- 第一原理 各人は,すべての人に対する同様なシステムと両立する,最も広範で全体的な平等の基本的自由のシステムに対する平等な権利を有する。
- 第二原理 種々の社会的・経済的不平等は,以下の両方を充たすように設定されなければならない。
- 正義に適った貯蓄の原理と矛盾しない程度で,もっとも恵まれない者たちが最大の利益を受けるように,そして
- 公正な機会の平等を充たす条件の下で全ての人に開かれている職務と地位に伴うかたちで。
井上は「初期ロールズの結論は,例の『格差原理」以外は,基本的にいいと思っていたんですよ。」とする。
格差原理について,まずそれによって経済格差が正当化される典型的な状況(とロールズが挙げる例)を取り上げる。
- 積極的正戦論
- 無差別戦争観
- 絶対平和主義
- 消極的正戦論
- (キケロ型あるいは諦観的)平和主義
正義より平和。正義への嫌悪。「最も正しい戦争よりも,最も不正な平和を選ぶ」
- あらゆる正義の諸構想(conceptions of justice)の必要条件としての正義概念(the concept of justice)の規範的実質: 普遍化不可能な差別の排除
- それに適応するかどうかを検証する**「反転可能性」テスト**
「自分の他者に対する行動や要求が,自分の視点だけではなく,他者の視点からも拒絶できないような理由によって正当化できるかどうか,それを吟味しなさい」
法の正統性(legitimacy)は正義概念によって保障される。
https://twitter.com/stibeared/status/797098067509972992 https://goo.gl/photos/CAz9jK7bHFFrwv3v5
- 本質的,究極的,長期的→B
- 現象的,手段的,短期的→A
マルクスはBに重きを置いて総合。 (文中ではAを「お上」っぽく命令を下す立場,Bを「下々」っぽく現場を重視する立場としており,『新しい左翼入門』が想起される。)
プロレタリアート独裁の「独裁」の語は,イギリス立憲政治の対比として用いられた。
慣習法による拘束があるイギリス立憲政治に対して,民意の民主的反映による慣習法等から無拘束である政治体制。
労働者たちによる支配は,多数者の支配であるので個人独裁とは相容れない。民主的な代表機関による支配。革命政権が産業を国有化し,協同組合的な経済に作り替えていく。経済の運営は漸次現場の自治や当事者間の調整へと委ねられていく。結果として国家は政府ともども不要となる。
- 自己決定の裏の責任 自分が決めたことのせいで他人に不利益を与えないようにし,万一不利益を与えたときにはきっちり補償し,自分が不利益を被ってもそれを自分で引き受けること。
- 集団のメンバーとしての責任 自分が決めたかどうかにかかわらず,ある集団に所属することにともなう役割を果たす責任
1.の責任は,負うことは何ら道徳的悪ではなく,責任を取るためには,(他人に損害を与えた場合に限り)その補償が要請される。すなわち民事的責任。
2.の責任は,負うことは集団に背く道徳的悪であり,責任を取るためには,詰め腹を切ること(罰を受けること)が要請される。すなわち刑事的責任。出る杭は打たれるということ?
「ジョブ型責任とメンバーシップ型責任」http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-608b.html
資産家だけが十分に理性的であり,それ以外の者は最初から命令に従うために存在しているという発想は,少なくともアテネまでその源流をたどることができる。アリストテレスは,この問題を『政治学』の冒頭できわめて明白に述べている。彼によれば,自由な成人男性だけが完全に理性的な存在たりえ,それ以外の者,すなわち女,子ども,奴隷を支配するのとちょうど同じように,自身の肉体を支配できる。ここにこそ,建国者たちが受け継いだ「理性」のあらゆる伝統に内在する真の欠陥があるのだ。根本的に「理性」は,私利私欲をもたずに自分で何でもこなせるということとは関係がない。この伝統において理性的であることは,あらゆることに命令を下せる能力と関わっている。つまり,状況とは離れたところに立ちながら,それを遠くから評価し,適切に算定し,そして他人を黙らせて言う通りに従わせることができる場合にのみ可能になるような打算なのである。それは単なる命令の習慣であり,世界が数学の公式と同じようなものに還元できると思い込ませる。そしてこの公式は,実際の人間の複雑さを捨象して,あらゆる状況に適用されていくのである。
> だからこそ,人間は理性的である――王のように冷淡かつ打算的である――あるいは理性的であるべきだという提起から出発する哲学は,いずれも例外なく「われわれはその正反対の存在だ」というところに帰着するのである。ヒュームの有名な言葉にあるように,理性はつねに「感情の奴隷」であり,またそうでしかありえないからである。われわれは快楽を求める。それゆえ,確実に快楽を手に入れるためにわれわれは財産を求める。それゆえ,確実に財産を手に入れるためにわれわれは権力を求める。いかなる場合でも,そこには自然な限界点などない。われわれは永遠により多くのものを求めるだろう。人間本性に関するこの理論は,古代の哲学者たちのあいだにもすでに存在しており(それがなぜ民主主義が破滅的にならざるっをえないかの根拠であり),それが現在というかたちをとって聖アウグスティヌスに始まるキリスト教的伝統のなかに復活した。さらに無神論者トマス・ホッブズが唱えた,なぜ自然状態は暴力的な「万人の万人に対する闘争」でしかありえないかについての理論,そして再び,なぜ民主主義は必然的に破滅的にならざるをえないかに関する理論に受け継がれた。十八世紀の共和主義的憲法の起草者たちも,こうした理解を共有していた。人間の
(ql:quickload '(:trivial-download) :silent t) | |
(defparameter +subjects+ '("sekaishi-b" "rinri_seikei" "kokugo" "eigo" "listning" "butsuri-kiso" "kagaku-kiso" | |
"sugaku-1a" "sugaku-2b")) | |
(defparameter *subject* (nth 4 +subjects+)) | |
(defparameter +output-dir+ "") | |
(defparameter *base-url1* "http://sokuhou.toshin.com") | |
(defparameter *base-url2* "http://www.toshin.com") |
(defun neumann (n) | |
(loop :for i :below n :collect (neumann i))) |