- 倫理や道徳にかかわる様々な事柄を学問として考えていく
- 哲学や数学、論理学だけでなく、心理学、社会学、生物学、医学などあらゆる分野の知識を総動員する
- 究極的には、「人はいかに生きるべきか」に答える
- 規範倫理学
- 一般に、「何をすべきか」 「どんな人になってどう生きるべきか」などの問いに答えることを通じて、倫理的に目指すべき振る舞い、生き方を考える
- 例) 功利主義・義務論・徳倫理学
- 応用倫理学
- 規範倫理学の考え方をベースに、現実に直面している道徳的問題を考える
- 例) 生命倫理学、環境倫理学、情報倫理学、専門職倫理学など
- 規範倫理学と応用倫理学の関係は物理学と工学の関係に似ている
- メタ倫理学
- メタというのは「後ろ (μετά)」という意味で、一歩引いた視点から上記2つの倫理学を眺める
- 「そもそも」として、規範倫理学の諸前提を疑う。例えば、「正しいこと」の存在、意味、従う理由など
- 議論の明確化
- 倫理についての思考・議論の土台を整理し、議論の道筋をはっきりさせる
- 前提のズレを整理し、解消する方向へ向わせる
- 道徳の見直し
- 倫理についての考え方や考える際に使っている道具立てを整理することで、視野を広げ、道徳の見直しにつながる
- そして世界観や生き方への影響も与える
メタ倫理学は抽象的で役に立たない哲学の延長でしかないものではない。道徳・倫理について扱う以上、地に足ついたものにならざるを得ず、また我々は道徳・倫理を避けては通れない。 また、ロールズ『正義論』やR・M・ヘアのようにメタ倫理学的基礎から現実問題にアプローチしている哲学/倫理学者もいる。
- 倫理における真理をめぐる問題群
- 「倫理の問題に答えはあるか」――実在論/非実在論(第3~6章)
- 「倫理的な事柄は普遍的か」――客観主義/主観主義(第2章)
- 倫理と判断、行為をめぐる問題群
- 「倫理的な判断とは何か」――表出主義/認知主義(第7、8章)
- 「倫理的な判断は人を動かす力をもつか」――(第9章)
- 倫理における諸概念をめぐる問題群
- 「倫理とは何か」――(随時説明)
- 客観主義的な考え方
- 物事を主体と客体に分けた上で、もののあり方や価値、真理を決めているのは客体側であるという考え方
- すなわち、主体の側の判断、意志、欲求、感情、認識とは独立に備わっていると考える
- ムーアの「善いもの」と「善さ」の区別
- ムーアによると、個別具体的な「善いもの/こと」(e.g. 嘘をつかないこと、約束を守ること、皆を幸せにすること)と「善」そのものとの区別をしなければならない
- 「赤いもの」と「赤」との区別の例 (「赤いもの」→ポスト、トマト、消防車、夕日、etc.)
- 前者が規範倫理学と、後者がメタ倫理学と対応。ムーアによる区別がメタ倫理学の濫觴
- ムーアによれば、「善」の説明は「「善」は「善」である」としかできないという(=定義不可能性)
- さらに、「善」は客観的性質であると考えた
- 客観主義の利点
- 普遍性 (主体に対して)
- 安定性、確実性 (客体自体による)
- 可謬性、道徳的真理の存在
- 主観主義による客観主義の批判
- 倫理的性質は客観的ではない
- リンゴの色、あるいは味の例
- 人々の倫理的判断の不一致という現状から、誰にどのようにして道徳的性質の認知が可能なのかと問う
- 主観主義の利点
道徳的真理の不在の立場
- 人や文化ごとの倫理的判断の不一致を説明できる
- なぜ倫理的判断が可能なのかを説明できる。主体が投影するものとしての「道徳的正しさ」
- 倫理的価値は人間のためにあると説明できる
- 客観主義による主観主義の批判
- 外部からの批判が不可能
- 道徳が恣意的なものになってしまう
- 第三の立場 ヘアの指令主義を始めとして、両立を図ろうとする立場もある
道徳的相対主義とは以下のような立場である。
- それぞれの社会はそれぞれの道徳のルールをもつ
- 1つの社会のルールが別の社会のルールよりも優れていると判断できる客観的規準はない
- 倫理に「普遍的真理」などない。つまり、いつの時代においても、すべての人にあてはまるような道徳的真理は存在しない
- ある社会において何が正しいかを決定するのは、その社会のルールである。
- 他の人々の行為を判断しようとするのは傲慢である。他の文化に対して我々は寛容な態度をとるべきである (私の行為を他人が判断しようとするのは傲慢である。私に対して寛容な態度をとるべきである)
さて、それらには区別があり、
- 事実レベルの相対主義
「事実として、道徳は文化によって違う」
これに対する反論として
- 事実として、違ってはいない (見かけ上の違い)
- 事実として違っていても、相対主義は擁護できない (is-ought問題)
- 規範レベルの相対主義
「文化ごとにルールが違い、しかもそれぞれが正しい」
反論
- 事実だけから規範的な主張はできない (is-ought問題)
- 相対主義の主張は現実味がない (直観に訴える議論)
- 相対主義は矛盾を抱えている (相対主義のパラドクス) →自己言及のために起こるパラドクス
- メタレベルの相対主義
- 「相対主義の主張も相対的である」 反論: 自己言及から逃れられていない
- 「相対主義の主張は2階の主張 である」 反論: 区別の正当化の困難
- 「普遍的な道徳的主張もある」 反論: 区別の正当化の困難
- 道徳的非実在論とは、道徳的な事実や性質は存在しないという立場
- 真理と実在
- 実在の重要な要素「私たちの心の在りようから独立に存在する」
- 真理と実在とは関係する
- 真理の対応説 (correspondence theory) 何らかの事実に対応することで真理が成り立つ
- 真理の整合説 (coherence theory) 全体的な整合性によって真理が成り立つ
- 対応説を取れば、道徳的事実・性質・価値が実在するときのみ、対応する (道徳的) 真理が客観的に成立
- 非実在論者によれば、道徳的事実・性質・価値は存在しないため、道徳的真理は存在しない
- 背後に客観主義と主観主義の対立
- 錯誤理論 (error theory) by J・L・マッキー
道徳的言説はすべてある種の誤りを犯しているという主張 (cf. 無神論)
- 私たちが行う道徳的判断はすべて道徳的事実や性質の認知を前提している
- もし、こうした事実や性質が実在しなければ、その判断は誤った認知に基づいており、判断としても誤っている
- 道徳的な性質、事実は実在しない
- よって、道徳的な判断はすべて誤っている
- メタ倫理学における認知
- 「認知」 (cognition) とは、様々な能力を使って認識したりして、対象についての知識を得ること
- 認知主義 (cognitivism) :道徳判断は判断対象についてのある種の認知に基づく
- 非認知主義 (non-cognitivism) :道徳判断は必ずしも判断対象についての認知に基づかない、認知だけに基づいてはいない
- 「強い認知主義」と「弱い認知主義」
- 真理の対応説かつ認知主義と真理について非対応説かつ認知主義
- マッキーの2つの論証
背理法による
- 相対性からの論証
- 道徳が実在するなら、誰にとっても同じように存在するはず
- 常識によると現実には文化・時代・場所によって異なる
- 上の2つは矛盾する
- 奇妙さからの論証
- 道徳が実在するなら、語義から、私たちの心から独立して存在するはず
- 常識によると、道徳は一般に、私たちの行動に影響し、導く力を持つ
- 上の事実は仮定からは説明しづらい。独立して外界に存在し、かつ動機付けの力を持つものは奇妙であり、存在するとは思えない
- 相対性からの論証
- 2つの論証への反論
- 相対性からの論証についての反論
- ある程度の共通性は存在する
- 見かけ上の違いである
- 奇妙さからの論証についての反論
- その認知を通して動機付けをするような外界の存在物は奇妙ではない
- 奇妙だからといって実在しないことにはならない
- 奇妙さはむしろ、道徳の崇高さ、重要性を示している
- 相対性からの論証についての反論
- 非実在論が正しいなら?
とるべき態度は
- 道徳全廃主義
- 道徳的虚構主義
- 保存主義
- 道徳全廃主義 (abolitionism) ──道徳は全廃すべし
- 道徳は実在しないのだから、それについて語るのはもうやめようという立場
- 道徳が存在するかのように語るのは欺瞞であり、そんなインチキはしない方がよい
- 道徳全廃主義の問題点
- 理論的には、道徳全廃主義者も道徳的主張をしている
- 実践的には、道徳を全廃するコストと、道徳の存在を仮定することのメリットは後者の方が大きいように思える
- 道徳的虚構主義 (moral fictionalism) ──道徳はフィクションとして利用すべし
- 道徳は誤った認知に基づくが役に立つので積極的に利用しようという立場
- 解釈的虚構主義 (hermeneutic fictionalism) 私たちはすでに道徳は存在しないと本当は気づいているが、その上でフィクションとしてそれを現に利用している
- 改革的虚構主義 (revolutionary fictionalism) 私たちはまず道徳が虚構だと認めるべきで、さらにフィクションとして利用すべき
- 道徳は誤った認知に基づくが役に立つので積極的に利用しようという立場
- 道徳的虚構主義の問題点
- 解釈的虚構主義は道徳のリアリティをうまく説明できない
- 改革的虚構主義者の言う道徳の有益性はどういう意味か
- 改革的虚構主義において、道徳をフィクションとみなすことは果たしてその有効性に貢献するか
- 保存主義 (moral conservationism) ──道徳はそのままでいい
- 誤った認知に基づくとしながら、現状の道徳実践を肯定する立場
- 保存主義の問題点
- プロパガンダ主義
- 道徳のもつ重み (リアリティ) が損なわれてしまう
- 実在論と非実在論
- 実在論:道徳的な性質・事実は我々の心の在りようから独立して世界の側で決まっており、実際に存在する
- 道徳のリアリティと道徳的真理の実在
- 実在論の2つの方針 (→奇妙さからの論証)
- 道徳は奇妙でない仕方で実在 (e.g. 自然主義)
- 自然主義:経験的なもので道徳を説明しきることができる
- 道徳は奇妙だがそれでも実在 (e.g. 非自然主義)
- 道徳は奇妙でない仕方で実在 (e.g. 自然主義)
-
道徳的性質は他の経験的実在を意味する/言い換えである
- c.f. フェリス・シルヴェストリス・カトゥスと猫の関係
- e.g. 古典的功利主義における「善さ」と「快」
-
開かれた問い論法 (Open Question Argument)
- 意味論的自然主義者は「自然主義的誤謬」(naturalistic fallacy) を犯している
- Q1. 岩崎は独身である。ところで、岩崎は結婚していないのだろうか。(closed question)
- Q2. 岩崎はいつも一人でご飯を食べている。ところで、岩崎は結婚していないのだろうか。(open question)
- Q3. この行為は快を増やす。ところで、この行為は善いだろうか。
- 閉じているとは言えない (ムーア)
- 快を何に置き換えてもOQAは成り立つ
- 善は自然的な性質で定義できない
- しかし、それ自体として実在する「善」は奇妙
-
OQAの回避
- Q3も閉じているが、気付いていないだけ (1)
- Q3も閉じているが、Q1やQ2とはその仕方が異なる (2)
-
道徳的性質は自然的な性質に還元できる
-
分析的と総合的
- 分析的判断:主語の意味分析で判断の真偽がわかる e.g. 「独身の人は結婚していない」
- 総合的判断:主語の意味分析では判断の真偽はわからない e.g. 「独身の人はもてない」
-
分析的還元主義
- (1)の立場
- 道徳判断は分析的判断
- 実際の手続きの提示
- 道徳概念の用例を集める
- 道徳概念の機能の抽出
- 同機能の自然的概念に置き換え
- 言葉の意味の分析
-
分析的還元主義の問題点
- 自然的性質と道徳的性質の対応関係には理由があるように思える
- 実践面で楽観視しすぎではないか
-
総合的還元主義
- (2)の立場
- 道徳判断は総合的判断
- 明けの明星/宵の明星の例
- 指示対象は同じだが、表す内容は異なる
- 経験的探求によって同一とみなされるようになる
-
総合的還元主義の問題点
- 道徳的性質と自然的性質の関係が偶然的である可能性
- 納得しがたい
- 道徳的性質と自然的性質の関係が偶然的である可能性
-
道徳的性質は
- それ自体として一種の自然的性質として実在する
- 自然的性質を素材として構成されている
-
コーネルリアリズム
- 上記2の立場
- 道徳的性質の説明役割に注目
- 科学の方法論との類比
- アブダクション的
- 道徳的性質の実在の仮定が道徳的現象の最良の説明に不可欠であれば、道徳的性質は実在すると言える
- 自然的性質には還元できず、構成されるにすぎない
-
非還元主義とコーネルリアリズムの問題点
- コーネルリアリズムが最良であるかは疑問
- 道徳の自然性についてどっちつかずである
- 他の自然的存在者とは区別しつつ、なお自然に存在する
- なぜ自然的性質が道徳的性質を構成するのか
- 両者の関係への理由
- 科学における背景理論と同様
- 両者の関係への理由
-
道徳的双子地球 (moral twin earth)
- 対総合的還元主義・コーネルリアリズム
- 我々の地球と1点を除いて全く同じ地球
- 我々の地球では「善」は「快」という自然的性質、双子地球では「善」は「義務にかなっている」という自然的性質と結びついている
- それぞれの地球で「善は快である」「善は義務にかなっている」が真理であるため、地球人と双子地球人がそれぞれ「善は快である」「善は快ではない」と言ったとしても、矛盾していないということになる
- 自然主義の客観主義としての立場と矛盾する
-
自然的事実はそれ自体としては直接動機づけにならない
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