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@stibear
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デビッド・グレーバー『デモクラシー・プロジェクト』p.233-240

 資産家だけが十分に理性的であり,それ以外の者は最初から命令に従うために存在しているという発想は,少なくともアテネまでその源流をたどることができる。アリストテレスは,この問題を『政治学』の冒頭できわめて明白に述べている。彼によれば,自由な成人男性だけが完全に理性的な存在たりえ,それ以外の者,すなわち女,子ども,奴隷を支配するのとちょうど同じように,自身の肉体を支配できる。ここにこそ,建国者たちが受け継いだ「理性」のあらゆる伝統に内在する真の欠陥があるのだ。根本的に「理性」は,私利私欲をもたずに自分で何でもこなせるということとは関係がない。この伝統において理性的であることは,あらゆることに命令を下せる能力と関わっている。つまり,状況とは離れたところに立ちながら,それを遠くから評価し,適切に算定し,そして他人を黙らせて言う通りに従わせることができる場合にのみ可能になるような打算なのである。それは単なる命令の習慣であり,世界が数学の公式と同じようなものに還元できると思い込ませる。そしてこの公式は,実際の人間の複雑さを捨象して,あらゆる状況に適用されていくのである。

 だからこそ,人間は理性的である――王のように冷淡かつ打算的である――あるいは理性的であるべきだという提起から出発する哲学は,いずれも例外なく「われわれはその正反対の存在だ」というところに帰着するのである。ヒュームの有名な言葉にあるように,理性はつねに「感情の奴隷」であり,またそうでしかありえないからである。われわれは快楽を求める。それゆえ,確実に快楽を手に入れるためにわれわれは財産を求める。それゆえ,確実に財産を手に入れるためにわれわれは権力を求める。いかなる場合でも,そこには自然な限界点などない。われわれは永遠により多くのものを求めるだろう。人間本性に関するこの理論は,古代の哲学者たちのあいだにもすでに存在しており(それがなぜ民主主義が破滅的にならざるっをえないかの根拠であり),それが現在というかたちをとって聖アウグスティヌスに始まるキリスト教的伝統のなかに復活した。さらに無神論者トマス・ホッブズが唱えた,なぜ自然状態は暴力的な「万人の万人に対する闘争」でしかありえないかについての理論,そして再び,なぜ民主主義は必然的に破滅的にならざるをえないかに関する理論に受け継がれた。十八世紀の共和主義的憲法の起草者たちも,こうした理解を共有していた。人間の本性を変えることなどできなかった。だから,端々に見られる気高い文言にもかかわらうず。こうした哲学者たちのほとんどは,まったくの盲目的情熱か,エリート階級による利害の理性的調節のどちらをとるかが唯一の現実的問題であると積極的に認めるに至ったのである。したがって理想的な憲法とは,そうした諸利害の相互チェックによる均衡の実現が保証されるようなものだったのである。

 このことは興味深い示唆を含んでいる。一方で,民主主義の核心は言論の自由,報道の自由,そして開かれた政治的討論のための諸手段にあると一般的に考えられている。同時に,自由民主主義に関する理論家たちの多く――ジャン=ジャック・ルソーからジョン・ロールズまで――は,その討議の領域を信じられないほど限定的に考えている。なぜならかれらは,政治の舞台に表れる以前に政治的諸主体(政治家,有権者,利益団体)があらかじめ自分たちの要求を知っていると想定しているからである。対立する価値観を調和させる方法を決めたり,最善の行動方針をめぐるさまざまな意見を調整したりするよりは,そのような政治的諸主体は,すでに存在する利益を最大化させる方法だけに思いを巡らせるというのである(*注 この理解は,フランスの政治哲学者ベルナール・マナンの素晴らしい著作に多くを負っている)。

 したがって,この文脈からは「理性的な人々」の民主主義が提示される。理性は純粋客観的かつ正確な打算として定義され,命令を下す権力から生じる。この種の「理性」は必ず怪物を生みだすだろう。真に民主主義的なシステムの基礎としては,これは明らかに破滅的である。ではオルタナティブとは何か。この筋道のうえに,どうすれば平等な人間関係のあいだに成り立つ民主主義の理論を打ち立てることがでいるだろうか。

 それが困難な理由のひとつは,単なる数学的打算よりもこうした論証が実際にはややこしく複雑なものであり,それゆえ政治学者や許認可権を握る人々が好みそうな数量化されたモデルとしては表現されないからである。そもそも,ある人物が理性的かどうかを尋ねるときには,多くのことを尋ねはしない。実際にはただ,その人物が基本的な論理的思考能力をもっているかどうかを確認しているだけである。本当は気が狂っているのではないかと疑いがかけられたり,あるいは情熱のあまり盲目的になって議論が支離滅裂になったりすることがなければ,問題が生じるようなことはほとんどない。対照的に,ある人物が「合理的」であるかどうかを尋ねるとき,そこに含意されていることは何か。その基準ははるかに高度なものである。合理性が示唆するのは,異なる視点,価値観,責務といった,およそ数学的公式には還元できないようなものどうしの調和を成し遂げる,きわめて洗練された能力である。形式論理に従っていえば,それは共約不可能な複数の要素のあいだに妥協点を発見することを意味する。それはちょうど,夕食の料理を決める際,準備のしやすさ,栄養,味を比較対照して計測する形式的な手段が存在しないのと同じである。生活の大半――とりわけ他者との生活――は,決して数学的モデルには還元できない合理的な妥協を重ねることで成り立っているのである。

 政治理論家は八歳の知的水準で行動する主体を想定する傾向があるというのも,民主主義の理論が困難である理由のひとつである。発達心理学者の観察によれば,子どもたちが論理的な議論を始めるのは,問題を解決するためではなく,かれらがすでに考えたいと思っていることの理由を発見するときである。小さな子どもと定期的に接する人なら誰でも,これが真実であるとすぐにわかるだろう。一方で,対照的な視点を比較し調和させる能力は後から発達し,それが成熟した知性の核心となる。それはまさに,命令権力を行使する人々がめったに必要としないものでもある。

 哲学者スティーブン・トゥールミンは,すでにその道徳的推論モデルで名を馳せていたが,一九九〇年代に知的センセーションを巻き起こした。そのとき彼は,理性と合理性の対称関係という同じような問題をさらに展開させようとしていた。もっとも彼は命令権力ではなく,絶対的確実性の要求から生起するものとして理性の基礎を分析しようとしたのではあるが。モンテーニュのような――一六世紀の拡張期ヨーロッパにおいて著述活動を行い,真実はつねに状況に依存すると考えていた――随筆家にみられる寛大な精神と,ルネ・デカルト――一世紀後,ヨーロッパが血みどろの宗教戦争へと没落していく時代に著述活動を行い,社会の理想像を純粋に「理性的」な根拠に基づくものとして構想した――のほとんど偏執的なまでの厳格さを対比して,トゥールミンは次のように提起した。すなわち,後世のあらゆる政治思想を悩ませてきたのは,非現実的な水準の観念的理性を具体的な人間の現実に適用しようとすることにあった。だが,この特徴を提起したのはトゥールミンが初めてではなかった。僕が最初にそれに出会ったのは,一九六〇年に出版されたやや風変わりなエッセイ,イギリスの詩人ロバート・グレーヴズの手による『クサンティッペの真相』を読んだときだ。

 初期ニューヨークの肉屋やパン屋が身につけていたような古典教養をもたない人たちにとって,クサンティッペはソクラテスの妻であり,悪女として歴史に名を残してきた存在である。ソクラテスが彼女に平然と耐えて(無視して)いたのは,きまって彼が人間性が高潔であることの証だといわれる。グレーヴズはこんな指摘から始める。どうして二〇〇〇年ものあいだ誰も問題にしてこなかったのだろう,実際ソクラテスと結婚するのはどんな感じだったのだろう。想像してほしい,家族を支えるためにはほとんど何もせず,会う人誰もが何かにつけ間違っていることを証明しようとすべての時間を費やし,真実の愛は成人男性と未成年の少年のあいだにだけ成り立つと感じているような夫の世話をしなければならないとしたら。愚痴のひとつも言いたくはならないだろうか。これまでずっとソクラテスは,純粋な一貫性を有する確固不動の観念,議論をその論理的帰結まで導く断固たる決意をもつ模範的人物として語られ,確かにそういう点では役に立つのだろう――しかし,彼はあまり合理的な人間ではなかったし,彼を称賛する人々は「機械化され,感受性に欠け,非人道的かつ空想的な理性」を生みだし,世界に甚大な危害を加えてきたのである。グレーヴズはそれを詩に表した。彼は,ギリシャの都市の「理性的」空間の外側で凍えている人々と自分を重ねあわせ,クサンティッペのような女性に思いを馳せた。彼女たちにとって,合理的であることは論理を排除するものではなく(実際,誰も論理に"反対"はしない(""は傍点)),論理はユーモア実用性,素朴な人間らしい礼儀作法といったものと結びつくのである。

 このことを考慮に入れれば,新しい形態の民主主義的過程――たとえば合意形成――をつくりだす数多くの試みが,フェミニズムの伝統から表れてきたということにようやく納得がいく。とりわけそれは,歴史的に見ると,命令を下す権力を与えられることのなかった人々の知的伝統なのである。合意形成は合理性の原理に基礎づけられた政治を創造する試みである――つまりフェミニズム哲学者のデボラ・ヘイクスが指摘したように,論理的な一貫性だけでなく,「適切な判断や自己批判の基準,社会的相互作用を受け入れる能力,積極的に根拠を与え熟慮する態度」,つまり本当の意味での熟議が求められるのである。ファシリテーションの訓練でよくいわれるように,根本的に異なる立場を理解するために十分話を聞き,みんなが共有できる折衷的な着地点を探り,参加者に特定の立場を押しつけることを避けるよう配慮する能力が必要とされる。そこでは,民主主義は共通の問題を解決する作法と考えられており,そこに参加する人々がそれぞれ何らかの共約不可能な意見をもっているという事実が尊重されているのだ。

 ここには,合意形成にどのような役割が期待されているかが示されている。すなわちそれは,なによりも人々の集団が一定の共通目的をもっていることに同意することである。これによって集団は,共通課題を解決するものとして意思決定することができるようになる。この点を踏まえれば,立場が多様であることは(それが極端なものを含めばなおのこと)困難を引き起こすかもしれないが,しかしそれは同時に,豊かな資源にもなりうるのである。そもそも,ある課題に対する創造的な解決策を生み出す可能性が高いのはどのような集団だろうか,それは課題をそれぞれが多少なりとも異なる視点から見ている人々の集まりなのか,それともまったく同じように見ている人々の集まりなのか。

メモ

  • トマス・ギブソン
  • ベルナール・マナン
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