濃密な雨の匂い。
大地からむわっとたちのぼる、むせるようなジオスミン。古代ギリシアのアリストテレスはこれを「虹の匂い」と呼んだ。
けれど雨上がりの空にまだ虹は見えない。虹はどこに隠れているのだろうか?
私は建物の前で足下がぬかるんでいないことを確認する。
そして、一気にドアを蹴破って侵入した。
エントランスホールには四人の男がいて、私はその胸にアサルトライフルの照準をあわせて順々に引鉄をひく。かれらの顔は驚きよりも呆気にとられたという表情だった。なぜならこの地域からは政府軍も平和維持軍も撤退しているし、建物を守らせていた無人歩哨ロボットの重火器装備を突破できる民兵もいるはずはなかったのだから。
かれらにとって残念なことに、私はいかなる軍や武装組織にも所属していないし、無人歩哨はすでに無効化していた。
エントランスから左右にのびた廊下は三つの教室に面している。かつてここは学校だった。すくなくとも、過激派組織がこの街を占拠するまでは。
教室からは、外の虹の匂いのかわりに、もっと強力な匂いがただよってくる。雨ではない液体――精液と愛液、鼻水、唾液、汗、血――あらゆる体液と、ハシッシュの煙、そして人間には嗅ぎとることのできないFIANC(フラクタル集積人工神経回路)特有のオルゴンの匂い。
それらの匂いがたなびく硝煙とまじりあってゆく。
射撃音を聞きつけたかれらの仲間がふたり、教室から飛び出しながらAKを乱射――しようとして、間抜けなビープ音が響いた。生体認証のロック音。
最近は片田舎の過激派組織でも武器に生体認証を使っている。それはアメリカから横流しされる武器がみな生体認証付きだからだけれど、連中はそのシステムを書きかえて自分たちの生体認証システムをインストールしている。認証システムは使用者の生体暗号をネット経由でサーバのリストと照合してロックを解除する。かれら末端戦闘員はその機能を知ってはいても、細かい仕組みなど知るよしもなかった。
だから、サーバがクラックされて自分たちの生体暗号がリストから削除されているなどとは、かれらに想像できるはずもない。できたとしても同じことだった。ヘッドショットした銃弾は考える暇も与えずかれらの脳漿をばらまいた。
私は周囲の気配をさぐって、戦闘員が残っていないことを確認する。
同時に、戦闘員ではないいくつもの気配が息を殺していることも。
教室のひとつに足を踏み入れると匂いが最高値にたっした。くったりと壁にもたれかかる子供たち。二次性徴が始まるかどうかという年頃の、栄養失調ぎみのほっそりとした手足と薄い胸板。あどけない目はハシッシュの煙でとろんとしている。この街や近隣の村から攫われてきたであろう少女と少年たちだった。
拉致された子供たちのたどる道は死を除けばおよそ三つで、奴隷として売られるか、戦闘員になるか、あるいは戦闘員たちの性的玩具になるか。この子たちはその三番目だ。
その中に目的の顔がないことを知ると、私は別の教室へ向かう。
売春と強姦は、人類が集団でひとを殺すことをおぼえて以来の戦争行為の付きものだ。あの子たちのような子供は砂漠の砂丘のようにありふれている。それでも「彼女」はここにいるはずだった。五日前に手に入れた、近くの難民キャンプの売春宿から拉致された女たちの中にとある違法セクサロイドが含まれていたという情報がたしかならば、きっと。
はたして、最後の教室の奥のすみっこに、「彼女」はいた。
そこには中学生くらいの少女型アンドロイドが床に身を横たえていた。ふたつ結びにした黒のロングヘア。白い首元の左鎖骨すこし下に刻印された、かすれた二次元コード。
私は知っている。
この少女を誰よりもよく知っている。
二次元コードに記された型番はSUM17F4JP1698。日本で、かつての私がつけた名は、リコ。
「ぁ……?」
少女はゆっくりと身じろぎして、瞳をこちらに向けた。
少女の上体を起こして抱きよせ、髪を指にからませて頭を撫でる。髪には幾人もの体液の匂いが染みついていたが気にはならなかった。この頭の中にはオルゴンで満たされたFIANCが入っている。彼女たちアンドロイドを知的存在たらしめる精妙な回路が。
私は耳元でささやく。
「私が――、いや、自分がわかる? あなた自身がだれなのか?」
けれども少女は目をきょとんとさせ、何を聞かれたのかわからないというふうに首をかしげた。
「私、莫迦だからわからないけど……、私は旦那様のものです。どうぞ、私を使ってください……」
少女はそう言って背中に腕をからめてくる。現地語の、天使のように甘える声音。
表情は完璧なほほえみで、それは汎用セクサロイド特有の完全無欠な売笑婦の顔だった。
(ああ――)
私はようやく気づいた。
少女のFIANCから感じるオルゴンの匂いが、高次知性回路の発する複雑さに満ちたそれではなく、海賊版の粗悪な非知性回路のものであることに。
私の知っている彼女の利発さ、あどけなさ、愛おしさ、それらの人格はいまや売笑婦のほほえみに塗りつぶされていた。あるいははじめからそんなものは存在しなかったのか? いずれにしても、第三世界のそれも紛争地域下での粗雑な換装作業が、少女に非可逆な上書きをもたらしたことは容易に見てとれた。
からみついた腕をやさしくほどいて、私は銃を持ちなおす。
少女は向けられた銃口を不思議そうに見つめ、指でそっと触れてくる。まるで、鋼鉄でできた架空のペニスをまさぐるように。少女は壊れているわけではない。上書きされた機能がそれしか知らないからだ。哀しみも、苦痛も、死ぬということさえ機能セットには含まれていない。
かつて虹をその中に閉じ込めていた瞳は、いまはただ虚ろを映すばかりだった。
だから、そこに「彼女」はいない。
私は引鉄をひいた。
外に出ると空はすっかり青く澄みわたっていたけれど、虹はやはりどこにも見えなかった。
自分のしたことに後悔はない。ただ残念だった。
戦闘員の連中のポケットから抜いた煙草に火をつける。
私の身体にも染みついたあらゆる匂いと虹の匂いとが、煙とともにたなびいて空へのぼってゆく。
私はふと、自分をここまで駆り立ててきた運命の名をかすかに呟いていた。
受難(アゴーニア)……。