、ゲーム内の出来事を自分自身の問題として感じるようになれば、ゲームは感動的な体験になりうるのだ。
(中略) 感情移入を促進する1つの手法は、プレーヤーの視点をどこに置くか明確に決めることだ。
(中略)
→ゲームを分析するときには、「プレーヤーを感情移入させるにはどうすればよいか。プレーヤーにとって重要なゲームトークンを1つにする手だろうか。だとすれば、そのトークンに対する感情移入をより強化する方法は何か。また、ゲームトークンを1つに絞らないのなら、何に対して感情移入させるのか。それを強化する手は何か。このゲームにおいてプレーヤーは誰の立場になるのか。プレーヤーの視点をどこに置くように仕向けるのか」といったことを考えなければならない。

感情移入させる対象を明確に作る。対象はユーザーでもいいし、そのユーザーが所属するチームでもいい。問題は、明確な目に見える形のしっかりとした「実態」を持ったものでないと意味が無い。そして、自分が感情を込めるに値するとユーザーが「認める」必要がある。

ロールプレイ

問題は「感情移入」と「ロールプレイ」の混同にある。この2つは別のことだ。全くロールプレイしないで、かつ1つのゲームトークンに強く感情移入することだって可能なのだ。
ある意味では、感情移入はプレーヤーからキャラクターに向けた動きであり、ロールプレイはキャラクターからプレーヤーに向けた動きと言える。両者は方向が逆なのだ。
(中略)
これは本質的なポイントである。コンピュータ・ゲームは一人遊びだ。一人遊びでは、その定義から明らかなように、観客がいない。観客がいないのに芸をする必要はない。ゆえに、プレーヤーにロールプレイさせることが出来ない。
同じコンピュータを使っていても、ネットワークでRPGをすることは可能である。だからこそ、MUDにあんなに人気があるのだ。
→ゲームを分析するときは、「このゲームで、プレーヤーにロールプレイさせるための仕掛けは何か。どのような演技が可能で、どのような演技を狙っているか」ということを考えなければならない。

にゃんこ大戦争やパズドラはロールプレイの必要はない。意思決定、資源管理、目標がしっかりとしている一人遊び用ゲームには必要ないからだ。

ソーシャルゲームは、「私すごいでしょ」の博覧会だ。だとしたら、ゲーム側がユーザーのそういった欲求を満たせるよう「演じるための道具」をしっかりと用意することが大事になる。自己満足+承認欲求=最強。

プレーヤー同士の交流

それゆえに、現在のコンピュータゲームの大半が一人遊びだというのは単に技術的な制限によって生ずる一時的な問題であって、ネットワークが普及して利用可能な帯域が増加すれば、再びゲームと「プレーヤー同士の交流」が切っても切れない関係に戻るものと私は信じている。
(中略)
→ゲームを分析するときには、「このゲームをプレイしているとき、もっとプレーヤー同士の交流を促進するにはどうすればいいか」ということを考えなければならない。

場を与えるだけでは弱い。動線の問題でもない。コミニケーションの軽い・重い、浅い・深いなど様々な軸で、しっかりと提供者側が「交流」を定義する必要がある。

劇的な盛り上がり

プレイ中ずっと緊迫感が続くゲームが理想的だが、それが無理でも、せめてラスト近くでは緊迫感あふれるゲーム展開が望ましい。ラストで最悪の問題、最大の難関を突破してこそ、ゲームは盛り上がるというものである。
(中略)
→ゲームを分析するときには、「このゲームを盛り上げるにはどうすればよいか」という点について考えなければならない。

戦略による逆転の目をどれだけ許容するか?(お金払った人が気持ちよく勝てなくなってはいないか?)。簡単に、劇的な盛り上がりをもってくればよいという話ではない。

全てのゲームはダイスの下で兄弟である。

質問:無数の種類があるゲーム全てに共通する要素があるのだろうか?
回答:確かにある。全てのゲームは「意志決定」「資源管理」「目標」を持っている。これは「チェス」「セブンス・ゲスト」「スーパーマリオ」「バンパイア:ザ・マスカレード」「マジック:ザ・ギャザリング」「ルーレット」の全てに共通する。これこそが「ゲーム」の定義なのだ。

どれかを欠いている場合、それはゲームではなく「玩具」となる、らしい。提供者からしたらこの違いは大事かもしれないけど、遊ぶ人にとってはあまり意味のない話ではある。

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